質問と意見がどんだけたくさん盛り込めるか、ということがどうやら大切らしいフランスでの会話について

2017.10.02 Monday 00:53
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    以前どこかで書いたと思うのだけれど、東京でフランス語を習っている時に、映画が好きだと話したら

    「好きな監督は誰?」と聞かれ
     
    「アルモドバルが好きだ」と答えたら
    「彼の映画のどういうところが好きなのか」と言うので
    まだつたなかったフランス語で
    「んーっと、色彩がとても鮮やかなところ」と答え、これで話は終わりかと思ったら
    「鮮やかというけれど、日本にも色彩が鮮やかな監督はいるわ。例えば大島渚とか。
     あなたはアルモドバルの色彩について、どういう印象を持っているの」と食い下がられ
     
    うわー、うわー
    これは本当に困ったと思う一方で
     
    こういう食い下がり方をしてくる人が日本ではあまりいないので
    なんて楽しんだろう、とワクワクしたことを覚えている。

     
    それで今、フランスでありがたいことに個展を開かせてもらっていて
    さして大きな街ではないので、さほどお客さんが多いわけではないけれど
    それでも覗きに来てくれた人にお礼を言うと
    たいてい皆が何か話して帰っていってくれる。
     
    ーこれはあなたが創造したパーソナリティ? いいわね、あなたはこれを何年ぐらいモチーフにしているの?
    ーすごく繊細でデリケートな作風だけれど、どういう画材で描いているの?
    ーあなたはこれをこの街の気配だと言うけれど、なぜこの色を使ったの? そしてなぜ、これはこんなに力強いの?
    ーこっちには少し光が見える気がする。でもこちらはすごく暗い。この違いは何?
    ーこれが気に入ったから買おうと思うんだけど、あなたはこれをどの向きで置くつもりで作った?
    (いや、買ってくれるあなたが好きなように置いてくれていい、と言うと)
    ーあなたがどう置きたくて作ったのかを知りたいの。この向きね、わかった、そう置く。

     
    まず見てくれた人の解釈で、ありきたりではない(すごいわね、いいわね、素敵ねとかではなく)
    独自の解釈を言葉にしてくれて
     
    そして、そのあとに必ず質問がくっついてくる。なので、何かしら答えなくてはならない。
     
    ーそうですね、ここ4年ぐらいです(考えたこともなかった! たぶんそんくらいだろう)
    ー柿渋と墨と自然の土を使っていて(以下、作風についてはフランス語で説明できる準備が必要)
    ー丘の上のブドウ畑に立ったとき、この地のえもいわれぬ力強いエネルギーを感じたので(言われて初めてそう思った)
    ーそれは夕暮れと朝日のイメージを表現してみた(んだったかわからんけど、なんかそんな気がしてきた)
    ーこっち向きに置くつもりで作った(ってことを今初めて考えたよ)


     
    みたいな感じで、大抵答えを用意していないものが多いんだけど
    問われて初めて、自分の中での答え探しが始まって
    それが思いがけず、とても楽しい作業になるもんなのである。
     
    作品の意図を説明せよ、と言われて準備した自分の解説を延々と話すよりも
    予期せぬ質問をどんどん投げかけられるほうが、格段に自分の世界が外に広がっていく。
    この開け放たれ感というか、ちょっと苦難だけれどM的に喜びに満ちてくる感じが
    私の世代で東京で体験できる機会があまり多くないので、とても好きだ。
     
    ほいでも、なんでもかんでもすぐ答えられるわけではないので
    うーん、と返答に詰まることもある。
    沈黙で会話が途切れるとちょっと気詰まりな雰囲気になってしまうので
    そう言う時は、
     
    「それはちょっと答えるのに難しい質問だ、だから考えさせて」と前置きして
    「あなたはどう思うの?」
    とまた質問を返していけば
    とりあえず会話は詰まらずにつながっていくことになる。

     
    絵巻物がなんだか人気です。
     
    その
    「とにかく質問」

     
    っていうのが、私がフランス語の会話をフランスで習い始めた時に、最初に言われたことだった。

     
    もう、なんでもいいの
    なんか聞け、と。

     
    とりあえず、なんか言われたら、はいと言って答えるだけじゃなくて
    相手にも必ず質問を返せ、と。
     
    そうじゃないと、そこで会話は終わってしまうし
    質問が戻らなければ、あなたはこの話題に興味があまりなかったと判断されて
    相手はどんどん次の話題に移っていってしまうから
    フランス人と話すときはとにかく質問をしなさい、そうすれば会話が続くから、と。
     
    もう、口を酸っぱくして言われ続けたのだった。

     
    ーなんでそう思ったの?
    ーそれのどこが好き?
    ー今起きているこのことについて、どう思う?
    ー日本ではこれについてどういう意見がある?

     
    質問を投げかけ続ける。
     
    これは、最初は全く慣れない作業で戸惑ったけれど
    ちょっとコツがわかってくれば、質問をするというのは
    コミュニケーションの上でも
    また、質問されることで呼び出される自分の新たな面に気づくという意味でも
    とても意味があることなんだ、ということがわかってきたように思う。

     
    ということで、こちらで展覧会をしていたら
    いろんな解釈の言葉をもらって楽しかったし
    思いもかけない質問もたくさん飛びだして、すごくうれしかった。
     
    なんつーか。
     
    日本では自分を意見をガンガン言う女とか>笑
    当たり障りのない範囲を逸脱したことを話し出す女とか>笑
     
    たいてい敬遠されるということを経験上知っている(ような気になっている)ので
    そういうスイッチをなるべく入れないようにしているんだなあと自分で気づいたりもした。
    (ほんで、時々こういうブログに書きなぐったりするのだ、好き勝手な意見を)。

     
    ここ数日で
    Fukushimaの現状であるとか、日本文化もかなり難しい局面にあるんじゃないの? とか
    日本の右傾化などについてもよく質問された。
     
    ほんで昨日は作品の話から流れ出して、日本は過去2回も原爆の被害に遭っている上に
    福島の事故もある国なのに、原発の抑止が進まないことについても意見を求められた。
     
    東京の急速な都市化についてとか、一方でフランスでもパリ市街が拡大して景観が崩れていることとか
    海洋のプラスチック問題とか

     
    私のようなつたないフランス語でも、「話さなくていけない」のではなく
    「話したくて仕方がない」質問がどんどん投げかけられれば、身を乗り出して話したくなる。
    そんな会話のキャッチボールみたいなもんが、フランスでの会話の面白さなんだと思う。
     
    日本で普段私がしている会話とは、これはかなり違っていて
    日本語では当たり障りのない会話、みたいなものに多くの時間を割いているような気がするので>笑
    こちらでは下手くそなフランス語でも、話すのは、かなり楽しい。

     
    ただ、やっぱりその会話を楽しむためには
    何かしら投げ返せる意見を持っていないといけない気がする。

     
    なんだろう。
     
    日本だと、雑学とか情報とか、いろんなことを知っていたり、いろんな体験談みたいなものを話せるのが重宝で
    聞き役は上手にウンウン、と聞いて相槌を打てる人が重宝がられるけど
    (さすがですね、知りませんでした、すごい!、センスいいですね、そうなんですかー! のさしすせそ技術みたいな>笑)
     
    とにかく質問され続けるので
    何かしら自分の意見を言わないと先に進まないことになり
    知識や体験も大事だけど、「こう思う」みたいな解釈がすごく求められる場面が多いのが
    日本での会話との違いかなー、と、まあ、ほんとつたないフランス語体験なんだけど
    私はそう思うことが多い。

     
    こっちで、
    あーそうなんだ、うんうん、へー、すごいね。わあ、すてき。
    なんてことばかり言ってたら
    まあ、たいていすぐつまんねーと話を振ってもらえなくなるから>笑

     
    地元の新聞のジャーナリストさんの取材。こちらの質問は早口すぎてほぼお手上げ>笑

     
    前にブルゴーニュに滞在していた時
    何度か私を面倒みてくれたクロディーンは
    「いづみと話すのは楽しい」とよく言ってくれた。
    話すというか、フランス語だとdiscuter 議論するという意味だけど。
     
    日本の少子化問題についてとか、農産物の話とか、なんかしら投げかけられたら
    もうなんでもいいから知ってる単語つなぎあわせて前のめりに喋りたくなる。
    どうでもいいような日常の話題でも、私はこう思うんだけど、ってどんどん話していいんだとわかったら
    意見を言うのが楽しくて仕方ない。

    日常ではどこかで、こんな意見を持っているなんてやっかいだ思われないかとか
    難しい、面倒な女だと思われないかみたいなことが気になって
    かなりの部分をオブラートにつつんでいるんだと思う>笑


     
    やっかいなことを話せば話すほど面白がられるというのは、なんと楽しいんじゃろう!!



     
    先日のことだけれど、彼女のところに来ていた生徒さんが
    様々な場所で
    「何をしているの?」と聞かれて(これはものすごくよく聞かれる)
    主婦です、と答えたのだそうだ。
     
    相手の多くが「??」という反応をした。
    Femme au foyer って何?
    意味がわからないんだけど。。。。。。。

     
    そして、そこで会話は終わってしまうことが多く
    その生徒さんはしばらく、なんだか落ち込んでしまった。
    主婦って言うと、なんだかつまんないと思われるみたいなんです、と。
     
    フランスでは多くの女性が働いているから、主婦と言われても次に投げかける質問が思い浮かばない。
    なんでもいいから、前にしていた仕事を答えたらいいよ、
    今は主婦をしていますが、前は銀行で働いていましたとか
    もうなんでもいいから話せば、会話がつながるから、と話した。
     
    えー、でもそれ、もう何年も前のことだから話したらおかしいです、というので
     
    いいんだよ、だってそれがあなたなんだから、昔の仕事を話したって構わないよ。
    あとは別に仕事でなくてもいい、ボランティアとかでもいいから地域でこんな活動をしているとか
    今は家の改装に専念しているとか、とにかく自分を説明できることをなんか言えば
    それで相手はあなたを知るとっかかりができて、そこから質問ができるから、と。
    そんな風にアドバイスしてみたのだけれど。

     
    でも、なかなかコツがつかめずに
    なぜ? と聞かれて反射的に理由を言うという習慣がなくて
    なんとなくそうしたい、とか、わからないけど好きとか、そういう答えになってしまって会話がつながらず困っていた。

    家族以外の人間に、即座に自分の意見を返す。
    それ、特に日本で専業主婦を長くやっていると、後退していく技能なのかもしれないなあ、なんて思ったりもした。

     
    何に属しているか、という答えが必要とされて
    それを聞いたら安心するという文化と
     
    何をしているか、という答えが必要とされて
    それを聞いたら次の質問が思い浮かんで会話がつながっていくという文化と
     
    パーソナリティのありかは会話のあり方でも違ってくるんだなあ、なんて思うこのごろだったりする。


     
    別にフランスが良くて日本が良くないなんてことが言いたいんじゃなくて
    (だってフランス人めんどくさいし、頑固でエゴイストだし>笑 会話もしんどいことも多い)

     
    コミュニケーションのあり方ひとつでも
    お国柄があって面白いなーって思う。
     
    そんで、たまにいつも自分が埋没している形のようなものを抜け出して
    別のスタイルの中に身を置いてみると
    いろんな発見やワクワクがあって、新たな自分の側面が見えて、すごく面白いなと思う。

     
    ということで、質問文化の中で
    面白い体験をしています。

     
    さきほど作品がひとつ、売れました。

     
    たくさん質問されて、たくさん答えて、そんなやりとりの中で売れていくというのは
    なんと幸せなことなんだー、とすごく思っています。

     
    ありがたいです。
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    子供の頃アートをどう習ったんだっけ? と改めて考えてみている件

    2017.09.28 Thursday 06:46
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      フランスで1週間ぐらい制作して発表して帰る。

      そう思ってきたんだけど、思いがけず展示の開始日が土曜日となり。

      金曜日の午後から展示の準備があってプレ来客もあるというので、気がついたら制作日が3日半っていう、もうなにそれってぐらい突貫工事の展覧会に向けてなんか作ってます。

       

      無理だろうと思うけど

      まあ、なんとかなっちゃうことを信じて。

       

      そんな最中に、ちょっと考えることがあったので書いてみることにする。

      (試験の前にまんが読み出したりしちゃうという、あれですな)

       

       

       

      先週Montbardで数日過ごしていたとき

      私が何度か語学の先生をお願いしていたクロディーンと話していて、こんなことを言われた。

       

      いづみ、日本の人はなぜ、答えのないものに答えるのが不得意なのかしら。

      フランス語の勉強をするのに、私はよくいろんなシーンを描いたイラストを使うのよ。

      外で男女が話しているとか、その横でペンキを塗っている人がいるとか、その類のもの。

      で、それを見て、このシーンを説明してというと

      日本人の多くの人は固まってしまう。

       

      この男女は夫婦ですか?

      それとも友達ですか?

      ここはレストラン? それとも誰かの家?

       

      そんな風に答えを欲しがるの。

      でもこのイラストには答えはないので、もうあなたの好きなように想像して答えていいのよと言うんだけど

      小さなヒントからそれぞれにイメージを広げて行くのが、不得意な人が多いなあと感じる。

      フランス人やアメリカ人とか、もうそれは好き勝手に話し出すわよ。

      この二人は不倫中で隠れてバカンスにやってきたんだけど云々、、、、って>笑

       

       

       

       

      あああ、もうね。

      なんかそれ、私もそうだったからわかる気がするね。

      私もその絵見せられたことあるもの。

      で、あまりにヒントが少なすぎて、どう説明していいかわからなかった。

      これだけの情景で、説明できるわけないじゃん! と思ったけど

      勝手にどんどん解釈して自分でストーリーを作っちゃえばよかったんだな。あれは。

       

       

      ま、その話は横に置いておいて。

       

       

       

      今年もブルゴーニュの小さな街で開催されている催しにいくつか行って

      またいつものような感想を持った。

       

      アートが本当に自由。

       

       

      まあ、パリの有名ギャラリーとかなら別だろうけど

      ほぼ、誰も立派な額になんて絵を入れていない。

      展示の仕方が本当にユニークで、すごく参考になる。

      クリップで止めただけの人。映写用のスクリーンにつけている人、スチロールに貼ってるだけの人、ただピンで止めただけの人。

       

      画布や素材も、かなり独特で安上がりなものを使っている人も多い。

      そして、題材が本当に多種多様で面白い。

       

      とにかく一番うれしいのは

       

      風景画と静物画と花の絵とか人物画 が一切ないことだ!!!!

      (ふんがっ!!!!)

      (もう、日本だとあれなんで? いや、いんだけどさ、描きたい気持ちが大切だから。でも、ほんと、フランスであの手の絵に遭遇したことない。これは本当に不思議だ。技術じゃなくて創造性と個性のほうが重視されると、この手の絵は減っていくのかもしれない)

       

      そんでもいっこすがすがしいのは

      誰もプロフィールなんてずらずら書いたものを展示していないってことだ。

      作家名だけ。

      いいじゃん、それで。

       

      日本だと、作品を見るだけでは評価しずらくて

      プロフィールや経歴で判断してはじめて、作品の価値が見えて来るってことなんだと思う。

      ブランドというか。自分以外の誰かが評価してくれているものに、安心するというか。

      ま、私もそういうところはあるから偉そうなことは言えない。

       

       

      展示を見るSemurに住むお友達。

       

       

      今回見たのは小さな町の公会堂みたいなところでやっているアートの展示だけど

      クオリティは高いし

      そして何より

      見に来た人たちが本当にそれぞれに、作品について延々と語ったり批評しあっているのが楽しかった。

       

      私はこちらの友達と、そしてクロディーンと一緒に2回行ったけど

      都度呼び止められて「あれ見た? あれいいよ」「これはおもしろいでしょ」と声をかけられる。

       

      「私はこの写真が一番好きよ。これは見ていったほうがいい。ものすごく力強い。この人、ウクライナから来た写真家よ」

       

      そう言われて見に行った写真が素晴らしくて、同行のクロディーンに今の人は? と効いたら

       

      「あ、彼女はいづみもよく知ってる、ビオのマルシェで野菜を売ってる人の奥さん」

      と言われた。

       

      そのあと、声をかけられてまた、いい作品があるよと言っていったのは

      郵便配達のおばちゃんだった。

       

      そして、このぺらっとしたもんが、300ユーロ? みたいなもんが

      親戚でも友達でもない人に、ちゃんと買われていくということも知った。

       

      日本では、なかなかこういうことには遭遇しないなあと思う。

       

      それで、その展示の一部屋では、子供達が先生と作家と一緒に、インスタレーションを見ながら授業をしていたんだけど

      そのインスタレーションっていうのがさ、もう、学園祭の出し物みたいなちょいチープな代物で。

      どうやっても、これを前に何を語るのだろうと思っていたら、

      ずらずらとぶらさがっているおばけみたいなモチーフの一つ一つを

      「あれはなんだと思う?」と子供たちに答えさせているのだった。

       

      あれはマスク

      あれは人の顔

      あれは動物かも

      あれは影?

       

      そしてそのすべてが正解で、とにかく一番大事なのは、見たものに対して自分の感じたこと、解釈、意見を言うことなのだ、ということらしい。

      フランスではどんな美術館でもたいてい子供達が床に座って先生と絵を見に来ていて、延々と長い時間、先生が説明もしているけど、子供達もなんだか勝手に意見を言っている。

       

       

      それで思い出そうとしたんだけど

      私たちは学校で、いったいどんな美術教育を受けていたんだっけなあ。

      ゴッホがアルルの家で描いたゴーギャンの椅子を見て

      どんな気持ちだったんだろうと考えたりとか、その絵を見て自分がどんな気持ちになるとか

      そんなことをだらだらじっくり、話したりしたこととか、あまりないような気もするけど、実際はどうなんだろう。

      忘れちゃった。

       

      たとえそれが有名な人の作品でなくても

      自分が好きだなと思ったものの前で、自分なりの解釈をして意見を言い合い、作家がいれば制作の意図や技法を聞き

      ああ、そりゃいいねと思えば作品を買う。

      日本でなかなかそういうことが起こらないのは、やっぱり「答えのないものに自分の解釈をつけていく」ということに対する訓練が、圧倒的に足りないせいなのかもしれない、とも思ってみたりする。今はどうなの?

       

       

       

       

      物事には、答えが必要なものと

      答えがなくていいものがあって。

       

      私が受けてきた教育は、答えがなくていいものにも答えが用意されていたり

      それぞれが独自の解釈をしたときに、それを面白がったり、批判しあったりする土壌があまりなかったなあ、とも思う。

       

      批判(クリティーク)というのは相手を否定することでよくないことで

      それぞれが自分なりに正しい答えを持っている状態で、意見のやりとりをするという訓練があまりできていないんだと思う。

       

       

       

      それで思いだしたけど

      私が小学生の時

       

      もう原型は忘れてしまったけれど、誰かの俳句を読んで、それがどういう風景を表しているのかと先生が問うたことがある。

      私はその俳句を読んだら

      雨上がりの風景がぱーっと目の前に浮かんできて、手をあげて

      「雨が上がって日の光が差してきて、その時大きな木の下にいたら風が吹いて、一斉に葉っぱの水が落ちてきて。その水が太陽の光を反射してきらきら光って、宝石が落ちてきたみたいにきれいに見えた」

      と答えた。

       

      そしたら、先生は

       

      「は? なんですか、それは。ぜんぜん違います」

       

      と言って、他の人が答えた

      「木の下で木漏れ日がゆれている」という答えに

       

      「それが正解です」 と言った。

       

       

      私はずっと釈然としなくって、

      たぶん、それが正解なのかもしれないけど

      私はその時、その美しい風景が確かに見えて、それはとっても素敵じゃないかと思ったのだった。

      その自分のイメージの美しさを、「ぜんぜん違います」と言われたことに、なんだか腹がたつような傷ついたような不思議な思いをしたこと、今でも覚えてる。

       

       

      あ、大学の時のこんな話もある。単位をとるために短大の図書館学の授業を一コマとったら、病院でのいわゆる感動もののドキュメンタリー作品みたいなものを見せられて、それで教室中で女子大生がぐずぐずと感動して泣き出すという場面があった。

      んで、感想を聞かれたので正直に

      「これはどこまでがノンフィクションで、どこの部分が再構成なんですか?」と聞いたら

      教授もまわりの学生もびっくりした顔をして

      「そんなことをこれまで言った学生はいない。君には物事に感動するという心はないのか」と言われてびっくらいこいた。

       

      いや、だって、主人公のおばあちゃん、俳優さんでしょ? 最後死んじゃったし、台詞回しが役者さん。

      でも介護してた子は障がい者で、役者さんには見えなかった。

      このエピソードに関して、誰が本物で誰が配役なの?

      そういうことも勘案せずに、感動ものにはただ泣けと?

      批判したわけでもなんでもないのに、なんで怒られるんだか。

       

       

      なんかいろいろわかんない。

       

      たぶん作者は雨あがりの風景を描いたのではないと思うけれど、

      そういう解釈もあるんだね、美しい風景をイメージしたね。

       

      ドキュメンタリーの手法として、この方法がどういう効果を生むのかを一緒に考えてみよう。

       

       

      そういう風に語り合えたらよかったのになーって思う。

       

       

      とりとめなくなっちゃったけど。

      最後に。

       

       

       

      私が書いた原稿がさ、

      どっかの大学の入学試験に使われたのよ。

      それがその後送られてきて。

       

      「作者は下線の部分で、何を言いたかったのでしょう」 って設問になってて

       

       

      え? エ?

      私この部分でなんか言いたかったことなんてあったの? って思って答えを見て

       

      へー。

      私こんなことを言いたかったんだ、とびっくりしたよ。

      本人考えてもないことが書いてあった。

       

       

      「正解」なんてそんなもん。

       

       

      たった一つの答えなんて、あるわけがないんじゃないのかな。

       

       

       

      アートは想像力を広げてくれるもの。

      日本でその教育時間がどんどん減っているというのは

      とてもとても、寂しいことだと思う。

       

      フランスに来ると、さらに、そう思う。

       

      あー、でもね、と追記。

       

       

      若い世代は自由にアートを楽しんでるなあとほんとによく思うの。

      そういう空気、どんどん広げていってほしいなと思う。

       

      窮屈にしているのは私たちの世代。

      想像力がない人たちが動かしている大人の世界。

      未来は素敵でありますように。

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      フランスで「こけし」の説明をしたらなんだか大変なことになってしまったお話

      2017.09.26 Tuesday 15:15
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        フランスにアートレジデンスに来ています。

        なんでそうなったんかというあたりは長くなるのでまた改めて。

         

        それで、こないだこっちのアーティストさんたちとごはん食べてたときにした話について、書く。

        「こけし」がテーマ。

         

        レジデンスするアトリエを借りる前日にJoignyというパリから1時間ほどの街に到着して

        こちらに住んでいるフランスの友人の家に1泊させてもらいました。

        彼女はパリから移り住んできた脚本家&画家の女性。私よりずっと若くてとってもきれいで、ほんまええ子なんよ。

        (突然関西弁)。

         

        彼女の家には、ポーランドからやってきた写真家の、これまたかっこいい女の子が

        この街に住めないかと家と仕事を探すために一時的に滞在していて、朝おしゃべりをしていて、こんな話になった。

         

        私が日本から持参した、七福神の絵が描いてある九谷のぐい飲みを、前の夜にそれぞれの人にあげたんだけど

        それがすごく気に入ったからここに飾った! とクレールが言う(画家の女の子)。

         

        ーうん! 私も! ほんとうれしいよ、ありがとう、とウルスラ(ポーランドの写真家の子)も言う。

         

        すると、その横に日本のとても古い小さなこけし人形が飾ってあって

        そういえば、とウルスラが話し出した。

         

        ーそれって、やっぱり日本のものでしょう?

         私前に友達にもらっんだ。

         それは身を守ってくれる幸福のお守りなのよね? だから片時も離さず持ち歩いているんだけど。

         

         

         

        あれ、こけしってそうだっけ?

         

         

        なんか適当にうなずいておけばよかったんだけど

        ついつい調子に乗ってこんなことを言ってしまった。

         

        あー、そうだね。でも日本では持ち歩くお守りというのではないかも。。。。。。。

         

        ーえ、じゃあどういうものなの?

         

        「こけし」というのは日本語で「消えた子供」という意味にもなるんだよ

         

        ーえ!?

         (一同蒼ざめる)

         

        いやいや、いろんな解釈があるんだけどね。ただ、昔日本の農村はとっても貧しくて、子供が生まれてしまっても育てられないということも多くて、やむなく生まれたばかりの子供を処分したりもしたの。その時、その子供の代わりにこけしを飾ったという人もいる。

         

        ー!!!! じゃあ、これは死んだ子供の身代わりなの?

         

        ここで家主のクレールが、あわてて飾り棚からこけしをどけて、ウルスラに返しながら

        ー前にも言ったけど、私これ、好きじゃなかったの。だからこれはもう置きたくない。あなたが持っていって。

         

        ウルスラも震えながら

        ーなんてことなの! 私はこれは私の身を守ってくれると言われたから、世界を旅していたここ2年の間、ひと時も離さずに身につけて、寝るときは寝室に飾って、ずっと持ち歩いていたの。幸福のシンボルと思っていたものが、殺された子供の身代わりだったの?

         

         

         

        もう、私はすごく慌ててしまって、なんとか話を元に戻そうとこう言った。

        いやいや、民俗学としてそういう解釈もあるっていうことで、こけしは日本の多くの観光地で作られて売られているし、たくさんの人が買って飾ってるよ。

         

        ー待って。どうして殺した子供の代わりに人形を飾るの?

         

        えっと、その子が家を守ってくれると考えたんだと思う(しどろもどろ)

         

        ーなぜ殺した子が家を守るの????

         

        ひえー。

        ちょっと待って。ちゃんとした由来を説明するから。。。。。

         

        、、、とあわててwikiを出して、フランス語での説明を試みる。

         

        あくまでもそういう解釈があるってことで、本来は神様が降りてくる場所だったり、子供のおもちゃだったり、とにかく日本の地方でよく作られているんだってばー。

         

         

         

         

        がしかし、時はすでに遅く。

         

        ウルスラはこけしを手のひらの中に収めながら、何やらすごく深刻な状態になってしまった。

        私は一生懸命、大切な人にもらったお守りとして持っていればいいと言ったけど

         

        ーでも、この人形にはダブルミーニングがあるってことよね

         

        というので、

        うーん。でも日本人はそんなことは今は気にしていないし、あくまでも昔の話で、そういう人もいるってぐらいのことで。。。。

         

        といっても全然だめぽ。

        困ったな。申し訳ない。変なこと言っちゃって。ごめんねー。

         

         

        私はひたすら謝っていたんだけど、

        彼女がそこで深く物思いにふけってしまったのには、どうやら別の理由があったようだった。

         

        しばらく彼女はクレールと早口のフランス語で何か話し続けていて、小さな声で早く話されるフランス語が聞き取れない私は、申し訳ない気持ちいっぱいで佇んでいたんだけど。

        それからおもむろに、私に向けてわかりやすく説明をはじめた。

         

         

        彼女が住んでいたポーランドでは、さまざまは歴史の繰り返しがあって

        先日彼女の家のすぐそばで、無縁仏(という表現かどうかわからないけど、とにかく身元不詳の人たちがまとめて埋葬されている場所)のお墓がみつかったのだそうだ。

        そこには誰のものかもうわからない骨が混じり合っていたので、DNA鑑定が行われることになった。

        そこで、そのうちのひとつが、血縁としては彼女の叔父にあたるものであることが判明して、その子は生まれてすぐに亡くなっていることがわかった。でも、そのことについて、彼女の身内は誰一人知らされていなかったし、生まれてすぐに死んだ子供がいるということが、その時はじめてわかったのだそうだ。

         

        彼女の身内は、その生まれてすぐ亡くなった子供のためのお葬式を、つい先日済ませたばかりだ、と。

         

         

        ーこのこけしは、私たちがその死んだ子供のことを知る前に、私の手元に来たの。

         それからずっと、私はこの人形と一緒に旅を続けてきた。この子はずっと私と一緒にいたんだよ。

         この間、私たちはお葬式をして、誰にも知られずに死んでしまった小さな子供を見送った。

         

         今日ここに、日本からいづみが来て、その話を聞いて

         なんだかすべてがつながっているんだと思った。

         

         この人形は、きっと私たちのその小さな子どもの代わりに、私の手元に来てその存在を教えてくれて

         旅の間私を守ってくれた。でも、お葬式を済ませて私たちがその子を見送ることができたから

         これはもう、私が手放していいということなんだと思う。

         

        え? え? そうかな。そうなのかな。

         

        ーいづみ、あなたの国では、死んだ人をどうやってとむらうの?

         

        えっと、焼いて埋める。

         

        ー埋めるのね?

         

        あー、うん、埋める(もう説明がうまくできない)

         

        その日、私は朝食を食べたら家の裏にあるぶどう畑の丘に登って、制作の足しになるような写真とか石ころとかを集めて歩く予定だった。ウルスラは家で仕事をしているから、いつでも寄っていいよと言ってくれていたんだけど

         

        ー私、今日の予定を変えることにした。

         これからいづみと一緒に、ぶどう畑の丘に登る。そして、この人形を埋めておとむらいをする。

         ちょっと待ってて、すぐ着替えてくるから!

         

         

         

        あー、えっと。うーんと。

        ごめんごめん、変なこと言っちゃってごめん。

        持っていても大丈夫なんだよ、不吉なものじゃぜんぜんないんだよ。

         

         

        ー違うのよ、今、私はいづみに心から感謝してるの。

         その話を教えてもらって。

         私にとって、今の話はものすごく大切なことで、とても心を打たれたし、こうすることが私にとても重要なの。

         

         

         

         

        ということで、私たちは丘に登り

        森の中の古い古い2つの木に挟まれた場所に穴を掘って

        日本の古い、小さなこけしを埋めた。

         

        ー日本では、お墓をお参りするときに何を飾るの?

         

        というので、花を飾って、お墓には水をかけて清めたりする、と話したので

        彼女はこけしにたくさんの花をもたせて、ペットボトルに入れた水を最後に墓石に見立てた石の上にかけて、お祈りをした。

         

        ポーランドのやり方と

        日本のやり方で。

         

         

        彼女は祈りの言葉を唱えたけど

        日本では手を合わせて、声は出さずに心の中で思いを伝えるんだ、と話したら

        じっと手を合わせて目をつむっていた。

         

         

         

        なんだろう。

        私、悪いことをしたのか

        いいことをしたのか

        よくわからなくなってしまったけれど

         

        これはこれで、

        なんだか不思議な体験だったんじゃないかなあと思う。

         

         

         

         

        それから彼女はぶどう畑の真ん中で、丘の上から街を見下ろしながら

        しばらく座禅を組んで瞑想をしてから帰るといって、その場に残った。

         

        戻って来た彼女と、クレールと、クレールの男友達が加わって昼食をすることになり

        話は当然、そのことになり

         

        どうやら彼女は、その帰り道で誰からのものともわからない携帯のメッセージ入り続けて

        すごく怖い思いをしたらしい。怪奇現象というか、霊障というか。わかんないけど、そんなものじゃないかと思っているようで

         

         

        その彼女に対して、加わった男友達が一生懸命アドバイスをしているのも、また不思議な体験だった。

         

        おかしな状態になった時には、大きな声で「ストップ!」と叫ぶのも効果がある、とか。

        仏教では声明を唱えるとか

        そして突然 南妙法蓮華経 を唱えだすとか

         

        とにかくもう、いろいろ面白い。

        というか、こちらの割と知的な人たちは、たぶん、私たちよりずっとよく

        仏教とか禅について知っているし

         

        レイキとかホメオパシーとか

        日本では、勘弁して、胡散臭いと思うような内容のことも(ごめんなさい)

        とても真剣に取り組んでやっている。

        ほんと、面白い。

         

         

        で、やっぱりフランスでも、ちょっとおかしなことがあったら

        塩を撒くんだそうです。

         

        日本だけかと思ってたけど。

         

        肩越しに塩を撒く。

        おばあちゃんちでもよくやってた、って言ってたよ。

         

         

         

         

         

         

        最終的に、ウルスラはミントの葉を両手に握って

        木の下で瞑想していました。

         

        いづみは大丈夫? って言われたけど

        私は何事もなく、大丈夫です。

         

        という、こけしから始まるお話でした。

         

        category:アートと暮らし en France | by:武蔵野婦人comments(0) | - | -

        「やらなかったこと」について 「やっていればきっとこうだった」と考えることの意味についてー円柱12時間のその後

        2017.08.05 Saturday 10:01
        0

          お久しぶりです。

          絵ばかり描いていたら、頭が文章モードになかなか戻らなくなっていました。人の脳みそは、あまり器用にはできていないのかも。あ、違うのか、自分がただマルチタスクができなくなっているだけか>笑

           

          私は文章を書くのにとても時間がかかるタチ(なんどもなんども推敲してしまうので)なので、ブログで半日終わってしまうことも多く。最近はなんだか、雑多にやることが増えたということなのかもしれない。

           

          さて、そんな言い訳をしている間に、以前のブログの記事にコメントをいただきました。

          それにお答えしようと思ったら、コメント欄で書ききれそうもない内容だったので、記事のほうに持ってきてしまった。

          勝手に題材にしてしまって申し訳ありません。

          でもこれは、なんだか私も折に触れて考えることだったので、ちょっと向き合ってみようと思う。

          質問はこんな内容。

           

          ==================================

          私は子どもに美術系を許さなかった母です。
          (中略)

          持論なのですが、美術とか創作系を志す人は何か「やむにやまれぬもの」を持っており、それはたかだか教師や親に反対されたからと言って、やすやすと手離す物ではない。

          そう思う母の信念を、打ち破る力がわずか16.7の子どもには無かったのかもしれないと思い至ったのは随分後の事で、それ以来、子どもの希望の芽を摘んでしまったと、折に触れて後悔していました。

          とはいえ、本当に志があれば、もし一時その道から外れたとしても、結局はそこに戻ってくる。
          運命なのか、諦めぬ心なのか、それは分からないけれど。
          という思いはやっぱりあって。

          本当にやりたかったら、本人がなんとかして道を探すだろう、と。

          それから、美術大学に行ったからと言ってそちら方面の仕事に就けるとは限らず、かえって行かなかった人の方が、現在活躍してるように思える、というのもあった。(自分の視野内で)

          もちろんそこには、余人の計り知れぬ努力や苦労があったのだとは思うけれど。

          でも、そういう人たち(美大に行かなかった人たち)が系統だって美術を学ぶ場に行けたら、さらに素晴らしい作品を作り上げたり、新たな才能を開花させたりしたのかしら。

          12時間円柱を描き続けることを、10代のうちに大学で学べてたらもっと良かった、と思われますか?
          それとも、人生を経た今だからこそ学び取れた、気づけた、と思われますか?

           

          ===================================

           

          つまりは、私が考えなくてはいけないのはここですね。

           

          12時間円柱を描き続けることを、10代のうちに大学で学べてたらもっと良かった、と思われますか?
          それとも、人生を経た今だからこそ学び取れた、気づけた、と思われますか?

           

          これはすぐに答えられる。

          10代ではなく、今だからこそ学びとれたことだ、と。

           

           

          そして

           

          それから、美術大学に行ったからと言ってそちら方面の仕事に就けるとは限らず、かえって行かなかった人の方が、現在活躍してるように思える、というのもあった。(自分の視野内で)

           

          ということも真実のひとつだと思うし、

           

          でも、そういう人たち(美大に行かなかった人たち)が系統だって美術を学ぶ場に行けたら、さらに素晴らしい作品を作り上げたり、新たな才能を開花させたりしたのかしら。

           

          というのも確かにそうだと思う。

          あれから私は紆余曲折で今の仕事をしているけど、高校のあと美大に行ってたら今よりたいした人間になっていたかどうかは全然わからないし、ってか、ダメだったかもなーって思う。

           

           

          で、それこそが、私が長いこと抱えてきたコンプレックスなのかもしれない。

           

           

          「私は絵が描きたい人間で、その才能もきっとある」

           

          と心のどこかで思いながら、絵を描かずに生きてしまった結果

          あるところからアートに取り組み出すとどういうことになるかというと

           

          「本当は才能なんてまったくなかった」

           

          という自分に直面する恐怖と戦うことになる。だから口実をつけては避けて通ったりする。

          やらないでいれば、「才能なんてなかった」という恐怖の現実に向き合わずに済むから。

           

           

          つまりはそれが、質問者さんの言う

           

          持論なのですが、美術とか創作系を志す人は何か「やむにやまれぬもの」を持っており、それはたかだか教師や親に反対されたからと言って、やすやすと手離す物ではない。

           

          ってことなんだろうと思う。本当に止むに止まれず描く人は、反対されてもやめないし

          やめざるをえなかった自分は、本物ではないってことを、心のどっかで感じてる。

          でもね、だからこそ

           

           

          あとからそんなジクジクと拘泥にはまる前に、とっとと若いうちに取り組んでおきたかったという思いはある。

           

           

          結局、「禁止」されたことで、

          ”何もしていないくせに、何かができるような気になっている”自分が作られ、

           

          そして、そんな「やればきっとできたはず」という後悔のような怨念のようなものが心の中に植え込まれていて

          何かにつけて傷のようにうずいては、私が進路を決めていく中でいろいろな邪念になったように思う。

           

          ま、言い訳っぽいけど。

           

           

           

          まあ、でもね。

           

          そういう悔しさみたいなものをバネに、いろいろ頑張れたというのはあるので

          私は今の自分には満足しているし、誇りも持てているし、

          紆余曲折やってきたけど、悪い人生じゃなかったなーって思う。

           

          だからこそ、いま

          また学べる時間ができたときに、学び直す。

          うんうん、それで十分いいよね!

          って。

           

          まあ、そう思うわけですが。

           

           

           

          でもね。

          再び美大で学び始めてみて

           

           

          やっぱりね

           

           

           

          やっぱり違うんですよね。

          違う。

           

           

           

          自分は経験も積んでスキルも上がってるから

          学ぶ効率は逆に、今の方がよいのではないかとも思う。

          見てきた美術の世界も10代よりは膨大で、世界で本物いっぱい見てるし

          そんな蓄積も絶対大きい。

           

           

           

          それでも。

          違う。

           

           

          「自分」の認識の仕方、「自分」の価値について

          その基盤を作っていく年齢の時期に

          「やりたい」ことができる場所を選んで

          「やりたい」ことが似ている人たちの中で

          「ここにいていいよ」と承認され

          とりあえずは「やりたい」と思えることに夢中で取り組む時間を持つことは

           

          その後の人生のあり方に

          大きく、大きく関わるんじゃないかなあ、違うかなあ。

          それを今やれるかというと、なんだか全く違う世界がそこにあるんじゃないかなあ。

           

           

           

          あ!!! でも私

          美大に行ったわけじゃないので、行ったらどうなったのかは語れないのだった。

           

          そうだそうだ、語れないのだったよ。

           

           

           

           

          というのも

           

           

          大学でフランス文学学び始めた2年目に

          もうほんとにやってらんない、こんな世界にいられない(だって誰とも話が合わない>笑)

          だからといって美大に入り直すこともできない(親の反対半端ない、家出る甲斐性もない)から

          自分で貯めたこずかいで、1年勉強すれば仕事になりそうな学校に勝手に通うことにした。

           

          選んだのはスタイリスト。

           

          それで撮影からスタイリング、メイクにヘアまでいろいろ学んでいよいよ卒業となり

          就職相談になったので、担当の専門学校の先生に

          「大学をやめてスタイリストになる」と伝えた。

          そしたら先生に言われたのだった。

           

           

          なぜ? ちゃんとした大学に通っているのに、やめることないでしょう。卒業してからスタイリストの仕事すれば?

           

           

           

          なので

          「もう辞めます。大学なんて本当に、行っても意味のないところです」と答えた。

          その時の先生の一言、いまも忘れられないよ。

           

           

           

          「ももせさん。意味がないと言えるのは、大学を卒業した人だけですよ。

           卒業もせずに意味がないと言っても、なんの説得力もないですよ」

           

           

           

           

          当時私は、本当の本当に大学って意味がないと思っていたので

          とても素直に、

           

          「そうか、じゃあ、本当に意味がないと言えるように、卒業だけはしよう」と思った>笑

           

           

          そんで、6年もかけて大学を卒業して、今改めてどうかっていうと

          たぶん、意味はあったと思う。

          ある意味では意味がなかったけれど、別の意味では意味があった(呪文みたいだけど)。

          その時の先生には感謝したいと思います。ありがとうございました。

           

          そしてその間、「意味がない」などとほざいてる娘の学費をコツコツと払ってくれた両親にも改めて

          ありがとうございました。

           

           

          まあ、そんなわけで

          経験しなかったことに対して、きっとこうだったはずとか

          こうなったに違いないなんてことを考えることの無意味さについて

          心に強く思うわけなので、

          美大に行ったらきっとそうなってたに違いないなんてことを推測すること自体が無意味なわけなんだと思う。

           

           

           

          「できたはず」を抱え続けるってことは、そんな無意味な妄想で人生のどっかを支配されちゃうから

          とっととやってみて、できるんじゃないかと思うことは、経験しておいたほうがよい、とつくづく思う。

           

           

           

           

          ということで、最初の質問の内容に戻ると、今言えるのは

           

           

          「12時間円柱を書き続けて学んだことは、今だからこそ得られた経験だし

           希望する進路に進めたからといって、よりよい人間になっているとも思わない。

           でも、じゃあ美大に行かなくてもよかったのかというと

           それはやっぱり、やりたいときにちゃんと、やりたいことはやっておくべきだったと今改めて思う。

           なぜなら、同じ体験はもう人生を積み重ねた後からはできなくて

           若いときにきちんと、自分の芯にあるものに向き合っておくことはその後の人生にとても大切なことだ」

           

          ってことになるのかなーって思う。

           

          妄想みたいに頭の中で考えるだけで、実際に手を動かさなかったことの代償は、かなり大きいなと

          最近つくづく思うことが多いです。フランス文学科に行こうと、赤坂でバブル時代の会社員をやろうと

          毎日もっと真剣に描かなくちゃあかんかったんだよ。まあ、頑張るけど。

           

           

           

           

           

          さて、私の美大リベンジには後日談がある。

           

          前のブログで円柱12時間描いたよって書いた記事は、なんかバズってたくさんの人が読んでくださったけど

          あれから1年。

          私は今何をしているかというと

          もう美大には通っていない。

           

          なぜかというと

           

          人生経験も、仕事経験もいっぱい重ねてきてしまった50代の私が

          美大で基礎を学ぼうと考えても

          スタート地点があまりにも違いすぎるということに直面したから。

           

          「美大」でものを学ぶことが、もう今の自分のスケールに合っていない。

          それで、結局それぞれ作家の先生について、今年はやりたいことだけに取り組んでいる。

          それが正しいのかどうかはぜんぜんわからないけど、「できたはず」と抱えてきた妄想は

          この1年ほどで大きく変化して、新しい形になってきたような気がする。

           

          超試行錯誤時代だけど。

           

           

           

          それでも、去年学校に通ったことには、別の大きな意味があったのは確かだった。

           

          ひとつは長くフリーランスで自己采配で1日を過ごしてきた自分が

          「とりあえず通う」場を得て、時間割のある日常を過ごしたこと。

          「場を得る」。

          これはとっても心身の安定につながった。

           

          それともうひとつは

           

          「美大に行かなかった」ことの根元の意味について、ちょっとした気づきがあったことだ。

           

           

           

          私の親子関係はちょっと複雑なところが多く

          仲良し母娘であったがゆえの確執みたいなものも大きかったのだけれど

          昨年、私の誕生日で食事をしている時

          おそらく

          自分が覚えている中で人生ではじめて、といっていいと思うんだけど、母に大きなおねだりをしたのだった。

          ほぼ冗談で。誕生日プレゼント何がいい? と聞かれて

           

           

          「学費、払ってよー」と。

           

           

          私がまだ40代の頃、「美大行きたかったのに大反対したよね」と両親に話したら

          母は機嫌が悪くなって、そんなことを言う私を制止した。

          なんか、全然わかってくれてなかったんだなー、という遺恨もあって、だから言ってみたのだった。

           

           

          「ほんとに行きたかったんだよー、それ忘れられないから今行くことにしたの。

           だからさー、リベンジで学費払ってよー。

           なんちゃってね、ははは、冗談冗談」

           

           

          あ、変なこと言っちゃった。機嫌悪くなるなーと思っていたら

          母は一瞬首を傾げて、それから

           

           

           

          「ほんと、かわいそうなことをしたわね。行かせてあげればよかった。ごめんね」

           

           

           

          と言った。

           

           

          え?

           

          ぽかんとしている私に

           

           

          「でもね、払ってあげたいのは山々だけれど、今はうちは年金が少なくて、いろいろ出入りも多くて余裕がなくて。

           ごめんね」

           

          と頭を下げたのだった。

           

           

          え?

           

          え?

           

           

           

          今何が起きたんだろう。

          常に強気だった母から出た言葉にびっくりして、私はあわてて否定した。

           

          「いやいや、ぜんぜん本気で払ってなんて思ってないから。

           なんか、昔わかってもらえなかったのが悔しくて、だからいじわるで言ってみただけだから。

           貯金もあるし、大丈夫だよ。こっちこそ、ごめんね、変なこと言って」、と。

           

           

           

           

          それから1ヶ月後、息子の誕生日があって、再び私たちは食事会をして

          その席で母は、私の息子である孫に、

          「これは誕生日のお祝い」といって、ちょっとしたお金の入った封筒を渡した。

           

          いつもありがとう、と伝えると、

          彼女は

           

          「これは、あなたに」

           

          ともうひとつの封筒をバッグから出して

           

          「このくらいしかできないけど、でも頑張って」

           

          と言った。

           

           

           

           

           

          中には

           

           

           

           

           

          一年分の学費が入ってた。

           

           

           

           

           

          私、

          もうその場で

          涙が止まらなくなって

           

           

          周りの目も気にならず

          号泣してしまった。

           

           

          あんな風に泣いたのは、ものすごーく久しぶりだったかもしれない。

           

           

          えーんえーん。

          わーんわーん。

          ママありがとう。

          わーん。

          ママうれしい。

          ほんとにありがとう。

           

           

          80歳の母を前に、子供みたいに泣きじゃくった。

           

           

           

          結局ね

          私が「美大に行きたかったのに」と抱き続けて妄想をしてきたことって

          ただ

          これだけのことだったのかもしれないな、とその時思ったんだった。

           

           

           

           

          「わかってほしかった」

           

           

           

          なんで、わかってくれないんだろう。

          なんで、一番好きと言っているものを否定するんだろう。

           

           

           

           

           

          あの時、「行きたい」と言う私に親が「いいよ」と答え

          そのまま美大に行っていたらどうなったのかという答えは

          先にも書いたように語る意味もないのだけれど

           

          美大に行かずに別の道を歩いている間、止むに止まれぬ衝動で描き続けるなんてことをしなかった私であるなら

           

          たぶん

          そこで満足して、その後まったく別の道に進んでいるんじゃないかと思ったりする。

           

           

           

          私が抱えてきたものは

          描きたかったのに、という場所ではなくて

           

          ただ

           

          わかってほしかった、承認してほしかった、

          という場所に長らくあったのかもしれない。

           

           

           

          そんなことに気づいて

           

           

           

          「美大に行きたかったのに」

          という想いは、80歳の母の手から「ごめんね」と渡された封筒の小さな重みで

          すべてが霧が晴れるように昇華してしまったように思う。

           

           

           

          私はありがたく、その封筒の中身を学費に当てて

          一年間学び

          そして、ああ、途中だけれど、私はもうここにいなくていいんだなと思ったので

          学校をやめて、今は毎日絵を描いている。

           

           

          たぶん、遅すぎることはないと

          言い聞かせながら。

           

           

          長くかかったけど、それが私の「美大行かなかったんだけど」のストーリーで

          今いる場所なんだと思います。

           

           

          答えになったのかなー。

          また長くなっちゃった。ここまで読んでくださってありがとう。

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

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          「とりあえず今日は昨日と同じ日でいて」ー怒るにはエネルギーが必要だったことを知る朝

          2017.06.15 Thursday 11:12
          0

            共謀罪が参院選で通った昨日。

            怒りや不安に向き合うには、ある程度のエネルギーが必要なのだと知った。

             

            前回このブログを更新してから、なんと6ヶ月以上経過してた。

            最後の記事がなんだか後ろ向きな内容だったから、そのまま放置されていたことになり

            それでもその間、こんなブログを取り上げてくれる方もいたりして、アクセスが急に3万4万と跳ね上がる日もあったりで、いろいろ不思議な体験をした。(遡って読んでいただいた方もいらして、ほんとありがとうございます)。

             

            最後に仕事の嘆きみたいのを書いたことで、仕事依頼のメールに

            「ブログにあるようなことがないよう、誠心誠意進めてまいります」という文言を入れてくれた方もいて

            ああ、これは申し訳ない、早くもっと明るい記事に書き換えなくてはあかん、、、、、、

            と思っていたのが1ヶ月前ぐらい。

             

            それでも放置されていたのは、このところの私の状態が、別のところにエネルギーを持っていかれることで

            ポジティブにもネガティブにもなれずにいたからだった。

             

            別のところって何かっていうと

            それ

             

            介護問題。

             

             

            ある日突然、85歳の父が脳梗塞で倒れ、

            集中治療室ののち、ああ、これはもう身体能力の回復なく施設入所か、、、

            と奔走したのち、現代医学のありがたい(というか恐ろしいほどの)恩恵に預かり復活〜!

            したのはいいけれど、いろんな家庭事情のために、まあ書くのも疲れるから書かないけどほんまいろいろあって

            結果的に81歳の母にはキャパオーバーな状態の手のかかるじいさんが実家でいろいろやらかしている。。。。

             

             

            という数ヶ月だったからなのだった。

            っていうか、現在進行形だけれど。

             

             

             

            そこで、介護にまつわる世界の入り口を垣間見た。

            それはまた、機会があったら書く。

             

             

            それでも改めて思ったのは、一番最初に書いたことなのだった。

             

             

             

            怒りや不安に向き合うには、ある程度のエネルギーが必要なのだな、ということ。

            ポジティブでいるのにもエネルギーが必要だけれど、私にとっては怒るという行為のほうが

            よりエネルギーを必要としているような気がする。得意ではない。

             

            それで、体と頭と心からエネルギーがもう、必死なところに向いている時、

            私は何をしていたかというと、ひたすら無心になっていた。

            外からやってくることがあまりに理不尽であったり、想像の斜め上を行っていたり、未来が見えない時

             

            その時々で怒ったり嘆いたり意見したり、喜んだり希望を持ったり、、、なんてことを繰り返していたら

            確実に自分のメンタルバランスが壊れるので

            じゃあ、何をするかというと、無心になるのである。

            なんつか、自分を守るために、感性の何かが麻痺するんだ、ということを知った。

             

            そこでひたすら、ただ願っていたのは、ただひとつ、これ。

             

            「とりあえず今日は昨日と同じ日でいて」

             

             

            明日が同じである確証がない(なぜって、自分の努力や意思とまったく関係ない場所から、理不尽な状況が飛んでくるからだ)

            半年後、1年後なんて何の話だ。

            5年、10年の構想なんてなんの役にも立たない。

             

            だから、とりあえず今日は、昨日と同じに過ごしたい。

            明日のことは、また明日、同じように昨日と同じ今日と考えて過ごしたい。

             

            あんなに大好きだった旅や、海外滞在の予定を立てることも

            3ヶ月先が見えないと勝手に頭が働いて、考えることをやめてしまう。

             

            そして今朝、頭の中心が痺れて麻痺したような状態で、自分のしたことに愕然としたのだった。

            共謀罪参院通過のニュースを流すテレビのチャンネルを、黙って変えた。

            一色になっているツィッターの画面を、閉じた。

             

            なぜって、それは私の心をざわつかせ、不安にさせ、怒りを噴出させるから。

            ほんとはいけないこととわかっているけど、敢えて書けば

            とりあえず私は、今日は昨日と同じ日が送れるはずだから、不安や怒りから自由でいさせて。

            いつも通り、過ごさせて。

             

            旅行の予定をわくわく考えるようなエネルギーも

            理不尽なことに怒りや不安をおぼえるエネルギーも

             

            この数ヶ月ですっかりなくなってた。

            怒るって、すごくエネルギーがいることなんだ、と改めて思った。

             

            (森美術館で見たハルシャの絵。政治と社会、アートの関係についていろいろ考えさせられたインドの現代アーティスト)

             

             

            先日のニュースで、現政権を支持している多くが、老人世代と20代の若者だということを知って驚愕したんだけど

            (特に若者のほうで)

             

             

            今朝の自分の行動を思い返しながら

            ああ、それは

             

            先が見えない日々の中で、希望というものを持つことが逆に自分を傷つけると知った人間が

            少しづつ少しづつ、無心でいるという自己防衛術を身につけて

             

            わくわくすることからも

            怒ることからも距離を置き

             

            とりあえず、昨日と同じ今日が送れればそれでいいのです。

            未来がこんな風になってしまうから、いま、よく考えて反論して、声を上げなければと言われても

            その種類のエネルギーはとっくの前に手放してしまったよ、

             

            ってか、そういうの

            疲れるしうざいから

            やめてくれるかなあ。

             

             

             

            と思ってしまう。

            それは今の若い世代が直面している現実であり

            非正規雇用から抜け出せない社会システムの中にいる人や

             

            同様に、またちょっと別の視点で

            死により近い

            70代、80代の現実でもあるのではないか、と思った。

             

             

             

            昨日と同じ今日、その今日が終わったら、今日と同じ明日1日。

            その「明日」は、あくまでも自分の日常の明日であって

            社会とか、世界とか

            正義とか倫理とか

            とりあえずそういうことはもう、とりあえず置いて見ないことにするという

            まさに今朝の私のような行動が

            次の同じ「今日」を作れない法案や政策をどんどん通過させる土壌になってる。

             

             

             

            怒れよ、と言われても

            その種類のエネルギーから距離を置いていたいと思う気持ち。

            とりあえず、僕の1日が昨日と同じでありますように。

             

             

             

             

            現政権はそんな風潮に支えられている(いや、支えてもいなくて、ただ見過ごされている)。

             

             

             

             

             

            未来にわくわくできて、努力すれば何かが報われるというエネルギーがあれば

            社会に対して怒る、声を上げるというエネルギーも湧いてくるのかなあ、と改めて。

            日本、やばい。

            (いや、おれもやばい、まぢで)。

             

             

             

            さて、そんなやばい日本は4人に1人が65歳以上の老人で

            100歳以上の人口がなんと6万5千人もおる。

            口さがないことを言えば、昨日と同じ僕の、私の今日が過ごせれば

            もうそれでいいです、という人が、それだけいるってこと。

            そういう人たちを支えるために、莫大な税金が使われている。

            その税金を、昨日と同じ今日がすごせればいいんじゃね? という若者が担う。

            ってか、担えるわけないじゃん、これ。

             

            ひとり親で頑張って子育てして、やっと子供が巣立って

            さあ、これから自分のこれからを考えようと思ったら

            日本の老人社会の深い闇のようなものに直面してしまった。

             

            ほんまこれ、何。

             

             

             

             

            ありゃ、ぼやきブログで放置してしまったので

            明るく書き換えようとしたのに、なんだか真っ黒になってしまった。

            怒るエネルギーはないけど、今日1日過ごしているというレベルでは私はとても元気です。

            ちゃんとエネルギーを蓄えるためにも、書いたり、創ったりしなくちゃあかんので

            ぼちぼちマイペースでやっていければと思っています。

             

            そんな中

            年老いて死ぬということは、いったいどういうことなのか、ということについて。

            このところはよく考えるようになった。

            今日は長くなったので、また、来ます。

             

             

             

             

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            お客様が神様の日本で、最近仕事で折れることが増えたのは、なんかとっても単純な理由だったことがわかった件

            2016.11.05 Saturday 00:37
            0

              数年前まで、こんな体験はしたことがなかった。。。。と思う体験が増えた。

              何って、仕事で。

              改めて一応説明しておくと、私の仕事はコラムニストでフリーランスで17年ー。企業に属しているわけでもなく、特定の会社と契約しているわけでもないので、声がかかるのをただ待っているというのが仕事の日常なので、こうして今日までシングルマザーで子育てしながら食べてこれたってのは、奇跡にに近いことだーと、いつも思う。

               

              いまだ、なんで食べていられるのかわからない。ありがたい。

               

              それでも、世の中的には仕事の単価がぐいぐいと落ちて

              仕事自体も減ってきたのは確かだ。

               

              それで、なんともいいようのない

              え?

              それって何?

              これってどういうことなん?

               

              というような体験が、ほんとのほんとに、このところとっても増えた。

              そうだなー、この5年ぐらいの間で、なんかがすごーく変わった。

              何だろう。

               

              それって、私が歳を取って頑固になったから?

              変に経験積んで、勘違いしてる部分があるの?

              あ、そうか。単にこの世界での自分の価値が下がったってことか?

               

              …と自分なりに納得しようとしたり

              諦めたり、嫌になりながら、もうこの仕事辞めようかなーと思ったりの繰り返しなのだけど。

               

              私の場合は、ほんとにはじめて連絡をくれる人と、はじめて仕事をすることも多くて、だから、!?!?! という出来事があった時、それは相手がおかしいのか、私がおかしいのかというあたりを確認しあえる人がいない。

              それも、もやーっとしがちな一因。

               

               

              例えば、私の取材をしたいと依頼があって日時も決まったのに、取材場所の連絡が来ない。

              前日の夕方に、こちらから「どこに行けばいいですか」と連絡を入れたら

              「あー、あれですけど、その後クライアントからもっと違う場所でと言われたので、リスケさせてください」という。

               

              明日空けていたので、もうちょっと早く連絡くださいね、と言うと

              「これこれとそれそれができる取材場所をそちらで決めてもらえませんか」という。

               

              うが。

              ほでも仕方ないので、それができそうな知人のスタジオと交渉して場所を確保して連絡を入れて日にちもリスケする。

              が。

              この時点で絵コンテも企画書も来ないので

              「ある程度の取材内容を教えてくれ、準備するから」と伝えたが間際までなしのつぶて。

              前々日の夕方に大量のデータが送られてきて、そこには

              翌日一日で買い出しから下ごしらえから、その他備品の買い物から、私がやるべき大量の指示があってびっくりした。

               

              えっと。

              たとえば私がテレビ番組のスタッフだったり、取材する側だったら、それはアリ。

              でも、こういう仕事してきた経験から、「インタビュー、家や事務所の取材をさせて欲しい」という依頼だった場合は采配が違う。

              まあ、準備してもいいんだけど、直前にメールでデータ送りつけて終わり、はやっぱり違う。

               

              しかも、内容が私の活動とぜんぜん違っていて、これまで話にも出なかったことがたくさん増えている。

              どいういうわけでこんなことに? と聞くと

              「クライアントの希望で」と。

               

              これ。

               

              「クライアントの希望で」。

               

               

              私が話していたのは代理店。

              クライアントとは一度も会ってない。

              ほんと、こういうこと、とっても多い。

               

               

               

              あと増えたのが、「最低限のマナーでは」と思っていたことを軽く飛び越えていく案件。

               

               

               

              たとえばこないだ、通例ではあり得ないというNG案件があったので

              間に立って連絡してきた人に、「それはやはり、直接連絡するように言ってね」と伝えたら

              打ち合わせ中に入っていた留守電に

              「お詫びしたいので、連絡ください」と口頭で電話番号を言われた。

              携帯に折り返しせずに、こっちの電話にかけろということらしい。

               

              歩きながら口頭で言われた番号はかけなおせないし

              何より、こちらに非がまったくなく、相手が100%悪いNG対応の説明とお詫びというものをしてもらうのに、私から電話をするのもなんかはばかられる気がして放置した。

               

              そうしたら、夜メールが来た。

              この番号にかけろ、と再び。

               

              おかしいと思うのは私だけなんだろうか。

              私なら「お詫びの説明をしたいので、電話をしていい時間帯をお知らせ下さい」と言う。

              もしくは、昼につながらなかったのなら、その夜にメールである程度は事情説明を送る。

              お詫びや言い訳みたいなものを聞かせるために、相手に通話料を払わせることはしない。

              釈然としないので、メールで「明日の午前中は電話に出られますので、お電話いただけますか」と返事した。

               

              かかってきたのは、翌日の11時59分だった。

              ま、ぎりぎり午前中だけど。

               

               

              あ、あとこんなこともあった。

              私が新聞に書いたもの(署名連載記事)を、テレビで取り上げたいという連絡が入り

              どういう形で? と聞いたら

              「もう撮影は終わっているんです」という。

              え? 知らないうちに?

              「DIYコーディネイターの○○さんがホームセンターで材料を買って、記事のものを作って紹介しました」

              えっと。ももせが考えたものだということを中でちゃんと言ってくれましたか?

              「あー、いや、DIYコーディネイターの○○さんが作って紹介した形になってましてー」

               

              あのお、なんかおかしくないですか。

              私が考えたものを、なぜまったく知らない別の人が作って紹介するんでしょう。

              取り上げていただくのはうれしいけれど、だったらまず撮影の前に、書いた私にご連絡いただくのが順番では。

              そして、作る企画であれば、私が作るのが筋では? 

               

              と電話で伝えたときの、戻ってきた答えに、なんだか一瞬、時間が止まっちゃったのだ。

               

              「え? あれってももせさんが自分で考えたアイデアだったんですか」

               

               

               

              え。

              ええっ?

               

               

              なんかさー、私、自分が書くものは「自分で考えたアイデア」、もしくは

              従来あったものなら、それを自分なりに編集アレンジしたもの ってこと以外、思ったことなかった。

              そして署名連載記事で書いたものには、著作権ってものが存在するとしか思っていなかった。

               

              そうかー。

              アイデアなんてみんなどっかから持ってきたもんなんだから、書いた人の著作権なんて関係ないってこと?

               

              だから、書かれたものは別の人がそのまま使ってよくって

              そんで、クレジットにもとに書いた人の名前出す必要も、ギャラ払う必要もないってことなんね。

               

               

               

              ええっ!?!?!

              そうなの? そういうこと? 原稿を書くって、そういうものだったん?

               

              あれ?

              おかしいと思ってる、私がおかしい?

               

               

               

              …みたいな。

               

              これはかなり自分にとっては衝撃的な出来事だったので

              これ以降、しばらく自分でアイデアを考えるのをやめたことがある。

              検索して出て来たもんをそのまま使えばよくて、一生懸命試作したり工夫して考えること自体がアホくさい、と。

               

              ま、このあたりはいろいろ意見もあるだろうけど。

              でも

               

              なんだか、ぜんぜん大切にされてないなーって思うことが増えた。

              大切というか、仕事をするプロとして対等に見られていない、尊重されていないという感じ。

              それは同時に、

              え?

              それっておかしいよ、それやっちゃだめじゃん というような

              相手もプロとして成立していないぞー、っていう案件も増えたってこと。

              特にネット系は顕著。

              従来のメディアで仕事をしてきた人たちとは、まったく違う分野の人たちが

              情報や言葉やデザインを扱うことが増えてきたこともあるように思う。

               

              動画集めるっていうから、その著作権どうするの? って聞いたら、「そんなこと考えなかった」とか。

              「あなたの書いたものを適当にこっちでまとめます、だから謝礼はナシで」とか。

              適当? 適当にまとめちゃう?

              すでに本に書いてあることは、別の誰かが”適当に”まとめてタダで別媒体で使っていいと?

               

              「1時間のインタビュー+自宅撮影、ライターの書いた原稿の校正をしてもらって、謝礼はありません。

              でも、プロフィール欄を使って、ご著書のPRをしていただくことができますのでご活用いただければと思います」とか。

               

              えっと。

              プロフィール欄って何だと思ってた? プロフィール欄に著書名入れることは広告費としてバーターになるとでも?

               

              丁重にお断りしたら

              「一緒にお仕事ができたらと思っていたのに、残念です」と戻ってきた。

              ノーギャラで半日拘束って、私には「お仕事」じゃないよ。え、違うの?

              私がおかしいの?

               

              いや、すごくちゃんとしている人もいっぱいいるんだけど。

               

               

               

              とにかく、少なくとも5年ぐらい前までは存在しなかった依頼内容が増え

              そして、なんだか悲しく、わびしく、意味不明だと思うような対応に遭遇するようになった。

              それで、それは自分がおかしくなったのかと思ったりもしたけど、

               

               

              あ、そうか。

               

               

               

              なんかそれ

              とてつもなくカンタンな理由だったような気がする、と思うようになった。

               

               

               

               

              最初に書いた案件にあった

               

              「クライアントの意向で」

               

               

               

              それ。

               

               

               

              クライアントって、つまり

              「お金くれる人」

               

              ってことよね。

               

               

               

               

              お客様は神様です

               

              という考えが蔓延しちゃった日本で。

               

               

               

              お客様ってのは、つまり、お金払う人ってことで

              金払う人が一番偉いんだぞ、って

              私たち、だんだん洗脳されちゃってる気がする。

               

              レストランで、こっちは金払ってるんだから、ごちそうさまなんて言う必要ない

              と平気で言う人たち。

              お金を払ってくれる人の言いなりになる側と

              払ってるってだけのことで、自分が神様になって威丈高になる人たち。

              学校も、こっちは税金払ってるんだから、サービス業だって言う人もいる。

               

              そういう理論でいくと

               

               

              私、原稿書いてお金もらってるんで

              私に原稿や取材を依頼してくれる人は、お客様なの。

              うん、それは昔から、ずっとそういうこと。

               

              ただ、そこにはお互いもちつ持たれつで

              誰かが持っているスキルや情報に対して、それをリスペクトして、対価を払うよっていう関係性が

              これまではちゃんとあったんだけど

               

              そこ、

              知らない間に

              お金払う人が一番偉い って図式に

              どうやらなっちゃったってことなんだろう。

               

              そう思ったら、上記に書いた、なんだかなーと思ったことすべて

              「それでお金もらうんだから、言われた通りにするのが筋」

              ということになる。どんなに急でも準備して、間際のリスケも文句なんて言わない。

              来いと言われたら、遠くても相手の予定に合わせて出かけていく、ってこと。

               

               

              なので、代理店や制作側は、クライアントの言うなりになり

              なんだか理不尽だなーと思うようなことにも対応せざるをえず

               

              そういう人たちが今度は

              デザインや言葉を扱う人たちのクライアントとなり

               

              私みたいに個人で何にも属さず

              ただ情報やアイデアを提供する側にいる人間に対しては

               

              「ギャラ払った時点で貴方の仕事は終わり、完成報告する必要ないよね」

              「お金払ったら、そのあとそれをこっちがどう使おうと

               形を変えようと、何度使おうと、こちらに権利がある」

               

              ってことになって

              それがさらに

               

              「いくらでも安い金額でやりたい人いるし

               別にプロに頼まなくても、フリーソフトでちゃちゃっと作れるスタッフいくらでもいるし。

               こっちも安い金額しかもらってなくて予算ないんだよ。

               そもそも貴方考えるだけで、一銭もかかってないじゃん」

               

              なんてことにもなり、(笑 すべて仮想だけど)

              そんで

              いろんな悲しいなーって思うことがどんどん増えているような気がする。

               

               

              そうやって書いたもの、作られたものは

              クライアントにリスペクトされないどころか

              (だから勝手に手を入れたり、間際でひっくり返したり、アイデアだけ持って行ったりする)

              消費側にもリスペクトされず

              (だからそのままパクられて別の商品になったり、書いたものが勝手にまとめられてほかの人の仕事になってたりする)

               

               

              最近は「リライトライター」といって

              誰かが書いたものを、少しだけ表現を変えて、丸ごとパクってきたとわからないように

              記事に仕立てるためのテクニックを教えるという人もいるのだって。

               

               

              クリエイティブの価値が下がっていくのに、仕事量は増える。

              電通の子の自殺も、社会にこういう負のスパイラルがある気がして、ひどくこたえた。

               

               

              お客様は神様です

               

              って

              三波春夫さんは、自分が思っているのとまったく別の使い方をされていると、悲しんでいたんだって。

               

              本来は

              神様は、あがめ奉られるだけではなく

              民衆を見守り、願いを叶えてやるという役目を同時に担う。

              ファンであるお客様は、チケットやCD買ってお金払ってくれる存在ではあるけれど

              同時に、アーティストを支え、育て、見守るという大切な役目も引き受けているんだよ。

              神様を引き受けるって、とっても責任があること。

               

              今、神様はただお金を払うだけで

              なんの役目も引き受けない存在になっちゃった。

               

               

              お金ってそんなに偉いのかな。

              お金って、怖いな。

               

               

               

               

               

              フランスにいたとき、

              一番偉いのはお店の人だったよ>笑

              ってか

              お客さんもお店の人も、同じ人間、対等な存在。

              クレームや不満をぶつける先は、同じように働く人として存在する誰かではなくって

              もっと、組織とか国家とか、システムに対してなんじゃないかな、と思う。

              電車遅れたこと、駅員さんに怒りぶつけても、なーんもならんじゃん。

              どんだけみんな、行き場のない閉塞感を抱えてるんだろー、と思う。

               

              いろいろ、息苦しさが増している日本の中で

              気持ちよく楽しく、仕事が出来る方法を、いま、模索している最中です。

               

              そんで、自分自身も、気持ちよくいい仕事を一緒にできる人間であり続けたいなーと強く思う。

               

              しばし逃げ出すことばかり考えていたけど

              もっとよりよくできる方法はあるはず。

              素敵な人もいっぱいいるんだし。

               

              今日はそんな話。

              ネタバレ感満載だけど、たまには許してね。

               

              category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(24) | - | -

              スピ系の話の続き。結局スピチャンネルは人のために使わず、自分が幸せになるためだけに使えばいいんだと思う。

              2016.10.26 Wednesday 23:41
              0

                怪しげなスピ系の話の続き。

                人はそれぞれ視覚や聴覚、身体感覚などの得意なチャンネルがあるんだけれど、中にはスピ系にチャンネルを持っている人もいる、というのが先日書いた話。

                 

                他の人には見えないものが見えるとか、感じるとか

                誰かの前世やオーラが見えるとか、その他特殊能力があるのだとか、そのあたりのことを言う人は意外といる。

                 

                私は超能力というのはマジックの一種だと思っているけれど

                美輪さまのように(笑)、人の見えないものが見えるというような人はいると思っている。

                それで見えているものの実態はわからないけど、そこにある何かを感じるという能力は、多かれ少なかれ持ち合わせている生き物の本能というか。

                 

                殺意を持った人が近づいてきたら、なんかぞわっとするなんていうのを始めとして、ただ単に、不機嫌な人が部屋にいたら気分が悪いとか。結局そういう見る事も聞く事もできないけど、「人が発する気分みたいなもん」とか、なんか事件があった場所に残ったいやーな気みたいなものは、意外と伝わるんじゃないかと思う。

                 

                そこで感じたものを、ただ雰囲気と処理するのか、脳内でスピ系に編集して言語化するかどうかの違いで、後者のような編集作業の過程では、古くから言い伝えられてきた伝説的な形や、民族的な共同幻想みたいなものが大きく作用して、イメージが作られていく。

                 

                スピ系の人が、ちょいエキセントリックにスピ系ワールドに突入すると、自分の能力を覚醒させようとスピモードな日々を送ることになって、いろんなことに敏感になる。すると、気にせずによい場所にまで勝手にいろんなものを感じるようになっていって、その中で上記の共同幻想みたなものが深く刷り込まれていって、どんどんスピな人になっていっちゃうというか。

                それって能力が伸びているというより、ただそういうイメージを脳内変換しやすくなっていくってことなんじゃないかなと思うわけです。

                 

                もしそこに、何か統一された変換モードを提供する組織みたいなものがあれば、簡単にステレオタイプなスピ洗脳されるというか。

                新興宗教なんかはその手のところに、うまく入り込んでくるしなー。

                 

                 

                 

                ってなことで、そういえば以前、みんなのうしろにたくさん前世の人が見えるという同僚がいたんですが。

                 

                ものすごーくエキセントリックだった彼女、

                結婚して子どもを産んだとたんに、なーんにも見えなくなったそうですわ。

                 

                 

                 

                いろいろおもろ。

                 

                 

                 

                それで、なんでこういうことを前回考えるようになったのかというと

                ちょい最近であった人がスピ系のヒーリング術に目覚めて、それをたくさんの人に教えていきたい

                苦しんでいる人を助けて癒していきたいと、目をキラキラさせていたのですわ。

                 

                あー、それ。

                 

                スピチャンネルがあるとつい、「ヒーリング」って誰かの役に立ちたくなるもんだけど

                それやると結構辛いことになるよなあ、と思ったのでこれを書いている。

                というわけ。

                ちょうど高樹沙耶のニュースも入ってきた。

                なんつか、スピ系のお手本のような人だったなあ。

                結局、辛い。

                 

                 

                それじゃあ私はどうなのよというと、

                もし、私が高樹沙耶さんのように、何か強烈に心酔する人や物事があって

                さらにちょいエキセントリックに美しいことで人の関心を惹き付ける外見を持っていたら

                スピスピ星の住人になっていた可能性は、ある。

                だって80年代だもの。

                西海岸スピワールド全盛期。

                怪しいというより、サブカル系でちょい知的な世界でもあったのね。

                いやー、ほんといろいろあった。おもしろかった。

                 

                それで、そういうスピチャンネルを開いていた時期には、本当にたくさんのものを見たし聞いたし、体験したのだった。

                敢えて書かないけど。

                 

                でもそれ

                ある時期からすっぱりと、全部、考えることを辞めた。

                スピ系の人でいるのは、そりゃもう本当に

                消耗するし、体調悪くなるし、なんかちっともいいことなくて、幸せにはなれないからだ。

                 

                 

                 

                例えば

                私は今でも人の気を拾うところがあるので、病気をした人と話していると、同じ場所が痛んだりする。

                 

                電車で本を読んでいる時に、隣りの席に座った人の顔もしぐさも見えなくても、

                ものすごい不穏な気みたいなものが突然襲ってきて、ぞわぞわと脅かされてしまうことがある。

                たぶん、この人はものすごく怒っていたり不安やイライラを募らせているか、もしくは何か重い病気かもしれない、とよく思う。

                 

                そんな時に私ができるのは

                一刻も早くその人の側を離れる、ってことだけ。

                 

                 

                スピ系の力を人のために使いたいと思う人は

                癒して欲しいと思っている人たちの有象無象のものを自分のからだと心に引き受ける覚悟がいるわけで。

                 

                前出の彼女や高樹沙耶さんのように、スピ系のチャンネルを開いてますよーってアピールを始めたら

                そこに集まってくるのは、負のエネルギーだけなんだよー。

                 

                んで、そうして誰かに癒してもらうことを期待して集まって来る負のエネルギーは、

                誰かの力では癒されることなんてなくって

                結局は自分の力で解決していかなきゃ何も起こらないってことなんだと思う。

                 

                 

                結局は引き受けられないことを

                あたかも何かが解決するかのように誘導できるスピ系の人は

                本物じゃない。

                 

                ほいじゃ本物っているんか?

                って話しになるとぜんぜんわかんないけど。

                 

                 

                ま、とにかく人や世の中をよくするためにスピチャンネルを開いているという人や場所は

                たいてい、まやかしだから関わらないほうがよいのだ。

                 

                 

                 

                そいじゃ、スピチャンネルがある人はそれを何に使えばいいのかっていったら

                 

                ただ単純に

                 

                自分が幸せになるために使えばいい。

                 

                 

                 

                あー、この家、なんか玄関開けたとたんにいやーな感じがした。

                だから買わない。

                 

                この人と一緒に1時間いたら、ものすごく体調悪くなった。

                次は無理してもう会わない。

                 

                すごく楽しみにしていた旅行なのに、朝起きたらぜんぜん行きたくなくてやな感じ。

                キャンセルしちゃえば。

                 

                憧れてきた学校が、見学してみたらなんか居心地悪い。

                どんなに有名校でも、そこはやめとけ。

                 

                 

                 

                たいてい、最初に感じる第六感みたいなものは、当たってることが多いから

                そこに、いろんな後情報や常識みたいなものを塗りこむことで、そのささやかな感覚をおざなりにせず

                とりあえずは、やばいぞと思ったものからは離れておく。

                 

                逆に

                なにこの人、すごく楽しい! とてもおもしろそう! 

                どんどん仲良くなろう

                 

                この店はなんだかすごくおいしそうな予感がする

                とりあえず入ってみよう!

                 

                って、素敵な予感があることはどんどんやっていきゃいいわけで。

                ま、はずれたら行かなければいいだけのことで、そこになんか意味なんて見いだす必要もない。

                 

                スピチャンネルは、そういうために使うもので

                だから

                 

                31歳を境に、私はすべてのスピ系の考え方から離れて

                そのあとは一切、進んでそういう感覚に近寄ることを辞めた。

                 

                 

                それでも、今もちょい特別な状況で気を抜くと

                ああ、この人はスピチャンネルがあるぞ、かまってもらえる、聞いてもらえるよー! と

                なんかえもいわれぬ者たちが、ぞわーっと物陰から飛び出してくることがある。

                えっと、何言ってんだかわからないかもしれないけど、とにかく、ま、いろんなことはある。

                 

                 

                いろいろあるけど

                とにかく

                スピチャンネルは「自分が」幸せになるために使うもので

                たいていは人の役に立つためには使えないし、使っちゃいけないと強く思うのでした。

                 

                 

                 

                 

                 

                あれ、なんの話がしたかったんだっけ。

                 

                久しぶりにいろんな話しを思い出したので、ちょい書いてみたのだった。

                あくまで個人的な考え。この手の話しは正解も不正解もないような気がします。

                 

                次はもうちょっとまともな話題で。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

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                人にはそれぞれ得意な知覚のチャンネルがあるらしいってことと、その中に「スピ」系の「スピチャンネル」も存在しているよねということのプロローグ

                2016.10.22 Saturday 09:56
                0

                  今年に入ってからの大半の時間を費やしていた、ふたり展が終了した。

                  いやあ、精魂尽き果てました。そして、今ぼーっとしまくりの最中。

                   

                  それでも、よい経験をたくさんした。とりわけ、ギャラリーを提供してくださった恩師の言葉や影響力は大きかった。なんか、いままでにない筋肉がついたような気分なのだった。

                   

                  そんで、そんな恩師との不思議な会話をもとに、タイトルのようなことを考えてみた、というのが今日のブログです。

                   

                   

                   

                  会期中、ちょろりとおしゃべりをする時間などがあった時、ちょうどキリスト教や仏教の話が出たところだったので、恩師に聞いてみた。

                  「先生はなにがしかの信仰を持っているんですか?」

                   

                  答え。

                  「ない。でも、敢えてあるとしたら、それがアートだと思う」

                   

                  へ、アートは宗教ですか?

                   

                  「この世の中にある、目に見えないもの、言葉になっていないものを形ある物にして見せていくのがアーティストの役目だと思う。それはまさに、宗教の役目でもある。だから信じる宗教は何かと聞かれたら、私は”アート”って答える」

                   

                   

                   

                   

                  もうなんというか、1本筋が通っていてまことにかっこいい。

                  「アートは宗教である」と言ってしまうと、なんだかとても危うく怪しげなことになっていくけれど、信じている世界観は何なのかというあたりは、日本ではあまり話題にならないことが多いから、こういう考え方は私はとても好きだ。

                   

                  しゃて。

                  そんな話しをしていた数日後。

                  レイキをするという女性がやってきた。

                   

                  レイキ。

                  https://ja.wikipedia.org/wiki/レイキ

                  こういうやつね。

                  違う方向性に行ってしまったものに、真光教がある。

                  いわゆる手かざしの民間療法で、日本ではこういう人が現れると警戒されるもんだけど、私がフランスにいた時には、この手のものが好きで仕方がないという人たちが結構いた。

                   

                  ZENとか、Buddismというのは、膠着したキリスト教的世界観に答えを見いだせない人たちにとって、哲学的で知的なものとして受け入れられる傾向があって、レイキなんかもそことごた混ぜになる感じで、興味を持つ人もいるみたいだ。

                  瞑想、太極拳、レイキなんかがごた混ぜになっていて、そういうワークショップに結構な人が集まっているのだった。

                  それ、なんかわかる気もするけど。

                   

                  とりあえず、日本ではたいてい、この手のことをする人は「スピ系」の人という認識をされることが多い。この日、彼女が帰ったあとに交わされた会話にも、何度もこの言葉が出てきた。

                   

                   

                  スピ系。

                   

                   

                   

                  一口に言っても、いろいろ。

                  毎朝ピンクのオーラを浴びて、すべてに感謝しちゃうスピ系の人もいるけれど、ほんとに見えないものが見えちゃうという人もいる。

                   

                   

                  あ。

                   

                  「見えない物が見えちゃう」。

                   

                   

                  そこで、冒頭の恩師の言葉に戻る。

                  「この世の中にある、目に見えないもの、言葉になっていないものを形ある物にして見せていくのがアーティストの役目」。

                   

                   

                   

                  以前に聞いた話だけれど、人には生まれながらに持っている、秀でた「知覚のチャンネル」というのがあるのだそうだ。

                   

                   

                  視覚にチャンネルがある人は、物事を色や形で認識しがち。聴覚にある人は、音声で。身体にある人、言葉に特化する人、いろいろ。

                  自分のチャンネルがわかれば、それを生かす方法もわかってくるってことなんだそうだ。ダンサーは身体知覚や聴覚にチャンネルが開いている人が向いているだろうし、数字に特化している人が色を扱う仕事をしても楽しくないに違いない

                   

                  そんな中で、時折どの知覚にも属さないチャンネルを持つ人というのがいて、それがいわゆる「スピ」知覚なんだろう、って思う。

                   

                  敢えて、「スピチャンネル」とでも呼んどく。

                   

                  形でも色でも音でも言語でもないものを察知するスピチャンネルは、きっと誰もが持っているものなんだろうけど(たとえば虫の知らせとか、第六感とか、なんとなくやな感じとか、その手のもん)、扉が開いている人と閉じている人がいる。閉じている人にとっては意味をなさない、疑似科学やまがいものである世界も、開いている人にとってはまがいもない現実だ。

                   

                  んで、世の中にはそれを掬い上げるいろんな網のようなもんがあって、恩師のように「それがアート」と昇華できる人や、社会的に認知されているセーフティゾーンの信仰や組織の中に上手にランディングできる人はいいけれど、困った網の中にからめとられてしまうケースもあって、いろいろもやることも多い。

                   

                  そうやってもやるケースが多いから、スピチャンネルの使い方は難しいし、たとえ上手に使えたとしても、社会の中ではちょい生きにくい存在であることも確かなのかもしんない。

                   

                   

                  ということで、なぜ今日こんな話題を取り上げているのかというと、この日スピ系の人が登場したことで、恩師と食事をしながら、ちょっとしたスピ体験の話題になった。

                  つられるように話しだして、思い出したのだった。

                   

                   

                  いろんな出来事を。

                   

                   

                   

                  忘れてた。すっかり忘れてた。でも、そうだった。

                  私にも、スピチャンネルがあるのだった。

                   

                  その使い方について、いろいろ思うところがあるので、それまた次回に書くことにするー。

                  とりあえず昼ご飯を食べるー。

                   

                   

                   

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