「それはよい趣味ですね」と言われたけど、趣味って何? フランス語には「趣味」って単語ないみたいだよ。

2016.04.11 Monday 11:25
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    先日友人と話していた時、
    「銅版画されているのね、それはとてもよい趣味ですね」と言われた。

    んだけど、あれ? 私、銅版画趣味でしてたんだ?? と一瞬ポカンとしてしまった。
    趣味でしている気は毛頭なかった。
    でも、先日書いた「肩書き」のブログの内容のようなことで言うと
    それで生活費を稼いでいるわけではないので、「仕事」ではないんだ。

    仕事じゃないけど、趣味でもない。
    あれれれ?

    …と思ったところで
    そうか

    趣味 と
    仕事

    という言葉の解釈がどこにあるか、ってところの問題なんだ、と思った。


    ご趣味はなんですか?

    という会話は、日本語ではとてもよく交わされていて

    「観劇です」とか
    「東海道五十三次を回ることなんですよー」とか
    「水彩画に凝っていまして。。。。」
    なんてあたりから、最近では

    「リアルスイーツのアクセサリーを作って、creemaで販売しています」だの
    「スワロフスキーのデコで携帯カバーを作っていて、それでプチ稼ぎしています」
    なんてことにもなっている気がする。

    (ちなみに、主婦の「プチ稼ぎ」というのが、月額いくらぐらいを指すのか、という質問を
     某有名主婦雑誌の編集長に聞いたところ、”1万円” という答えが返ってきて衝撃だった)

    辞書では
    「仕事、職業としてではなく、個人として楽しむこと」が、趣味の意味。

    「仕事、職業」というのがあくまでも主体であって
    それ以外の時間に余暇で楽しむことが、趣味。

    仕事と職業は社会に属すことで、趣味は個人に属すこと。

    サラリーマンが休日にどんなによい写真を撮っても、それは趣味。
    主婦の仕事は家事だから、それ以外の時間にプチ稼ぎをしたとしても、それは趣味。
    そういうことなんかなー。



    私は、普通は趣味と言われるようなものがとても多くて、あれこれ手を出しすぎるなって言われることもあるけど
    でも
    それは根っこで全部つながっている。

    ワイヤーをぐにゃぐにゃするのも、布を染めてぐにゃぐにゃするのも
    銅版を引っ掻いて腐食させて版画を作っているのも
    何かを表現したくてたまらない自分の中にあるものの、手段を探している。

    空いた時間に、趣味として楽しんでいますよー、っていうより

    なんつか、もっと
    ひりひりとしたものだ。


    それで、ふと思い出したのは

    フランス語の辞書で「趣味」と引いたとき

    該当する言葉がどうやってもみつからない、ってこと。


    敢えていえば「Hobby」。
    それ、英語だ。
    つまり、フランスには同様の単語がないので、英語で使われているってこと。

    フランス語はHを発音しないので、オビー となる。
    ほでも、あなたのオビーは何ですか? なんて質問
    フランス人からされたことないなあって思う。

    普通に辞書に並ぶのは
    Gout
    Passe-temps

    つまり、「○○が好きとはよい趣味の方だ」として使われる、「感性」と同義語の趣味。
    もういっこは、暇つぶし。
    例文で多くあるのは、こちらなので、直訳すると
    「暇なときには何やってんのー?」
    「うーん、読書したりトランプしたりとかかなー」なんてことになる。

    ここで「油絵をもう10年ほど描いている」なんてことになると
    それは暇つぶしではなく、もっと主体的、能動的なことになってうまく噛み合ない。

    逆に日本だと
    「趣味は油絵で、もう10年ほど描いています」という人でも
    受け取る側が想像するのは、カルチャースクールに通ってるのかな? 的な解釈になりがちで
    なんというか、「趣味」ってすごくよく使われる言葉だけれど
    価値としては、社会的な地位や職業みたいなものと大きく区別されているものの気がする。
    だから
    「ああ、それはいい趣味をお持ちですね」って言われて
    私は一瞬、うまく理解できなかったんじゃないかと思う。
    それ、仕事と同じぐらい、っていうかもっと、大事で価値があると思っていたから。

    ここからはものすごく自分勝手な解釈になるけれど

    フランスのように非常に個人主義的な価値観や発想から考えていけば
    重要なのは、その人が何をしているかなのであって

    それで「お金を得ている=仕事、職業になっている」のかどうかとか
    「社会の側にあるのか、個人の楽しみなのか」どうかなんて
    全く関係ない、ってことじゃないのか。

    「絵を描いています」という人に対して
    それが対価を生んでいるのかってあたりを分ける意味はないし
    会社員をしながら描いてるんだから、それは趣味、と判断する意味もまったくないってことになる。
    「描く」ことに価値があるのだから。





    そういえば、「あなたの職業は何ですか?」と尋ねるときも、フランス語では
    「あなたはあなたの人生で何をしているの?」という構文になることが多い。
    「仕事」「職業」という言葉が登場しない形で。

    そこでの答えは、○○会社で営業をしていると答えてもいいわけだし
    その傍らでボランティアをしていると答えてもいいわけで
    大事なのは、「その人」が何を基軸にしているかってことなんだと思う。



    私はもう20年近くフリーランスで、ほんとのほんとに1人っきりで仕事してきて
    その前に10年フルタイムの会社員だったので、最初は一日の時間の使い方に慣れなくて困った。

    昼の時間に仕事をせずに、デパートに買い物に行ったり、昼寝することにも罪悪感を感じて
    みんなが仕事をしている時間は、「稼ぐ」ことにつながる活動をせねばあかん! と
    律儀に頑張った。

    ほいでも、フリーで仕事しながら、仲間とチャリティ活動をしたり、同じフリーの子たちと
    食事したり展覧会でかけたりを繰り返しているうちに、だんだん
    何がお金を生む「仕事」で、何がそうでないのか、って境界線があやふやになり
    公とプライベートの区別があまりなくなってしまった。

    いまは、1週間のうち、外出が多い、忙しい、忙しいと思って過ごしていても
    そのうち、ギャランティが発生する「仕事」が一個もなかった! なんて週もある。
    いや、搾取されてただ働きしてるって意味じゃなく
    友達と飲むのも、展覧会に行くのも、知り合いの手伝いに行くのも
    ぜんぶ私の用事であって、同等に大切で意味があるものだから
    区別がなくなってしまっただけ。


    そんな風に暮らしていたら
    銅版画をすることも、絵を描くことも
    ほかのすべてと同様に、人生で自分を表現していくための真剣な手段だって気がする。

    このところ、久しぶりに会う人から続けて
    「いづみちゃんは今、仕事は何が中心なの?」って聞かれて
    「何やってんだろうー、あれ?」ってとっさに出てこなかったけど>笑
    何が「仕事」で、何がそうでないのかが、もうあんまりよくわかんなくなっちゃったんだと思う。

    もちろん、生きて行くために稼がなくてはならない(なんといっても、私はシングルだし
    何かあったら私を養ってくれる人なんておらんわけで、このあたりはかなりシリアスに崖っぷちだ)
    わけなので、ちゃんと仕事もしなくちゃならない。
    生きていくのは優しくはない。


    以前、フランス人の友人と話していて
    子どもを育てていれば、国からある程度の給付金がもらえるし
    アーティストでいるということでも、給付金がもらえて
    「稼がなければ価値がない」というぎりぎりのところで生きなくてよいというのは
    心の持ち方に大きく影響する、って言われた。

    フランスが日本よりいいと言いたいわけじゃなくて
    いろんな問題点はいっぱーい抱えているんだけど


    フランス語に「趣味」って言葉が存在しないよね


    というたった一つの事柄だけから
    「人生で稼ぐことの価値」
    という価値感の違いが、ちょっと透けて見えるような気がしたです。



    ってことで、銅版画は私にとっては趣味じゃないんです。
    でも
    かといって、仕事でもない。
    売って儲けようとか、賞を取ってやろうとか、そんな方向性で考えたことがない。

    でも、
    なんだかそれをせずにはいられないこと。

    自分が自分であるために、模索し続ける中でやり続けること。


    そういうものを日本語では何というんでしょ。


    フランス語のように

    「あなたは、あなたの人生で何をしていますか?」



    それで、いいような気がするんだけどね。






     
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    「肩書き」のはなし。いろいろあってタイトルつけられない。

    2016.04.08 Friday 08:58
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      きょうは「肩書き」のはなし。

      日本の「肩書き」と、欧米の肩書きってちょい違うんじゃない? ってあたりと、自分の個人的な体験が入り交じっていくと思う。なので、タイトルがちょっとうまく思い浮かばないので、単に「肩書きのはなし」。


      先日、ある記事で
      「ドイツでは、自分が人生でやっていきたいことを肩書きにする。日本は、それでお金を得ていることを肩書きとする。」というような内容のものを読んだ。
      つまり、自分は絵を描きたいけれど、絵は一枚も売れていないという人が「アーティスト」と名乗ったら全力でアホかと思われるという事態が起こるけれど、ドイツ人はそんなのぜんぜん気にしない、ってこと。これは、フランスでもそうだし、アメリカでもそうだったなー。

      まあ、日本でも「言ったもん勝ち」という現実は確かにある。
      たとえば、私が会社員だった時代、仕事先に「コンフォートスタイリスト」と名乗る人がいた。
      1980年代、日本のトイレはまだ、和式が多く、臭くて暗い場所だった。
      それをきれいで、現代的で、もっと居心地のよい場所にしましょう、というようなムーブメントを私のいた会社は起こしていたわけなんだけど、つまりはそれをする人です、という肩書きで、要は「トイレスタイリスト」ってことになる。

      日本の場合は、なるべく目新しくて、それだけじゃ何やってんだかよくわからん、という物のほうが
      まだ受け止められるような気がする。
      ハイパーメディアクリエイターとか。なんだかぜんぜんわからんけど、まあその手のやつ。
      小説家、アーティスト、詩人、俳人などといった肩書きは、つけないほうが無難だ。
      どんだけ、自分がそれを目指していても。
      そして、すでにそれで十分認められているとしても、だ。


      名刺に書けば、それが肩書きとなり、仕事になる。
      それでお金を稼ぐということを第一要件に置かなくてもよいとなれば、それが人生となることもある。
      だから、肩書きってとても大事なこと。


      私が会社を辞めようと一度思ったとき
      私の尊敬していた女性の先輩はこう言った。

      「あなた、一度辞めてみればいい。
       いまのあなたが出かけていって、相手が話しを聞いてくれるのは
       ○○社 ディレクターというあなたの肩書きがあるから。
       会社名と肩書きがはずれたあなたを、今と同じに見る人なんていないよ。
       思い上がらないように」


      ああ、そうか。
      そういうことか。

      私はエリートコースを歩んだ人間ではなかったから
      自分に肩書きがあって、その肩書きが力を持つという発想を持ったことがなかった。

      でも、いま自分が仕事できているのは
      ある会社のイベントスペースのディレクターであるという肩書きがあるからなんだ。
      そんなことにはじめて気づいて、なんだか意味もなく反省した。

      それで、それから数年、反省しながらその仕事をして
      そこから辞めて、まったく違う分野の仕事で、独立した。


      そこから数年経ったある時
      なんだか意味わかんないけど政府の審議委員とかいうものになることが数度あり
      首相官邸だの○○省庁だので開催される会議みたいのに出て、あちゃー! と思った。
      ほかの出席者のみなさんの、席においてある名札の、肩書きの長いこと。
      4行ぐらいある人もいる。漢字だらけだ。

      一方わたしは

      ももせいづみ

      だけである。
      肩書き、敢えて書かなかったら、そんなことになった。
      これは困った、と思った。
      名前だけで識別してもらえるような業績も何もないのだ。
      何か肩書きをつけるべきだった。が、一体なんて?

      当たり前だが、私は誰からも相手にされなかったよ。
      名刺交換に来る人さえ、いなかった。
      それでもそんとき

      心ん中で、あのときの先輩に報告した。

      「会社の肩書きがない、私の名前だけで
       こんな状態だけど、それなりにやれるようになったみたいです」って。


      それからなんだかまたちょっと反省して
      肩書きを「生活コラムニスト」とした。

      それ、ほんとにそうなんか?っていまだに思う。
      人生でしたいことはもっと別にある。


      でも、それでお金をいただくことが一番多いので、日本的には私の肩書きはそれになる。

      一度、コラムニスト としたら
      何をする人かがわからないので、もっとわかりやすい肩書きをくれ、と言われた。
      なので、「生活」とつけたわけなのだった。
      とりあえず、自分でも何をしているのかようわからんので
      こんくらいが身の程なのかもしれない。



      いつも意味もなく長くなるこのブログなので
      今日も長くなる。

      この生活コラムニストという、あまりようわからない肩書きの私を
      そういえば

      海外の家電メーカーさんたちは、なんだか面白がって大切につきあってくださっていることを
      このところ思うことがある。
      海外の家電は、あまりモデルチェンジを繰り返さない。
      あと、こぶりの規模だから人事異動もあまりない。

      もう10年以上にわたって、いろいろ連絡を取ってくれて、交流がある。


      一方、日本の家電メーカーさんとは
      つながり続けられないままのところがほとんどだ。
      大きくて人の移動が多いってこともあるんだろうけど

      発表会とか行くと、ほんとによく思う。
      ここは肩書きの世界だ、と。


      力のある媒体の、力のある部署や地位にいる人が重用される場所だ。


      どんなに頑張って
      生活コラムニスト とつけたって
      まあ、あまり利益を生まない肩書きなのじゃ。
      力のある後ろ盾が何もない、ただの個人なんだから。


      でも、そんな人間もおもしろがってくれる場所があって。
      それが、ドイツの会社だったり、イギリスやフランスの会社だったり、北欧の会社であることが
      私はとても面白いな、と思う。
      組織だけでなく、一個人であっても、同じように扱ってくれるというのは
      私のような人間にとっては、とてもありがたいこと。

      そして


      これからどこで、何をして生きていきたいのかな?


      なんてことを考えた時にも
      大切なことだな、って思う。





      30代の半ばで、与えられた肩書きで生きることをやめた自分にとって
      これから名乗る肩書きは
      なるべく自然な、素直な肩書がいいと思う。

      ほいじゃ、何になりたいの? って思うと
      日本の社会の中では本当に、うまく思い浮かばない。




      肩書きっておもしろい。
      肩書きって、いくつまでくっつけとかなくちゃいけないんだろう。


      そろそろ

      にんげん
      ももせいづみ


      でいいような気がするんだけど。



      そういえば、仕事でお世話になって、私の今の方向性はその人からはじまったという人がいるんだけど
      私は何を専門にしていけばいいのかなあ、って悩んで相談したら


      あなたの仕事は
      ももせいづみを 
      生きること


      って言われた。
      だから、私の肩書きは
      ももせいづみ
      でよい、ということらしい。

      本当にありがとう、って思う。
      それ、心に大切に思いながら。

      ここからまた少しの間の人生を、どこを向いて生きていくのかっていう道しるべのような感じで
      小さな肩書きを
      また考えてみようかな、って思う。

       
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      「常識」と「視覚記憶」の書き換えをしたら食生活がドラスティックに変わった、という話

      2015.12.14 Monday 23:18
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        お久しぶりです。
        東京でいつも通りに暮らしていると、取り立てて書くこともないなあ、と思っていたんだけど、このところちょっと面白いことが起きたので、書いてみることにした。

        しつこく、ごはんの話>笑

        先日こちらにコメントをくださった方によると、Googleで「料理 面倒」と入力すると、2番目に私のブログが出て来るのだそうだ。あははは。
        アメリカとかフランスに暮らしてみたら、なんだかごはん作りがとてつもなくラクチンで、日本であくせくしてたのは、ありゃいったい何だったんじゃろ? ってあたりから端を発している私の「ごはんづくり問題」については、ぜんぜん共感できねーよって人もいると思うんだけど、まあ、似たようなことを考えてくださっている方もいるってことなんだ、と思う(希望的観測)。

        そんな私なんだけど、パリでの生活を2ヶ月ほど続けて、それから日本に戻ってきてはや半年が経過。
        はやー。

        その後、私の食生活には結構な変化がありました。

        向こうにいた2ヶ月の間に、何よりも大きく変わったのは、次の3つでした。
        これは、本当に劇的に変わった。

        1、ごはんを食べなかった
        〜もともとさほど固執もしていないので、食べたくなったりもしなかった

        2、ごはん(主食)がないスタイルになったら、塩分が劇的に減った
        〜ごはんとセットで成立するおかずの味付け、漬け物や味噌汁、佃煮などの登場が必要なくなったら、味覚がリセットされて、料理に使用する塩分が劇的に減った。それで気づいたんだけど、主食ご飯で構成すると、ごはんで塩分を緩和するので、どちらかというとしょっぱめの味付けのおかずが多かったんだなあと改めて。
        こういう味覚になってからは、外食で定食とか食べらんなくなった。いろいろしょっぱすぎて。
        味噌とかしょうゆの使用料もすごく減っちゃった。

        3、いわゆる「うまみ調味料」の味を受け付けなくなった
        〜ごはんや味噌汁、そばやラーメン&うどんの汁、日本で売ってる加工食品や総菜類を一切食べなくなったら、「うまみ調味料」が入っているものにすごく敏感になった。つまり、それだけ日本ではほとんどのもんに混入していたんだということがわかった。
        帰国後は、粉末だしやコンソメはもちろんのこと、それまで便利に使ってた市販の「めんつゆ」は一切使えなくなった。だし成分のうまみに違和感あっておいしくない〜、って思うようになっちゃった。


        ほんと、これは大きな食生活の変化でした。
        白米&濃い目の塩分(しょうゆ、味噌の味付け含む)&うまみ調味料

        これ、全部いらないなーって思ったら、食卓の風景すごく変わるわけですわー。



        そして、もう一つの大きな変化が

        「主食を柱として献立を考えなくなった」

        ということ。


        それまでは、今日のごはん何にしよー、って思ったら、まず決めるのは

        ごはん? パン? 麺類?

        ってところ。
        それに合わせておかずを揃えるわけで、まあ、夕食はほとんどが「ごはん」を柱にするので、まずはごはんを炊いて、おかずを考えるという道筋を通るわけですが

        それをごっそりはずしてしまうと

        ごはんとセットになっていた
        「一汁三菜」とか、「おかず&汁物&副菜」なんていう暗黙の決まり事みたいなもんが一気になくなって、食卓の「こうあるべき」という風景も、それまでの概念が吹っ飛んでしまったわけです。

        いやああ、本当に面白い。


        そこで気づいたのは
        自分が割と若いときからごはん作りを通して踏襲していたのは

        「食事とはこうあるべき」
        という概念とともに

        「食卓の風景は、こんな感じで成立する」
        っていう、ある種の「視覚記憶」だったんだなあ、と。


        ごはんと味噌汁を並べたら、メインのおかずをその向こう側において
        そこに肉か魚が配置されていたら、付け合わせに野菜がないとどうも風景として落ち着かなくて、主婦としていけないことをしているような気になる。
        付け合わせをつけたとしても、食器が3つだけではまだ落ち着かないから、横っちょに「副菜」の小さな皿か鉢を置く。
        それでもなんだか成立しない気になり、漬け物を切ったり、佃煮や珍味なんかを出してみる。

        おそらく、その「風景」の視覚記憶ってのは、親の代から受け継いだものが大きくて、さらには、料理本や雑誌や、旅館や料理屋の食事を見て培ってきたものなんだと思う。

        まあ、それが「文化」というやつなんだから、とても大切なことなんだけど
        どうやら
        自分はそのあたりの「視覚記憶」で、自分のごはんづくりを複雑化したり、
        必要以上に手間がかかるものにしてたんじゃないか、なんて思ったりもする。


        そんなわけで、ここ半年間
        私の食生活からは「主食」が消えた。
        消えたというより、主食にこだわらなくなった。

        それはやっぱりフランスで、「パンはなるべく食べない。健康に悪いから」って言う人たちにたくさん会ってびっくりした、って経験も大きいのかもしれない。
        フランスではレストランに入ると、とにかく大量のパンがセットになって出て来るんだけど、精製された小麦粉は体に負担をかけるだけでなく、イーストフードなどの弊害もあるからパンの摂取量を減らして、野菜をたくさん取ったり、押し麦や豆などのシリアルを取り入れたり、そんな関心を持っている人が結構いる。
        あんなにおいしいバゲットがあるのに、それを食べないなんて! と思ったけど、それは長い時間をかけて経験してきた、食への解釈なんだと思う。

        そんな中で、「主食」を柱にしない料理の作り方、レシピというのは
        日本の料理よりも、フランスで作られている家庭料理のほうが、バリエーションが大きくって
        そういうバリエーションが増えたら、食卓の風景がすごく変わった。


        今は、朝は野菜で作ったスープをちょこっと飲んで

        昼には、ちゃんと炭水化物を取って
        (ラーメンとかパスタとか。定食系や丼ものとかチャーハンとかカレーとか、そういう食べ物は昼にまとめてちゃんと食べる)

        夜は野菜と肉類、あとは豆や豆腐、押し麦やキヌアなんかのちょこっとした穀類、チーズなんかをいろいろ料理して、スープなんかと一緒に食べて終わりって感じになった。肉はよい肉を少しだけ、シンプルに焼くか野菜と煮て食べる。
        飲みにいったら、いろいろ食べたりするけど、夕食をごはん付きで食べることはなくなった。

        そんでこれが
        まあ、ものすごく調子がよくって、作るのが本当にラクチンで
        さらに贅肉も減って、体重がいい感じのところに安定した。



        まあ、このあたりは食の指向の話だし、
        なんじゃ、そんなの耐えられない! あり得ない〜って人もいっぱいいるだろうから
        ほんと個人の好みでいいと思うんだけど

        主食はごはんかパン(という炭水化物)

        という思い込みがなくなったら、いろいろ自由にラクになったなあって思う。
        ちなみに、主食を食べなくなった後、私が夕食に進んで食べているのは、カリフラワーとか大根とかかぶとかの野菜類で、あとで知ったんだけど、これらにも炭水化物が含まれているんだそうだ。
        だるくならないし、眠くならないし、野菜や豆類はほんとにいいなあって思うんだけど、私はベジタリアンではぜんぜんなくって、肉も大好きで、単なる食いしん坊であるだけなので、変な食事ルールを押し付ける気持ちは毛頭ありません。

        さて、これ以上は書き出すといろいろ面倒だし
        まあ、このあたりで今日はもう寝ようかな、って思う。



        あー、でもなんで急にこんなこと書きたくなったかっていうと
        先週、5食続けてごはんを食べた(昼にカレーライス、夜にピラフ、翌日ごはん定食、みたいに立て続けでごはん5回)ら、週末、もう何年も経験したことのないひどい便秘になって、本当に辛かったから。

        米って便秘の原因になるってこと、ググってはじめて知った。
        いや、食べ方によるんだけど。
        何もかもからだにいいことしかないもんだと思ってた@米>笑
        私が食べてるのは雑穀米なので、白米オンリーってわけじゃないんだけど、それでも便秘、超辛かった。びっくりした。

        半年かけてごはんやパンなどの炭水化物を食べる量が減ったら、からだもそれに順応しちゃって便秘しちゃうわけで。
        食生活って、いろいろからだの状態も変えていくんだなーって
        ほんとおもろいと思った。

        ごはんの主食を基本にせねばあかんよー、って考えもあるんだろうけど
        でも世界的にみたら、「主食」が存在する食文化って、少数派なんだよね。
        主食が存在することで、献立の設計や食卓の風景が決まっていくわけで
        主食の枠を外してみたら、結構自在に自由になって、意外とラクになった。

        ごはん問題って、いろいろあっておもしろい。
        おそらくここで
        「米を主体とした日本食はすばらしく、日本の米文化や米農家には心から敬意を持っています」
        というエクスキューズを書いておいたほうが絶対いいと思うんだけど、そういう部分も含めて、日本人と米って本当に奥深く面白いテーマだなあと思う。

        まだまだいろいろ、試したり、考えたりしてみたいです。
        写真ないなー。
        文字だけでごめんなちゃい。
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        パリのテロとトリコロールの掲揚についていろいろ思うところを書いてみようと思う

        2015.11.17 Tuesday 10:19
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          早朝にケーブルテレビのTV5mondeをつけて、ぼんやりニュースを聞きながら、最初はわけがわかりませんでした。

          そのうち、これはとんでもないことが起きたと目をこすり
          そのまま、テレビの前から動けなくなった。
          ダイニングテーブルの前で、ぽかんと口をあけた間抜けな顔で、たぶん1時間は棒のように突っ立っていたと思う。

          そしてその日は、まったく使い物になりませんでした。



          とはいえ、私は日本人で日本に住んでおり、ただパリが、フランスが好きなんだということだけでうろたえるのも何なんだよ。
          と思いながら
          それでも、知っている場所、知っている土地の名前、ともだちの顔が錯綜して、もうどうにもこうにも。
          つい2ヶ月前まで、どこにいこうかな、ここには何があるのかなー? と眺め倒していたパリの地図が、こんな悲しい目的で使われているなんて。あり得ん。

          ほんで、多少落ち着いただろうというところで友人にメールをしたら
          戻ってきた言葉に、また腰が抜けました。

          「私も、私も友達も家族も大丈夫です。
          でも、教え子の1人が殺されました。」





          フランスのテレビで、今回の自爆テロ犯が「kamikaze」(発音としてはカミカーズ)と報道されていることにも衝撃を受けた。

          いったいどういうこっちゃ? と調べてみたら、最初に使われたのは911の時らしい。
          アメリカのニュースが
          「これは新たに発明されたものではなく、半世紀も前に日本人が考え出していたことだ」
          と報道して連呼したのだそうだ。

          大好きなフランス語で、日本語がたくさんの人を殺したテロ犯を指す言葉で使われていることの悲しさ。



          カミカーズ、カミカーズ
          という悲しい響きを聞きながら
          ツィッターでみつけた Pray for Parisというエッフェル塔のアイコンを
          Facebookにあげた。



          >ほんで、その日の夜にまたFacebookを開けたら、そこはトリコロール天国になっていた。

          昨年のシャルリー・エブドの時も
          Je suis Charllie のアイコンがツィッターやFacebookを圧巻したことを思い出せば
          まあ、そういうこともあるだろうと思ったのだけれど
          でも私の気持ちはちょっと違うところにあったので、こう書いた。

          「私はフランス好きだけど、今回の出来事で日本人である私がフランス国旗を掲げようとは思いません。ただ、パリで巻き込まれた人々に思いを馳せてます。
          私の友達は死にませんでしたが、友達の一人の教え子が死にました。
          犠牲者になった彼女とシリアを空爆しているフランスの政策は関係ない。
          pray for Parisとは思いますが、トリコロールを掲げることは意味が違うと思っています。 今回のことが、911と同じ方向性にならないことを心から願っています。
          そして遠く離れた島国にいる私たちが、当事者に自らなることを選択するための口実のひとつに、今回のことが使われないことも願っています。
          家族や友人、教え子がテロで殺されるなんていう経験を国民の誰1人にもさせないと、日本の首長は肝に銘じて欲しいです。」


          私の考え方は上記。



          ほいでも、その後、なんだかあっちこっちでいろんなことになっていき、多くのブログが書かれ
          賛成派と反対派でなんだか心情的な対立が生まれたり
          まあ、いろいろ書くと読んだ人が「それ、私のこと?」って誤解してまた心情的な葛藤につながるので書かないけど
          どちらの意見をとっても、まあ、面倒だなあという状況になった。

          ま、Facebookなんていう小さな世界のことだから、面倒だなと思うなら離れておけばいいんだけど。


          それでも、自分の中にはとても もやもやする気持ちがあって
          それはちょっとブログに残しておきたいと思ったんだ。
          なので、ちょっと勇気を出して書いている。

          私は政治的なこと、対立項として気持ちをざわつかせるようなことはなるべくネットに書かないようにしてきているので(それはあくまでも、自分がざわつかないためなんだけど)、今回はちょっと勇気がいった。
          でも、やっぱりフランス好き、パリ好きをいっぱい表明してきた自分なので、頑張ってまとめてみる。


          私がフランスを好きになったのは
          個人の意見を自由に言えるってことだった。

          「私ね、ディズニーランド嫌いよ。
          スタバのCoffeeなんて、Coffeeじゃないわよね。」



          …って、日本で言うのはちょっと勇気がいる。
          そこにディズニー大好き、スタバ大好きな人がいたら
          その人の気分を害すると思うからだ。
          で、実際に害する人もいる。
          なぜ害するのかというと、「ディズニーが好きな自分が否定されている」と思うからだ。

          そうじゃないよ、私は「ディズニーランドという装置が嫌い」なだけで
          それが好きなあなたを非難なんてまったくしていない。


          フランスだと、

          「あらそう? 私は好きよ」

          で終わる。
          逆に、私が

          「いやあ、パリに来たらポンピドゥには必ず行くの。あそこ大好き!」

          って言って
          「そう? 私は大っ嫌い。あれは最悪。あんなもん作った人の気が知れない」
          と戻って来ることもある。
          そんでそこから、お互いなぜ好きか、なぜ嫌いかなんてことを延々と話したりするのが面白い。

          嫌いであることには理由があり
          好きである事にも理由がある。
          なんとなーく好きとか、なんとなーく嫌い というあたりの考え方は
          会話が成り立たないので面白くない。
          フランス語が話せるようになりたい! って強く思うのは、こういうおもろいことがしたくて仕方ないから。


          さて、そこで今回のトリコロール問題に戻る。


          もやっとしてしまったのはたぶん

          「トリコロールにするのはいかがなものか」
          という主張の人が、トリコロールにした「人」を非難しているケースがあること

          そして、それにたいして
          「亡くなった人を悼む気持ちのどこが悪いのか」
          「他に方法がないから、とりあえず期間限定でよく考えてしたことだ。何が悪いのか」

          という、「自分が非難された」と受け取った人が多かったんじゃないかなあ、ってこと。


          こういう時は、
          「私は、こう思う。だから、私は、こうする」

          でいいんじゃないかと思う。
          違う意見の人をとやかく言う必要はなくって、あくまで自分の意見はこうだって言えればよくて。


          でもそのためには、なんでよくて、なんで違うのかってことを
          ちゃんと言える必要があるなあって思う。


          今回思ったのは
          「なぜ違うのか」を主張する人にはそれなりの、ずっと言いたくて仕方ない理由があったこと。
          つまり、フランスは被害国であると同時に加害国でもあり
          パリのテロより多い死者を生んでいる当事国であるというこだ。

          ただ、それを熱く伝えたいばかりに、パリでの犠牲者への追悼の気持ちを持った人を
          どこかで非難するような伝え方をした。あなたが間違っているんだ、というような。
          それはやっぱり、ちょっと違うんじゃないかと思う。
          だから、指摘された人たちは気分を害したし、

          「プロフィールをトリコロールにするのはいかがなものかというような指摘をするのは
          とても窮屈なことだ」とか
          「失われた命に思いを馳せているのは誰でも同じ。野暮なことはやめよう」

          という意見も出て来て、それで、今回のことはもう時間が経って終わりってことになるんだと思う。


          で、私ももう面倒だから
          Facebookトリコロールプロフィール写真問題からは、とっとと離れるのが得策と思ってる。
          いや、思ってた。


          うーん。
          でもどうなんだろう。


          どっちが正しいとかそういうことをいいたいんじゃぜんぜんなくって。
          それ、どっちも正しくて、どっちもまっとうで、ただ単純に
          「私はこういう意見だ」ということとその理由が言い合えればよいだけのことで

          非難されたと反応するのはとっても違うと思っているし
          同時に
          野暮だよ、きゅうくつだよ、そういうこと言うのやめようと
          ってのも
          すごく危ない感じのことだなあ、って私は思う。


          問われたときに、プロフィールにフランス国旗を掲げた理由がちゃんと言えること
          それ違うよ、って思った理由がちゃんと言えること
          「違う意見」について論破するのはありだけど、違う意見を持つ「人」は非難しないこと。
          それ、意見を持つことの一番大事な基礎だと思う。

          で、そういう前提で私が今回いちばんもやっとするのは
          「いいじゃないか、国旗は失われた命への追悼なのだから、とやかく言うのはよそうよ」
          というあたりのこと。

          個人的に絶対頭の片隅に置いておきたいなあと思うのは
          このフランス国旗アプリを用意したのがFacebookというアメリカの企業だったってことだ。
          ボタン一つで、哀悼できる装置として
          国旗を用意した。
          God bress America の国だ。

          最初にあげた、エッフェル塔でもよかったわけだよ。
          Pray  for Paris で何がいけなかったんだろう。

          とはいえ、世界の街もトリコロールに染まったわけで、
          日本の都庁も、スカイツリーも、東京タワーもフランス国旗だったわけだから
          国旗を掲げるというのはこういう場合の常なのかもしれないので
          考え過ぎなのかもしれないけど。


          でも大惨事が起きたとき
          「追悼」という感情の大きな動きが出て
          そこに簡単に押せる善意のスイッチがあった時

          タイムラインが一気にトリコロールに染まり

          それ、どうなん? と言い出すことが、「きゅうくつな世の中になった」とか
          「もうよそうよ、こんなこと」「野暮だよ」と

          最終的にはそういう落としどころで終わってしまうということに

          たぶん、私は一番もやもやするんだなと思う。



          そして今は、フランスとアメリカは連合してせっせとシリアを空爆している。 フランスでは支持が下がっていたオランドが、徹底抗戦を見せることで支持を得ていくとしたら それはアメリカが辿ってきた道と同じってことになっちゃう。 えーん。





          だからこういうの作った。
          きっと誰でも思いはここにあるはずだと思うから。

          願うのは、罪のない人たちの命が奪われないこと。
          善意であるはずの私たちの思いが、権力に悪用されないこと。
          どの場所にいる人にも、愛と平和を。




          テロの翌日、被害のあったバタクランでジョンレノンのイマジンのピアノ演奏があった。
          世界のどの場所であっても、大切な命を奪うことに、私たちが加担してしまうような事態にならないこと。
          日本人として、強く強く、いま、そう思います。


          「何かのために殺したり、死んだりする必要なんてない。それが宗教のためでも。想像してごらん、みんなが平和に暮らしている姿を」

          http://www.huffingtonpost.jp/2015/11/14/man-plays-imagine-bataclan_n_8566134.html





           
          category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(2) | - | -

          エコール・ド・ボザールと日本の大学

          2015.07.03 Friday 20:27
          0
            このところ、私の周辺でパリのエコール・ド・ボザールに入学したという知人が2人いることがわかった。

            エコール・ド・ボザールだよ。バザールでゴザールじゃないからね(古いよ、あまりにも。。)
            で、それがどんなにすごいところなのかがわからないという人がいたので、それって日本の芸大みたいなものよ、と説明してみたんだけど。

            でもそれ、なんか根源的にすごく違うことだったということが最近わかった。

            ボザールに娘さんがいるという人に、私は
            「専攻は何ですか」とか聞いちゃったからだ。

            ちなみに日本の芸大には

            絵画
            彫刻
            工芸
            デザイン
            建築
            先端芸術表現
            芸術

            の7学部がある。で、絵画はさらに油絵と日本画にわかれ、工芸も彫金、鍛金、漆、陶芸、染色に別れて行き
            彫刻も塑造・テラコッタ、石彫、木彫、金属の素材に別れていく。
            これ、私立でもたいてい似たようなもので、受験の時点で専攻を決めなくちゃいけないわけで。

            だからボザールでゴザール(だから違うって。だから古いって)で、何を専攻するのかなあと
            純粋に興味があったんだけど。

            それ


            は?


            って言われて終わっちゃった。


            専攻なんてないわよ。
            メンターとなる教授につくの。
            油絵とか彫刻って、手段でしょう。
            学ぶのは芸術であって、手段じゃないから。

            もう、ぐぅの音も出なかった。


            不覚だったけど、人生で初めて、自分の「芸術」を学ぶというところの
            出発点のあまりの違いにくらりとした。
            私が自分は何がしたいんだろうと悩んだりしてたことって
            それ
            ただの手段だった。

            そして、日本では芸術を学びたいと思った時点で
            まずは手段を決めなくてはいけなかったのだ、ってことを今更ながら思った。

            そうね
            こないだ、美術の先生と話してたら
            あれこれ手を広げるのはいい加減にして、やることを絞らないとダメだと言われ。
            銅版画をするなら、あちこち手を広げず銅版画に絞れ、みたいな。

            職人さんならそうかもだけど
            大事なのは技術習得じゃなくって、何を表現するかなわけで
            その核となるものと格闘するのが、アートと関わるってことなんだろうと思う。

            ちなみにエコール・ド・ボザールはドガとかモネ、ルノワール、ドラクロワなどの
            そうそうたる芸術家を輩出しているけど、昔も今も学費は無料だ。



            あとフランスにはバカロレアの試験というのがあって
            こちらはエリートになるために必須の登竜門なんだけど
            その試験問題ってのは、最近たまに流通しているから見たことがある人もいるかもしれない。
             

            バカロレア試験問題(文系)

            テーマ1:あらゆる生物を尊重することは倫理的な義務であるか?
            (Respecter tout être vivant, est-ce un devoir moral ?)
            テーマ2:人は自らの過去の所産なのか?
            (Suis-je ce que mon passé a fait de moi ?)
            テーマ3:以下のトクヴィル『アメリカのデモクラシー』の抜粋を説明せよ。(略)

            バカロレア試験問題(理系)

            テーマ1:どんな芸術作品も何らかの意味を持つか?
            (Une oeuvre d'art a-t-elle toujours un sens ?)
            テーマ2:政治は真実の要求を免れ得るか?
            (La politique échappe-t-elle à une exigence de vérité ?)
            テーマ3:以下のキケロ『予言について』の抜粋を説明せよ。(略)
            (explication de texte de Cicéron extrait de De la divination)

            バカロレア試験問題(経済・社会系)

            テーマ1:個人の意識は自らの所属する社会を反映したものでしかないのか?
            (La conscience de l'individu n'est-elle que le reflet de la société à laquelle il appartient ?)
            テーマ2:芸術家の生み出すものは理解可能か?
            (L'artiste donne-t-il quelque chose à comprendre ?)
            テーマ3:以下のスピノザ『神学・政治論』の抜粋を説明せよ。(略)
            (explication de texte de Spinoza extrait du Traité théologico-politique)

            出典はこちら
            http://societas.blog.jp/1031212143



            フランスの政治家はこの手の教育を通って、今の地位にいる人が多数で
            成蹊大学をエスカレーターで卒業して、アメリカにホームステイ行ってみたけど
            政治学一切習得しないまま、途中で帰ってきちゃったこの国の首相とはそもそもスタート地点が違う。

            で、その首相さんは、日本の大学から文学部をなくして
            英文科だったら旅行業のノウハウを学ぶ学科にしたほうがいいなんてことを言い出してる。
            彼にはぜひ、上記の問題を解いてもらいたいなあって思うよ。
            だって、これ見て、私はわくわくするもの。
            今すぐにでも書き出したいし、そのための勉強したいなあって思う。
            受験勉強は大嫌いだったけど、こういう勉強ならすごくしたい。

            学ぶってこういうことでしょう。
            覚えることじゃなくって。


            一昨年アメリカにいたときに知り合った台湾のお母さんが
            自国の教育とアメリカの教育との一番の違いは
            「調べたらわかることを問わない」ことだ、って言ってた。
            それ、前に東大生とか有名高校の子たちがクイズ番組に出て
            みんなが知らないような人の名前や、歴史の年号答えるの競うの見て
            そんなの
            スマホでぐぐればすぐ出てくるじゃん。
            そんなの覚えて何の意味があるん? って思うのに
            テレビではさんざん「さすがに頭がいい」って言ってて
            それ違うじゃん、ってすごく違和感感じたことあるんだけど

            つまり、そういうことらしい。

            ただ覚えさせて試験させて点数をつける教育では
            子どもは伸びないんじゃないかと思う、(台湾もそういう傾向らしい。韓国も割とそっちらしいね)
            こちらはちゃんと考えさせる教育をさせていると思うよーって
            その人は言ってたけど。

            最近は、その「覚える」ことさえおざなりにした人たちが
            政治家になったりしている。

            憲法を解釈する力さえ、どこにもないような人たちでもエリートになれる国って
            いったい何なん。


            日本って、世界に誇る文化があったはずなんだけどなー。
            なんでこんな方向に来てしまったんだろうなあ。



            とりあえず、ボザールでゴザールと天才バカロレア(だからぜんぜん違うって)の話は
            私はやっぱりうらやましいなあって思うー。
            今からでも、こんなところで勉強したいなー。


            でも、年齢制限が24とか25歳までっていう悲しい線引きが。
            せめて、その空気だけでも吸いに、夏はソルボンヌで頑張ってこようと思います。

            バカロレアの試験問題をフランス語で書く、なんてことができるようになる前に
            私の寿命はなくなっちゃいそうだけど>笑
            自分の子どもにはこういう教育を受けさせてやりたかったなあ、なんて
            思うよう。
            category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(0) | - | -

            「絵本の読み聞かせ」はピロートークってこと

            2015.06.22 Monday 18:20
            0
              子育てしてると、いわゆる「情報」っていうやっかいなものと対峙せざるをえなくなる。
               
              妊娠中はせっせとお腹の中のベビーに話しかけて、ベビーの脳を刺激することで、
              好奇心旺盛になって、夜泣きもしないんだって。

              え、幼児期は夜の7時30分までに就寝させないと脳の発達に影響が?
              子どもの大脳細胞の8割は3歳までに出来上がるって?
               
              そんなもんに右往左往して、独り言を繰り返したあげく、就寝時間に縛られ、
              早期教育に走ってしまうお母さんを、私しゃ責められないなあとよく思います。

              脅かし情報が多すぎるぜ!
               
              そんな中でも、なんだか神話みたいになっているよなあと思うものの一つが、
              「絵本の読み聞かせ」ですわー。

               
               
              えっと、断っておきますけど、私は無類の絵本と児童文学好きで、
              学生時代から家庭文庫や児童図書館で「読み聞かせのおねえちゃん」をしていました。

              本の読み聞かせだけじゃなくて、小部屋に子どもたちを集めて電気を消し、ろうそくに火をつけて、
              「おはなしのろうそく」という、いわゆる読み聞かせじゃなくて子どもの目を見て、
              文字通りの「おはなし」を語るということも、山ほどやってきたです。

               
              だから絵本も読み聞かせも、楽しいものだし、
              子どもも大好きだってのはよおおくわかっとります。

               
              でもね。

              それは文字通り楽しいから子どもたちも集まるのであって、別に情操や脳が発達するから
              やってくるわけでは、ない(もちろんだ、子どもは正直だ)。
              そういう非日常感の中で聞くファンタジーや物語は、また格別なものなのだね。

              で、わたしらライブラリアンは、そういう「非日常」な場をたくさん作って、
              おもろいよー、本おもろいよー、おはなし楽しいよー、いっぱい聞いてね、いっぱい読んでねー! 
              って思うから、まあ、そんなことを続けているわけですわー。

               
              ここで、ネットなどで公開されている、絵本の読み聞かせの効能について、ちょい抜粋してみますと。
               
              “アメリカ人のトッド・リズリーとベティ・ハートの研究(1995)によると、言葉が分からない時期も含めて、幼児期に投げかけられた言葉の数と、成長してからの読解力の試験結果には強い相関がある。子供たちは、言葉を話せるようになるずっと前から、大人からの言葉にとても影響を受けている”
               
              “東京医科歯科大学教授・泰羅雅登先生の研究によると、読み聞かせをしている最中、こどもの脳では、喜怒哀楽を生み出し、その感情に基づいて基本的な行動を決めている大脳辺縁系が活発に働いている。”

               
              だから0歳から読み聞かせはマストだと。

              まあ、こりゃ大変。
               
              で、こういう状態なので、子育て中の真面目なお母さんに、子どもに絵本の読み聞かせをしなくてはならん! という強迫観念みたいなものが生まれてる気がしますなあ。
               


              いやあ、でもそうなん?
               
              ただでさえ、家事も育児も仕事もあって大変なんよ。
              寝る前に本を読み聞かせること、そしてそこに良書を選別しなくちゃいけないことって、そんなにマストなことなんだろうか。
               
              おはなしのお姉さんやってた私だって、読み聞かせは苦痛な時が結構あったよ。いや、ほんと。
               
               
               
              でも子どもがもっと読んで、もっと読んでって言うじゃない。
              だからとても大切なのよ、って言う人もいるんだけど、子どもは絵本も大好きだけど、たぶん、寝る前のその時間に、絵本があればお母さんを独り占めできてベッドの中でくっついていられるってことに、無上の喜びを感じているんじゃないか、って私は思ったりする。
               

              そりゃ、うちの子だって「もけらもけら」とか「ぶーん」とか、大好きな絵本はいっぱいあったさ。読んだらけたけた笑って、そりゃあ可愛いもんだった。
              おっきくなったら、ハリーポッターよりダレンシャンが好きで、まあ、読め読めとうるさかったわ。

               
              でも、じゃあそれでお勉強ができて本が大好きになったかというと、21歳の息子は人生でほとんど本を読まない子に仕上がった。中には本好きな子に育った子もいるだろうけど、それは他の要因もいっぱいからんでおって、読み聞かせをしたから、ではない(きっぱり)。
              親が「こうなるべき」っていう形に、子どもはならないというのが世の常だと私は思うんよ。
               
              それじゃ、あの時間はいったい何だったのかというと、それは親子の究極のピロートークだったんだろうねえ、と。

               
              くっついて、なんかおもろいものを介在しながらいちゃいちゃして、とろーんとして、一日の中でそんなことができる時間なんて、絵本1冊2冊読む間ぐらいのもんで、

              でもだからこそ、子どもは「お話は、お話は」とうるさかったんだろうなあって、今は思う。

               
              お話や絵本介さなければ、かあちゃん忙しくて一緒に並んでがっつり時間共有なんてしてくれないからなー。
              これは、どこの家庭でもそうなんじゃないかなー。
              つまりなぜそこに「絵本」が必要なのかというと、かあちゃんの気持ちがとりあえずは絵本に向かって、どっか別のところに迷い出してしまわないからという理由もあるような気さえ、する。
              (あー、勉強とかでがっつり向き合っちゃうお母さんはいるだろうけど、楽しいことではあまりたくさん時間は割いてくれないもんだからね)

               
               
              私、思うんだけど
              絵本や本を読むことがあまり楽しくないなーって思うなら
              かあちゃん、読み聞かせなんてしなくてもいいんじゃないかなって思う。
               
              子どもの脳の発達とか情操教育とかは置いておいて、
              それより、自分がすっごく楽しいなあって思うことを
              寝る前に子どもと並んで、ぐちゃぐちゃとおしゃべりすりゃいいんじゃないかなあって。
               
               
              私はさ
              仕事やボランティアではさんざん読み聞かせしたくせに
              毎日となると本当に辛くて
              (だってそうでしょ。こっちは立派な大人で、大人頭で暮らしているのにお子様のためにお子様言葉の、お子様ワールドの絵本を、菩薩様のような微笑みで優しい声で読み聞かせるなんてことには、限界がある。
              ありゃ、仕事だからできたのよ。
              日常では、どうやっても無理がある)

               
              で、よくこんなことになっていた。
               
              おかーさん、おかーさん、お話はー? お話してー。してー。
               
              じゃあ、絵本1冊読むよ。それで終わり
               
              (何か一番短いものを読む)
               
              もっとー、もっとー。まだ眠くない。もっと読んでー。
               
              おかあさん疲れたからもう読まない。おしまい。
               
              やだーやだー、もっとお話してー。
               
              わかったよ、じゃあお話するよ。
               
              わーい!
               
              でも、せけんばなしだよ。
               
              えー?
               
              えっとね、今日お母さん仕事に行ったらさー、そこにおもしろいおじさんがいてさー。1時間ぐらいしゃべってたんだけどそのおじさんがね、、、
               
              せけんばなしやだー。おもしろいお話してー。
               
              いいじゃん、お母さんがおもしろかったせけんばなしだよ。今日はせけんばなしの日だよ。
               
              えー(しぶしぶ)。
               
               
              とか。
              あとはもう機械的に言葉が続いてくるバージョン。

               
              今日なっくんはお友達と電車ごっこをしました。
              なっくんの次にはるくん。はるくんの次にのりくん。のりくんの後ろにけんちゃん。けんちゃんのうしろに。。。。。(あと延々。一回りしてなっくんに戻る)
               

              どんだけこれに助けられたかのう。
               
               
              そしてもう、あまりに本読め、読め、とうるさい時には
              私が読んでいてもおもろいと思う本を持ってきて読んだ。
               
              4〜5歳ぐらいのとき、一番役に立ったのは、講談社や小学館から出ていた、週刊世界の美術館みたいなやつ。
               
              子どもはピカソとかマチスとか、絵本にあるような絵が好きかなと勝手に思ったら、息子が一番はまったのはシスティーナ礼拝堂の最後の審判だった。あの、ごちゃごちゃ感がたまらんのだった。間違い探し、宝探しみたいで。
               
              真ん中に人の皮もってる人いるね。これ、ミケランジェロだっていう人がいるんだけど、顔似てるかなー。鍵持ってるおじさんもいるねー。この鍵は天国の鍵。…なんてことを勝手に話した。
               
              目ひんむいて見てた。

               
              私はこりゃあしめたものだと、次から次に画集を見せて、最終的に息子をローマとパリ旅行に連れていくに至った。どう考えてもそんな年の男子にはまったく退屈な旅を、「あの皮むかれたおじさんの絵があるところに行こう」という餌で、成功させたのだった。
               
              いや、だからといって、その後、息子が絵画好きになったり、絵を描き始めたかというとまったくそんなことはなかった。絵は描けない。美術系の素養ゼロ。
              そしてその時の旅行の記憶は、もうほとんど残っていないそうだ。
               
              ほいじゃ、何が残ったのかというと、ただ私の自己満足が残った。
              楽しかったなあ、いい時間過ごせたなぁ。

              かあちゃんがにこにこ楽しくしてたから、息子もきっと楽しかった(断言)。

              その間に介在するのは、別になんでもよかったんじゃないかと思う。



               
              (同様に、ここにバットマンとかMr.ビーンとか、ルパン三世なども介在した。はらぺこ青虫もいないいないばあも素敵だけど、やっぱり大人はそれだけじゃ生きていけないのだ。子どもとかろうじて混じり合う場所にある、大人も楽しいものがあれば、そこにとろーんとしたピロートークの時間は生まれるんじゃないかと私は思ったりする)
               
               
              脳の発達とか、情操教育とか、これをしないとこうなって、いまこうしておくとあとでこうなる、なんてことをずっと考えながら子育てするのは、しんどいなあと思う。

              やらなくちゃならないことは山ほどあるんだから、粛々とそれをこなしながら、子どもとの時間はなるべく楽しいことをして、「今」を大事に過ごしたかったなあって思う。

              かあちゃんがあまり楽しくないのに、無理をして、作り笑いをしながら良書の絵本を読むよりも、とうちゃんやかあちゃんが楽しいなあ、おもしろいなあって思うことを、にこにこお話するだけでも、冒頭に引用した
               
              「幼児期に投げかけられた言葉に大きな影響を受ける」
              「読み聞かせの間に大脳辺縁系が活発に動く」
               
              ってことは十分解決できているんじゃないのか。良書絵本じゃなくっても。
               
              まあ、私は児童書のライブラリアンでもあったので、そりゃ良書の児童書はいっぱい読んで欲しいけど。でもそれ、図書館でおはなしのおばちゃんやお姉さんに非日常の場所でいっぱい教えてもらって読んでもらっても、十分いい影響になると思うよ。
              もうさあ、今は小学校になっても、授業や課外で読み聞かせさんざんあるから。
               
              つまり何がいいたいのかというと、「家庭での絵本の読み聞かせ」ってそんなにマストじゃなくって、ただ寝る前にいちゃいちゃくっついて好きなこと話せたら、それでいいじゃんって思うなーってこと。

               
              一日のどこかで(それは別に、寝る前じゃなくたっていいじゃんとも思う)
              気持ちがどっかに行ってしまわないように
              子どもと並んでくっついて、楽しいこと楽しく話そうよ
              ってことが
              いわゆるちまたの、家庭での「絵本の読み聞かせ」の
              理由のように思う。

              だから、そんなにまじめにやらんでいいよ。
              楽しけりゃ
              それが一番だよ。
               
               
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              「楽しそう」と言われることについて

              2015.06.18 Thursday 23:57
              0
                銅版画やってて最近つくづく思うのは

                私は本当に、芸術家とかアーティストと言われるような人にはぜんぜんなれなくて

                どちらかというと職人的な作業が好きなんだなあ、ということ。

                空間を生かして、シンプルな描画を熟考して(もしくはパッションのおもむくままに)
                キャンバスに刻むということにはまったく向いておらず

                それよりも、幾重にもいろんな作業をキャンバスの上に重ねていきたくなっちゃうほうだ。

                ペンや絵の具でゼロから形を作り上げることよりも
                画材や紙やその他いろいろな素材をずらーっと並べたり
                ワイヤーや石や布やメタルなどの素材の山をだらりと作って
                それを見ながら組み合わせをさんざんトライして、なんか作りあげていくのがすごく好きだ。


                それは、文章を書くことにもよく現れていて
                小説みたいなものは書けなくて
                なんか情報を編集したりすることを好んでいたりする。


                そういうの、なんかタイプみたいなものがあるのかな。




                まあ、とにかく芸術家にはなれないわけで
                その点では、銅版画も描画に凝るというよりも
                刷るときにこの和紙を重ねてみたらどうなるだろうとか
                一枚に複数の版を並べて刷ったらどうなるだろうとか
                そんなことをあれこれやってみているのが無上に楽しいわけなのです。
                工芸の職人さんとか
                なりてー!
                漆とか金箔とか竹細工とか、もうすげーやってみたいー!

                そんなこと考えるだけで、なんかむちゃくちゃテンション上がったりする。
                そんなノリで日々制作にはげんでいるわけですが。



                今日、久しぶりにアトリエを訪れた銅版画の先輩さんから

                「あなたって本当にいつも楽しそうに作ってるのね」

                って言われた。
                え”、楽しそうですか、私。

                「楽しくて仕方ないって感じで銅版画やってるのが、すごくいいのよ」

                そしたら横で聞いていた銅版画の先生が

                「いろいろ頭で考えすぎないで、思い付いたことをすぐにどんどんやってみてるのがいいんだよ」

                って、うれしいことを言ってくれた。

                「ほら、みんないろいろ考えすぎて手が止まる人が多いから」って。


                物を作っているときに、楽しそうに見えるって、なんかすごくうれしい。
                いや、自分はごく真面目に、一生懸命やっていたつもりなんだけど
                それが傍目には楽しくって仕方ないと映るのであれば
                それはきっと楽しんでいるからなんだろう。
                うきうきワクワクしているわけでも、面白くて仕方ない気分なわけでもないけれど
                無心に取り組んでしまう状態が、楽しそうに見えているのかもしれない。


                そういえば、もうかなり昔のこと。
                私、結婚してたことがあった。


                で、その結婚した相手というのは
                私が会社で広報みたいな仕事をしていたときに、そこに商宣のポジ(そうだよ、昔は写真は
                ポジにして貸し出しをしていたんだよー)を借りに来た人だった。
                写真を返してくださいな、と連絡を入れたら、デートに誘われたのだった。

                だいぶあとになって、あの時なぜデートに誘ったのかと聞いたら
                「なんか、すっごく楽しそうに仕事していたんだよね」
                と言われたんだった。

                仕事している女の人って、仕事してます! って感じの人が多いじゃない。
                でも君は、なんかすごく普通に、当たり前のように楽しそうだった。
                それ、いいなって思った。
                って。

                ああ、そうだな。
                仕事、楽しかった。
                仕事、好きだったもの。


                結婚したら結婚生活は楽しいことばかりじゃなくって
                楽しくない終わり方をしたわけだけれど

                あの時に言われた、「楽しそうだったから」って
                そういえば、なんかちょっとうれしかったんだ。


                いつもすごく楽しそうに銅版画しているのね、って

                今日そう言われて

                決して楽しいばかりの人生じゃなかったんだけど
                でも
                やってたら夢中になれることがあって
                そんな自分を見た人が、楽しそうだなあって思ってくれるのって
                なんかちょっとうれしいなあと思う。


                今日ね、朝のテレビで
                103歳の抽象水墨画家の篠田 桃紅さんのインタビューやってた。
                その年になっても、夢中になって気がついたら朝になっていることがあるって。

                時間が経つのも忘れて夢中になれることがあるってことが
                長生きの秘訣なんだって。


                そんなの聞いたら

                なんだか長生きできるような気になってきたよ。

                とりとめもないんだけど
                今日
                ちょっとうれしかったから。


                今日はそんなお話でした。







                 
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                分類好き

                2015.06.09 Tuesday 01:13
                0
                  私、分類が好きなんですわ。

                  特に細かいものの。

                  たとえば、アソートで袋にごちゃっと入って売られてるビーズとか。
                  あれ、色と形別に分けるのとか、大好物で。
                  それで、ここのところまたアメリカから買っちゃって増えてしまった石とかパーツとか
                  手をつけだしたら止まらない。
                  結局3日間、こっちのものをあっちに移し替え。
                  色別の分類法を少し変えて容器を入れ替え。
                  足りないケースを買いに走り。

                  気がついたらもう日付またいじゃいましたわー。

                  ラベルもつけかえてみた。



                  一生作り続けてもなくならんだろうなあ、と思う天然石とかチェコビーズとかパールとか。



                  分類して色別になったのを、ただぼーっと眺めてうっとりして、終わり。
                  なんか作れ、自分。
                  でも、眺めて終わり。

                  もしかしたら、これらは何かを作るためではなく、ただ分類して集めて眺めるためだけに買い集めてるのかもしれない。
                  そんな分類好きです。

                  なんつか、もうここで完成系というか。



                  それで思い出したんだけど
                  そういえば私、図書館司書の資格持ってるんだった。

                  大学時代、行きたかった進路(美大ね)を親に大反対されて、
                  もうなんでもいいから普通の大学受験しろ
                  それ以外一切金は出さないと言われたのだったよ。
                  なんだろうなあ、あの時代。
                  運悪く入ってしまった進学校の圧力とか、親の絶対的な権限とか、
                  今思えば何それってもんなんだけど
                  当時の私には身動き取れない抑圧で
                  そーかいそーかい、そうなんかい。
                  普通の大学に合格さえすれば、あとは何をしてもいいの? 入ったらすぐ辞めてもいいんだね、と啖呵を切ったら
                  おうおう、それでいい、と親が言ったのだ。

                  美大もデザインの専門学校も禁止というなら仕方がない、それじゃフランスが好きなんでフランス語とかフランス文学あたりを受けまくったら、ぶらりと引っかかった大学があったので、約束通りに入学した。
                  で、当時で言う、花の女子大生ってのになったわけだが
                  これがもう、超絶につまらんかった、大学って。
                  そりゃ仕方ないよ、他にやりたいことが明確にあるのに、違うところに入っちゃったんだもの。

                  それで、じゃあ約束通り合格して入学したから、大学やめるねって親に言ったら
                  あんた何言ってるの、やめるなんてとんでもない! と怒られた。
                  話違うじゃん。
                  なんか騙された。

                  それでやさぐれて、進級のテストわざと受けなかったら、当たり前だけど留年したのだった。

                  留年してる間は、すっ飛んでっては壁にごつんごつんぶつかりまくってるカナブンみたいに
                  それはそれはいろんなことをした。
                  心にたんこぶ作って、切り傷も作って
                  それでもう大学は辞めよう、今更美大もデザインの専門学校も入れないだろうし
                  よもや入れたとしても、親は相変わらず大反対だから自分で学費は払えないし
                  なんとなくこんな状態でもスタイリストにはなれるような気になって
                  バイトで貯めたお金でそんな養成所みたいなところに行った。
                  で、そこのセンセに
                  「大学なんて何の意味もないのでもう辞めます。辞めてスタイリストになります」
                  って言ったら

                  「大学に何の意味もないって言えるのは、大学を卒業した人だけだよ。
                   その言葉を言いたいなら、ちゃんと大学を卒業してから言いなさい」と言われた。

                  ふむ。


                  なんか、すごく悔しい。


                  私は、ちゃんと「大学なんて何の意味もない所だよ」と言いたくて仕方なかったので
                  2年のブランクの後
                  そこから大学に戻った。
                  それで、6年目に卒業した。

                  私、そのあとしばらくの間は、鬼の首を取ったように言ってたよ。

                  大学なんて何の意味もない所だったよ、と。


                  ただ、大学生であった6年間という間に、自分が学んだ事には意味があった。
                  といっても、学んだのは授業からというよりも、大学のあった街だったり
                  バイトをした店とその周りにいた人たちであったり
                  たんこぶ作りながら試行錯誤した間のスタイリストや劇団の美術での経験であったり
                  恋愛であったり、旅だったり、そういうところからひたすら学んだことは大きかった。

                  でも、たった一つ、当時
                  大学の授業で学んでよかったなあと思えたこと。

                  それが司書の資格を取るための授業やゼミだったんだなー。
                  あれ、楽しかったな。
                  生まれて初めて、学ぶって面白いと思った。
                  学ぶことが、社会や人と直接つながっていく楽しさがあった。

                  本が好きだったし
                  人が好きだったし

                  そして何より

                  分類好きだったんよ。



                  果てしない情報の海のような中で、それが体系化されて
                  整然と並べられ
                  ラベルをつけて、すぐみつけられるようにしていく過程には
                  ものすごい高揚感がある。

                  整理好きとはちょい違うの。
                  それはある種の、情報の編集作業なんだよねー。
                  ビーズでも同じよ。
                  ただ分けてるだけじゃなくて、いろんな事考えて編集しているの。
                  そのプロセスが、好き。

                  ま、そんなわけで、分類好き。



                  で、私、司書の資格持ってんの。
                  それ、ちょっとうれしい。


                  大学、意味あった。
                  学費払い続けてくれたかあちゃん、ありがとう。あ、とうちゃんもか。


                  あれ、こんなこと書くつもりで、ここ3日間やってたビーズとパーツの整理写真を
                  撮ったつもりじゃなかったんだけどな。

                  ま、いいか。



                   
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                  リニューアルというか だらっと等身大

                  2015.06.02 Tuesday 10:38
                  0
                    なんかいろんなことをリニューアルしたくなって、HPとブログを整理しました。

                    リニューアル。

                    いや、Newにならんでもいい(というか、同じ人間なので新しくも別のものにもなれない)んだけど
                    なんかあるでしょ、そういう時が。

                    で、あちこちテーマ別に書き分けていたブログを、ここだけにまとめることにしました。
                    ここは旅のことを書いていたんだけど、これからは日常も旅のようなもんだわいな、ということで、日々考えたこととか、あと、ちょい取り組んでいきたいなと思っている「モノ」を語ることとか、たまーにことばの料理みたいな感じで放出しているウタのようなものも書いていきたいなーと思ってます。
                    そんな風にカテゴリー分けしてみました。

                    ま、予定なので、実際はどうなるか知らんけど(無責任)。

                    従来通りに旅のことや、海外で勉強したり体験したことなんかも書き溜めていけたらなあって思います。
                    夏はパリに1ヶ月半住んで大学に通うので、それもここに書いていくぞう。

                    というのも

                    mixiやfacebookが日常化して、知り合いだけに井戸端状態に写真晒しているのもいいけど
                    ま、時にはちゃんと考えを言葉にすることは必要だと思ったわけですが

                    私、仕事をしてきたフィールドが(自分でも思いがけない展開なんですが)「家事」だったので

                    やっぱりどっかで自分の枠を、「家事」とか「子育て」とか「母親」みたいなところから突破させられなかったところがあって、ブログなんかでちょい毒舌なことを書いて「あなたからそんな言葉を聞くとわ!」とか

                    「とても意外」なんて反応されることで、実はうろたえたりしてた。
                    すごくチキンで弱いから、私。

                    あと、諍うことも嫌いだし、強い口調も苦手だし、見知らぬ人を否定することも
                    できれば人生ではやらずに生きていたいと思うほう。
                    ごきげんに、鼻歌唄って、毎日呑気に生きていたいので

                    一度何の気なしに使った言葉にすごく反応されて、対応して疲れ果てちゃって
                    ああ、もう開かれた場所に自分の考えたことなんて書くのやめようって思って、それから
                    書くのはごはんのこととか、映画のレビューとか、手仕事で作ったもののことだけって
                    そんな風にこういう場所と関わってきたんだと思うんですわー。

                    でも、このごろ自分の人生のステージがどんどん変わり始めていて
                    それはやっぱり「子育てがどうやら終わったらしい」というのが一番大きい。

                    日々のごはんとか、おうちで作った手仕事のものなんかを書き続けているのが
                    少しづつ自分の等身大とずれちゃって、それはもうあまり必要ないものになりつつある。

                    なので、いろいろ整理して
                    これから関わっていくのは、枠も何もない、ただただ自分に必要なこと。

                    そんな気分だったので、ブログを整理しました。
                    ここにあった旅と留学のコンテンツは残したまま
                    ほかで書いていたごはんや手仕事はリンクに残したので、まあ
                    たまに見直して「ちゃんとかあちゃんしてたのお」と懐かしんでみようかと思います。

                    ついでにHPもリニューアル。
                    Wixっていうサービス使ったら、自分でどんどん作れちゃった、HP。
                    すげーなー。
                    HTMLと格闘して、スクリプト勉強して、CGIなんて設置してたの、なにそれって感じ。

                    そんな時代に、人生の後半戦迎えて
                    これから何ができるのか、楽しみにやっていこうと思います。
                    「何ができるのか」って書くと、すぐ仕事って思っちゃう人多いけど
                    これからさきはいろんなことボーダレスに考えたいなー。

                    ということで、いや、私の課題は「簡潔に書くこと」なんだが
                    まただらっとしてしまった。

                    ま、いいか。
                    そんな感じでだらっと行きます。

                     
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                    • 12時間円柱を描きつづけてはじめてわかったこと。「気づく」までにはたくさんの時間がかかるのに、みんな先に教わってしまうんだね。
                      武蔵婦夫人
                    • 12時間円柱を描きつづけてはじめてわかったこと。「気づく」までにはたくさんの時間がかかるのに、みんな先に教わってしまうんだね。
                      ちゃたろう
                    • ジリジリとただ辛い事を乗り越えられるのは、「好き」の力なんだね。それを河合隼雄さんが「苦楽しい」って言ってたの、思い出した。
                      武蔵野婦人
                    • 分類好き
                      武蔵野夫人
                    • ジリジリとただ辛い事を乗り越えられるのは、「好き」の力なんだね。それを河合隼雄さんが「苦楽しい」って言ってたの、思い出した。
                      piyosuke
                    • 「あの人ちょっと変わってるよね」はフランス語でどう表現するのか。個性、オリジナリティという言葉はどういう時に使われるのか、日本人の価値感のあり方を改めて考えた。
                      piyosuke
                    • 「あの人ちょっと変わってるよね」はフランス語でどう表現するのか。個性、オリジナリティという言葉はどういう時に使われるのか、日本人の価値感のあり方を改めて考えた。
                      武蔵野夫人
                    • 「それはよい趣味ですね」と言われたけど、趣味って何? フランス語には「趣味」って単語ないみたいだよ。
                      武蔵野夫人
                    • 「あの人ちょっと変わってるよね」はフランス語でどう表現するのか。個性、オリジナリティという言葉はどういう時に使われるのか、日本人の価値感のあり方を改めて考えた。
                      piyosuke
                    • 「やらなかったこと」について 「やっていればきっとこうだった」と考えることの意味についてー円柱12時間のその後
                      武蔵野夫人
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