「とりあえず今日は昨日と同じ日でいて」ー怒るにはエネルギーが必要だったことを知る朝

2017.06.15 Thursday 11:12
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    共謀罪が参院選で通った昨日。

    怒りや不安に向き合うには、ある程度のエネルギーが必要なのだと知った。

     

    前回このブログを更新してから、なんと6ヶ月以上経過してた。

    最後の記事がなんだか後ろ向きな内容だったから、そのまま放置されていたことになり

    それでもその間、こんなブログを取り上げてくれる方もいたりして、アクセスが急に3万4万と跳ね上がる日もあったりで、いろいろ不思議な体験をした。(遡って読んでいただいた方もいらして、ほんとありがとうございます)。

     

    最後に仕事の嘆きみたいのを書いたことで、仕事依頼のメールに

    「ブログにあるようなことがないよう、誠心誠意進めてまいります」という文言を入れてくれた方もいて

    ああ、これは申し訳ない、早くもっと明るい記事に書き換えなくてはあかん、、、、、、

    と思っていたのが1ヶ月前ぐらい。

     

    それでも放置されていたのは、このところの私の状態が、別のところにエネルギーを持っていかれることで

    ポジティブにもネガティブにもなれずにいたからだった。

     

    別のところって何かっていうと

    それ

     

    介護問題。

     

     

    ある日突然、85歳の父が脳梗塞で倒れ、

    集中治療室ののち、ああ、これはもう身体能力の回復なく施設入所か、、、

    と奔走したのち、現代医学のありがたい(というか恐ろしいほどの)恩恵に預かり復活〜!

    したのはいいけれど、いろんな家庭事情のために、まあ書くのも疲れるから書かないけどほんまいろいろあって

    結果的に81歳の母にはキャパオーバーな状態の手のかかるじいさんが実家でいろいろやらかしている。。。。

     

     

    という数ヶ月だったからなのだった。

    っていうか、現在進行形だけれど。

     

     

     

    そこで、介護にまつわる世界の入り口を垣間見た。

    それはまた、機会があったら書く。

     

     

    それでも改めて思ったのは、一番最初に書いたことなのだった。

     

     

     

    怒りや不安に向き合うには、ある程度のエネルギーが必要なのだな、ということ。

    ポジティブでいるのにもエネルギーが必要だけれど、私にとっては怒るという行為のほうが

    よりエネルギーを必要としているような気がする。得意ではない。

     

    それで、体と頭と心からエネルギーがもう、必死なところに向いている時、

    私は何をしていたかというと、ひたすら無心になっていた。

    外からやってくることがあまりに理不尽であったり、想像の斜め上を行っていたり、未来が見えない時

     

    その時々で怒ったり嘆いたり意見したり、喜んだり希望を持ったり、、、なんてことを繰り返していたら

    確実に自分のメンタルバランスが壊れるので

    じゃあ、何をするかというと、無心になるのである。

    なんつか、自分を守るために、感性の何かが麻痺するんだ、ということを知った。

     

    そこでひたすら、ただ願っていたのは、ただひとつ、これ。

     

    「とりあえず今日は昨日と同じ日でいて」

     

     

    明日が同じである確証がない(なぜって、自分の努力や意思とまったく関係ない場所から、理不尽な状況が飛んでくるからだ)

    半年後、1年後なんて何の話だ。

    5年、10年の構想なんてなんの役にも立たない。

     

    だから、とりあえず今日は、昨日と同じに過ごしたい。

    明日のことは、また明日、同じように昨日と同じ今日と考えて過ごしたい。

     

    あんなに大好きだった旅や、海外滞在の予定を立てることも

    3ヶ月先が見えないと勝手に頭が働いて、考えることをやめてしまう。

     

    そして今朝、頭の中心が痺れて麻痺したような状態で、自分のしたことに愕然としたのだった。

    共謀罪参院通過のニュースを流すテレビのチャンネルを、黙って変えた。

    一色になっているツィッターの画面を、閉じた。

     

    なぜって、それは私の心をざわつかせ、不安にさせ、怒りを噴出させるから。

    ほんとはいけないこととわかっているけど、敢えて書けば

    とりあえず私は、今日は昨日と同じ日が送れるはずだから、不安や怒りから自由でいさせて。

    いつも通り、過ごさせて。

     

    旅行の予定をわくわく考えるようなエネルギーも

    理不尽なことに怒りや不安をおぼえるエネルギーも

     

    この数ヶ月ですっかりなくなってた。

    怒るって、すごくエネルギーがいることなんだ、と改めて思った。

     

    (森美術館で見たハルシャの絵。政治と社会、アートの関係についていろいろ考えさせられたインドの現代アーティスト)

     

     

    先日のニュースで、現政権を支持している多くが、老人世代と20代の若者だということを知って驚愕したんだけど

    (特に若者のほうで)

     

     

    今朝の自分の行動を思い返しながら

    ああ、それは

     

    先が見えない日々の中で、希望というものを持つことが逆に自分を傷つけると知った人間が

    少しづつ少しづつ、無心でいるという自己防衛術を身につけて

     

    わくわくすることからも

    怒ることからも距離を置き

     

    とりあえず、昨日と同じ今日が送れればそれでいいのです。

    未来がこんな風になってしまうから、いま、よく考えて反論して、声を上げなければと言われても

    その種類のエネルギーはとっくの前に手放してしまったよ、

     

    ってか、そういうの

    疲れるしうざいから

    やめてくれるかなあ。

     

     

     

    と思ってしまう。

    それは今の若い世代が直面している現実であり

    非正規雇用から抜け出せない社会システムの中にいる人や

     

    同様に、またちょっと別の視点で

    死により近い

    70代、80代の現実でもあるのではないか、と思った。

     

     

     

    昨日と同じ今日、その今日が終わったら、今日と同じ明日1日。

    その「明日」は、あくまでも自分の日常の明日であって

    社会とか、世界とか

    正義とか倫理とか

    とりあえずそういうことはもう、とりあえず置いて見ないことにするという

    まさに今朝の私のような行動が

    次の同じ「今日」を作れない法案や政策をどんどん通過させる土壌になってる。

     

     

     

    怒れよ、と言われても

    その種類のエネルギーから距離を置いていたいと思う気持ち。

    とりあえず、僕の1日が昨日と同じでありますように。

     

     

     

     

    現政権はそんな風潮に支えられている(いや、支えてもいなくて、ただ見過ごされている)。

     

     

     

     

     

    未来にわくわくできて、努力すれば何かが報われるというエネルギーがあれば

    社会に対して怒る、声を上げるというエネルギーも湧いてくるのかなあ、と改めて。

    日本、やばい。

    (いや、おれもやばい、まぢで)。

     

     

     

    さて、そんなやばい日本は4人に1人が65歳以上の老人で

    100歳以上の人口がなんと6万5千人もおる。

    口さがないことを言えば、昨日と同じ僕の、私の今日が過ごせれば

    もうそれでいいです、という人が、それだけいるってこと。

    そういう人たちを支えるために、莫大な税金が使われている。

    その税金を、昨日と同じ今日がすごせればいいんじゃね? という若者が担う。

    ってか、担えるわけないじゃん、これ。

     

    ひとり親で頑張って子育てして、やっと子供が巣立って

    さあ、これから自分のこれからを考えようと思ったら

    日本の老人社会の深い闇のようなものに直面してしまった。

     

    ほんまこれ、何。

     

     

     

     

    ありゃ、ぼやきブログで放置してしまったので

    明るく書き換えようとしたのに、なんだか真っ黒になってしまった。

    怒るエネルギーはないけど、今日1日過ごしているというレベルでは私はとても元気です。

    ちゃんとエネルギーを蓄えるためにも、書いたり、創ったりしなくちゃあかんので

    ぼちぼちマイペースでやっていければと思っています。

     

    そんな中

    年老いて死ぬということは、いったいどういうことなのか、ということについて。

    このところはよく考えるようになった。

    今日は長くなったので、また、来ます。

     

     

     

     

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    お客様が神様の日本で、最近仕事で折れることが増えたのは、なんかとっても単純な理由だったことがわかった件

    2016.11.05 Saturday 00:37
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      数年前まで、こんな体験はしたことがなかった。。。。と思う体験が増えた。

      何って、仕事で。

      改めて一応説明しておくと、私の仕事はコラムニストでフリーランスで17年ー。企業に属しているわけでもなく、特定の会社と契約しているわけでもないので、声がかかるのをただ待っているというのが仕事の日常なので、こうして今日までシングルマザーで子育てしながら食べてこれたってのは、奇跡にに近いことだーと、いつも思う。

       

      いまだ、なんで食べていられるのかわからない。ありがたい。

       

      それでも、世の中的には仕事の単価がぐいぐいと落ちて

      仕事自体も減ってきたのは確かだ。

       

      それで、なんともいいようのない

      え?

      それって何?

      これってどういうことなん?

       

      というような体験が、ほんとのほんとに、このところとっても増えた。

      そうだなー、この5年ぐらいの間で、なんかがすごーく変わった。

      何だろう。

       

      それって、私が歳を取って頑固になったから?

      変に経験積んで、勘違いしてる部分があるの?

      あ、そうか。単にこの世界での自分の価値が下がったってことか?

       

      …と自分なりに納得しようとしたり

      諦めたり、嫌になりながら、もうこの仕事辞めようかなーと思ったりの繰り返しなのだけど。

       

      私の場合は、ほんとにはじめて連絡をくれる人と、はじめて仕事をすることも多くて、だから、!?!?! という出来事があった時、それは相手がおかしいのか、私がおかしいのかというあたりを確認しあえる人がいない。

      それも、もやーっとしがちな一因。

       

       

      例えば、私の取材をしたいと依頼があって日時も決まったのに、取材場所の連絡が来ない。

      前日の夕方に、こちらから「どこに行けばいいですか」と連絡を入れたら

      「あー、あれですけど、その後クライアントからもっと違う場所でと言われたので、リスケさせてください」という。

       

      明日空けていたので、もうちょっと早く連絡くださいね、と言うと

      「これこれとそれそれができる取材場所をそちらで決めてもらえませんか」という。

       

      うが。

      ほでも仕方ないので、それができそうな知人のスタジオと交渉して場所を確保して連絡を入れて日にちもリスケする。

      が。

      この時点で絵コンテも企画書も来ないので

      「ある程度の取材内容を教えてくれ、準備するから」と伝えたが間際までなしのつぶて。

      前々日の夕方に大量のデータが送られてきて、そこには

      翌日一日で買い出しから下ごしらえから、その他備品の買い物から、私がやるべき大量の指示があってびっくりした。

       

      えっと。

      たとえば私がテレビ番組のスタッフだったり、取材する側だったら、それはアリ。

      でも、こういう仕事してきた経験から、「インタビュー、家や事務所の取材をさせて欲しい」という依頼だった場合は采配が違う。

      まあ、準備してもいいんだけど、直前にメールでデータ送りつけて終わり、はやっぱり違う。

       

      しかも、内容が私の活動とぜんぜん違っていて、これまで話にも出なかったことがたくさん増えている。

      どいういうわけでこんなことに? と聞くと

      「クライアントの希望で」と。

       

      これ。

       

      「クライアントの希望で」。

       

       

      私が話していたのは代理店。

      クライアントとは一度も会ってない。

      ほんと、こういうこと、とっても多い。

       

       

       

      あと増えたのが、「最低限のマナーでは」と思っていたことを軽く飛び越えていく案件。

       

       

       

      たとえばこないだ、通例ではあり得ないというNG案件があったので

      間に立って連絡してきた人に、「それはやはり、直接連絡するように言ってね」と伝えたら

      打ち合わせ中に入っていた留守電に

      「お詫びしたいので、連絡ください」と口頭で電話番号を言われた。

      携帯に折り返しせずに、こっちの電話にかけろということらしい。

       

      歩きながら口頭で言われた番号はかけなおせないし

      何より、こちらに非がまったくなく、相手が100%悪いNG対応の説明とお詫びというものをしてもらうのに、私から電話をするのもなんかはばかられる気がして放置した。

       

      そうしたら、夜メールが来た。

      この番号にかけろ、と再び。

       

      おかしいと思うのは私だけなんだろうか。

      私なら「お詫びの説明をしたいので、電話をしていい時間帯をお知らせ下さい」と言う。

      もしくは、昼につながらなかったのなら、その夜にメールである程度は事情説明を送る。

      お詫びや言い訳みたいなものを聞かせるために、相手に通話料を払わせることはしない。

      釈然としないので、メールで「明日の午前中は電話に出られますので、お電話いただけますか」と返事した。

       

      かかってきたのは、翌日の11時59分だった。

      ま、ぎりぎり午前中だけど。

       

       

      あ、あとこんなこともあった。

      私が新聞に書いたもの(署名連載記事)を、テレビで取り上げたいという連絡が入り

      どういう形で? と聞いたら

      「もう撮影は終わっているんです」という。

      え? 知らないうちに?

      「DIYコーディネイターの○○さんがホームセンターで材料を買って、記事のものを作って紹介しました」

      えっと。ももせが考えたものだということを中でちゃんと言ってくれましたか?

      「あー、いや、DIYコーディネイターの○○さんが作って紹介した形になってましてー」

       

      あのお、なんかおかしくないですか。

      私が考えたものを、なぜまったく知らない別の人が作って紹介するんでしょう。

      取り上げていただくのはうれしいけれど、だったらまず撮影の前に、書いた私にご連絡いただくのが順番では。

      そして、作る企画であれば、私が作るのが筋では? 

       

      と電話で伝えたときの、戻ってきた答えに、なんだか一瞬、時間が止まっちゃったのだ。

       

      「え? あれってももせさんが自分で考えたアイデアだったんですか」

       

       

       

      え。

      ええっ?

       

       

      なんかさー、私、自分が書くものは「自分で考えたアイデア」、もしくは

      従来あったものなら、それを自分なりに編集アレンジしたもの ってこと以外、思ったことなかった。

      そして署名連載記事で書いたものには、著作権ってものが存在するとしか思っていなかった。

       

      そうかー。

      アイデアなんてみんなどっかから持ってきたもんなんだから、書いた人の著作権なんて関係ないってこと?

       

      だから、書かれたものは別の人がそのまま使ってよくって

      そんで、クレジットにもとに書いた人の名前出す必要も、ギャラ払う必要もないってことなんね。

       

       

       

      ええっ!?!?!

      そうなの? そういうこと? 原稿を書くって、そういうものだったん?

       

      あれ?

      おかしいと思ってる、私がおかしい?

       

       

       

      …みたいな。

       

      これはかなり自分にとっては衝撃的な出来事だったので

      これ以降、しばらく自分でアイデアを考えるのをやめたことがある。

      検索して出て来たもんをそのまま使えばよくて、一生懸命試作したり工夫して考えること自体がアホくさい、と。

       

      ま、このあたりはいろいろ意見もあるだろうけど。

      でも

       

      なんだか、ぜんぜん大切にされてないなーって思うことが増えた。

      大切というか、仕事をするプロとして対等に見られていない、尊重されていないという感じ。

      それは同時に、

      え?

      それっておかしいよ、それやっちゃだめじゃん というような

      相手もプロとして成立していないぞー、っていう案件も増えたってこと。

      特にネット系は顕著。

      従来のメディアで仕事をしてきた人たちとは、まったく違う分野の人たちが

      情報や言葉やデザインを扱うことが増えてきたこともあるように思う。

       

      動画集めるっていうから、その著作権どうするの? って聞いたら、「そんなこと考えなかった」とか。

      「あなたの書いたものを適当にこっちでまとめます、だから謝礼はナシで」とか。

      適当? 適当にまとめちゃう?

      すでに本に書いてあることは、別の誰かが”適当に”まとめてタダで別媒体で使っていいと?

       

      「1時間のインタビュー+自宅撮影、ライターの書いた原稿の校正をしてもらって、謝礼はありません。

      でも、プロフィール欄を使って、ご著書のPRをしていただくことができますのでご活用いただければと思います」とか。

       

      えっと。

      プロフィール欄って何だと思ってた? プロフィール欄に著書名入れることは広告費としてバーターになるとでも?

       

      丁重にお断りしたら

      「一緒にお仕事ができたらと思っていたのに、残念です」と戻ってきた。

      ノーギャラで半日拘束って、私には「お仕事」じゃないよ。え、違うの?

      私がおかしいの?

       

      いや、すごくちゃんとしている人もいっぱいいるんだけど。

       

       

       

      とにかく、少なくとも5年ぐらい前までは存在しなかった依頼内容が増え

      そして、なんだか悲しく、わびしく、意味不明だと思うような対応に遭遇するようになった。

      それで、それは自分がおかしくなったのかと思ったりもしたけど、

       

       

      あ、そうか。

       

       

       

      なんかそれ

      とてつもなくカンタンな理由だったような気がする、と思うようになった。

       

       

       

       

      最初に書いた案件にあった

       

      「クライアントの意向で」

       

       

       

      それ。

       

       

       

      クライアントって、つまり

      「お金くれる人」

       

      ってことよね。

       

       

       

       

      お客様は神様です

       

      という考えが蔓延しちゃった日本で。

       

       

       

      お客様ってのは、つまり、お金払う人ってことで

      金払う人が一番偉いんだぞ、って

      私たち、だんだん洗脳されちゃってる気がする。

       

      レストランで、こっちは金払ってるんだから、ごちそうさまなんて言う必要ない

      と平気で言う人たち。

      お金を払ってくれる人の言いなりになる側と

      払ってるってだけのことで、自分が神様になって威丈高になる人たち。

      学校も、こっちは税金払ってるんだから、サービス業だって言う人もいる。

       

      そういう理論でいくと

       

       

      私、原稿書いてお金もらってるんで

      私に原稿や取材を依頼してくれる人は、お客様なの。

      うん、それは昔から、ずっとそういうこと。

       

      ただ、そこにはお互いもちつ持たれつで

      誰かが持っているスキルや情報に対して、それをリスペクトして、対価を払うよっていう関係性が

      これまではちゃんとあったんだけど

       

      そこ、

      知らない間に

      お金払う人が一番偉い って図式に

      どうやらなっちゃったってことなんだろう。

       

      そう思ったら、上記に書いた、なんだかなーと思ったことすべて

      「それでお金もらうんだから、言われた通りにするのが筋」

      ということになる。どんなに急でも準備して、間際のリスケも文句なんて言わない。

      来いと言われたら、遠くても相手の予定に合わせて出かけていく、ってこと。

       

       

      なので、代理店や制作側は、クライアントの言うなりになり

      なんだか理不尽だなーと思うようなことにも対応せざるをえず

       

      そういう人たちが今度は

      デザインや言葉を扱う人たちのクライアントとなり

       

      私みたいに個人で何にも属さず

      ただ情報やアイデアを提供する側にいる人間に対しては

       

      「ギャラ払った時点で貴方の仕事は終わり、完成報告する必要ないよね」

      「お金払ったら、そのあとそれをこっちがどう使おうと

       形を変えようと、何度使おうと、こちらに権利がある」

       

      ってことになって

      それがさらに

       

      「いくらでも安い金額でやりたい人いるし

       別にプロに頼まなくても、フリーソフトでちゃちゃっと作れるスタッフいくらでもいるし。

       こっちも安い金額しかもらってなくて予算ないんだよ。

       そもそも貴方考えるだけで、一銭もかかってないじゃん」

       

      なんてことにもなり、(笑 すべて仮想だけど)

      そんで

      いろんな悲しいなーって思うことがどんどん増えているような気がする。

       

       

      そうやって書いたもの、作られたものは

      クライアントにリスペクトされないどころか

      (だから勝手に手を入れたり、間際でひっくり返したり、アイデアだけ持って行ったりする)

      消費側にもリスペクトされず

      (だからそのままパクられて別の商品になったり、書いたものが勝手にまとめられてほかの人の仕事になってたりする)

       

       

      最近は「リライトライター」といって

      誰かが書いたものを、少しだけ表現を変えて、丸ごとパクってきたとわからないように

      記事に仕立てるためのテクニックを教えるという人もいるのだって。

       

       

      クリエイティブの価値が下がっていくのに、仕事量は増える。

      電通の子の自殺も、社会にこういう負のスパイラルがある気がして、ひどくこたえた。

       

       

      お客様は神様です

       

      って

      三波春夫さんは、自分が思っているのとまったく別の使い方をされていると、悲しんでいたんだって。

       

      本来は

      神様は、あがめ奉られるだけではなく

      民衆を見守り、願いを叶えてやるという役目を同時に担う。

      ファンであるお客様は、チケットやCD買ってお金払ってくれる存在ではあるけれど

      同時に、アーティストを支え、育て、見守るという大切な役目も引き受けているんだよ。

      神様を引き受けるって、とっても責任があること。

       

      今、神様はただお金を払うだけで

      なんの役目も引き受けない存在になっちゃった。

       

       

      お金ってそんなに偉いのかな。

      お金って、怖いな。

       

       

       

       

       

      フランスにいたとき、

      一番偉いのはお店の人だったよ>笑

      ってか

      お客さんもお店の人も、同じ人間、対等な存在。

      クレームや不満をぶつける先は、同じように働く人として存在する誰かではなくって

      もっと、組織とか国家とか、システムに対してなんじゃないかな、と思う。

      電車遅れたこと、駅員さんに怒りぶつけても、なーんもならんじゃん。

      どんだけみんな、行き場のない閉塞感を抱えてるんだろー、と思う。

       

      いろいろ、息苦しさが増している日本の中で

      気持ちよく楽しく、仕事が出来る方法を、いま、模索している最中です。

       

      そんで、自分自身も、気持ちよくいい仕事を一緒にできる人間であり続けたいなーと強く思う。

       

      しばし逃げ出すことばかり考えていたけど

      もっとよりよくできる方法はあるはず。

      素敵な人もいっぱいいるんだし。

       

      今日はそんな話。

      ネタバレ感満載だけど、たまには許してね。

       

      category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(24) | - | -

      スピ系の話の続き。結局スピチャンネルは人のために使わず、自分が幸せになるためだけに使えばいいんだと思う。

      2016.10.26 Wednesday 23:41
      0

        怪しげなスピ系の話の続き。

        人はそれぞれ視覚や聴覚、身体感覚などの得意なチャンネルがあるんだけれど、中にはスピ系にチャンネルを持っている人もいる、というのが先日書いた話。

         

        他の人には見えないものが見えるとか、感じるとか

        誰かの前世やオーラが見えるとか、その他特殊能力があるのだとか、そのあたりのことを言う人は意外といる。

         

        私は超能力というのはマジックの一種だと思っているけれど

        美輪さまのように(笑)、人の見えないものが見えるというような人はいると思っている。

        それで見えているものの実態はわからないけど、そこにある何かを感じるという能力は、多かれ少なかれ持ち合わせている生き物の本能というか。

         

        殺意を持った人が近づいてきたら、なんかぞわっとするなんていうのを始めとして、ただ単に、不機嫌な人が部屋にいたら気分が悪いとか。結局そういう見る事も聞く事もできないけど、「人が発する気分みたいなもん」とか、なんか事件があった場所に残ったいやーな気みたいなものは、意外と伝わるんじゃないかと思う。

         

        そこで感じたものを、ただ雰囲気と処理するのか、脳内でスピ系に編集して言語化するかどうかの違いで、後者のような編集作業の過程では、古くから言い伝えられてきた伝説的な形や、民族的な共同幻想みたいなものが大きく作用して、イメージが作られていく。

         

        スピ系の人が、ちょいエキセントリックにスピ系ワールドに突入すると、自分の能力を覚醒させようとスピモードな日々を送ることになって、いろんなことに敏感になる。すると、気にせずによい場所にまで勝手にいろんなものを感じるようになっていって、その中で上記の共同幻想みたなものが深く刷り込まれていって、どんどんスピな人になっていっちゃうというか。

        それって能力が伸びているというより、ただそういうイメージを脳内変換しやすくなっていくってことなんじゃないかなと思うわけです。

         

        もしそこに、何か統一された変換モードを提供する組織みたいなものがあれば、簡単にステレオタイプなスピ洗脳されるというか。

        新興宗教なんかはその手のところに、うまく入り込んでくるしなー。

         

         

         

        ってなことで、そういえば以前、みんなのうしろにたくさん前世の人が見えるという同僚がいたんですが。

         

        ものすごーくエキセントリックだった彼女、

        結婚して子どもを産んだとたんに、なーんにも見えなくなったそうですわ。

         

         

         

        いろいろおもろ。

         

         

         

        それで、なんでこういうことを前回考えるようになったのかというと

        ちょい最近であった人がスピ系のヒーリング術に目覚めて、それをたくさんの人に教えていきたい

        苦しんでいる人を助けて癒していきたいと、目をキラキラさせていたのですわ。

         

        あー、それ。

         

        スピチャンネルがあるとつい、「ヒーリング」って誰かの役に立ちたくなるもんだけど

        それやると結構辛いことになるよなあ、と思ったのでこれを書いている。

        というわけ。

        ちょうど高樹沙耶のニュースも入ってきた。

        なんつか、スピ系のお手本のような人だったなあ。

        結局、辛い。

         

         

        それじゃあ私はどうなのよというと、

        もし、私が高樹沙耶さんのように、何か強烈に心酔する人や物事があって

        さらにちょいエキセントリックに美しいことで人の関心を惹き付ける外見を持っていたら

        スピスピ星の住人になっていた可能性は、ある。

        だって80年代だもの。

        西海岸スピワールド全盛期。

        怪しいというより、サブカル系でちょい知的な世界でもあったのね。

        いやー、ほんといろいろあった。おもしろかった。

         

        それで、そういうスピチャンネルを開いていた時期には、本当にたくさんのものを見たし聞いたし、体験したのだった。

        敢えて書かないけど。

         

        でもそれ

        ある時期からすっぱりと、全部、考えることを辞めた。

        スピ系の人でいるのは、そりゃもう本当に

        消耗するし、体調悪くなるし、なんかちっともいいことなくて、幸せにはなれないからだ。

         

         

         

        例えば

        私は今でも人の気を拾うところがあるので、病気をした人と話していると、同じ場所が痛んだりする。

         

        電車で本を読んでいる時に、隣りの席に座った人の顔もしぐさも見えなくても、

        ものすごい不穏な気みたいなものが突然襲ってきて、ぞわぞわと脅かされてしまうことがある。

        たぶん、この人はものすごく怒っていたり不安やイライラを募らせているか、もしくは何か重い病気かもしれない、とよく思う。

         

        そんな時に私ができるのは

        一刻も早くその人の側を離れる、ってことだけ。

         

         

        スピ系の力を人のために使いたいと思う人は

        癒して欲しいと思っている人たちの有象無象のものを自分のからだと心に引き受ける覚悟がいるわけで。

         

        前出の彼女や高樹沙耶さんのように、スピ系のチャンネルを開いてますよーってアピールを始めたら

        そこに集まってくるのは、負のエネルギーだけなんだよー。

         

        んで、そうして誰かに癒してもらうことを期待して集まって来る負のエネルギーは、

        誰かの力では癒されることなんてなくって

        結局は自分の力で解決していかなきゃ何も起こらないってことなんだと思う。

         

         

        結局は引き受けられないことを

        あたかも何かが解決するかのように誘導できるスピ系の人は

        本物じゃない。

         

        ほいじゃ本物っているんか?

        って話しになるとぜんぜんわかんないけど。

         

         

        ま、とにかく人や世の中をよくするためにスピチャンネルを開いているという人や場所は

        たいてい、まやかしだから関わらないほうがよいのだ。

         

         

         

        そいじゃ、スピチャンネルがある人はそれを何に使えばいいのかっていったら

         

        ただ単純に

         

        自分が幸せになるために使えばいい。

         

         

         

        あー、この家、なんか玄関開けたとたんにいやーな感じがした。

        だから買わない。

         

        この人と一緒に1時間いたら、ものすごく体調悪くなった。

        次は無理してもう会わない。

         

        すごく楽しみにしていた旅行なのに、朝起きたらぜんぜん行きたくなくてやな感じ。

        キャンセルしちゃえば。

         

        憧れてきた学校が、見学してみたらなんか居心地悪い。

        どんなに有名校でも、そこはやめとけ。

         

         

         

        たいてい、最初に感じる第六感みたいなものは、当たってることが多いから

        そこに、いろんな後情報や常識みたいなものを塗りこむことで、そのささやかな感覚をおざなりにせず

        とりあえずは、やばいぞと思ったものからは離れておく。

         

        逆に

        なにこの人、すごく楽しい! とてもおもしろそう! 

        どんどん仲良くなろう

         

        この店はなんだかすごくおいしそうな予感がする

        とりあえず入ってみよう!

         

        って、素敵な予感があることはどんどんやっていきゃいいわけで。

        ま、はずれたら行かなければいいだけのことで、そこになんか意味なんて見いだす必要もない。

         

        スピチャンネルは、そういうために使うもので

        だから

         

        31歳を境に、私はすべてのスピ系の考え方から離れて

        そのあとは一切、進んでそういう感覚に近寄ることを辞めた。

         

         

        それでも、今もちょい特別な状況で気を抜くと

        ああ、この人はスピチャンネルがあるぞ、かまってもらえる、聞いてもらえるよー! と

        なんかえもいわれぬ者たちが、ぞわーっと物陰から飛び出してくることがある。

        えっと、何言ってんだかわからないかもしれないけど、とにかく、ま、いろんなことはある。

         

         

        いろいろあるけど

        とにかく

        スピチャンネルは「自分が」幸せになるために使うもので

        たいていは人の役に立つためには使えないし、使っちゃいけないと強く思うのでした。

         

         

         

         

         

        あれ、なんの話がしたかったんだっけ。

         

        久しぶりにいろんな話しを思い出したので、ちょい書いてみたのだった。

        あくまで個人的な考え。この手の話しは正解も不正解もないような気がします。

         

        次はもうちょっとまともな話題で。

         

         

         

         

         

         

         

         

         

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        人にはそれぞれ得意な知覚のチャンネルがあるらしいってことと、その中に「スピ」系の「スピチャンネル」も存在しているよねということのプロローグ

        2016.10.22 Saturday 09:56
        0

          今年に入ってからの大半の時間を費やしていた、ふたり展が終了した。

          いやあ、精魂尽き果てました。そして、今ぼーっとしまくりの最中。

           

          それでも、よい経験をたくさんした。とりわけ、ギャラリーを提供してくださった恩師の言葉や影響力は大きかった。なんか、いままでにない筋肉がついたような気分なのだった。

           

          そんで、そんな恩師との不思議な会話をもとに、タイトルのようなことを考えてみた、というのが今日のブログです。

           

           

           

          会期中、ちょろりとおしゃべりをする時間などがあった時、ちょうどキリスト教や仏教の話が出たところだったので、恩師に聞いてみた。

          「先生はなにがしかの信仰を持っているんですか?」

           

          答え。

          「ない。でも、敢えてあるとしたら、それがアートだと思う」

           

          へ、アートは宗教ですか?

           

          「この世の中にある、目に見えないもの、言葉になっていないものを形ある物にして見せていくのがアーティストの役目だと思う。それはまさに、宗教の役目でもある。だから信じる宗教は何かと聞かれたら、私は”アート”って答える」

           

           

           

           

          もうなんというか、1本筋が通っていてまことにかっこいい。

          「アートは宗教である」と言ってしまうと、なんだかとても危うく怪しげなことになっていくけれど、信じている世界観は何なのかというあたりは、日本ではあまり話題にならないことが多いから、こういう考え方は私はとても好きだ。

           

          しゃて。

          そんな話しをしていた数日後。

          レイキをするという女性がやってきた。

           

          レイキ。

          https://ja.wikipedia.org/wiki/レイキ

          こういうやつね。

          違う方向性に行ってしまったものに、真光教がある。

          いわゆる手かざしの民間療法で、日本ではこういう人が現れると警戒されるもんだけど、私がフランスにいた時には、この手のものが好きで仕方がないという人たちが結構いた。

           

          ZENとか、Buddismというのは、膠着したキリスト教的世界観に答えを見いだせない人たちにとって、哲学的で知的なものとして受け入れられる傾向があって、レイキなんかもそことごた混ぜになる感じで、興味を持つ人もいるみたいだ。

          瞑想、太極拳、レイキなんかがごた混ぜになっていて、そういうワークショップに結構な人が集まっているのだった。

          それ、なんかわかる気もするけど。

           

          とりあえず、日本ではたいてい、この手のことをする人は「スピ系」の人という認識をされることが多い。この日、彼女が帰ったあとに交わされた会話にも、何度もこの言葉が出てきた。

           

           

          スピ系。

           

           

           

          一口に言っても、いろいろ。

          毎朝ピンクのオーラを浴びて、すべてに感謝しちゃうスピ系の人もいるけれど、ほんとに見えないものが見えちゃうという人もいる。

           

           

          あ。

           

          「見えない物が見えちゃう」。

           

           

          そこで、冒頭の恩師の言葉に戻る。

          「この世の中にある、目に見えないもの、言葉になっていないものを形ある物にして見せていくのがアーティストの役目」。

           

           

           

          以前に聞いた話だけれど、人には生まれながらに持っている、秀でた「知覚のチャンネル」というのがあるのだそうだ。

           

           

          視覚にチャンネルがある人は、物事を色や形で認識しがち。聴覚にある人は、音声で。身体にある人、言葉に特化する人、いろいろ。

          自分のチャンネルがわかれば、それを生かす方法もわかってくるってことなんだそうだ。ダンサーは身体知覚や聴覚にチャンネルが開いている人が向いているだろうし、数字に特化している人が色を扱う仕事をしても楽しくないに違いない

           

          そんな中で、時折どの知覚にも属さないチャンネルを持つ人というのがいて、それがいわゆる「スピ」知覚なんだろう、って思う。

           

          敢えて、「スピチャンネル」とでも呼んどく。

           

          形でも色でも音でも言語でもないものを察知するスピチャンネルは、きっと誰もが持っているものなんだろうけど(たとえば虫の知らせとか、第六感とか、なんとなくやな感じとか、その手のもん)、扉が開いている人と閉じている人がいる。閉じている人にとっては意味をなさない、疑似科学やまがいものである世界も、開いている人にとってはまがいもない現実だ。

           

          んで、世の中にはそれを掬い上げるいろんな網のようなもんがあって、恩師のように「それがアート」と昇華できる人や、社会的に認知されているセーフティゾーンの信仰や組織の中に上手にランディングできる人はいいけれど、困った網の中にからめとられてしまうケースもあって、いろいろもやることも多い。

           

          そうやってもやるケースが多いから、スピチャンネルの使い方は難しいし、たとえ上手に使えたとしても、社会の中ではちょい生きにくい存在であることも確かなのかもしんない。

           

           

          ということで、なぜ今日こんな話題を取り上げているのかというと、この日スピ系の人が登場したことで、恩師と食事をしながら、ちょっとしたスピ体験の話題になった。

          つられるように話しだして、思い出したのだった。

           

           

          いろんな出来事を。

           

           

           

          忘れてた。すっかり忘れてた。でも、そうだった。

          私にも、スピチャンネルがあるのだった。

           

          その使い方について、いろいろ思うところがあるので、それまた次回に書くことにするー。

          とりあえず昼ご飯を食べるー。

           

           

           

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          幸せなばあちゃんになるために、残りの人生で「やらない」と決めた10のこと

          2016.06.25 Saturday 00:27
          0

            今年、双子座は秋から絶好調なんだそうだ。

            (がしかし、ほぼ12星座すべてが、ラッキーだったり転機だったりするらしいから、世界がなんとなくざわざわするってことなんだろうと思う。イギリスの情勢が、そんな幕開けを物語っている)

             

            まあ、でも絶好調だ、と聞けばそれなりに気分はよいので

            今日は歩きながらタイトルのような事を考えていた。

             

            今年はなんとなーく、転機っぽいなーと思うことも多く

            あとは、やっぱり子育てがある程度終了したってのも大きい。

            私は今年56歳になるけど、50歳を過ぎてからの1年1年は、なんだか本当に

            時間が経つごとにいろんな価値感がごろんごろんと変わっていくなあと思うことが多い。

             

            年齢そのもので区切られているものというよりは

            子育てして、仕事して、家のことして、そんな道程で区切られているような気もする。

            たぶん、同じ年齢でも子どもがまだ高校生だったら、だいぶ感じ方は違うんじゃないかなあ。

             

            ま、そんなあれこれで

            思えば遠くに来たもんだの年齢になってきて、

            いろいろ、考えが変わったことは多い。

             

            ほんだもんで、歩きながらぼんやりと思い浮かんだものを、ある程度まとめておこうって思ったわけですわ。

            これ

            あくまで私が、私の性格で、私の仕事や経験を経て思ってることなんで

            「世の中の人が幸せなばあちゃんになるためにやめるべき10のこと」なんかでは断じてない。

             

            よくある、その手の記事、大嫌い。

             

            30歳になるまでにしておくべき10のこと とか。

            成功するためにやっておくべき10のこと、とか。

            あんな胡散臭いもんないし。

             

            なので、あくまで、自分への、自分だけの覚え書き。

             

             

             

             

            1、アンチエイジングをしない

              〜10歳若く見られたからって、10歳若い人の肌にはかなわない。無駄なところで勝負しない。

            2、つきあいだけの会食にはいかない

              〜知らない店のたいしてうまくないものに金を払って、つまらん会話をするという体験はもうしない

            3、「ていねいな暮らし」とか、もういい

              〜自分が気持ちよければそれでいい。外側から入ってくる、疲れる暮らしの呪縛はもういらない

            4、断捨離などするもんか

              〜○割のもの捨てたとか、自慢する悲しさ。捨ててよいものしか手にしてこなかったのか。

            5、「すべてに感謝」するのをやめる

              〜「みなさんのおかげです」とか「すべてに感謝」とか、その手の台詞は吐かない

            6、倹約と貯金で、大切な経験をふいにしない

              〜だって明日死ぬかもしれない

            7、外出時に当たり前のように化粧しない

              〜ふだんはノーメイクの顔を自己像にする。外に向って自分を飾らない。

            8、愛想笑いをしない

              〜私が笑顔でいるのは、ただ、自分のため

            9、年相応のよい服、よい持ち物、よい暮らしの道具、などいらない

              〜ライフスタイルをかたった、右へ倣えの消費行動の罠にははまらない

            10、人生に効率の良さを追い求めない

              〜限りなく効率が悪いものの中に、これから自分が向き合っていくものが隠れている

             

             

             

            なんかさ、これ見て、「は? 自分、どれもまったくやってませんけど、今までだって」

            みたいに思う人いっぱいいると思う。

            ばかじゃねーの、こんなこと今更って思う人もいると思う。

            ほでも、最初に書いたように、これは「私が」辞めようと思ってることなんよ。

            なので、他の人はかんけーない。

             

            時代もあったと思うけど、40代の自分は、

            せっせと化粧品とか選んで、カラー診断してもらって、お化粧方法教えてもらったり

            年相応のよい服を着ようと服を探したり、ネイルしてみたり。

            平松洋子さんが南部鉄のきゅうすがいいと言えばそれを買って結局錆びさせたりしてたな。

            仕事柄もあって、愛想笑いもたくさんしたし

            ていねいな暮らしにもはげんだ。

            荷物を減らすために物を結構捨てたし、倹約と貯金も頑張った。

            そして、いつも、誰かに感謝してた。

            本のあとがきとか、それ。

            「そして私をいつも支えてくれている家族、友人に心からの感謝を送ります」みたいな。

            形だけ書いてたってわけじゃぜんぜんなくって、なんか心のシステムが、そういう仕組みになってた。

            すごく頑張ったなー! って自分を褒める前に

            なんか、「みなさんのおかげ」みたいな。

             

             

            それは大切な必要な時間だったので、まったく後悔してないけど

            でも、それ、ここから先はもうやらんでいいなあって思う。

             

            そうやって、あるところまでは真実で、誠実に一生懸命頑張れた事が

            数年の年齢の違いで

            あ、もういいね、って思うようになる。

            年齢って、本当に不思議。

             

             

            こないだ、仲良しとごはん食べてたら、彼女が言ったの。

             

            「もう、自分の為にはさんざんいろいろやってきて、思い残すことなくて

             だから、私の残りの人生は、あとは人のためになんかやっていくってこと。

             自分がやってるのは、人のためのことなんだから、

             そこで何があっても自分は損もしないし、傷つくこともないって思ったら

             腹も立たないし、損したとか、やな思いしたとか、ぜんぜん思わなくて済むんだよねー。

             らくちんだなあ」

             

             

             

            すげー。

             

            もんげーすげー。

             

             

             

             

            そして、かっけー。

             

             

            (なんか全部死語っぽい言葉の羅列になったが。。。)

             

             

             

             

             

            それでいくと、私は

            物事決めるときも、自分が欲しい! って前に、あなたはどう? 他の人は?

            なんてことばかりをしてしまって、それで、なんかバランスを崩したりしたこともあった。

            仕事もそうかもしれないな。

            受け手側が望んでること、欲しいと思っているものばかり考えてきた。

            (ま、それが仕事ってものなんだけど。。。。)

            それ

            そろそろもういいすか? って思ってるんだと思う。

             

            本を書いたり、取材されたり、テレビに出たり。

            外側から見られる自分ってものと向き合ってきた40代だったし

            シングルで子どもを育てる為に、「稼ぐ」こともとても大事だったわけで

            まだまだ、本音のところでやりたいことがたくさんある。

             

            だから、友達みたいに「もうやりのこしたことないし」とはまだ言えない。

             

            なので、いま、すごく

            自分勝手なばあちゃんになりたいと思っている。

            あと何年生きられるのかわからないけど、もらってる時間の中では、自分に正直にいたいなあ、って思う。

            自分勝手というのは、自分のことは自分で勝手にやる人という意味で

            人に迷惑をかけることをさすのではないのですー。

             

            ってなことで、やらないと決めた10のこと。

            自分の覚え書き。

             

            とりあえず今日は、化粧しないで出かけた。

            明日はイベントなので、化粧はするかなー。

             

            そのあたり、まだ行ったり、来たり>笑

             

            category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(4) | - | -

            フランスと日本のデッサン教本のヌードの扱いがあまりに違う件。なんで日本は女だけ脱がすんや!?

            2016.05.24 Tuesday 15:59
            0
              図書館から人物デッサン本を何冊か借りてきた。で、読んでるうちになんだか不思議な襲われたので、そのことについて書いてみることにした。テーマは「ヌード」。

              これまで私がデッサンの練習用に使っていたのは、フランスで買ってきた「人物デッサン」の本。
              これ、いろんな姿勢をした男女の写真が大量にあるのですごく参考になるー。



              でもフランス語解読するのが面倒なので、日本語の本が読みたかったのよ。
              で、借りて来た本の最初の写真がこれ。



              あれ、女だけ裸。
              男トランクスはいてる。
              フランス版は男性も全裸だったけど、まあ、やっぱ男性器は外に露出しているから見せてはあかんという配慮かしら。

              まあ、そこは100歩譲ったとして。

              立ち姿のデッサン例のポーズで、何か引っかかる。



              女をこう立たせたとして、



              男はこれか。

              まあいい。

              座り姿はどうだ。



              うううーーん???
              女性は立ってもくねって、座ってもくねって
              男はただ、パンツ仁王立ちと着衣どっかん座り。
              脱げ。
              お前も脱げ。
              ずるいぞ、着衣どっかん。

              女性の着衣はないのか? と見たら次に出て来た。これだ。



              服着せても、チラリズムか?
              表情もなんだかエロくてやだ。なんで。
              私、なんかこんなポーズあんまり描きたくないな。
              同性として。

              考え過ぎだよと言われるかもだが、フランス版だとこんな感じだ。
              どこをどうとっても、エロい空気が皆無。
              すがすがしいほど。



              男性版もとってもいいよ。




              そもそも、裸体デッサンというのはからだの骨格や形を見る力を養うために行うものだから
              それこそさまざまなスタイルをしてもらうのが一番役に立つ。
              実際にモデルを使ったデッサンはさほど多く体験できるわけではないから
              こういう写真はとても役に立つし、例として出て来るクロッキーも
              さまざまに個性的なものがあって参考になるんだよ@フランス版。


              日本版のは、なんか「裸体を描く」ことへの過剰な方向性を感じて
              なんだか不思議な気持ちになった。

              それで思い出したんだけど
              昨日、大学の授業で版画のモチーフに女性の裸体群像を選んだ人がいて
              それはとてもよく描けていたんだけど、描いたのはかなりのご年配の男性だった。

              それに対して、ああして描けるということは、ヌードデッサンをしたのではないか。
              ヌード見たさにモチーフにしたのではないか、
              的な反応をする人がいた>笑

              まあ、どの世界でも目の前にヌードがあるのは非日常ではあるけれど
              こんなデッサンの本1冊の中にある、女性の裸体ポーズへのまなざしの偏向をかいま見てしまうと
              日本で「女性」として生きていくことのめんどくささってものを
              改めてじわじわと感じてしまうなあと思う。
              (んなの感じて来たのは私だけなのかもだけど。
               でも、海外に出るとある部分でラクになるということの根源は
               いったい何なんだろう、とよく考える。いまだよくわからないけど)


              こちらは全裸でも、前述の日本人女子着衣ポーズよりまったくエロくない>笑




              からだをよじったり、変にはじらって隠したり
              うっとりと天井を見たり
              そういうポージングが発するものって一体何なんだろう。

              そして、この対峙にある力関係は、一体何なんだろう。



              もやーっと。

              もやもやーっとしながら答えは見えず。
              今日はこちらのおじさんをデッサンしてポーズと骨格の勉強をしようと思う。
              よい男性モデルがきてくれるデッサンの場があったら、教えて欲しいです。



               
              category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(18) | - | -

              ジリジリとただ辛い事を乗り越えられるのは、「好き」の力なんだね。それを河合隼雄さんが「苦楽しい」って言ってたの、思い出した。

              2016.05.12 Thursday 15:33
              0
                ああ、びっくりした。前に書いた記事がバズって。
                もともと覚え書きのように書いているブログなので、急にいろんな人の目に触れるとちょっとドキドキする。

                落ち着いたので、また更新します>笑。

                美大でのデッサンの日記に、たくさんのコメントありがとうございました。
                後日談。

                ほっとかれて、わけわかんないじゃん! と憤って
                でも、その間に自分で「気づいた」ことによる発見はとても大きくて
                その前に教えてもらっちゃったら、こういう気づきはなかったかも。。。。。。というのが
                先日の話しだったのですが。

                この「ほっとかれる」塩梅というのは、結構難しいなと思います。
                あれ、ほんとに意図的なほっときだったのか
                もしくはほんとにほっとかれたのか、そのあたりはようわからんと思う。実は。

                でも、ひとつだけ言い訳をするとすれば
                私が今いるのは、リタイアした人もまじっている各種学校である美術の学校なので
                これから受験をするとか
                美大に入ってこれから未来の芸術家を目指すという人のための教育じゃないわけで

                まあ、ゆるりと進んでいく中で気づくことってのはあるわけです。


                で、毎度言われているのが
                「完成させるな」
                ということ。
                受験デッサンではないのだから、目的は完成させることではなく、そのプロセスであり
                完成を意識したとたんすべてがおざなりになるので気をつけろ、と。

                でもね、これがとても難しい。


                昨日まで、16時間静物を鉛筆でデッサンしてたのですが。
                「今日の2時半から講評入ります」と言われたとたん
                それまでになんとか格好をつけないと! とあせって、最後にまとめようと鉛筆を入れて
                イーゼルにある状態までは、大満足な出来だと思っていたんだけど
                いざ、全員の作品と並べて遠くで見てみたら
                無難にまとめようとした自分の作品が、なんだか一番魅力がなく
                陳腐に見えて、すごく反省した。



                「〆切」

                という言葉に異様に反応してしまう自分を改めて知った。

                ま、仕事ではそれができなくちゃどうしようもないんだけど
                この「結果ではなくプロセス」というのになかなか順応できないでいる。

                木炭を持つのははじめて、鉛筆デッサンもはじめて、という人の作品には
                パースが狂って陰影がうまくつけられていないものもたくさんあるけど
                格闘した時間が内包されていて、見ていて何ともいえない魅力があるものが多いことに
                はじめて気づいた。
                美大受験のデッサンはしたことがあるけど、あの「どこから見ても完璧に見える
                すごくうまいデッサン」とはまったく違う
                もっと
                「受かるという目的」なんかがまったくない所にある
                「生きてるっていうプロセス」みたいなものが見えるものの
                力みたいなものに、ちょっと圧倒されたりする。

                経験がなくてうまく描けない人は、「うまく」描ける人をすごく羨むけれど
                そうではない場所にある魅力みたいなものの力は、真似できないものが多い。
                美大で基礎を確立してから、そいういう魅力のあるものに「崩していく」作業は
                逆に大変だろうなあ、と思ったりもする。


                さて、後日談と書いた割に前置きが長くなったけど
                実は、前回私がほっとかれたけど気づきがあった、と言ってた日。
                別のクラスでは、校長に直談判しに行った人がいたのだそうだ。

                こちらはお金を払って来ている。
                ここまで放置とは、本来の義務を怠っているのではないか。
                きちんと指導教員を配置しろ、と。

                結果、その次からのデッサンでは、前より先生が回ってくるようになった。
                ま、そのほうが助かるし、やる気もでるので、直談判は正しかったのかもしれないけど

                その直談判をしたのは、引退世代の男性で
                まあ、社会的地位があって、仕事体験を重ねて十分に権利意識が確率している人は
                「管理責任」を問う形で、答を求めたがるんじゃないかと感じた。
                こういうこと、子どもたちの学校でも結構起きている気がするし。

                もしかしたら、あとちょっと自由にさせてくれていたら
                こんな体験も、あんな体験もできたのかもしれないけど
                その前に、「管理責任」を理路整然と言われてしまうと
                「空白の時間」みたいなものはどんどんなくなってしまうのかもしれない。

                なんか、ちょっともったいない。



                まあ、そういうわけで
                後日談があったわけですが
                でも、やっぱりデッサンには時間がすごくかかるし
                やっている間には、ただただ自分で対象物と格闘しているわけで
                過剰な指導があるのは、自分の判断が狂ったり、迷いが生じてよくないなあと思うことも増えた。
                ある程度は放っておいてくれないと、自分のコアみたいなところが決まらない。

                そういう格闘の時間を
                このところ存分に楽しんでいるような気がします。


                最初のデッサンのあと
                講評に来た先生は

                「それにしてもみなさん、辛かったでしょう」

                と言った。

                ただ、円柱と立方体を、こんな長い時間かけて描き続けるなんて。
                普通で考えたら、辛いし、いやになっちゃうよねえ。

                と。

                「でも、みんな、絵を描くのが好きだから
                 もっとうまくなりたいと思っているから
                 途中で投げ出して帰っちゃったりせず、ここまで描き続けられたんでしょ。
                 じりじりと本当に辛いと思う時間も、好きだから乗り越えられたんだよね」


                うん。

                そうだなあ。
                その通りだなー。


                もし自分がまだ高校出たぐらいで、ものすごく好きでやりたいわけじゃないけど
                とりあえず勉強しといたほうがいいって言われたから、ここに入っておこうかなーってぐらいで
                最初に12時間円柱書けって言われたら
                まあ、途中でさぼったり
                やんなるなーってお菓子食べたりしてたと思うー。

                ほいでも、おいらたち描いてる間、誰もそんなことせずに
                ただただ、延々とデスケルやはかり棒使って、なんだか不毛にも見えるデッサンをやめる人はいなかった。
                仕事したり子育てしたり
                いろんな時間過ごしてきて、それでもやっぱり絵が描きたいって思うから来たわけだし、みんな。
                だから

                好き

                であることって、すごいなーって思った。
                で、先生が言った

                「じりじりと本当に辛いと思う時間も、好きなら乗り越えられる」

                って言葉に、なんだかじんわりした。




                ってか、辛いことって好きじゃなくちゃ乗り越えられないよな。

                それ、ずっと前
                まだ河合隼雄さんが生きていらした頃
                一緒に山登りしている時に、河合さんが話してた言葉として、すごく残っていることに共通している気がする。

                「ももせさん、人生には 苦楽しい(くるたのしい) という経験があるのですよ。

                 楽しさにも2種類あって、ひとつはディズニーランドに行って楽しいなー、というような体験。

                 もう一つは、やっている途中はとてつもなく苦しくて、辛いことがいっぱいあるけれど

                 でも、その辛さを乗り越えたところで、言いようのない楽しさに変わりうるという体験。

                 僕はそれを 苦楽しい と読んでいるの。

                 子育てなんかも、それに通じることがあると思うけど

                 ただ楽しいという体験はすぐに忘れてしまうものだけれど

                 苦楽しい体験は、深く心に刻まれて、糧になるのよ」


                んで、その苦楽しさを乗り越えられるのは
                やっぱり「好き」の力なんだと思う。

                子どもだって、好きだし、愛しているし、可愛いから
                働きながら子育てするっていうような
                あんな筆舌に尽くせんめんどくさくて辛くて苦しいことも、ただただ続けられたんだと思うし。
                (んで、苦楽しさにつながって、数百倍の糧をもらった気がするし)。


                いま私がやっているデッサンという作業は
                描くのが好きな人間にとっては
                まさに

                苦楽しい

                時間なのだと思う。




                ということで後日談でした。

                ただ、「好きだから乗り越えられる」って
                難しいこともあって

                好きというだけで
                乗り越えなくていい時間もあるし
                我慢してはいけないこともある。


                そんな大事なことについて、また時間ができたら書いてみる。
                category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(2) | - | -

                12時間円柱を描きつづけてはじめてわかったこと。「気づく」までにはたくさんの時間がかかるのに、みんな先に教わってしまうんだね。

                2016.04.24 Sunday 14:26
                2
                4月から美大の学生になった。
                美大といっても、大学生と一緒に通う形のもんじゃなくって、ムサビが社会人向けにやっている各種学校のほう。
                普通に19歳と一緒に美大に入るには、私にはほかの生活がありすぎるので、1年分のカリキュラムを、私は週2日づつ2年かけてやってる。

                これは人生のリベンジなんである。
                とにかく、どうやったって絶対絵を描きたくて、学びたいのは美術で、ほんでもって高校の美術の先生も「君は絶対美術系に進みなさい」って言ってくれてたにもかかわらず、親に強固な権力行使をされて普通大学にしか学費を払ってもらえなかった。ってか、それ以外は選択の余地なしで、父親のDVも恐ろしかったので、そうするしかなかった。

                今の時代、得意なものを探せ、やりたいことをみつけろ、進路を早めに定めろってさんざん言われてるのに、当時、それをちゃんと高校一年生から定めていた私は、ちっともやりたいことなんて選ばせてもらえなかった。
                コツコツためたおこずかいとバイト代で、1人で内緒で代ゼミの美大用のデッサン教室に通った。
                ほいでも、何をいっても、まったくぜんぜん聞いてもらえなかった。超進学校で、担任も味方してくんなかったよ。「うちは美大のノウハウないし、行きたいなら自分でなんとかすれば」って。


                てやんでえ。



                最初にやりたいことからつまづいてしまったあと、人生をいっぱい迂回して、
                デザイン事務所に入ってみたり、イラストで仕事したり、WEBデザイン仕事にしたり
                子ども育てながらは、いろいろ創作系の教室やらセミナーを探しては参加した。
                周辺をぐるぐる回ってはみたけど、やっぱりぜんぜん違うのだ。

                自分は「美大」に行きたかったんだよ。
                「美術」を学びたいの。「技術」じゃなくって。


                ということで、リベンジなんである。




                で、リベンジしてみて、ほんとにうれしいなあ、と思うことがあったので書いてみる。




                最初の課題は、円柱と四角柱を木炭で、ただ延々とデッサンするってものである。
                木炭なんて何十年ぶりに持った。

                ほで、描き出した。
                モチーフはこんなもん。



                最初に先生から言われたのが

                「デッサンは完成させようと思うな。思った瞬間に、雑になる」

                つまりのところは、「完成させる」ことを目的にすると、どうしてもなるべく早く完成することを目指すので、いろいろなことがおざなりになり、ろくなことがないということらしい。

                で、とりあえずは線が何本重なってもいいから形を取ることを繰り返せ、と。
                しばらくデッサンって何か、構図がいかに大切かって話しを聞いて、とにかく対象物をよく見ろと繰り返され

                それで先生いなくなって、それから20人ほどいるおいらたちは、ぽかんと放っておかれ
                その日は終わって翌日になり
                まだまだ放っておかれ

                さすがにもうわかんねーよ
                ってかもう7時間も描いてるのに、指導なしかよ。
                ほったらかしかよ、と、その場にいる人たちの
                気持ちの中がざわざわとしてきた。

                ほで、中にちょいデッサン歴のある子がいて、その子が陰影を付け出したので
                みんなつられるように陰影を付け出し

                それにしても、私はもう自分のデッサンはほぼ完成していると思っているので
                にあと何をしたらいいのかがてんでわからず
                陰影を付け出しても、それが正しいのかどうかもてんでわからず

                「教えてもらわなくっちゃ、わからないじゃんよー」

                なんてことを隣の人と話していた。
                いまここで書くととってもこっぱずかしい気がするけど
                自分は一応デッサンの経験があるもんで、ちゃんとうまく描けている(と思っていた)のだ。
                受験のためのデッサン、一通りしたわけだし>かなり前だけど。
                円柱と四角柱ぐらい、お茶の子さいさいであろう。これで十分、と。

                ら、そんなところに



                ひとりの先生がやっと、やってきた。

                んだもんで、みな周りに集まって
                「教えてくれ」
                「私の絵はどこがおかしいのか」
                「影の付け方はこれでいいのか」


                と、にわか騒がしくなった。
                そしてたら先生は、「みなさん、ちょっと進め方が早すぎます」という。

                早いも何も、もう円柱と角柱の形取り1枚だけで9時間ぐらい描いてるよ。
                意味わかんない。
                先生が一人一人を回り出したので
                私が「もう自分のどこが悪いのかぜんぜんわかりません。この場所がちょっとゆがんでるみたいで
                ずっと直してるんですが、どうでしょう」と言ったら

                「ちょっと左に傾いてますね」という。

                嘘だ。絶対平行だ。私の目にはそう見える。
                なので、定規で測ってやった。

                曲がってた。3mm。

                すごい。私の目は、その傾きが見えてなかった。



                「形は一カ所だけ直しても意味がないんです。何かがおかしいなと思うときは、たいてい全体が
                 どこか違っています。違っている場所をすべて、少しづつ修正する。それが基本です」

                と言われた。
                ものすごく深淵なことを言われた気になる。
                何かがおかしいと思うときは、そこだけを直しても直らない。
                おかしくないと思っている場所も、少しづつ歪んでいるから、全体に手をつけなくてはいけない。
                仕事のプロジェクトとか、人間関係とか。
                なんか全部に通じる気がしてきた。
                いや、わかんないけど。もっと単純なことかもしれないけど。とにかく深いような気がしてきた。


                なんで、全体を見直して少しづつ修正をはじめる。
                少しづつ、なんだか整合されてくる。
                うむー、深いと思っていた頃、描きはじめて10時間ほど経ったところで
                真打ちの先生が登場して、全体を見てまた

                「早すぎる」

                と言った。



                木炭でただ円柱と角柱の形を取り続けて10時間経って、「早すぎる」。
                ほええ。

                デッサンは完成させようと思ってはいけない、雑になると言われたことを思い出し
                そして、そういえばこの人に、一番最初に言われたのが


                「描き方を教えるのは簡単だ。でも、大事なのは自分で気づくことだ。教えられることに慣れた人間は、自分だけの力で同じことができなくなっていく。気づく目を持つには、対象物と徹底的に向き合う時間が必要なんだ」

                ってことを思い出す。



                なんか自分

                いままでの人生、常に、答えだけを欲しがっていたのかも。

                教えてもらわなくちゃわかんないじゃん! とぶーたれた自分って、まさにデッサンで
                「やっちゃいけないこと」をしてたんだなーって思う。

                思えば仕事しながら、ほんとにいつも
                いかに早く完成させるか
                効率よく進めるか
                なるべく多くのことを時間内にこなすか

                みたいなことばーっかり考えてきたなーって思う。
                本意じゃないところで、なんだか時短のプロみたいになっちゃったところもあるし
                時代的にはライフハックが流行して、効率よいことに価値が見いだされ続けてきたわけで

                そんな風になっている自分の感性に、しみじみと入ってくることがいっぱいあるなー。
                デッサンするだけで。

                ほいで、全体をちょいちょい修正して、なんだかもう完成じゃん? と思ってた私のデッサンだけど
                そこから先生が

                「カルトンを対象物の前に置いて、距離を取って10分以上見ろ。すぐに動いてはいけない。
                長い時間、ふたつを見比べてみろ」

                というので、そういうのをしてみた。


                ちがうちがう。
                ぜんぜんちがう。

                あそこ曲がってる。
                あそこの長さ違う。
                円柱じゃなくて楕円形かも。2mmぐらい。

                明るさの差がおかしい。
                テーブルの線の位置も違う。

                もう違うところだらけだった。


                数時間前には、もう何も修正する必要もない、完成だと思っていた自分の絵なのに。

                たぶん、教えてもらうことは簡単だったのだろうけれど
                大事だったのは、いま、自分で気づけたことなんだ。
                そのために、12時間必要だった。
                いや、まだまだ必要だけど。でもとりあえずは、気づいた。
                ほっとかれた時間、意味があった。すごい。



                デッサンの教室は、いくつか通ったことがある。
                でも、どれも時間内に完成させることが大切で、完成を目指して時間配分をした。
                特に受験系のデッサンは時間配分がとても大事で、完成させなくちゃいけないから。
                カルチャースクール系の場所では、先生がていねいに描き方やコツを教えてくれた。

                そういうことじゃなかったんだ、ってはじめてわかった。
                それは、やっぱり、ふんだんに使える時間があるからこそ、なんだろうと思う。
                で、それだけの時間がないと、「腑に落ちる」形で気づかないことって、いっぱいあるのかもしれない。

                だってね、完成系として最初の円柱と角柱のデッサンされたものが必要なのであれば
                一番確実で簡単なのは、写真に撮ってトレースすることなんだよ。
                ​仕事だったら絶対そうする。それが通用すれば、デッサン力なんて必要ないってことになる。
                時代は、ちょっとそんな傾向にあるような気もする。


                いまの子どもたちはほんとに時間がなくって
                なるべく早く答えを得て
                時間内に多くを処理して
                効率よく学ぶことが繰り返されていて

                仕事をしたらしたで
                とにかく早めの納期で手を動かすことばかりを繰り返してしまう。

                その前の「見る」こと
                「気づく」ことに
                自力でたどり着く時間も、サポートもなくて

                そん中で、いろんな想像力や、気づく力が衰えてしまってるんじゃないかなーって思う。



                大事なのは、気づくこと。

                大事なのは、ただただ、見ること。


                ★ がっつり対象物と向き合って、時には距離を置いてじーっと見つめてみるだけで、正しいと思っていたことが、ぜんぜん違っていることに気づく。

                ★ 違っているなと思った時は、一カ所がおかしいのではなくて、全体が少しづつ違っているから、全体に手をつける必要がある。

                ★ 教えてもらうだけでは力はつかず、長い時間をかけて自分で「気づいた」時はじめてそれは自分の力になる。

                デッサン一枚で大切なこと、いっぱい教わった気がします。


                いま日本の学校からは急激に美術の時間が減らされているそうだけど
                美術を学ぶことは
                想像力を養うってことなんだよね。

                で、その想像力ってのは、見て、気づいて、時間をかけて養われる。



                おいらも頑張る。
                 
                category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(90) | - | -

                このブログを読んでくれた人の検索ワードがひどくおもろく、すんばらしいという件

                2016.04.22 Friday 10:07
                0
                  ブログにアクセスログの機能があって、検索ワードが見れるってことをはじめて知った>いまごろ。

                  開けてみたよ。
                  なんやかんやいって、毎日何百人の人が読んでくれてることにびっくりだけど、その人たちがどんな検索ワードでここにたどり着いたと思う?
                  いやあ、もう、楽しくて、おもろくて、すばらしいと思う。
                  ビバ。
                   
                  ご飯作りたくない 5 全検索数に対する割合  0.8%
                  ご飯 作りたくない 4 全検索数に対する割合  0.6%
                  夕飯 食べる 面倒 3 全検索数に対する割合  0.5%
                  ご飯作るの面倒 2 全検索数に対する割合  0.3%
                  料理 面倒 2 全検索数に対する割合  0.3%
                  食事 めんどくさい 2 全検索数に対する割合  0.3%
                  ごはん作りたくない 2 全検索数に対する割合  0.3%
                  ご飯 作る めんどくさい 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  面倒な時の夕飯 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  五十歳 英語覚えられるか 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  ヨーロッパ 外食 高い 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  http://izoomi-momo.jugem.jp/?eid=1243670 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  外食 高い 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  エコールド ボザール 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  料理を作りたくない 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  夕ご飯作りたくないよう 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  ごはん つくりたくない 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  ご飯 作る 嫌 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  毎日ご飯めんどくさい 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  食事用意 めんどくさい 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  子供に毎日ご飯作るの面倒臭い 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  料理 面倒 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  夕飯作りたくない時のメニュー 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  何も作りたくない時 夕飯 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  夕飯作りたくない 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  サイレントピリオド 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  ご飯を作るのが面倒 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  夕飯 めんどくさい 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  子育て 料理作りたくない 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  ごはんを作りたくなる 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  イタリア 切れ長の目 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  主婦夕飯めんどくさい 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  ご飯 めんどくさい 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  ごはん作り めんどくさい 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  食器洗いご飯作りなんか全部やりたくない 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  サラダ作るのめんどくさい 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  食事 面倒 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  料理が面倒くさい 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  自分の存在を脅かす者は排除 1 全検索数に対する割合  0.2%
                  ごはん めんどくさい


                  あのね。
                  前に、日本のごはんづくりはなんでこんなに面倒で、フランスはラクだと感じるんだろう? って記事を書いたとき、本意に反してバズって、いろんな意見をもらった。

                  バズると、普段接していない人たちからの声も入ってきて、いろいろおもしろいけど、どこかでざわついて、自分の軸がぶれてしまうこともある。

                  私は、手を抜けって言ってるわけでも、日本の食文化を軽視しているわけでもないんだけど、でも、ごはん作るのなんて簡単なことだと思う人が結構いて、日本の食文化は一応すばらしいと言っておかないと危ういのか、というような気になる反応も、あちこちで(ネット以外からも)あった。

                  ほんで、そういうのめちゃ勉強になった。



                  でも、上記の表の検索ワード見ると、なんだかいろんな本音が見えて、おもしろいなー。
                  もちろん、数的には少しづつなので、これが世界じゃないんだけど
                  一人一人の心の叫びって、こうして見てみると力があるなーって思う。


                  やだなーって思うけど

                  やってるんだよ。


                  めんどくさい! って思っても

                  ちゃーんと作ってるんだよ。



                  本当にネグレクトしてしまう人は、ネットでこんなワード検索しないから。



                  人生って、そんなもんだよなーって思う。



                  やだな、やだな、って言ってることが
                  本当にいやで
                  ほっといたらほんとにしない、ってわけじゃなくて

                  どうやったってしなくちゃならないから

                  やだなーっていいながら

                  やってるってことが、いっぱいあるように思う。
                  仕事だって同じだし。



                  ごはんめんどくさいなー
                  子育て辛いなー
                  もうやめちゃいたいなー


                  ってつぶやく人がいても
                  「そんなもんちゃちゃっとできることだ」
                  とか
                  「親のくせに」
                  とか

                  言わないであげて欲しいなーって思う。

                  やだなやだなーって気分がちょっとだけ
                  あ、これだとラクだったなー、とか
                  面倒だけどやってみたらすっきりしたわ、とか

                  なんか今日は気分よくできて自分偉いわー! って

                  そう思えるひと言とかヒントとか

                  そういう声かけしてあげて

                  ま、いいじゃん
                  できない日はできないんだから
                  気にするな、そのへんにあるもん食べてねてしまえ

                  面倒だ、大変だと思うぐらいで
                  あなたの価値は何も変わらないから、って言ってあげるのが

                  年上の人たちの役目だと思う。

                  保育園落ちた日本死ね のお母さんに投げかけた曾野綾子の記事読んで、
                  ほいでコメントに「曾野綾子さんはまっとうなことを言ってる」なんてのもみつけて
                  すっかり暗澹しちゃったので、今朝のつぶやきでした。
                  category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(0) | - | -

                  「それはよい趣味ですね」と言われたけど、趣味って何? フランス語には「趣味」って単語ないみたいだよ。

                  2016.04.11 Monday 11:25
                  0
                    先日友人と話していた時、
                    「銅版画されているのね、それはとてもよい趣味ですね」と言われた。

                    んだけど、あれ? 私、銅版画趣味でしてたんだ?? と一瞬ポカンとしてしまった。
                    趣味でしている気は毛頭なかった。
                    でも、先日書いた「肩書き」のブログの内容のようなことで言うと
                    それで生活費を稼いでいるわけではないので、「仕事」ではないんだ。

                    仕事じゃないけど、趣味でもない。
                    あれれれ?

                    …と思ったところで
                    そうか

                    趣味 と
                    仕事

                    という言葉の解釈がどこにあるか、ってところの問題なんだ、と思った。


                    ご趣味はなんですか?

                    という会話は、日本語ではとてもよく交わされていて

                    「観劇です」とか
                    「東海道五十三次を回ることなんですよー」とか
                    「水彩画に凝っていまして。。。。」
                    なんてあたりから、最近では

                    「リアルスイーツのアクセサリーを作って、creemaで販売しています」だの
                    「スワロフスキーのデコで携帯カバーを作っていて、それでプチ稼ぎしています」
                    なんてことにもなっている気がする。

                    (ちなみに、主婦の「プチ稼ぎ」というのが、月額いくらぐらいを指すのか、という質問を
                     某有名主婦雑誌の編集長に聞いたところ、”1万円” という答えが返ってきて衝撃だった)

                    辞書では
                    「仕事、職業としてではなく、個人として楽しむこと」が、趣味の意味。

                    「仕事、職業」というのがあくまでも主体であって
                    それ以外の時間に余暇で楽しむことが、趣味。

                    仕事と職業は社会に属すことで、趣味は個人に属すこと。

                    サラリーマンが休日にどんなによい写真を撮っても、それは趣味。
                    主婦の仕事は家事だから、それ以外の時間にプチ稼ぎをしたとしても、それは趣味。
                    そういうことなんかなー。



                    私は、普通は趣味と言われるようなものがとても多くて、あれこれ手を出しすぎるなって言われることもあるけど
                    でも
                    それは根っこで全部つながっている。

                    ワイヤーをぐにゃぐにゃするのも、布を染めてぐにゃぐにゃするのも
                    銅版を引っ掻いて腐食させて版画を作っているのも
                    何かを表現したくてたまらない自分の中にあるものの、手段を探している。

                    空いた時間に、趣味として楽しんでいますよー、っていうより

                    なんつか、もっと
                    ひりひりとしたものだ。


                    それで、ふと思い出したのは

                    フランス語の辞書で「趣味」と引いたとき

                    該当する言葉がどうやってもみつからない、ってこと。


                    敢えていえば「Hobby」。
                    それ、英語だ。
                    つまり、フランスには同様の単語がないので、英語で使われているってこと。

                    フランス語はHを発音しないので、オビー となる。
                    ほでも、あなたのオビーは何ですか? なんて質問
                    フランス人からされたことないなあって思う。

                    普通に辞書に並ぶのは
                    Gout
                    Passe-temps

                    つまり、「○○が好きとはよい趣味の方だ」として使われる、「感性」と同義語の趣味。
                    もういっこは、暇つぶし。
                    例文で多くあるのは、こちらなので、直訳すると
                    「暇なときには何やってんのー?」
                    「うーん、読書したりトランプしたりとかかなー」なんてことになる。

                    ここで「油絵をもう10年ほど描いている」なんてことになると
                    それは暇つぶしではなく、もっと主体的、能動的なことになってうまく噛み合ない。

                    逆に日本だと
                    「趣味は油絵で、もう10年ほど描いています」という人でも
                    受け取る側が想像するのは、カルチャースクールに通ってるのかな? 的な解釈になりがちで
                    なんというか、「趣味」ってすごくよく使われる言葉だけれど
                    価値としては、社会的な地位や職業みたいなものと大きく区別されているものの気がする。
                    だから
                    「ああ、それはいい趣味をお持ちですね」って言われて
                    私は一瞬、うまく理解できなかったんじゃないかと思う。
                    それ、仕事と同じぐらい、っていうかもっと、大事で価値があると思っていたから。

                    ここからはものすごく自分勝手な解釈になるけれど

                    フランスのように非常に個人主義的な価値観や発想から考えていけば
                    重要なのは、その人が何をしているかなのであって

                    それで「お金を得ている=仕事、職業になっている」のかどうかとか
                    「社会の側にあるのか、個人の楽しみなのか」どうかなんて
                    全く関係ない、ってことじゃないのか。

                    「絵を描いています」という人に対して
                    それが対価を生んでいるのかってあたりを分ける意味はないし
                    会社員をしながら描いてるんだから、それは趣味、と判断する意味もまったくないってことになる。
                    「描く」ことに価値があるのだから。





                    そういえば、「あなたの職業は何ですか?」と尋ねるときも、フランス語では
                    「あなたはあなたの人生で何をしているの?」という構文になることが多い。
                    「仕事」「職業」という言葉が登場しない形で。

                    そこでの答えは、○○会社で営業をしていると答えてもいいわけだし
                    その傍らでボランティアをしていると答えてもいいわけで
                    大事なのは、「その人」が何を基軸にしているかってことなんだと思う。



                    私はもう20年近くフリーランスで、ほんとのほんとに1人っきりで仕事してきて
                    その前に10年フルタイムの会社員だったので、最初は一日の時間の使い方に慣れなくて困った。

                    昼の時間に仕事をせずに、デパートに買い物に行ったり、昼寝することにも罪悪感を感じて
                    みんなが仕事をしている時間は、「稼ぐ」ことにつながる活動をせねばあかん! と
                    律儀に頑張った。

                    ほいでも、フリーで仕事しながら、仲間とチャリティ活動をしたり、同じフリーの子たちと
                    食事したり展覧会でかけたりを繰り返しているうちに、だんだん
                    何がお金を生む「仕事」で、何がそうでないのか、って境界線があやふやになり
                    公とプライベートの区別があまりなくなってしまった。

                    いまは、1週間のうち、外出が多い、忙しい、忙しいと思って過ごしていても
                    そのうち、ギャランティが発生する「仕事」が一個もなかった! なんて週もある。
                    いや、搾取されてただ働きしてるって意味じゃなく
                    友達と飲むのも、展覧会に行くのも、知り合いの手伝いに行くのも
                    ぜんぶ私の用事であって、同等に大切で意味があるものだから
                    区別がなくなってしまっただけ。


                    そんな風に暮らしていたら
                    銅版画をすることも、絵を描くことも
                    ほかのすべてと同様に、人生で自分を表現していくための真剣な手段だって気がする。

                    このところ、久しぶりに会う人から続けて
                    「いづみちゃんは今、仕事は何が中心なの?」って聞かれて
                    「何やってんだろうー、あれ?」ってとっさに出てこなかったけど>笑
                    何が「仕事」で、何がそうでないのかが、もうあんまりよくわかんなくなっちゃったんだと思う。

                    もちろん、生きて行くために稼がなくてはならない(なんといっても、私はシングルだし
                    何かあったら私を養ってくれる人なんておらんわけで、このあたりはかなりシリアスに崖っぷちだ)
                    わけなので、ちゃんと仕事もしなくちゃならない。
                    生きていくのは優しくはない。


                    以前、フランス人の友人と話していて
                    子どもを育てていれば、国からある程度の給付金がもらえるし
                    アーティストでいるということでも、給付金がもらえて
                    「稼がなければ価値がない」というぎりぎりのところで生きなくてよいというのは
                    心の持ち方に大きく影響する、って言われた。

                    フランスが日本よりいいと言いたいわけじゃなくて
                    いろんな問題点はいっぱーい抱えているんだけど


                    フランス語に「趣味」って言葉が存在しないよね


                    というたった一つの事柄だけから
                    「人生で稼ぐことの価値」
                    という価値感の違いが、ちょっと透けて見えるような気がしたです。



                    ってことで、銅版画は私にとっては趣味じゃないんです。
                    でも
                    かといって、仕事でもない。
                    売って儲けようとか、賞を取ってやろうとか、そんな方向性で考えたことがない。

                    でも、
                    なんだかそれをせずにはいられないこと。

                    自分が自分であるために、模索し続ける中でやり続けること。


                    そういうものを日本語では何というんでしょ。


                    フランス語のように

                    「あなたは、あなたの人生で何をしていますか?」



                    それで、いいような気がするんだけどね。






                     
                    category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(7) | - | -

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