「人生は必要な時に、必要なぶんだけ与えてくれる」ってことをフランスで教わる

2017.10.23 Monday 11:20
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    フランスでレジデンスをしていた時に、本当によくしてくれたアーティストの友人たちと食事をしていたときのこと。

     

    一人がこんなことを言った。

     

    「大事なのは自分を信頼すること。自分の創り出すものを信じて自信を持つこと。

     下手にいろいろ考えすぎて余計なことをしないで、ただ自分の信じるものを作り続ける。

     そうしてれば、どっかでなんとかなる。

     私、今回本当にそれを実感するできごとがあったの」

     

     

    なぜそんな話になったかというと、滞在中のいろんなことにお礼を言いたくて

    私が自分のことをこんな風に表したからだった。

     

    「私はたぶん、日本ではきちんとやっているほうだと思う。

     人によっては、成功したほうだ、という言い方をするのかもしれない。

     本もたくさん出すことができたし、講演をさせてもらったりしながら子供を一人で育てることもできた。

     でもね、どこまでいっても、いつも不安で自分に自信がなかった。

     これでいいのかな、って。

     

     特にアートについては、どんなに楽しく描いても、自分がやっていることに自信が持てなくて。

     昔から父親に「お前に才能なんてあるわけがない」って言われ続けたのもなんか心に残ってしまっていて

     絵を描いていてもどこからかそんな声が聞こえてくることがあるんだよ。

     でもね、今回の滞在で、そんなこと気にしないでいいんだな、って思えるようになった。

     個展に来てくれた人たちがかけてくれた言葉にたくさん勇気をもらったし

     あなたたちに会えたことでたくさん心に栄養をもらった。いっぱいありがとう」

     

    (いや、たぶん実際のフランス語はもっと稚拙>笑 これはかなりの意訳)

     

    そう言ったら、彼女は私の手を取って

     

    「あなたは立派に仕事をしてひとりで子供を育ててきたんだよ。日本で。

     あなたはFemme indepandante、自立した女性。それだけでもすごいこと。

     

     それに、あなたは本当の才能の持ち主だということがわかってる?

     それは今回のことで証明されたよ。信じて、自分を信じて」

     

    としっかり私の目を見て言ったのだった。そして、最初に書いたようなことを話し出したんだった。

    それは、こんなこと。

     

     

    「あなたに貸したアトリエのある建物を、いろいろあって私は去年購入したんだけど、

    修理のお金やいろんなことが重なって、少し前まで本当にどうしたらいいんだろうって思ってたの。

    どうしよう、絵だけ描いていてもだめだから、もっと売れそうなアクセサリーを手ごろな値段でいっぱい作ろうか、とか

    もっと売れそうなグッズを作っていかないとダメかな、とかいっぱい考えてた。

     

    そうしたらね、ちょっとした事故で足の骨を折っちゃった。

    動けないし、もう本当にだめだ、アトリエは売ろうかと思って家にこもっていたら

     

    或る日突然電話がかかってきたの。

    私が描いた中で一番大きくて一番高値をつけていた絵を、買いたいって人から。

     

    小さいアクセサリーだったら、何日もかけて何十個も作って売り続けなくちゃならなかったと思うけど

    1本の電話で、私が一番描きたくて描いたものが、ちゃんとその値段で売れていったの。

    それで私、思ったんだ。

    自分が本当に創りたいものを、信じて創り続けようって。

     

    こうしたほうが売れそうだ、受けそうだと考えて形を変えてしまわずに

    ちゃんと自分を信じて創り続けていれば、どこかで何かが起こる。

    人生はそう捨てたもんじゃない、って。

     

    あ、でもね。

    修理のお金を払ったら、絵が売れた分のお金はなくなっちゃったのよ>笑

    だから、また最初からなんだけど

     

    でもそうして、人生は必要な時に、その人に必要な分だけを与えてくれる。

    そう思うの。

     

    それ以上あるに越したことはないけど>笑

    でもね、持ちすぎてもいろいろ見失う。

    だからいづみも、自分を信じて創り続けて」

     

     

     

    人生は、必要な時に、その人に必要な分だけを与えてくれる。

    ちゃんと自分を信じて、本当にやりたいことを続けていれば。

     

     

     

    それ、なんだかとっても腑に落ちる気がして

    なんだか心にあったかさがいっぱい溢れたんだった。

     

    そうだなー、自分の人生も、振り返ってみたらそういうことの繰り返しだった、と。

     

    ヨーロッパ最大級の版画の工房村で。いつかここで銅版画をしてみたい!

     

    大事なのは自分を信じること。

    自分を信じるに足るだけの、好きなことを持ち続けて、自分に嘘はつかないこと。

     

    外側からの評価や経済軸みたいなものでいろんな邪念にまみれてしまうことが多いけれど

    その都度自分に立ち返って、何がしたかったんだっけ? って振り返りながら、

    そうやって今までもやってきたような気がして。

     

    そんなこと書くと、順風満帆に聞こえちゃうかもだけど、いつもピンチと隣り合わせだった。

    ああ、困ったなあって立ちすくんだり、もうこのままダメなんじゃないか、

    とアルマジロのように丸まって冬眠状態になっていたりすることがたくさんあった。

    気持ちのバランスを崩して、それが体調不良につながってしまったり。

    そんな時、すぐに幸運の女神が現れて、めでたし、なんてことはまったくないけれど

    でも気づくと

    あれ?

    ああ、ありがとうござます。うれしいいよ、って出来事が小さく起きたり

    いいんですか? 助かるなー、なんて仕事がちょろんと舞い込んできたり

    え? こんなんがあったっけ? という小さな臨時収入があったり。

     

    でっかくどかーんと大成功! なんて出来事はないけど

    困った ーじたばたせず待つ ーあれ、なんか起きた ーありがとう ー気がつけばまた困った ー待つ ーあれ?

    なんていう繰り返しだったなーって、長い目で振り返ってみると思う。

     

    一方で、

    これ、本意じゃないんだけど、もう動き出しちゃったからやるしかないのかなあ、気が重いなあ

    なんて思っていたことが、ひょんなことから白紙になったりとか。

    それ、経済的には打撃だけど、気持ちは救われた、なんてこととか。

     

    ほんと、彼女が言う通り

    人生って、必要な時に必要な分だけを与えてくれるものだ、と思えれば

    なんかいろんなことが楽になると同時に、ちょっとした希望も湧いてくる気がする。

     

    もちろん、「必要」な部分をしっかり確保することは大前提で

    それが確保しにくくなっている世の中なんだけれど

     

    でも、必要以上のものを手に入れようとして苦しくなるのは、なんか自分には合わないなーって思ったりもする。

     

     

    こういうこと、標語みたいにみんなに伝えたいってわけじゃなくって

    ただ、今の私にとって、その言葉がしんみりとじわりと心に染み渡って

    そうだなあ、その通りだなあ、これからもそんな感じでやっていけるといいなあ、って

    そう思ったんだよ、ってこと。

     

     

     

    今の日本は、本当に「必要」な部分がどんどん減ってしまっているのに

    別の場所で必要以上のものを手に入れようとしている人たちが

    いろんなことを苦しくしているような気もして。

     

     

    だから日本に戻って

    また、彼女の言葉を噛み締めたんだった。

     

     

     

    最後の日、電車のプラットフォームで彼女たちは、

     

    「いづみ、あなたはほんとのアーティストだよ。自分を信じて。自分の信じることを続けて」

    と、目にいっぱい涙をためて私を見送ってくれた。

     

     

    ひょんなことからいろんなことが実現したフランスでの個展の体験だったけれど

     

    ああ、私はこの言葉を聞くために

    ここに来たんだなあ、って心から思えたんだった。

     

    たぶんそれが

    私が一番必要としていたこと。

     

     

    そういう風に、「アート」や「アーティスト」が存在できる場所であるフランスは、本当に素敵なところだと思うし

    私も、こういう言葉を、ちゃんと誰かに伝えられる人間でいたいなあ、って強く強く思う。

     

     

    日本で「私はアーティストです」なんて言ったら、結構ドン引きされちゃうわけで

    いろいろアートを取り巻く状況は厳しく、そんな中でいろんなことに自信が持てずに来たけど

    心の中で自分を信じる、ってことはとても大切なことだということを、彼女たちが教えてくれた気がする。

    そして改めて、これまで自分がやってきたこと、これまでの自分の仕事にもちゃんと自信を持とうと思えるようになった。

     

    へこたれながら、ピンチになりながら

    でも

    きっと小さくはなんとかなるんでね? と思えればそれでいい感じで。

     

     

     

    ちょっとこれからの自分が、楽しみになりました。

     

     

     

     

    今日はこんな感じで。

     

    category:アートと暮らし en France | by:武蔵野婦人comments(6) | - | -

    フランスで2週間掃除せず、寝間着も洗わなかった。んで、日本の家事時間、英米の倍らしいのは何故なのか考えてみたよ

    2017.10.10 Tuesday 07:30
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      以前マンションの間取り等を決めるプロジェクトの助言役みたいのになって、ターゲット顧客へのアンケートで、掃除の頻度や掃除道具の収納場所などについて調査をしたことがある。

       

      戻ってきた答えみて、なんだかびっくりしたんだよね。

      7−8割近い人が「毎日掃除機をかける」と回答してきた。

       

      え、ほんと?

       

      みんな、そんなに毎日掃除機動かしているの?

       

       

       

      ま、確か6−7千万円代物件だったと思うので、家事もベテランとなった時間的余裕のあるファミリー層ってターゲットなのかもしれないけど。うーん。

       

      アンケートの罠というのはあって、設問に選択肢があれば、「そうしている」ことを選ぶようでいて、「そうありたい」もしくは「そうあるように努力している」回答を選んでしまうことは、よくある。

       

      毎日掃除機はかけたいですね。はい、○。(という自己理想)

       

      という人も含めて、多くの人が毎日掃除機をかけているという前提で、マンションの間取りや収納は考えられることになる。

       

       

       

      そういう意味では、家事には、「きちんとやるべき」という見えない呪縛のようなものが歴然と存在していて、手抜き(と判断されるもの)を「さぼり」や「ズボラ」と称して、誰かが見てるわけでもないのに自己懲罰したがる風潮があるような気がする。

       

      このところちょいネットで評判になった、これ。

      マイクロズボラ

       

       

      よく言ってくれた、心が軽くなった、私もよくやっちゃう。。。なんて声がネットで垣間見られてイイネボタンがたくさん押されていたけれど、私はこれを見て、なんだかぐったり泣きたくなっちゃった。

       

      これ、ズボラなの? たとえマイクロであっても。

       

      やらないほうがいい、と認識されているからこそ、やってもいいんだよ(ほっ、よかった)って声になるってことだよね。

      でも別にやっていいんだよ、なんて言われるまでもないことばかりで@私。

       

      そんで、なんで全部女性なんだろ。

      家の仕事のマイクロズボラは、みんな女性のカテゴリーのことなんか。

       

      チョコレートは男だって食べるしさ。男が塩を袋から直接使ってたっていいじゃん

      (ってか、それがズボラだということにさえ、私は気がつかなかった。何がいけないのかよくわからない)。

      ま、そんなこといちいちうるせーなと思う人もいるだろうから、この辺にしとく。

      (ロバート秋山は好きだから、これはCMそのものを批判しているわけじゃないよ。

      なんかこんな世界に住んでるんだなーってことに泣きたくなっただけ)。

       

       

       

      そんで、いまフランスにいて

      たぶん、この国でこの動画ほぼ意味不明だろうなあと思うわけですわ。

      ほんとよ、私にも意味不明だけど(笑)背景はちょっとわかったりする。

      でも、もう背景もわからんだろ、これわ。と思うわけです。

       

       

      私がよく講演で使うデータがあって、世界の主婦の家事時間ってやつなんだけど、それでいくと日本は1日4時間半ぐらいの家事時間なのに比べて、中国は2時間以下だし、アメリカやイギリスも2時間ちょいという結果が出て、とりあえず日本の主婦はそのあたりの人たちの2倍以上の時間、家事をしているということになるらしい。

       

      それ、なんでだろうなあとよく思うんだけど、

      ひとつにはこの「マイクロズボラ」に見られるような、自己懲罰的に自分で自分のハードル上げちゃって、用事を増やしているという部分と

       

      それともう一つ、やっぱり暮らしのシステムそのものが、家事を生み出す形になっているなあと思うことがたくさんある。

       

       

      一番実感するのは、床の違いだ。

       

      欧米でも、そのまま土足でドカドカ家に入らず、入り口で室内用の靴に履き替える人たちはたくさんいる。

      でも、アメリカは多くが絨毯敷きだし、フランスに至っては、もうもとの家が古い建物を使用しているから、床が石だったり古い板張りだったり、色もくすんでいて、埃もゴミもなんかもう、ぜんぜん目立たないから、「掃除しなくちゃスイッチ」がまったく入らないまま、毎日暮らしていける。

       

      私、今回この家に2週間暮らして、今日はじめてほうきをかけてちりとりでゴミ集めて捨てた。

      でも、ゴミほとんど集まらなかったよ。毎日朝から晩までここで過ごして2週間掃除しなかったけど、別になんの支障もないし、不快感もなかった。

      ここまで見事に「掃除しなくちゃスイッチ」と無縁の家の作りって、私はとっても好きなんだけど、日本だと不潔ってことになるんだろうか。

       

      ほんとにね、日本の過度に清潔な暮らしが家事を増やしているのは仕方ないことなんだろうと思う。

       

      日本の家は素足で暮らすし、さらにようわからんツルツルのフローリングが流行っちゃったので、この環境でリビングに隣接した日本間あたりで布団の上げ下ろしなんてしたら最後、朝掃除機をかけても、確実にまた夜には埃のダンスが鑑賞できる仕組みになっている。

       

      テレビ画面につく埃や、窓から入り込む埃とか。特にマンションの内装を構成している素材は、敢えて掃除を生み出す仕組みを作り出しているように見えて仕方ない。

      さらにそういう環境下で、「こうしてお手入れをすべき」という専門家があちこちで情報を提供してくるので(あれ、すまん。時々私もその役割をすることがある。謝っとく)、時には這いつくばって、綿棒でフローリングの溝にたまったほこりをきれいに取ることが推奨されたりする。(子供のアレルギーの原因になるんだから、責任重大! みたいな感じで。アンビリバボー)。

       

      なんかもう慣れちゃったからそんなもん、って思ってはいるけど、これ、素材を変えるだけで家事めっちゃ楽になるのになあ、って思うことはよくあるよ。

       

      うちは床をコルクタイルにした途端、埃のダンス消えたし。家具も古いアンティークもんにしたら、埃とか気にならない。

      もう機会はないかもだけど、いつか自由に家を作れたら、室内犬と一緒に室内ばきで暮らせて、ベランダや庭と直接つながっている、古いタイルや板張りのこっちの家みたいのを建てたいなとよく思う。だってそうじ楽だもん、そのほうが。

       

       

      あともうひとつ、これは不便だけど逆に楽だと思う、こっちのキッチンの排水口。あの変なバスケットみたいなやつ、フランスはついてない家のほうが多い。穴あるだけだよ。

       

       

      アメリカはディスポーザーだったけど、どちらにしても、あのどろーんとなりがちな排水バスケットというのは、実はなくてもなんとかなっちゃって、ゴミを排水に流さないような配慮とか、生ゴミの処理を楽にするとか、前向きに検討してくださった結果、逆にお手入れをする箇所を増やしてしまったのではないかとさえ、思う。

       

      そんで、講演でよく「2つバスケット買って交互に使えば、汚れなくなって楽ですよ」とお話しすると、必ず誰かが「それでは細かいゴミが流れてしまう。バスケットにネットを被せないといけない」と言って、本当に、細やかにいろんなことを考えて家事をしている方が多いんだなあと感心する。

       

      それ、すごく素敵なことだけど、でもやっぱりいろんな細やかな配慮が、家事の時間を増やしていることに変わりはないような気がする。(実際には細かな目のバスケットを選べば、ストッキングみたいなネットはかぶせなくても支障はないです、はい)。

       

       

      もいっこ、こっちはバスタブがないか、湯をためて使うことが少なくてシャワーだけってのも大きいし(風呂掃除って、ほんとなんの罰ゲームかって思う、これに慣れると)、湿度が低いから、洗濯物の頻度も少なくてぜんぜんオッケという背景もあるので、もう、暮らしの仕組みそのものが、日本は家事を多く必要としているんだなあ、と改めて思う。

      調理もね。(これは語り出すと長くなるし、また別の価値観カテゴリーなので今回はしない)。

       

      それで、もう一つ面白いことがあって、いまレジデンスをしている家に洗濯機がなく、下着類は自分でちょこまか洗っていたんだけど(手絞りでも部屋干しで一晩で乾く。楽チン)、厚手のトレーナー生地の寝巻きは、別に暑くて汗かくわけじゃないし、いけるところまで行こうかなーと思って、洗わずに着続けた。

       

      2週間目に、なんか困ったことない? って言われて

      そういえば寝間着洗ってもらっていい? って友人に頼んで洗ってもらった。

       

      でも、そういうもんだと思ってしまえば、それまで特に、不快感もなく、当たり前のように2週間着てなんともない自分に、ちょいびっくりしたのだった。

       

       

      私、日本だとほぼ毎日寝間着洗うから。(冬は続けて着ることもあるけど)。

       

      夏は汗をかいて不快な臭いがするから洗うけど、汗をかかない季節でも、汚れたから洗うというよりは、着たから洗う、という習慣で洗っている。

      下着もタオルもすべて、身につけたから、使ったから洗う。

      もうこれは習慣みたいになっているから、一人暮らしでも洗濯は頻繁にすることになる。

       

      でも別に洗わないって思えば、2週間同じ寝間着を着てたってなんも不便なかった。あれ、いいじゃん、これで。なんであんなに洗ってたんだろう。

       

       

      私の友人のジャーナリストの子が、子供がまだ小さい時にバックパッカーになってスペインを旅行したことを本に書いたことがあるんだけど、その時彼女も同じようなことを言っていた。

      1日になんども肌着を変え、毎日風呂に入れ、常に赤ちゃんは清潔にしていたけど、旅に出たら気がついたら風呂に入らない日も多く、同じ下着で数日暮らしていることもあり。

      それでも何も困ったことはなく、子供は元気で意外と風呂に入らなくても臭わず病気にもならず。なんだ、これでもいいんだ、日本で私は何をしていたんだろうって思ったって。

       

      こう言ってる私も日本に戻れば、絶対毎日寝間着は洗うし、馴染んだ家事を元どおりに続けるんだと思うんだけど、やっぱり場所が変わると、当たり前と思ってやっていたことが、ふとほどけて、違う風景に見えることがあって面白い。

       

      マイクロズボラしてもいいんだよ、って言われて楽になったという人が

       

      掃除なんて月に一度でいいくらいかも

      寝間着? 2週間以上着れるよ、まだまだいけそう

       

      と言われても、まあ、ぜんぜん楽にはならないんだろうと思うけど>笑

       

      その間のどこかに、「ここまではちゃんとやらないと」と思うゾーンみたいなものがあって、暮らし方そのものがそのゾーンを高めているのと同時に、その設定レベルが高い人が日本には多いのかもしれない。

      そんでも、なんか欧米の2倍の時間の家事を必要としてしまう暮らしの仕組みと気持ちの仕組みは、どこかで変えられることができるんじゃないかと。

      そんなことを考える今日なのでした。

       

      ちなみに男性の家事時間がアメリカやドイツイギリスが約1時間、日本は25分。25分!! 4分の1! なので、女性が2倍家事をして、男性が4分の1しか家事をしないという状況は、きちんとみんな考えたほうがいいんじゃないか、と私は思うわけです。世の中よく男性にシェアしようというけど、女性がもっとやらんでいいよ、ってどんどん手放していくことも大事だよ。違うかな。どう考えても家事の総量が多すぎないか、と海外に出るとほんとに思うから。

       

       

      あー、手をかけ時間をかけることに価値があるとか、家事はZENに通じる大切な営みだとか、ま、そういうものの見方もあるけど、私が取り上げているのはあくまでも、家族がいて毎日の家事が無限に生み出され続ける(そしてそれが少なからず苦痛と感じたり、夫婦間での不公平感につながってしまったりする状況にある)人たちにとっての、家事です。

      じっくりたくさん取り組みたい人は、もうどんどん取り組んで語ってもらっていいと思う。それを隣人への規範としなければ。

       

      そんな感じで。

       

      やっぱり長くなる。

      今日はこの辺で。

      category:アートと暮らし en France | by:武蔵野婦人comments(2) | - | -

      大きな願いがかなった時はぼんやりしてしまい、小さな願いがかなうほうがなんだかうれしいという不思議

      2017.10.04 Wednesday 06:19
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        現在、願いごと手帖の作り方の本の新版が出ることになり、その校正中です。

        10年目の新版! 

        ありがたいことであります。

         

        いろいろ手を入れたんですが、一番楽しかったのは、今回脳科学に基づいた願いごとがかなうメカニズムについて、取材させてもらって内容を盛り込んだこと。

        脳科学者の篠原菊紀センセに(以前別の仕事でちょろりとお話したとき、願いごと手帖のことすごく面白がってくださってとても示唆に富む指摘を頂いて、どうしても今回お話が聞きたかったのですー)いろいろ伺って、ほんとに楽しかった!!!

         

        内容は新版を見ていただくとして(出し惜しみ>笑)

         

         

        でも、人が持ってるメカニズムみたいな、神秘的な力みたいな

        とにかく、内側でいろいろ起きていることって、本当に面白いな! と思ったわけです。

         

         

        そのひとつの体験を、まさに先日したなあ、と思ったのでここに書くことにする。

         

         

        前の記事から書いていますが、現在フランスで個展を開いています。

         

        昨年、フランスでグループ展に数点出品させてもらうという体験はしたけれど

        個展を開くのは初めて。

        今回はレジデンスを目的としていたので、とにかく住む場所を変えて、その場にインスパイアされる形で何かまとまった作品作りをしたい、。。。。という当初の目的だったのですが、思いがけずそのまま、作った作品で展覧会を開けることになりました。

         

        小さく、小さく。積み重ねながら。

        いろんな人とのつながりを経て

         

        何かを強く強く願って目指したり

        ものすごーい努力をするというようなプロセスなしで

         

        でも

         

        心の中でしっかりと思い続けてきたことが

         

         

        なんだかふわりと

         

         

         

        かなってしまったという。

         

         

        あれ? いまかなっちゃってる?

        ほんとに?

        という感じで。

         

         

        それ、ちゃんと数年前に

        「フランスで個展を開く」

        と願いごと手帖には書いてあったわけで、願いごと手帖すごいな、万歳! なわけなんですが

        なんつか、こんな風にかなってしまっていいのかなああ。すごいなあ、ありがたいなあ。

         

        そしてさらに、貸してもらったアトリエが夢のようにすばらしい場所で、おしゃれでかわいくて。

        まわりでいろいろ尽力してくれたフランスの人たちもすばらしく親切でかわいくて、いい人で。

        展覧会でもちゃんと絵を買ってくださった方がいて、お話も楽しくて。

        なんだよう、こんな幸せでいいのかなあ、おれ。

         

        とそんな感じで、今とても楽しくて貴重な経験をしています。

        ありがたいよう。

         

         

         

         

        さて、そんな、まさに

        夢みていたことが夢のようにかなってしまった。。。。。。。。

         

         

         

         

        という時。

         

        人はなんか

         

         

        ぽかーん

         

         

         

        とするもんなんだなあ、ということを改めて思っているわけです。

         

        なんかね、ぜんぜん実感ないのね。

        ほか、ちょっとしたオファーも頂いていたりして、そういうあたりもぜんぜん実感ない。

         

         

        ほわーん

        ぽっかーん

         

         

        としている。

        で、なんかよるべない感じで、とらえどころのない気持ちで過ごしているのであります。

        こんなラッキーでしあわせなのに

        ぜんぜん実感なし。

        ぽかーん。

        ぽよーん。

         

         

         

         

        そんなほわーんとぽかーんとして個展の初日を過ごしたわけですが。

         

        週末だったので19時までギャラリーを開け。

        お客さんの波も引いてきて、制作と展示の疲れもあって、はあ、疲れたなあなんて思っていたとき。

        19時の教会の鐘が鳴ったわけですわ。

        ぼーん、ぼーん、と。

         

         

        その時のね。

        もう。

         

        えも言われぬ幸福感。

         

        「終わり終わり! 今日は終わりだー! ギャラリー閉めてごはん食べよっと」

         

         

        そんで、うきうきと鍵を閉めて電気を消して

        るんるん気分でキッチンに戻って冷蔵庫を開け

        わーい、何作ろうかなーって鼻歌を歌いながら

        もう幸せで幸せで。

         

        ビールをしゅぽっと開けて

        くいっと飲んで。

         

         

        はー、終わった終わった。疲れた疲れた。わーい、今日はもうおしまい!

         

        ってにこにこ言ってる自分を発見して

        なんか、はっとした。

        たぶん、この日の夜19時のギャラリーの鍵を閉めにスキップしていた時の自分って

        ここ数年の中でも、最上級に近い幸福感を感じていたんだと思うんです。

        そりゃもう、本当に幸せ100%という。

         

         

        フランスで個展開くって、ずっと夢だったことがかなったのに

        かなえたことをしている最中はずっとぽかーんとして実感ゼロで。

         

        せっかくかなえた夢の1日が終わって、冷蔵庫を覗いてるってことのほうが

        こんなに幸せって、一体なに??????

         

         

         

         

        それで、自分で書いた原稿のことを思いだした。

        人って、やっぱり幸せの予測システムみたいなものを積み重ねているんだなあ、と。

         

         

        ここでこうしたら、きっといいことがある。

        これがかなったら、こんな素敵な気分になる。

         

        そういう小さな「できた!』という成功体験を日々に積み重ねていくことで

        何かを成し遂げる前から快楽物質みたいなものが自分の中に準備万端になっていって

        幸福感って生まれてくるんだろうなあ、と。

         

         

        自分にとって、身に覚えがあって

        たくさん「幸せだー!」と体験を積み重ねてきたことのほうが

        ぼわーっと身体中に幸福感を湧き上がらせるんだなあ、って

        この日の小さな体験で、しみじみ思ったのでした。

         

        ずっと思い続けてきたとしても、これまで体験したことのないことは

        即座には心やからだに幸福感を呼び起こすことがなくって

        それはもっとあとから、じわりじわりとやってくるものなんだろうな、と思います。

        予測システムが、稼働していないというか。

         

         

        私にとっては、仕事が終わったー! とか

        冷蔵庫に何入ってるかなーとか、ビールのもっ! とか。

        そっちのほうが身近で、何度もなんども体験している分、幸福感を呼び起こしやすいんだなー、きっと。

        その意味では

        毎日、小さなことを喜んで、何度もなんども幸福感を味わっていくことは

        幸せでいるための大きな要素なんだろうと改めて思ったのでした。

         

         

         

        以前、篠原先生にお話を伺ったとき

         

        小さな幸福を積み重ねていくことの大切さと同時に

         

        でも、

        どこかで大きな願いも並行して持ち続けることも大事って言われて、

         

         

         

        その2つが

        今回の渡仏でしみじみと実感できたなあと思った体験でした。

         

        小さな幸せで自分に自信と満足感を蓄えていくと

        大きな願いに挑戦できるし

        夢がかなうような土壌を、自分と自分の周りに作り上げていってくれるのかもしれないです。

         

        これ、両方大事。

        なんか、せっかくの大きな夢も、ちゃんと幸福感を蓄えられずにいると

        かなったとたんに鈍化して、うれしさをちゃんと実感しないうちに

        もっとこうなればいいのにとか、もっとこうしたかったとか

        なんか人間ってどんどん強欲なことを考え出したりしちゃいそうで。

         

        だから、ビールうまいなあとか

        今日はあったかくていい日で、にこにこ過ごせてしあわせだったなあ、とか。

        そういう幸福感を忘れずに、やっていけたらいいな、と思うのでした。

         

         

        ってなことで、なぜか今日はですます調だ。

        なぜなんだ。

         

        ま、いいや。

         

        とりあえず、ぽかーんとしながら過ごしています。

        そして、ビールだビールだ、肉だ、バターだ、パンがうまい!

        という幸せに満ちた時間も積み重ねている今回の渡仏でした。

         

        またがんばるよー。

        次はかなえた夢に少し幸せの予測システムができて

        少しづつ前に進めるような気がする。

         

         

        そんな「願いごと手帖の作り方ー新版」は、11月30日の発売予定です。

        書店にはたぶん、今月末ぐらいから並ぶ。

        ありゃ、最後は宣伝かい。

         

        笑。

        個展、残り3日となりました。

        夢のような幸福を、ちゃんと幸福として実感して帰りたいと思います。

         

        それではおやすみなさい。

         

        category:アートと暮らし en France | by:武蔵野婦人comments(0) | - | -

        質問と意見がどんだけたくさん盛り込めるか、ということがどうやら大切らしいフランスでの会話について

        2017.10.02 Monday 00:53
        0

          以前どこかで書いたと思うのだけれど、東京でフランス語を習っている時に、映画が好きだと話したら

          「好きな監督は誰?」と聞かれ
           
          「アルモドバルが好きだ」と答えたら
          「彼の映画のどういうところが好きなのか」と言うので
          まだつたなかったフランス語で
          「んーっと、色彩がとても鮮やかなところ」と答え、これで話は終わりかと思ったら
          「鮮やかというけれど、日本にも色彩が鮮やかな監督はいるわ。例えば大島渚とか。
           あなたはアルモドバルの色彩について、どういう印象を持っているの」と食い下がられ
           
          うわー、うわー
          これは本当に困ったと思う一方で
           
          こういう食い下がり方をしてくる人が日本ではあまりいないので
          なんて楽しんだろう、とワクワクしたことを覚えている。

           
          それで今、フランスでありがたいことに個展を開かせてもらっていて
          さして大きな街ではないので、さほどお客さんが多いわけではないけれど
          それでも覗きに来てくれた人にお礼を言うと
          たいてい皆が何か話して帰っていってくれる。
           
          ーこれはあなたが創造したパーソナリティ? いいわね、あなたはこれを何年ぐらいモチーフにしているの?
          ーすごく繊細でデリケートな作風だけれど、どういう画材で描いているの?
          ーあなたはこれをこの街の気配だと言うけれど、なぜこの色を使ったの? そしてなぜ、これはこんなに力強いの?
          ーこっちには少し光が見える気がする。でもこちらはすごく暗い。この違いは何?
          ーこれが気に入ったから買おうと思うんだけど、あなたはこれをどの向きで置くつもりで作った?
          (いや、買ってくれるあなたが好きなように置いてくれていい、と言うと)
          ーあなたがどう置きたくて作ったのかを知りたいの。この向きね、わかった、そう置く。

           
          まず見てくれた人の解釈で、ありきたりではない(すごいわね、いいわね、素敵ねとかではなく)
          独自の解釈を言葉にしてくれて
           
          そして、そのあとに必ず質問がくっついてくる。なので、何かしら答えなくてはならない。
           
          ーそうですね、ここ4年ぐらいです(考えたこともなかった! たぶんそんくらいだろう)
          ー柿渋と墨と自然の土を使っていて(以下、作風についてはフランス語で説明できる準備が必要)
          ー丘の上のブドウ畑に立ったとき、この地のえもいわれぬ力強いエネルギーを感じたので(言われて初めてそう思った)
          ーそれは夕暮れと朝日のイメージを表現してみた(んだったかわからんけど、なんかそんな気がしてきた)
          ーこっち向きに置くつもりで作った(ってことを今初めて考えたよ)


           
          みたいな感じで、大抵答えを用意していないものが多いんだけど
          問われて初めて、自分の中での答え探しが始まって
          それが思いがけず、とても楽しい作業になるもんなのである。
           
          作品の意図を説明せよ、と言われて準備した自分の解説を延々と話すよりも
          予期せぬ質問をどんどん投げかけられるほうが、格段に自分の世界が外に広がっていく。
          この開け放たれ感というか、ちょっと苦難だけれどM的に喜びに満ちてくる感じが
          私の世代で東京で体験できる機会があまり多くないので、とても好きだ。
           
          ほいでも、なんでもかんでもすぐ答えられるわけではないので
          うーん、と返答に詰まることもある。
          沈黙で会話が途切れるとちょっと気詰まりな雰囲気になってしまうので
          そう言う時は、
           
          「それはちょっと答えるのに難しい質問だ、だから考えさせて」と前置きして
          「あなたはどう思うの?」
          とまた質問を返していけば
          とりあえず会話は詰まらずにつながっていくことになる。

           
          絵巻物がなんだか人気です。
           
          その
          「とにかく質問」

           
          っていうのが、私がフランス語の会話をフランスで習い始めた時に、最初に言われたことだった。

           
          もう、なんでもいいの
          なんか聞け、と。

           
          とりあえず、なんか言われたら、はいと言って答えるだけじゃなくて
          相手にも必ず質問を返せ、と。
           
          そうじゃないと、そこで会話は終わってしまうし
          質問が戻らなければ、あなたはこの話題に興味があまりなかったと判断されて
          相手はどんどん次の話題に移っていってしまうから
          フランス人と話すときはとにかく質問をしなさい、そうすれば会話が続くから、と。
           
          もう、口を酸っぱくして言われ続けたのだった。

           
          ーなんでそう思ったの?
          ーそれのどこが好き?
          ー今起きているこのことについて、どう思う?
          ー日本ではこれについてどういう意見がある?

           
          質問を投げかけ続ける。
           
          これは、最初は全く慣れない作業で戸惑ったけれど
          ちょっとコツがわかってくれば、質問をするというのは
          コミュニケーションの上でも
          また、質問されることで呼び出される自分の新たな面に気づくという意味でも
          とても意味があることなんだ、ということがわかってきたように思う。

           
          ということで、こちらで展覧会をしていたら
          いろんな解釈の言葉をもらって楽しかったし
          思いもかけない質問もたくさん飛びだして、すごくうれしかった。
           
          なんつーか。
           
          日本では自分を意見をガンガン言う女とか>笑
          当たり障りのない範囲を逸脱したことを話し出す女とか>笑
           
          たいてい敬遠されるということを経験上知っている(ような気になっている)ので
          そういうスイッチをなるべく入れないようにしているんだなあと自分で気づいたりもした。
          (ほんで、時々こういうブログに書きなぐったりするのだ、好き勝手な意見を)。

           
          ここ数日で
          Fukushimaの現状であるとか、日本文化もかなり難しい局面にあるんじゃないの? とか
          日本の右傾化などについてもよく質問された。
           
          ほんで昨日は作品の話から流れ出して、日本は過去2回も原爆の被害に遭っている上に
          福島の事故もある国なのに、原発の抑止が進まないことについても意見を求められた。
           
          東京の急速な都市化についてとか、一方でフランスでもパリ市街が拡大して景観が崩れていることとか
          海洋のプラスチック問題とか

           
          私のようなつたないフランス語でも、「話さなくていけない」のではなく
          「話したくて仕方がない」質問がどんどん投げかけられれば、身を乗り出して話したくなる。
          そんな会話のキャッチボールみたいなもんが、フランスでの会話の面白さなんだと思う。
           
          日本で普段私がしている会話とは、これはかなり違っていて
          日本語では当たり障りのない会話、みたいなものに多くの時間を割いているような気がするので>笑
          こちらでは下手くそなフランス語でも、話すのは、かなり楽しい。

           
          ただ、やっぱりその会話を楽しむためには
          何かしら投げ返せる意見を持っていないといけない気がする。

           
          なんだろう。
           
          日本だと、雑学とか情報とか、いろんなことを知っていたり、いろんな体験談みたいなものを話せるのが重宝で
          聞き役は上手にウンウン、と聞いて相槌を打てる人が重宝がられるけど
          (さすがですね、知りませんでした、すごい!、センスいいですね、そうなんですかー! のさしすせそ技術みたいな>笑)
           
          とにかく質問され続けるので
          何かしら自分の意見を言わないと先に進まないことになり
          知識や体験も大事だけど、「こう思う」みたいな解釈がすごく求められる場面が多いのが
          日本での会話との違いかなー、と、まあ、ほんとつたないフランス語体験なんだけど
          私はそう思うことが多い。

           
          こっちで、
          あーそうなんだ、うんうん、へー、すごいね。わあ、すてき。
          なんてことばかり言ってたら
          まあ、たいていすぐつまんねーと話を振ってもらえなくなるから>笑

           
          地元の新聞のジャーナリストさんの取材。こちらの質問は早口すぎてほぼお手上げ>笑

           
          前にブルゴーニュに滞在していた時
          何度か私を面倒みてくれたクロディーンは
          「いづみと話すのは楽しい」とよく言ってくれた。
          話すというか、フランス語だとdiscuter 議論するという意味だけど。
           
          日本の少子化問題についてとか、農産物の話とか、なんかしら投げかけられたら
          もうなんでもいいから知ってる単語つなぎあわせて前のめりに喋りたくなる。
          どうでもいいような日常の話題でも、私はこう思うんだけど、ってどんどん話していいんだとわかったら
          意見を言うのが楽しくて仕方ない。

          日常ではどこかで、こんな意見を持っているなんてやっかいだ思われないかとか
          難しい、面倒な女だと思われないかみたいなことが気になって
          かなりの部分をオブラートにつつんでいるんだと思う>笑


           
          やっかいなことを話せば話すほど面白がられるというのは、なんと楽しいんじゃろう!!



           
          先日のことだけれど、彼女のところに来ていた生徒さんが
          様々な場所で
          「何をしているの?」と聞かれて(これはものすごくよく聞かれる)
          主婦です、と答えたのだそうだ。
           
          相手の多くが「??」という反応をした。
          Femme au foyer って何?
          意味がわからないんだけど。。。。。。。

           
          そして、そこで会話は終わってしまうことが多く
          その生徒さんはしばらく、なんだか落ち込んでしまった。
          主婦って言うと、なんだかつまんないと思われるみたいなんです、と。
           
          フランスでは多くの女性が働いているから、主婦と言われても次に投げかける質問が思い浮かばない。
          なんでもいいから、前にしていた仕事を答えたらいいよ、
          今は主婦をしていますが、前は銀行で働いていましたとか
          もうなんでもいいから話せば、会話がつながるから、と話した。
           
          えー、でもそれ、もう何年も前のことだから話したらおかしいです、というので
           
          いいんだよ、だってそれがあなたなんだから、昔の仕事を話したって構わないよ。
          あとは別に仕事でなくてもいい、ボランティアとかでもいいから地域でこんな活動をしているとか
          今は家の改装に専念しているとか、とにかく自分を説明できることをなんか言えば
          それで相手はあなたを知るとっかかりができて、そこから質問ができるから、と。
          そんな風にアドバイスしてみたのだけれど。

           
          でも、なかなかコツがつかめずに
          なぜ? と聞かれて反射的に理由を言うという習慣がなくて
          なんとなくそうしたい、とか、わからないけど好きとか、そういう答えになってしまって会話がつながらず困っていた。

          家族以外の人間に、即座に自分の意見を返す。
          それ、特に日本で専業主婦を長くやっていると、後退していく技能なのかもしれないなあ、なんて思ったりもした。

           
          何に属しているか、という答えが必要とされて
          それを聞いたら安心するという文化と
           
          何をしているか、という答えが必要とされて
          それを聞いたら次の質問が思い浮かんで会話がつながっていくという文化と
           
          パーソナリティのありかは会話のあり方でも違ってくるんだなあ、なんて思うこのごろだったりする。


           
          別にフランスが良くて日本が良くないなんてことが言いたいんじゃなくて
          (だってフランス人めんどくさいし、頑固でエゴイストだし>笑 会話もしんどいことも多い)

           
          コミュニケーションのあり方ひとつでも
          お国柄があって面白いなーって思う。
           
          そんで、たまにいつも自分が埋没している形のようなものを抜け出して
          別のスタイルの中に身を置いてみると
          いろんな発見やワクワクがあって、新たな自分の側面が見えて、すごく面白いなと思う。

           
          ということで、質問文化の中で
          面白い体験をしています。

           
          さきほど作品がひとつ、売れました。

           
          たくさん質問されて、たくさん答えて、そんなやりとりの中で売れていくというのは
          なんと幸せなことなんだー、とすごく思っています。

           
          ありがたいです。
          category:アートと暮らし en France | by:武蔵野婦人comments(0) | - | -

          子供の頃アートをどう習ったんだっけ? と改めて考えてみている件

          2017.09.28 Thursday 06:46
          0

            フランスで1週間ぐらい制作して発表して帰る。

            そう思ってきたんだけど、思いがけず展示の開始日が土曜日となり。

            金曜日の午後から展示の準備があってプレ来客もあるというので、気がついたら制作日が3日半っていう、もうなにそれってぐらい突貫工事の展覧会に向けてなんか作ってます。

             

            無理だろうと思うけど

            まあ、なんとかなっちゃうことを信じて。

             

            そんな最中に、ちょっと考えることがあったので書いてみることにする。

            (試験の前にまんが読み出したりしちゃうという、あれですな)

             

             

             

            先週Montbardで数日過ごしていたとき

            私が何度か語学の先生をお願いしていたクロディーンと話していて、こんなことを言われた。

             

            いづみ、日本の人はなぜ、答えのないものに答えるのが不得意なのかしら。

            フランス語の勉強をするのに、私はよくいろんなシーンを描いたイラストを使うのよ。

            外で男女が話しているとか、その横でペンキを塗っている人がいるとか、その類のもの。

            で、それを見て、このシーンを説明してというと

            日本人の多くの人は固まってしまう。

             

            この男女は夫婦ですか?

            それとも友達ですか?

            ここはレストラン? それとも誰かの家?

             

            そんな風に答えを欲しがるの。

            でもこのイラストには答えはないので、もうあなたの好きなように想像して答えていいのよと言うんだけど

            小さなヒントからそれぞれにイメージを広げて行くのが、不得意な人が多いなあと感じる。

            フランス人やアメリカ人とか、もうそれは好き勝手に話し出すわよ。

            この二人は不倫中で隠れてバカンスにやってきたんだけど云々、、、、って>笑

             

             

             

             

            あああ、もうね。

            なんかそれ、私もそうだったからわかる気がするね。

            私もその絵見せられたことあるもの。

            で、あまりにヒントが少なすぎて、どう説明していいかわからなかった。

            これだけの情景で、説明できるわけないじゃん! と思ったけど

            勝手にどんどん解釈して自分でストーリーを作っちゃえばよかったんだな。あれは。

             

             

            ま、その話は横に置いておいて。

             

             

             

            今年もブルゴーニュの小さな街で開催されている催しにいくつか行って

            またいつものような感想を持った。

             

            アートが本当に自由。

             

             

            まあ、パリの有名ギャラリーとかなら別だろうけど

            ほぼ、誰も立派な額になんて絵を入れていない。

            展示の仕方が本当にユニークで、すごく参考になる。

            クリップで止めただけの人。映写用のスクリーンにつけている人、スチロールに貼ってるだけの人、ただピンで止めただけの人。

             

            画布や素材も、かなり独特で安上がりなものを使っている人も多い。

            そして、題材が本当に多種多様で面白い。

             

            とにかく一番うれしいのは

             

            風景画と静物画と花の絵とか人物画 が一切ないことだ!!!!

            (ふんがっ!!!!)

            (もう、日本だとあれなんで? いや、いんだけどさ、描きたい気持ちが大切だから。でも、ほんと、フランスであの手の絵に遭遇したことない。これは本当に不思議だ。技術じゃなくて創造性と個性のほうが重視されると、この手の絵は減っていくのかもしれない)

             

            そんでもいっこすがすがしいのは

            誰もプロフィールなんてずらずら書いたものを展示していないってことだ。

            作家名だけ。

            いいじゃん、それで。

             

            日本だと、作品を見るだけでは評価しずらくて

            プロフィールや経歴で判断してはじめて、作品の価値が見えて来るってことなんだと思う。

            ブランドというか。自分以外の誰かが評価してくれているものに、安心するというか。

            ま、私もそういうところはあるから偉そうなことは言えない。

             

             

            展示を見るSemurに住むお友達。

             

             

            今回見たのは小さな町の公会堂みたいなところでやっているアートの展示だけど

            クオリティは高いし

            そして何より

            見に来た人たちが本当にそれぞれに、作品について延々と語ったり批評しあっているのが楽しかった。

             

            私はこちらの友達と、そしてクロディーンと一緒に2回行ったけど

            都度呼び止められて「あれ見た? あれいいよ」「これはおもしろいでしょ」と声をかけられる。

             

            「私はこの写真が一番好きよ。これは見ていったほうがいい。ものすごく力強い。この人、ウクライナから来た写真家よ」

             

            そう言われて見に行った写真が素晴らしくて、同行のクロディーンに今の人は? と効いたら

             

            「あ、彼女はいづみもよく知ってる、ビオのマルシェで野菜を売ってる人の奥さん」

            と言われた。

             

            そのあと、声をかけられてまた、いい作品があるよと言っていったのは

            郵便配達のおばちゃんだった。

             

            そして、このぺらっとしたもんが、300ユーロ? みたいなもんが

            親戚でも友達でもない人に、ちゃんと買われていくということも知った。

             

            日本では、なかなかこういうことには遭遇しないなあと思う。

             

            それで、その展示の一部屋では、子供達が先生と作家と一緒に、インスタレーションを見ながら授業をしていたんだけど

            そのインスタレーションっていうのがさ、もう、学園祭の出し物みたいなちょいチープな代物で。

            どうやっても、これを前に何を語るのだろうと思っていたら、

            ずらずらとぶらさがっているおばけみたいなモチーフの一つ一つを

            「あれはなんだと思う?」と子供たちに答えさせているのだった。

             

            あれはマスク

            あれは人の顔

            あれは動物かも

            あれは影?

             

            そしてそのすべてが正解で、とにかく一番大事なのは、見たものに対して自分の感じたこと、解釈、意見を言うことなのだ、ということらしい。

            フランスではどんな美術館でもたいてい子供達が床に座って先生と絵を見に来ていて、延々と長い時間、先生が説明もしているけど、子供達もなんだか勝手に意見を言っている。

             

             

            それで思い出そうとしたんだけど

            私たちは学校で、いったいどんな美術教育を受けていたんだっけなあ。

            ゴッホがアルルの家で描いたゴーギャンの椅子を見て

            どんな気持ちだったんだろうと考えたりとか、その絵を見て自分がどんな気持ちになるとか

            そんなことをだらだらじっくり、話したりしたこととか、あまりないような気もするけど、実際はどうなんだろう。

            忘れちゃった。

             

            たとえそれが有名な人の作品でなくても

            自分が好きだなと思ったものの前で、自分なりの解釈をして意見を言い合い、作家がいれば制作の意図や技法を聞き

            ああ、そりゃいいねと思えば作品を買う。

            日本でなかなかそういうことが起こらないのは、やっぱり「答えのないものに自分の解釈をつけていく」ということに対する訓練が、圧倒的に足りないせいなのかもしれない、とも思ってみたりする。今はどうなの?

             

             

             

             

            物事には、答えが必要なものと

            答えがなくていいものがあって。

             

            私が受けてきた教育は、答えがなくていいものにも答えが用意されていたり

            それぞれが独自の解釈をしたときに、それを面白がったり、批判しあったりする土壌があまりなかったなあ、とも思う。

             

            批判(クリティーク)というのは相手を否定することでよくないことで

            それぞれが自分なりに正しい答えを持っている状態で、意見のやりとりをするという訓練があまりできていないんだと思う。

             

             

             

            それで思いだしたけど

            私が小学生の時

             

            もう原型は忘れてしまったけれど、誰かの俳句を読んで、それがどういう風景を表しているのかと先生が問うたことがある。

            私はその俳句を読んだら

            雨上がりの風景がぱーっと目の前に浮かんできて、手をあげて

            「雨が上がって日の光が差してきて、その時大きな木の下にいたら風が吹いて、一斉に葉っぱの水が落ちてきて。その水が太陽の光を反射してきらきら光って、宝石が落ちてきたみたいにきれいに見えた」

            と答えた。

             

            そしたら、先生は

             

            「は? なんですか、それは。ぜんぜん違います」

             

            と言って、他の人が答えた

            「木の下で木漏れ日がゆれている」という答えに

             

            「それが正解です」 と言った。

             

             

            私はずっと釈然としなくって、

            たぶん、それが正解なのかもしれないけど

            私はその時、その美しい風景が確かに見えて、それはとっても素敵じゃないかと思ったのだった。

            その自分のイメージの美しさを、「ぜんぜん違います」と言われたことに、なんだか腹がたつような傷ついたような不思議な思いをしたこと、今でも覚えてる。

             

             

            あ、大学の時のこんな話もある。単位をとるために短大の図書館学の授業を一コマとったら、病院でのいわゆる感動もののドキュメンタリー作品みたいなものを見せられて、それで教室中で女子大生がぐずぐずと感動して泣き出すという場面があった。

            んで、感想を聞かれたので正直に

            「これはどこまでがノンフィクションで、どこの部分が再構成なんですか?」と聞いたら

            教授もまわりの学生もびっくりした顔をして

            「そんなことをこれまで言った学生はいない。君には物事に感動するという心はないのか」と言われてびっくらいこいた。

             

            いや、だって、主人公のおばあちゃん、俳優さんでしょ? 最後死んじゃったし、台詞回しが役者さん。

            でも介護してた子は障がい者で、役者さんには見えなかった。

            このエピソードに関して、誰が本物で誰が配役なの?

            そういうことも勘案せずに、感動ものにはただ泣けと?

            批判したわけでもなんでもないのに、なんで怒られるんだか。

             

             

            なんかいろいろわかんない。

             

            たぶん作者は雨あがりの風景を描いたのではないと思うけれど、

            そういう解釈もあるんだね、美しい風景をイメージしたね。

             

            ドキュメンタリーの手法として、この方法がどういう効果を生むのかを一緒に考えてみよう。

             

             

            そういう風に語り合えたらよかったのになーって思う。

             

             

            とりとめなくなっちゃったけど。

            最後に。

             

             

             

            私が書いた原稿がさ、

            どっかの大学の入学試験に使われたのよ。

            それがその後送られてきて。

             

            「作者は下線の部分で、何を言いたかったのでしょう」 って設問になってて

             

             

            え? エ?

            私この部分でなんか言いたかったことなんてあったの? って思って答えを見て

             

            へー。

            私こんなことを言いたかったんだ、とびっくりしたよ。

            本人考えてもないことが書いてあった。

             

             

            「正解」なんてそんなもん。

             

             

            たった一つの答えなんて、あるわけがないんじゃないのかな。

             

             

             

            アートは想像力を広げてくれるもの。

            日本でその教育時間がどんどん減っているというのは

            とてもとても、寂しいことだと思う。

             

            フランスに来ると、さらに、そう思う。

             

            あー、でもね、と追記。

             

             

            若い世代は自由にアートを楽しんでるなあとほんとによく思うの。

            そういう空気、どんどん広げていってほしいなと思う。

             

            窮屈にしているのは私たちの世代。

            想像力がない人たちが動かしている大人の世界。

            未来は素敵でありますように。

            category:アートと暮らし en France | by:武蔵野婦人comments(0) | - | -

            フランスで「こけし」の説明をしたらなんだか大変なことになってしまったお話

            2017.09.26 Tuesday 15:15
            0

              フランスにアートレジデンスに来ています。

              なんでそうなったんかというあたりは長くなるのでまた改めて。

               

              それで、こないだこっちのアーティストさんたちとごはん食べてたときにした話について、書く。

              「こけし」がテーマ。

               

              レジデンスするアトリエを借りる前日にJoignyというパリから1時間ほどの街に到着して

              こちらに住んでいるフランスの友人の家に1泊させてもらいました。

              彼女はパリから移り住んできた脚本家&画家の女性。私よりずっと若くてとってもきれいで、ほんまええ子なんよ。

              (突然関西弁)。

               

              彼女の家には、ポーランドからやってきた写真家の、これまたかっこいい女の子が

              この街に住めないかと家と仕事を探すために一時的に滞在していて、朝おしゃべりをしていて、こんな話になった。

               

              私が日本から持参した、七福神の絵が描いてある九谷のぐい飲みを、前の夜にそれぞれの人にあげたんだけど

              それがすごく気に入ったからここに飾った! とクレールが言う(画家の女の子)。

               

              ーうん! 私も! ほんとうれしいよ、ありがとう、とウルスラ(ポーランドの写真家の子)も言う。

               

              すると、その横に日本のとても古い小さなこけし人形が飾ってあって

              そういえば、とウルスラが話し出した。

               

              ーそれって、やっぱり日本のものでしょう?

               私前に友達にもらっんだ。

               それは身を守ってくれる幸福のお守りなのよね? だから片時も離さず持ち歩いているんだけど。

               

               

               

              あれ、こけしってそうだっけ?

               

               

              なんか適当にうなずいておけばよかったんだけど

              ついつい調子に乗ってこんなことを言ってしまった。

               

              あー、そうだね。でも日本では持ち歩くお守りというのではないかも。。。。。。。

               

              ーえ、じゃあどういうものなの?

               

              「こけし」というのは日本語で「消えた子供」という意味にもなるんだよ

               

              ーえ!?

               (一同蒼ざめる)

               

              いやいや、いろんな解釈があるんだけどね。ただ、昔日本の農村はとっても貧しくて、子供が生まれてしまっても育てられないということも多くて、やむなく生まれたばかりの子供を処分したりもしたの。その時、その子供の代わりにこけしを飾ったという人もいる。

               

              ー!!!! じゃあ、これは死んだ子供の身代わりなの?

               

              ここで家主のクレールが、あわてて飾り棚からこけしをどけて、ウルスラに返しながら

              ー前にも言ったけど、私これ、好きじゃなかったの。だからこれはもう置きたくない。あなたが持っていって。

               

              ウルスラも震えながら

              ーなんてことなの! 私はこれは私の身を守ってくれると言われたから、世界を旅していたここ2年の間、ひと時も離さずに身につけて、寝るときは寝室に飾って、ずっと持ち歩いていたの。幸福のシンボルと思っていたものが、殺された子供の身代わりだったの?

               

               

               

              もう、私はすごく慌ててしまって、なんとか話を元に戻そうとこう言った。

              いやいや、民俗学としてそういう解釈もあるっていうことで、こけしは日本の多くの観光地で作られて売られているし、たくさんの人が買って飾ってるよ。

               

              ー待って。どうして殺した子供の代わりに人形を飾るの?

               

              えっと、その子が家を守ってくれると考えたんだと思う(しどろもどろ)

               

              ーなぜ殺した子が家を守るの????

               

              ひえー。

              ちょっと待って。ちゃんとした由来を説明するから。。。。。

               

              、、、とあわててwikiを出して、フランス語での説明を試みる。

               

              あくまでもそういう解釈があるってことで、本来は神様が降りてくる場所だったり、子供のおもちゃだったり、とにかく日本の地方でよく作られているんだってばー。

               

               

               

               

              がしかし、時はすでに遅く。

               

              ウルスラはこけしを手のひらの中に収めながら、何やらすごく深刻な状態になってしまった。

              私は一生懸命、大切な人にもらったお守りとして持っていればいいと言ったけど

               

              ーでも、この人形にはダブルミーニングがあるってことよね

               

              というので、

              うーん。でも日本人はそんなことは今は気にしていないし、あくまでも昔の話で、そういう人もいるってぐらいのことで。。。。

               

              といっても全然だめぽ。

              困ったな。申し訳ない。変なこと言っちゃって。ごめんねー。

               

               

              私はひたすら謝っていたんだけど、

              彼女がそこで深く物思いにふけってしまったのには、どうやら別の理由があったようだった。

               

              しばらく彼女はクレールと早口のフランス語で何か話し続けていて、小さな声で早く話されるフランス語が聞き取れない私は、申し訳ない気持ちいっぱいで佇んでいたんだけど。

              それからおもむろに、私に向けてわかりやすく説明をはじめた。

               

               

              彼女が住んでいたポーランドでは、さまざまは歴史の繰り返しがあって

              先日彼女の家のすぐそばで、無縁仏(という表現かどうかわからないけど、とにかく身元不詳の人たちがまとめて埋葬されている場所)のお墓がみつかったのだそうだ。

              そこには誰のものかもうわからない骨が混じり合っていたので、DNA鑑定が行われることになった。

              そこで、そのうちのひとつが、血縁としては彼女の叔父にあたるものであることが判明して、その子は生まれてすぐに亡くなっていることがわかった。でも、そのことについて、彼女の身内は誰一人知らされていなかったし、生まれてすぐに死んだ子供がいるということが、その時はじめてわかったのだそうだ。

               

              彼女の身内は、その生まれてすぐ亡くなった子供のためのお葬式を、つい先日済ませたばかりだ、と。

               

               

              ーこのこけしは、私たちがその死んだ子供のことを知る前に、私の手元に来たの。

               それからずっと、私はこの人形と一緒に旅を続けてきた。この子はずっと私と一緒にいたんだよ。

               この間、私たちはお葬式をして、誰にも知られずに死んでしまった小さな子供を見送った。

               

               今日ここに、日本からいづみが来て、その話を聞いて

               なんだかすべてがつながっているんだと思った。

               

               この人形は、きっと私たちのその小さな子どもの代わりに、私の手元に来てその存在を教えてくれて

               旅の間私を守ってくれた。でも、お葬式を済ませて私たちがその子を見送ることができたから

               これはもう、私が手放していいということなんだと思う。

               

              え? え? そうかな。そうなのかな。

               

              ーいづみ、あなたの国では、死んだ人をどうやってとむらうの?

               

              えっと、焼いて埋める。

               

              ー埋めるのね?

               

              あー、うん、埋める(もう説明がうまくできない)

               

              その日、私は朝食を食べたら家の裏にあるぶどう畑の丘に登って、制作の足しになるような写真とか石ころとかを集めて歩く予定だった。ウルスラは家で仕事をしているから、いつでも寄っていいよと言ってくれていたんだけど

               

              ー私、今日の予定を変えることにした。

               これからいづみと一緒に、ぶどう畑の丘に登る。そして、この人形を埋めておとむらいをする。

               ちょっと待ってて、すぐ着替えてくるから!

               

               

               

              あー、えっと。うーんと。

              ごめんごめん、変なこと言っちゃってごめん。

              持っていても大丈夫なんだよ、不吉なものじゃぜんぜんないんだよ。

               

               

              ー違うのよ、今、私はいづみに心から感謝してるの。

               その話を教えてもらって。

               私にとって、今の話はものすごく大切なことで、とても心を打たれたし、こうすることが私にとても重要なの。

               

               

               

               

              ということで、私たちは丘に登り

              森の中の古い古い2つの木に挟まれた場所に穴を掘って

              日本の古い、小さなこけしを埋めた。

               

              ー日本では、お墓をお参りするときに何を飾るの?

               

              というので、花を飾って、お墓には水をかけて清めたりする、と話したので

              彼女はこけしにたくさんの花をもたせて、ペットボトルに入れた水を最後に墓石に見立てた石の上にかけて、お祈りをした。

               

              ポーランドのやり方と

              日本のやり方で。

               

               

              彼女は祈りの言葉を唱えたけど

              日本では手を合わせて、声は出さずに心の中で思いを伝えるんだ、と話したら

              じっと手を合わせて目をつむっていた。

               

               

               

              なんだろう。

              私、悪いことをしたのか

              いいことをしたのか

              よくわからなくなってしまったけれど

               

              これはこれで、

              なんだか不思議な体験だったんじゃないかなあと思う。

               

               

               

               

              それから彼女はぶどう畑の真ん中で、丘の上から街を見下ろしながら

              しばらく座禅を組んで瞑想をしてから帰るといって、その場に残った。

               

              戻って来た彼女と、クレールと、クレールの男友達が加わって昼食をすることになり

              話は当然、そのことになり

               

              どうやら彼女は、その帰り道で誰からのものともわからない携帯のメッセージ入り続けて

              すごく怖い思いをしたらしい。怪奇現象というか、霊障というか。わかんないけど、そんなものじゃないかと思っているようで

               

               

              その彼女に対して、加わった男友達が一生懸命アドバイスをしているのも、また不思議な体験だった。

               

              おかしな状態になった時には、大きな声で「ストップ!」と叫ぶのも効果がある、とか。

              仏教では声明を唱えるとか

              そして突然 南妙法蓮華経 を唱えだすとか

               

              とにかくもう、いろいろ面白い。

              というか、こちらの割と知的な人たちは、たぶん、私たちよりずっとよく

              仏教とか禅について知っているし

               

              レイキとかホメオパシーとか

              日本では、勘弁して、胡散臭いと思うような内容のことも(ごめんなさい)

              とても真剣に取り組んでやっている。

              ほんと、面白い。

               

               

              で、やっぱりフランスでも、ちょっとおかしなことがあったら

              塩を撒くんだそうです。

               

              日本だけかと思ってたけど。

               

              肩越しに塩を撒く。

              おばあちゃんちでもよくやってた、って言ってたよ。

               

               

               

               

               

               

              最終的に、ウルスラはミントの葉を両手に握って

              木の下で瞑想していました。

               

              いづみは大丈夫? って言われたけど

              私は何事もなく、大丈夫です。

               

              という、こけしから始まるお話でした。

               

              category:アートと暮らし en France | by:武蔵野婦人comments(0) | - | -

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