「一人だったら絶対作らない」という食卓の背景には何があるんだろう? ってことを一人の食卓から考える

2017.11.13 Monday 13:03
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    インスタグラムにごはんの写真をたまに乗っけている。

    なんでそんなことを始めたのかってことは前のブログに書いた。

     

    それで、そんなひとりごはん写真を見た人から、かなりの頻度でこんなことを言われるということがわかってきた。

     

    「一人なのによく作るねー! すごいよ。

     私、もし一人だったら絶対何もしないと思う」

     

    みたいな。

     

     

    それ、たぶん褒められているんだと思うんだけど

    不思議なことに

    そう言われたあとの自分の気持ちは

    褒めてもらった時のように、ぽこっと脳内に小さなドーパミンの放出が起こることはなく

    わあ、うれしいなあ、ありがとう! という気持ちが芽生えることもあまりなくて

    なんだか、とても不思議な微妙な気持ちになる。

    そう、どちらかというと、少し

    凹む。

     

     

    それ、なんでなんだろうなあということをずっと考えていた。

     

    言ってくれる人は本当に優しく本心で言ってくれているのはわかっているし

    すごいなあ、えらいなあと思ってくれているのに変わりはなく

    でも

    その時に自分の中に芽生えるもの

    そしてもしかしたら

    言ってくれた人の中に芽生えるものというのは何なのか。

     

     

    そんなことを今日は考えてみたいと思った。

     

    @楽しいと作りすぎるのが難

     

    かなり前のことになるけれど

    5人家族の友人が

    ほかの家族が全員出かけてしまって、昨夜は一番下の子と2人だけの夕ご飯を食べたのだ、と言った。

     

    そうしたらその子が

    「お母さんと二人だけなんて寂しすぎる。こんな静かな夕ご飯は嫌だ」と言うので

    「”まあ、なんてことを言うの。世の中にはそういうおうちもたくさんあるのよ。贅沢を言っちゃだめ”と怒ったのよ」

    と話されたので、ちょっと(いや、かなり)ムッとして

     

    「うちはいつも ”そういうおうち” だけど?」

     

    と言ったら、悪びれる風もなく「そういうことじゃなくって私と二人じゃ嫌だってどういうことなの! ってことよ」と笑っていたけど

     

    その時の私は、

    自分自身の状況に、ではなくて

    ”そういうおうち” と、とっさにカテゴライズされてしまうメンタリティみたいなものに、ちょっとばかり凹んだ。

    彼女の脳裏に「寂しい食卓」としてイメージされた風景は、我が家の日常ってことか、と。

     

    いや、言うほうは大仰には考えていないんだと思う。

    ただ、私のような人生のプロセスを持つ人間にとっては、この手の

     

    「欠け」

     

    を無意識に指摘される言葉のようなものに敏感なだけなんだろうと思う。

     

     

    似たようなことは、いろいろある。

     

    食べ盛りの子供を持つ人たち同士で

    「毎回ごはんを5合炊いても足りない。コメの消費量半端ないよね?」 と同意を求められたので

    「いや、うちは2合炊いて冷凍しても足りる」と言ったら

    「はああ? 信じられない! ああ、なんてうらやましい」とすごく驚かれたけど

     

    その時も、ちっともうらやましがられている、という気がしなかった。

     

     

    夫とか子供の数とか兄弟とか、いわゆる家族って構成のもの。

    その「欠け」のようなものを、コメの消費量になぞらえて、ただ指摘されたという気になった。

    不思議だけれど、自分自身の中にも、それは本来はあったほうがよいもので

    持たない自分はそれをなんらかの「欠け」と認識してしまうのだなあということを

    子育ての間はよく痛感したものだった。

    子供に対する責任感からくる、離婚後の負い目みたいなものもあったのかもしれない。

     

    もちろん、離婚→シングルで子育て→今一人暮らし の私には存命の両親がいて、子供もいて、仕事も家もあり

    「欠けている」なんてことを思うこと自体が無意味だと言うことはよくわかっているのだけれど

     

    ふだん自分がまったく気になんてしていないことを

    何かのきっかけで外側の世界から

    「欠けている」と指摘されたような気持ちになってしまうというのは

    人の精神構造というのは不思議なものなんじゃなあ。

     

     

     

    ということで、たぶん冒頭の

     

    「すごいわね、私、一人だったら絶対に何もしない」

     

     

    と語りかけられることは

    その手の「欠け」の指摘につながる部分があって、

    「一人であるわけがない」場所にいる人から

    「あなたは一人」のメッセージを自分が受け取ってしまうから

    なんとも不思議な気分になるのかな?

     

    と、まずは想定してみたんだった。

     

     

    いやいや、ところがだよ。

    これは全然的外れのような気がしてくるのだった。

     

    子育てを終えて、子供が巣立って、本当に自由にいま一人暮らしになってみたら

     

    「一人のごはん」って

     

     

    ちっとも「欠け」ではなく、

    私にとっては、それはもう楽しくて、面白くて仕方がないという世界なんだった。

     

    えっと、これはあくまでも「私にとって」だから。

    嫌いな人がいても、苦手な人がいても、ぜんぜん、いい。

    ただ、私にとっては、好きな時に好きなものを好きなように調理して食べて良い、というのは

    何にもまさる楽しみだし

    絵を描いたり文章を書いたりすることの延長線上にある、一種の創作活動なわけで

     

    だから、一人のごはんを作る

    と言う行為は、義務でも苦痛でも負担でもなんでもなく

    私には純粋な楽しみとして、日々の中に存在するようになった。

     

     

    これは、

    我が家が息子ひとりであったとしても

    誰か別の家族のためにごはんを作っている時には

    あまり感じられることのなかった感情で

    だから

     

    ごはん作りに関わる気持ちのありかって本当に面白いな、と思うわけなんである。

     

     

    「料理」をして食卓を整えるという行為自体は

    こんなに豊かで楽しさに満ちているのに

    それが「家族」に向いていた時代は、義務とか体面とかが不思議にからみあって

    よくもわるくも、なんだか不思議なことになっていたんだなあ、と今更ながら思う。

     

    それは時には「大変だ」という辛さであったり

    もしくは「夫や子供にはおいしいものを食べさせたい」という愛であったり

    「忙しくてもちゃんと料理はしたい」という自己に向けた意地のようなものであったり

    たぶん、子育て中にインスタがあったら、そこに手料理やお弁当の写真を載せて

    「自分はいい母親なのだ」という自己確認をしていたかもしれない。

     

     

    食べること、料理を作ること

    ということの背景にある、そんな、いろんな気持ちの渦みたいなものは

    子育てを終えて一人暮らしになってみたら、いたってシンプルなものになり

     

    コメの消費量とか食卓の人数とか

    そんなことで自分の「欠け」を刺激されることはなくなった。

     

    ほんとに不思議だけど

    まったく、なくなった。

     

     

     

    家族の分の食事を、毎日、人数分作り続けていくというのはほんま大変な仕事だと思う。

    特に、日本で。

     

    だからそれに毎日取り組んでいる人にとっては

    「一人だったら絶対にやらない」 ってのは

    一人になってまで、こんな大変なこと、まっぴらごめんだよ! というメッセージなんだと思う。

     

    でも、もしかしたら

     

     

    その中には

     

    「一人になってしまう」ことへの気持ちの回避も

     

     

    実は混じり合っていたりしないか。

     

    一人暮らしの人に「よくやるね、私は何もしないよ」って言われても何も思わないのに

     

    一人ではない場所から

    一人「だったら」やらない、と仮定されることに、私の気持ちが反応するのかもしれない。

     

     

     

     

    私には今年84歳の父と、彼をプチ介護中の81歳の母がいて

    その母が私によく言うんである。

     

    「いづみちゃん、ほんとにいいわね、ひとりで。

     すごくうらやましい。

     パパのごはん作らなくていし、自由に出かけられるし。

     私も一人暮らししてみたかった。どんなに気楽か」

     

     

    人生で、一度も一人暮らしをしたことがない人が、81歳になって一人暮らしの私を羨んでいるんである。

     

    そんな時には

     

    「一人で暮らす、一人っきりで生きて行くって、すごく自由だけれど

     それには責任が必要で、それはとてもハードなこともたくさんあるよ。

     私の自由は、それと引き換えに手に入れているもので

     ごはん作らなくていいわねとか、自由に出かけられていいわね、とか

     そういうこととはちょっと別のところにあるように思うよ」

     

    みたいなことを話す。

     

    一度家族を作って、そこから止むを得ず「ひとり」になり、

    今日も「ひとり」で暮らして行くという過程の中には

    ひとつひとつ乗り越えなくてはならなかった障壁のようなものがたくさんあって

    一言では説明しきれない時間の積み重ねがある。

     

    そこには自分自身でさえも、実際に直面してみないと想像もできなかったというような

    気持ちの変化や葛藤があったわけで、それを幾度となく経験しながら、今がある。

     

    自分の中にある、そんな「一人で暮らしていく」という軸のようなものの大切な一つが

    食事だったりするわけで

     

     

    だから、それはとても大事に

    面白がって

    まあ、やってるんである。

     

     

    そこを

    「一人だったら絶対やらない」

     

    と言われてしまう一抹の寂しさというか

    たぶん

    そんな感情が自分の中にあるのかもしれない。

    それは相手への違和感というよりも、自分自身に対しての自負のようなものだ。

    これは、ちょっとした気づきで、なんだか少し、自分のことが腑に落ちたような気になったのだった。

     

     

     

     

    ちょっと内容は違うけど、以前友達が

    「離婚した友達に、”大変だったわね、かわいそうに。困ったことがあったらいつでも言ってね”って急に集まってくるママ友たちがいたら、それはたぶんそれ言うことで ”よかった、私はこんなヘマはしないわ” って自己確認したいだけなので、放っておくがよし」

    って言ってたことあって、それはかなりいぢわるな目線だけれど、言われてみればそれも人の感情の複雑さの一面かもしれない。

     

    自分の言葉の中にある、アンヴィバレントな感情とか

    人の言葉から受け取る感情の不思議さとか。

    そんなことにひとつづつ気づいていくというのも、生きる面白さ、楽しさだという気もする。

     

     

    ってなことで、ごはんは一人でも作る人もいれば、作らない人もいる。

    私は作ってはいるが、それは偉いことでも立派なことでもなく

    ただただ、自分が楽しいから、そうしたいから、やっている。

    絶対やらないと思う人も、本当に一人になったら、楽しく作るかもしれないし、作らないかもしれない。

    でもそれは、本当に一人になってみてからでないと、あまりよくわからない。

    私も、そうだった。

    ほんと、ただ、それだけのこと。

     

    年齢を重ねるといろんなことがシンプルになっていく。

    それはそれで、ええこっちゃ、と思ったりしてる。

     

    category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(2) | - | -

    自分をどう見せたいのかって時期は卒業かもってことと、インスタバエな人生について考えたこと

    2017.10.30 Monday 10:10
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      ちょっと前に上野で藝祭を見ていたら、前を歩いていた女子二人の会話があまりに面白くてにやけてしまった。

       

      みんなが行くからナイトプールに行ってみた。

      笑っちゃったよ、みんな斜め上しか見てないの。

      インスタの自撮りしてて。

       

       

       

      たぶん誰も泳いだり食べたりすることにはあまり興味がなくって

      どうインスタに映すかってことが最大関心事だってことで、イベント自体もちゃんとそれを意図しているし。

      んで、その風景を想像してにんまりしてしまったのだった。

      あ、えっと、これ。

      よくある年寄りが近年の現象を嘆くとか、そういったたぐいの内容ではないからね。

       

      最近の人たちの写真の感性とか、映像画像としてのまとまりのバランス感覚とか

      ほんとに上手だしえらいもんだと思うし、文化のありかとしてインスタはとっても面白いと私は思ってる。

       

       

      んだもんで、私もちゃんとインスタはやっている。

      はい。

      主に毎日のごはんと、自分の作品だけだけど。

       

      ここ。

      https://www.instagram.com/izoomiizoomi/

       

       

      それで、それについて、はあ、なるほどと思ったことがあったので書いてみる。

       

       

       

      先日とある取材があって、自宅を撮影することになった。

       

       

      最近、私は自宅の撮影をお断りしている。

      理由は、最近とみに弱ってきた愛犬の存在。

       

      老犬がいると家中にタオルやクッションが散乱するし

      何より、におう。

      犬との暮らしを一番に考えたら、家の中を常に、誰に見られてもいいようになんて整えておけない。

      それを整えるために必要なエネルギーを考えると

      そのエネルギーは、とりあえず今の老犬との穏やかな時間にあてておきたい。

      そう思うようになった。

       

      @がんばれチョコ

       

      私はこんな仕事をしているから

      これまでずいぶん自宅での撮影依頼を受けてきたけれど

      カメラマンさんが来て私が意図しない場所も気に入っていただけた場合は撮って帰られると思えば

      やはりそれなりに家の中は整えておかなくてはならず

      そうしたことが頻繁に起こると、普段の暮らしぶりの中に、「誰かに見られる」という緊張感が入り込んできて

       

      それがまあ、家をきれいに保っておく機動力にもなるのだけれど

      やはり、時々つらいなあと思うことは多かったのだった。

      変な場所から覗き込まれたら埃だらけで、カメラマンさんが真っ白になりながら撮影なんてこともあって、いろいろ神経使ったなー。

       

      いや、自分の場合はそれで仕事をさせてもらって生きてこられているので

      十分にいろいろ感謝しつつ、

      自分が尽力して整えて暮らしている風景が、記事になったのをみればやっぱりうれしいから

      そこに「もっとこう見せたい」という気持ちが湧いてくることも多かった。

      そういう時の、

      自己顕示欲というか、自己確認欲というか

       

      外側から自分を俯瞰して

      それが現実よりちょっと盛られて(だって撮られると思えば片付けるしきれいにするし、見栄え良くもする)

      きれいな写真になって誰かに見られるという体験は

       

      なんというか、こう

       

      鼻の奥のほうで むふふふーふーん というような

      むずがゆいような

      誇らしいような

      妙な満足感が生まれるということを、私はよく知っている。

       

      そんな体験を繰り返していくと

      もう普段の行動の中にいろいろと

      こうしたらよく見えるかもとか、いい絵が撮れるかもとか

      そんなことを考えるようになり

      なんだか暮らしが等身大でなくなってくるというか

      第三者から見える自分という視点のほうが大きくなりがちで

       

      それがエネルギーになった時代もあったけれど

       

      いやあ、もうそれ

       

      いいですわー、だって疲れるもん、っていうのが最近の私なのだった。

      愛犬も年老いたし、息子も独立して家を出たし

      なんというか、「家庭」という枠組みを敢えて生み出す必要もなくったというのも大きい気がする。

      社会的に提示したくなるわかりやすい「スタイル」みたいなものがもう、ないというか

      それはもう自分ひとりという自身の存在でしかなくて、それもう、カテゴライズできないし、したくないしなー。

       

      前置き長い。

       

      そんで、そういう状態なので断り続けている取材なのだけれど、今回ひとつ、受けることにした。

       

      おつきあいが長いというのもあるし

      一人暮らしで等身大で暮らしを楽しむ感じ、という特集だというので、ありのままで撮りたいところを

      撮って帰ってもらえるなら。

      なので、何の準備もしないよ。もう、そのまんまで。

      という感じで。

       

       

      それで、事前に打ち合わせに来てくださっていろいろ見てもらって

      カメラマンさんが来る日にはだいたいこんなところを撮っていきますねーという連絡をもらった。

      ほいほい、どうぞどうぞ。

       

      ただ、その中にひとつ、

      「インスタグラムに載せている毎日のひとりごはんの写真をぜひ取り上げたいので

       大きく扱いたいので何かひとつ作っておいてください。冬なので温かいもので」

       

      というのがあった。

       

       

       

      それを見たとたん

      おお、そうか。

      何か作らなくちゃ。

       

      と私の脳内は動き出し、

      えっと、見栄えのする料理は何かなあ、器は何にしよう。

      冬らしいといえばやっぱり鍋系かしら。

      でも一人ごはんなのに豪華になりすぎると不自然だし、いい塩梅のメニューは何かなあ。

       

       

       

      と、急速に回転しだして

      ふと気がつけば

       

      食卓に並ぶ料理の風景を、グラビア的に俯瞰している自分に気がついたのだった。

       

      取材には真摯に答えたいから、希望してくださったことにはちゃんと応えたい。

      そんで、丸一日メニューを考え続けたんだけど

      その「俯瞰している自分」と、「俯瞰された風景を作るために何か行動をする」ために脳内がぐるぐるしている自分に気づいて

       

      ああ、これはもう辛いから

      やめよう

       

       

      と思ったんだった。

      だってそれは、ほんとの私の暮らしや人生とは別のものだから。

      いつものインスタグラムにある私の料理は、そうして作られたものではなく、その間の違和感を乗り越えられなかった。

      そんで、丁重にその部分をお断りして、写真はインスタグラムの中から使えそうなものを使ってください、とお願いした。

       

       

       

      いや、インスタだってそこに載せるために、俯瞰して撮ってる。

      確かにそうなんだけど

       

      私が一人のごはんをインスタグラムに載せるようになったのにはちょっとした理由があって

       

       

      ある日

      同じように子供達が独立して一人暮らしになったシングルマザーの友人から、こんなことを言われたからなのだった。

       

       

      「一人暮らしだと、一人でごはんを食べるのは寂しいでしょう? ってすごくよく言われるんだよー。

       でもそんなことないよね? 自分で好きなもの作って好きなように食べて、それ幸せだって思うんだよ。

       いづみちゃんのごはんの写真を見ていると、一人のごはんも楽しい! ってすごく思えるの。

       だからいっぱい写真載せて欲しい。みんなに、一人のごはんもいいよね! って知って欲しい」

       

       

      うんうん、それな。

      子供巣立って一人暮らしになったというと、必ず言われる。

       

      「お寂しいでしょう」

       

       

       

      いや、そうでもないよ。

      そんで一人のごはんも

       

      「味気ないでしょう」

       

       

      いや、ぜんぜんそんなことないよ。

       

       

       

      なので、一人ご飯もいいもんじゃというのを見て欲しいからいっぱい写真載せて! っていうのは

      ああ、本当にその通りだなあと思うから、インスタグラムに載せ出したんだ。

       

      それ、同じインスタに載せてはいるんだけど

      見てもらうために食卓を整えているのではなくって

      ほぼ自分だけのために自分の都合で自分用に作って並べて、ひとりで食べて

      その結果を写真に撮っていて、プロセスの中にあまり「こう見せたい」というのがないから

      楽だったんだなあと改めて思ったんだった。

      それを

      見せるために何か作ってくださいと言われたとたんに

       

      「こう見せたい」という気持ちが湧いて出て来て

       

       

      それがたぶん、今もういいやと思っていることなんだと思う。

       

       

       

      まあ、もちろん

      最後は写真に撮ろうと思うので、お皿に気を使ったり、見栄え良く盛り付けようという気持ちが働いて

      それが日々の暮らしをちょっと、シャンとしてくれている側面はあり

      そのあたりのバランス感覚をうまく表現するのはとても難しいのだけれど

       

      その行動をしている時の自分の視点が自分の中にあるのか

      第三者的に自分を俯瞰している場所にあるのか

       

      というのは、かなりメンタリティとしての違いが大きいなあと思ったのが今回のできごと。

       

       

       

      実は私が自宅の撮影を断り出したのは、これが2度目で

      一番最初に

       

      「自宅撮影はしないでください」

       

      と今思えば不遜な(すみませんでした)お願いをしていたのは

      ちょうどコラムニストとしてのキャリアが始まったばかりの、2000年の頃だった。

      当時私は朝日新聞で「ネオ家事入門」という連載をしていて、それが結構評判がよく

      雑誌の取材や書籍化の依頼などが立て続けに入り出したのもこの頃だった。

       

      合理的な家事。

      それを実践しているワーキングマザー。

       

      その人の家を撮して、いろいろ実践している技などを紹介していく。

       

      これ、雑誌では頻繁に見る内容だと思うけど、

      キャリアの駆け出しで、こうした取り上げ方をしてもらうことが大きな宣伝にもなるというこの時期に

       

      どうしたことか、私は取材依頼を全部断ってた。

      あほか。

      チャンスじゃないか!

       

       

      でも自分としては、これにはちゃんとした理由があったんだった。

       

      「撮影をされると思えば、見栄えがいいようにちょっとは片付けたり

       埃だらけの場所を掃除したりしてしまいます。

       そして、たいていはどんな家でも、風景を切り取ってカメラマンさんが撮影すると

       なんだかちょっと素敵な暮らしに見えることも、あると思います。

       

       でも暮らしていくって、そういうことじゃないと思うんです。

       特に小さい子供がいて、さらに働いていたら、家の中はカオスになって当たり前なんです。

       

       忙しくても、なんとかなる。きちんとちゃんとしなくていい。

       それを発信したい私の家が、ちゃんと片付いていてきれいに見えたら

       それを見た人の中には”こうしなくちゃダメなんだ” って思ってしまう人もいると思う。

       

       私がやりたいのはそういうことじゃないので、自宅は映さないでください。

       家事技などはハウススタジオとわかる場所でお願いします」

       

       

      やな感じのやつだ。

      でも本当にそう思ったんだから仕方ない。

       

      そんな感じで私は自分のキャリアを開始して、でもそれなりになんとかやってきて

       

       

      ただ、途中で離婚してシングルマザーになったので

      そこから先は

      ただ本当に

       

      子供を育てていくために

       

      声をかけていただいた仕事はそれこそ何でも、一生懸命やった。

      その中に、自宅の撮影も結構入っていたっていうこと。

       

       

       

      それ、もうそろそろいいかなあって思ってるってことなんだと思う。

      外側からどう見えるかってことより、また改めて自分自身に立ち戻って

      自分の目からいろんなことを見て決めていきたいなあって。

       

       

      でも

      そうやっていろんなプロセスを思い返していくと

       

      仕事もして子育てもして、家事も完璧で

      インスタとかフェイスブックにすんばらしいインテリアの家や家族のために作った料理の写真を披露して

      読モ(読者モデル)として雑誌に登場したり

      そんな若いママたちを見たりすると

       

      こりゃまあ

      並大抵のエネルギーじゃないぜ! って思うんである。

      ってか、おれ、仕事でやってたからなんとか割り切ってできたんであって

      生きて稼ぐためにどうしても必要だったというのではない場所で

      これだけのエネルギーを割いていることのすごさについて、しばしくらりとすることがある。

       

      「仕事として」の場ではなくて、そのままの素の自分の暮らしと人生に

      「どう見られるか」という意識が大量に入り込むことの危うさについて

       

      やっぱりどっかで、自覚しておいたほうがいい気もする。

      それ、すごく疲れるし、等身大を見誤るから。

      特に子育て中の「素敵なママ」「いい家庭」「ちゃんとした暮らし」という外側の枠組みを含めた俯瞰から自分をどう見せたいかを考え始めると、かなりしんどいことになっていく。それはもう、確実に。

       

      そのエネルギーは、もしかしたらもっと別の場所に使うほうがいいのかもしれない。

       

       

       

      インスタ映え

       

       

      って言葉がもう当たり前のように使われるようになっていって

      形に残すからこそ、だらりんとしてしまう日常にちょっと背筋が伸びるきっかけができて

      レイアウトや盛り付けやファッションのセンスが、みなどんどんよくなっていく

       

      それはとても素敵なことだって思うけど

       

      今の自分はプールに行ったらやっぱりまずは泳ぎたいし

      うまいものはまずは食べようよ、冷めるまで撮影に熱中しないで、って思う。

      ま、インスタ熱もそのうち冷えるだろうからいいんだけど>笑

       

      ただ、私が雑誌の取材なんかを通して、不思議な体験として自分を俯瞰することの

      刺激的な魅力と、一方での危うさを体験してきたことが

      今はみんながインスタグラムとかで体験していて

      それ、すごく面白いなあと思う。

       

       

       

      ってなことで

       

      撮影のために何か作ってください

       

       

       

      という一言でものすごく苦しくなってしまった自分が面白かったので書いてみた。

      またなんだか、とりとめがない。

       

      ここは、しごく個人的なとりとめないブログなので、ごめんなさいです。

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

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      一汁一菜の雑誌記事見てひっくり返った&日本のごはんはどこから複雑化したのかについて考えた

      2017.10.15 Sunday 11:12
      0

        さて、賛否両論多いごはんネタだよ。

         

        今回のテーマは「一汁一菜」。

         

        最近大いに語られることが増えた一汁一菜。私は土井善晴さんの本に感激した。

        ありがとう、そう言ってくれてありがとう。そうだよ、それで十分。なぜいままでそうならなかった?

         

        ただ、あの提案がこの時代にすんなり受け入れられたことに対する、なぜ? という気持ちもあった。

        だって、まあ、こんなちっぽけな存在ではあるけれど

        私もずっとずっと、

        ごはん頑張らんでいいでしょ?

        毎日同じものでもいいでしょ?

        みたいなことを考えて続けていて

         

        そういうことは海外に出ると本当に強く、しみじみと思うわけなので

        (だって、毎日こんな複雑な食事を主婦が作っている国に行ったことがない>笑)

        そんなことをブログに書いたりすると

        一定数の「そうだよねー」というコメントと一緒に

        いや、和食のすばらしさは世界に誇るものだ とか

        パンじゃなくてごはんじゃないと無理だ とか

        和食より洋食がおしゃれに見えるだけなんだろう とか

         

        そういうちょっとした反発感というか

        抵抗感というか

         

        そういう感情が引き出されて来る、ということを何度か経験してきたから。

         

        まあ、私がフランスに行くことが多くて、向こうの食事が楽だと考えたり

        アメリカで毎日同じメニューでも大丈夫となったらものすごく楽になったとか

        その手のことを書くので

         

        だからそういう言い方が反感を買うんだよ

         

        と言われたこともあり、

        ああ、そうなのか。海外のことを引き合いに出したらいけないのだな。

        テレビ見てたりするとさかんに

         

        日本人でよかった

        日本に生まれてよかった

         

        と和食を食べながらコメントする場面が出てくるし

        いずれにせよ

        食事と、食事作り(ここ大事。外食文化と、家庭でごはんを作るという話題は別のものなんだよね)って

        ものすごくいろんな感情を引き出してくるんだなあ、と思うことが多かった。

         

        だから、土井善晴さんの一汁一菜を読んだとき

        これがなぜ受け入れられたんだろうというと

         

        彼が男性だから

         

        そして彼は料理のプロで、しかも伝統的和食のサラブレッドだから

         

        その上で、一汁一菜であってもごはんを丁寧に炊き、だしを取り、素材の美味しさに気を配って

        「愛情をこめて」つくればそれでいいのだ

         

        ということを基本においているからなのだ、と改めて思ったのだった。

         

         

        「フランスの食卓楽だよ、

        そういうこと、日本のごはんだってできるんじゃない?

        朝は炊飯器でタイマーごはん炊いて、納豆や佃煮をトレーに乗せて冷蔵庫に入れておけば

        あとは誰かがそれを出して、それぞれ自分でよそって好きに食べていけばいい。味噌汁インスタントだっていいし」

         

        なんて言い方ではだめで

         

         

        日本の食はすばらしい伝統があるからそこに立ち返り

        丁寧においしく炊いたごはんがあれば、そこに具沢山の味噌汁を加えてあげるだけでいいんです。

        愛情をこめて作れば、一汁一菜でも十分ですよ、みな忙しいんですから。

         

         

        と、和食のプロの男性が言うことの

         

        なんかすばらしく大きな違いがあるなあ、と思ったのだったよ。

         

         

         

        タイマーごはんでインスタント味噌汁

        なんか1品つけとけ、納豆でもめかぶでも。市販品でいいから

         

        ではやっぱり誰も納得しないのだと思う。

         

        そこに横たわっている、なにか大きな「精神性」みたいなものというのが

        日本の家庭ごはんの形に、いろんな影響を与えているんだなあというのが、最近の関心事なのだった。

         

        でも本当にありがとう。

        土井善晴先生。

        どんだけの人の気持ちが救われたか。

         

        ごはんと味噌汁だけの食卓でいいよ。

        それが逆に今はおしゃれで流行よ。

        栄養価だって満たされているから安心して。

         

         

        救われる。

         

         

         

         

         

         

         

        すごくいいなあと思う気持ちでいたところ

         

        先日こんな雑誌の特集を見て、なんだかひっくり返ってしまった

         

         

        ごはんづくりに”疲れたら” 一汁一菜でもいいらしい。

         

        表紙の写真、一汁一菜なん?

         

         

         

        めくってもめくっても

        出て来るのは

         

        ごはんと味噌汁とおかず という写真で

         

        しかもそのおかずには

         

         

        たとえばお肉を炒めたようなものの横に千切りのキャベツのようなものが添えられて、プチトマトが彩りに。。。。

        みたいな(具体的によく覚えていないけど、いわゆるそういう風景。大戸屋の定食みたいな)一皿で

         

        なんか

         

         

        土井さんの提案は、ごはんと具沢山の味噌汁 を一汁一菜と考えていいですよ というはずだったのが

         

        「ごはんづくりに疲れたら一汁一菜ごはんでもいいですよ」と提案されているのは

         

        ごはんと

        味噌汁と

        おかず

         

        に増やされていて

        さらにそのおかずは

         

        一菜 ではなくて、主菜に2つぐらいもう、副菜が盛りあわされているという、

        もうてんでらくちんでもなんでもないものになっていた。

         

         

        それで、ネットで一汁一菜ごはんと画像検索してみたら

        出て来るのは、やっぱり、立派なごはんと味噌汁とおかず(副菜盛り合わせ)というようなもので

         

         

        ああ、そうか。

         

         

         

        一汁一菜というのは、もとは土井さんがいうようなごはんと汁物ではなくて

        ごはんと汁ものとおかずだったんだっけ、と改めて思い出したのだった。

         

        そんじゃ、なぜ、ここまで立派な食卓なのに、それを「ごはんづくりに疲れたら、こんな一汁一菜の食卓だってぜんぜんかまわないんですよ」なんてことを言ってもらわなくてはならないのか(ってか、これすごい状態だと思うよ。ここまでやっても、従来はダメだったってことなんだから。それを”いいですよ”って言ってもらわないと楽になれないってことなんだから>ふえー)

        その前提には

         

         

        一汁三菜

         

         

        という家庭料理の基本のようなものが存在しているからで

        それ

        改めてグーグルで「一汁三菜」で画像検索してみて、さらにひっくりかえった。

         

        すんばらしい。

        並んだ画像に圧倒された。やってみて。

         

        結局、日本の家庭料理の基本として私達が叩き込まれてきたのはこういう風景だったんだなあと改めて。

         

        https://www.yamaki.co.jp/knowledge/dashi/recipe.html

         

        勝手に画像ひっぱってきてはいけないので、リンクで。

        ありがとうございます、かつおぶしのヤマキさん。

         

        あと、ふたりぶんの素朴な朝食という画像もみつかった。

        https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=20027004616&GroupCD=0&no=96&brandrm=True&brandrf=True

         

        素朴だそうだ。

        皿数すごい。

         

         

         

        それで思い出したんだけど

        ちょっと前に、ある団体が出している媒体に土井さんの本を引用して「一汁一菜」が話題ですよね、という記事を書いた。

        ちょっとした工夫で、炊きたてごはんさえあれば準備は簡単でいい、と。

         

        そしたらそれはボツになった。

         

         

         

        なぜかというと

         

         

        「わたしどもは家庭料理は”一汁三菜”を基本に常々情報を発信しておりますので、一汁一菜は困ります」

         

        ということなのだった。

         

         

         

        こうしたちょっとした媒体や

        病院でもらうパンフレットや

        日々目にするいろんな料理レシピや

         

        まあ、そんな場所から、どうやら気づかないうちに私らは一汁三菜を指導されてきたかもしれない。

        理念として勉強しなくても、日々目に入って来る視覚記憶のイメージみたいなものも大きいし

        あとは

        育ってきた家庭で見てきた食卓の風景を基本に考えていることも多いのかもしれない。

         

         

        ごはんとおかずを出したら

        「これだけ?」と夫に言われたとか

         

        ワンプレートだと手抜きに感じるとか

         

        いろんな場面での「視覚の記憶」みたいのは結構大きいからね。

         

         

         

         

        そういうの、習慣的にごはんを作っていたら当たり前になっていることも多いけど

        考えてみたらすごいことだなあ、と本当に思うのだった。

         

        主菜のお肉や魚の横にも、なにかしら付け合わせをつけて

         

        そのほかに小鉢を2種類ほど作って

        そのすべて調理法が違ったりするから、いろんな味付けや調理法を繰り返して

        皿数を増やしていくってことになるわけで

        簡単に済ませようと思えばそれもちゃんとできるけど

        手をかけようと思ったらもう、再現なく手をかけることもできちゃう。

         

         

        日本食が一番だと、日本礼賛される方からみたら、またそれか、お前は、と思われるかもだけど

         

         

        フランスで誰かの家で普通に夕食を食べようというとき

        作り手が作るのは、ほぼ1種類の調理だけということが多い。

        肉煮る、焼く、みたいな。

         

        あとは指示がとんで

        「レタスあらってボウル入れてオリーブオイルとバルサミコかけて出しておいて」とか

        「パン切って」

        「チーズ出して」

        「皿とフォーク出して、あとワイングラス」

         

        みたいなことでたいてい済んでしまう。

         

        3種類以上の調理が必要な料理がずらりと並ぶことはあまりないし

        それをさらに一人づつに小分けにして出すこともあまりない。

         

        ある日のフランス友人宅の夕ご飯。作ったのはこれ一皿、ふたりぶん。これで終わり。

         

        そんで、欧米に移り住んでいる友人たちと話をしていても、たいてい聞こえて来るのは

        「日本の主婦すごすぎる」という話ばかりで

        海外でもごはんや日本食を作って食べてはいるけど、日本にいたときのような作り方はしない、

        ごはんの横に肉じゃがのっけて一皿で終わり、という形でもぜんぜんみんな喜ぶみたいなことをいう人が多い。

         

         

        だから日本の家庭料理はすごいな、えらいな

         

        ってことかもしれないけど

        そのすごさって

        ほんとにそこまで必要なのかなあって私は思ってしまう。

        いや、苦もなくやれて、やりたい人はどんどんやればいいんだけど。

         

        (と、かくいう私もひとりでもいろいろ調理好きで作ったりしているので、ほんと

         やりたいひとはどんどんやればいい。ただ、それを規範としなくていいんじゃないの? ってだけで)

         

         

         

         

        んで、

        どうしてこの一汁三菜ということになってきたんだっけ?

         

         

        というあたりを遡っていくと

         

         

         

        結局一汁三菜というのは、おもてなしの懐石料理の基本形態なのだよね。

         

        華美なもてなしをシンプルにミニマムにしていく提案としての、ひとつの膳に乗せたもてなし料理。

        これは利休が提案したりもしてて、当時としては斬新だったんだろうと思う。

         

        これが、高度成長期の専業主婦人口がいちばん多かった時期に

        家庭料理の完成形みたいな形で、料理研究家たちがこぞって取り上げて、なんだか

        「日本の伝統的な家庭料理」の形と混同されるようになってしまった。

         

        なんつか、

         

        伝統に基づいて日本人がずっと維持してきた家庭の食文化

         

         

        というよりは

         

         

         

        もてなしの懐石料理をヒントにあとから作られた理想形

         

         

         

        が規範とされてしまっているので

        まあ、そりゃあ現実と少々乖離していて

        ハードル高くて作るのは大変でしょう? と本当に思う。

         

        で、それを基本に立ち返って

        ごはんと汁ものだけでもいいですよ、そこにつけものでもひとつ足せば立派なごはん

         

         

        といくら提案されても

         

         

         

        グラビアとして視覚に訴えようと思う場所では

        それでは絵にならんので

        料理のプロの専門家や撮影の専門家は

        いろいろ足して、絵になるものにして複雑化してしまうのかもしれない。

         

        そうやって

        私たちの習慣や精神性って

        普段なにげに目にするイメージや資格の記憶にも大きく左右されているのかも、って思う。

         

         

         

         

        ということで

         

        一汁三菜

         

        これもう幻想だから>笑

         

        気にしなくていいと思う。

        (と言うとまたいろいろ言われそうだけど>笑 私はそう思うので仕方ない)

         

        おいしく食べられれば一番。

        ただそれを規範に作りたい人は作ればいいし、忙しくて苦手な人は、毎日同じようなメニューでもいいし

        ごはんと具沢山の味噌汁とつけものでもいいし

        なんか1品市販品や総菜屋で買ってきたもんがくっついてりゃそれでなんとかなる。

         

         

        それだけじゃ豊かさがないという人は

        週末にごちそうを作って、家族や友達と一緒に楽しめばいい。

        (フランスはそんな感じ。普段は質素だけど、週末はなんかおいしいものを揃えてピクニックをしたり、友達を呼んだりする)

         

         

        前から同じ様なことばかり言ってるなあと思って昔のブログを久しぶりに見たら、

        ほんと、同じこと言ってた>笑

         

        ▪毎日同じメニューを食べるということ

         アメリカで

         

        ▪夕ご飯より昼ごはんがごちそう

         フランスで

         

        外から眺めてみると、なんか自分が拘泥していたことに気づいたりする。

        外の世界が日本よりいいと言いたいわけじゃぜんぜんない。

        ただ、気づくことがある、ということ。

         

         

        ごはん話題、ほんとおもしろい。

         

        最近よく見る、和食が一番

        ってあたりの精神性についても、またこんど時間があったら書いてみたいなーって思ってること。

         

        その一方で、テレビや雑誌から見えてくる美しい理想形の食卓とは乖離した

        食の崩壊の問題も大きい。このあたりは家庭料理という切り口とはまた別の目でみなくちゃいけないこと。

         

        食は本当に奥が深いです。

         

        長くなったのでこの辺で。

         

         

         

         

         

         

         

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        「やらなかったこと」について 「やっていればきっとこうだった」と考えることの意味についてー円柱12時間のその後

        2017.08.05 Saturday 10:01
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          お久しぶりです。

          絵ばかり描いていたら、頭が文章モードになかなか戻らなくなっていました。人の脳みそは、あまり器用にはできていないのかも。あ、違うのか、自分がただマルチタスクができなくなっているだけか>笑

           

          私は文章を書くのにとても時間がかかるタチ(なんどもなんども推敲してしまうので)なので、ブログで半日終わってしまうことも多く。最近はなんだか、雑多にやることが増えたということなのかもしれない。

           

          さて、そんな言い訳をしている間に、以前のブログの記事にコメントをいただきました。

          それにお答えしようと思ったら、コメント欄で書ききれそうもない内容だったので、記事のほうに持ってきてしまった。

          勝手に題材にしてしまって申し訳ありません。

          でもこれは、なんだか私も折に触れて考えることだったので、ちょっと向き合ってみようと思う。

          質問はこんな内容。

           

          ==================================

          私は子どもに美術系を許さなかった母です。
          (中略)

          持論なのですが、美術とか創作系を志す人は何か「やむにやまれぬもの」を持っており、それはたかだか教師や親に反対されたからと言って、やすやすと手離す物ではない。

          そう思う母の信念を、打ち破る力がわずか16.7の子どもには無かったのかもしれないと思い至ったのは随分後の事で、それ以来、子どもの希望の芽を摘んでしまったと、折に触れて後悔していました。

          とはいえ、本当に志があれば、もし一時その道から外れたとしても、結局はそこに戻ってくる。
          運命なのか、諦めぬ心なのか、それは分からないけれど。
          という思いはやっぱりあって。

          本当にやりたかったら、本人がなんとかして道を探すだろう、と。

          それから、美術大学に行ったからと言ってそちら方面の仕事に就けるとは限らず、かえって行かなかった人の方が、現在活躍してるように思える、というのもあった。(自分の視野内で)

          もちろんそこには、余人の計り知れぬ努力や苦労があったのだとは思うけれど。

          でも、そういう人たち(美大に行かなかった人たち)が系統だって美術を学ぶ場に行けたら、さらに素晴らしい作品を作り上げたり、新たな才能を開花させたりしたのかしら。

          12時間円柱を描き続けることを、10代のうちに大学で学べてたらもっと良かった、と思われますか?
          それとも、人生を経た今だからこそ学び取れた、気づけた、と思われますか?

           

          ===================================

           

          つまりは、私が考えなくてはいけないのはここですね。

           

          12時間円柱を描き続けることを、10代のうちに大学で学べてたらもっと良かった、と思われますか?
          それとも、人生を経た今だからこそ学び取れた、気づけた、と思われますか?

           

          これはすぐに答えられる。

          10代ではなく、今だからこそ学びとれたことだ、と。

           

           

          そして

           

          それから、美術大学に行ったからと言ってそちら方面の仕事に就けるとは限らず、かえって行かなかった人の方が、現在活躍してるように思える、というのもあった。(自分の視野内で)

           

          ということも真実のひとつだと思うし、

           

          でも、そういう人たち(美大に行かなかった人たち)が系統だって美術を学ぶ場に行けたら、さらに素晴らしい作品を作り上げたり、新たな才能を開花させたりしたのかしら。

           

          というのも確かにそうだと思う。

          あれから私は紆余曲折で今の仕事をしているけど、高校のあと美大に行ってたら今よりたいした人間になっていたかどうかは全然わからないし、ってか、ダメだったかもなーって思う。

           

           

          で、それこそが、私が長いこと抱えてきたコンプレックスなのかもしれない。

           

           

          「私は絵が描きたい人間で、その才能もきっとある」

           

          と心のどこかで思いながら、絵を描かずに生きてしまった結果

          あるところからアートに取り組み出すとどういうことになるかというと

           

          「本当は才能なんてまったくなかった」

           

          という自分に直面する恐怖と戦うことになる。だから口実をつけては避けて通ったりする。

          やらないでいれば、「才能なんてなかった」という恐怖の現実に向き合わずに済むから。

           

           

          つまりはそれが、質問者さんの言う

           

          持論なのですが、美術とか創作系を志す人は何か「やむにやまれぬもの」を持っており、それはたかだか教師や親に反対されたからと言って、やすやすと手離す物ではない。

           

          ってことなんだろうと思う。本当に止むに止まれず描く人は、反対されてもやめないし

          やめざるをえなかった自分は、本物ではないってことを、心のどっかで感じてる。

          でもね、だからこそ

           

           

          あとからそんなジクジクと拘泥にはまる前に、とっとと若いうちに取り組んでおきたかったという思いはある。

           

           

          結局、「禁止」されたことで、

          ”何もしていないくせに、何かができるような気になっている”自分が作られ、

           

          そして、そんな「やればきっとできたはず」という後悔のような怨念のようなものが心の中に植え込まれていて

          何かにつけて傷のようにうずいては、私が進路を決めていく中でいろいろな邪念になったように思う。

           

          ま、言い訳っぽいけど。

           

           

           

          まあ、でもね。

           

          そういう悔しさみたいなものをバネに、いろいろ頑張れたというのはあるので

          私は今の自分には満足しているし、誇りも持てているし、

          紆余曲折やってきたけど、悪い人生じゃなかったなーって思う。

           

          だからこそ、いま

          また学べる時間ができたときに、学び直す。

          うんうん、それで十分いいよね!

          って。

           

          まあ、そう思うわけですが。

           

           

           

          でもね。

          再び美大で学び始めてみて

           

           

          やっぱりね

           

           

           

          やっぱり違うんですよね。

          違う。

           

           

           

          自分は経験も積んでスキルも上がってるから

          学ぶ効率は逆に、今の方がよいのではないかとも思う。

          見てきた美術の世界も10代よりは膨大で、世界で本物いっぱい見てるし

          そんな蓄積も絶対大きい。

           

           

           

          それでも。

          違う。

           

           

          「自分」の認識の仕方、「自分」の価値について

          その基盤を作っていく年齢の時期に

          「やりたい」ことができる場所を選んで

          「やりたい」ことが似ている人たちの中で

          「ここにいていいよ」と承認され

          とりあえずは「やりたい」と思えることに夢中で取り組む時間を持つことは

           

          その後の人生のあり方に

          大きく、大きく関わるんじゃないかなあ、違うかなあ。

          それを今やれるかというと、なんだか全く違う世界がそこにあるんじゃないかなあ。

           

           

           

          あ!!! でも私

          美大に行ったわけじゃないので、行ったらどうなったのかは語れないのだった。

           

          そうだそうだ、語れないのだったよ。

           

           

           

           

          というのも

           

           

          大学でフランス文学学び始めた2年目に

          もうほんとにやってらんない、こんな世界にいられない(だって誰とも話が合わない>笑)

          だからといって美大に入り直すこともできない(親の反対半端ない、家出る甲斐性もない)から

          自分で貯めたこずかいで、1年勉強すれば仕事になりそうな学校に勝手に通うことにした。

           

          選んだのはスタイリスト。

           

          それで撮影からスタイリング、メイクにヘアまでいろいろ学んでいよいよ卒業となり

          就職相談になったので、担当の専門学校の先生に

          「大学をやめてスタイリストになる」と伝えた。

          そしたら先生に言われたのだった。

           

           

          なぜ? ちゃんとした大学に通っているのに、やめることないでしょう。卒業してからスタイリストの仕事すれば?

           

           

           

          なので

          「もう辞めます。大学なんて本当に、行っても意味のないところです」と答えた。

          その時の先生の一言、いまも忘れられないよ。

           

           

           

          「ももせさん。意味がないと言えるのは、大学を卒業した人だけですよ。

           卒業もせずに意味がないと言っても、なんの説得力もないですよ」

           

           

           

           

          当時私は、本当の本当に大学って意味がないと思っていたので

          とても素直に、

           

          「そうか、じゃあ、本当に意味がないと言えるように、卒業だけはしよう」と思った>笑

           

           

          そんで、6年もかけて大学を卒業して、今改めてどうかっていうと

          たぶん、意味はあったと思う。

          ある意味では意味がなかったけれど、別の意味では意味があった(呪文みたいだけど)。

          その時の先生には感謝したいと思います。ありがとうございました。

           

          そしてその間、「意味がない」などとほざいてる娘の学費をコツコツと払ってくれた両親にも改めて

          ありがとうございました。

           

           

          まあ、そんなわけで

          経験しなかったことに対して、きっとこうだったはずとか

          こうなったに違いないなんてことを考えることの無意味さについて

          心に強く思うわけなので、

          美大に行ったらきっとそうなってたに違いないなんてことを推測すること自体が無意味なわけなんだと思う。

           

           

           

          「できたはず」を抱え続けるってことは、そんな無意味な妄想で人生のどっかを支配されちゃうから

          とっととやってみて、できるんじゃないかと思うことは、経験しておいたほうがよい、とつくづく思う。

           

           

           

           

          ということで、最初の質問の内容に戻ると、今言えるのは

           

           

          「12時間円柱を書き続けて学んだことは、今だからこそ得られた経験だし

           希望する進路に進めたからといって、よりよい人間になっているとも思わない。

           でも、じゃあ美大に行かなくてもよかったのかというと

           それはやっぱり、やりたいときにちゃんと、やりたいことはやっておくべきだったと今改めて思う。

           なぜなら、同じ体験はもう人生を積み重ねた後からはできなくて

           若いときにきちんと、自分の芯にあるものに向き合っておくことはその後の人生にとても大切なことだ」

           

          ってことになるのかなーって思う。

           

          妄想みたいに頭の中で考えるだけで、実際に手を動かさなかったことの代償は、かなり大きいなと

          最近つくづく思うことが多いです。フランス文学科に行こうと、赤坂でバブル時代の会社員をやろうと

          毎日もっと真剣に描かなくちゃあかんかったんだよ。まあ、頑張るけど。

           

           

           

           

           

          さて、私の美大リベンジには後日談がある。

           

          前のブログで円柱12時間描いたよって書いた記事は、なんかバズってたくさんの人が読んでくださったけど

          あれから1年。

          私は今何をしているかというと

          もう美大には通っていない。

           

          なぜかというと

           

          人生経験も、仕事経験もいっぱい重ねてきてしまった50代の私が

          美大で基礎を学ぼうと考えても

          スタート地点があまりにも違いすぎるということに直面したから。

           

          「美大」でものを学ぶことが、もう今の自分のスケールに合っていない。

          それで、結局それぞれ作家の先生について、今年はやりたいことだけに取り組んでいる。

          それが正しいのかどうかはぜんぜんわからないけど、「できたはず」と抱えてきた妄想は

          この1年ほどで大きく変化して、新しい形になってきたような気がする。

           

          超試行錯誤時代だけど。

           

           

           

          それでも、去年学校に通ったことには、別の大きな意味があったのは確かだった。

           

          ひとつは長くフリーランスで自己采配で1日を過ごしてきた自分が

          「とりあえず通う」場を得て、時間割のある日常を過ごしたこと。

          「場を得る」。

          これはとっても心身の安定につながった。

           

          それともうひとつは

           

          「美大に行かなかった」ことの根元の意味について、ちょっとした気づきがあったことだ。

           

           

           

          私の親子関係はちょっと複雑なところが多く

          仲良し母娘であったがゆえの確執みたいなものも大きかったのだけれど

          昨年、私の誕生日で食事をしている時

          おそらく

          自分が覚えている中で人生ではじめて、といっていいと思うんだけど、母に大きなおねだりをしたのだった。

          ほぼ冗談で。誕生日プレゼント何がいい? と聞かれて

           

           

          「学費、払ってよー」と。

           

           

          私がまだ40代の頃、「美大行きたかったのに大反対したよね」と両親に話したら

          母は機嫌が悪くなって、そんなことを言う私を制止した。

          なんか、全然わかってくれてなかったんだなー、という遺恨もあって、だから言ってみたのだった。

           

           

          「ほんとに行きたかったんだよー、それ忘れられないから今行くことにしたの。

           だからさー、リベンジで学費払ってよー。

           なんちゃってね、ははは、冗談冗談」

           

           

          あ、変なこと言っちゃった。機嫌悪くなるなーと思っていたら

          母は一瞬首を傾げて、それから

           

           

           

          「ほんと、かわいそうなことをしたわね。行かせてあげればよかった。ごめんね」

           

           

           

          と言った。

           

           

          え?

           

          ぽかんとしている私に

           

           

          「でもね、払ってあげたいのは山々だけれど、今はうちは年金が少なくて、いろいろ出入りも多くて余裕がなくて。

           ごめんね」

           

          と頭を下げたのだった。

           

           

          え?

           

          え?

           

           

           

          今何が起きたんだろう。

          常に強気だった母から出た言葉にびっくりして、私はあわてて否定した。

           

          「いやいや、ぜんぜん本気で払ってなんて思ってないから。

           なんか、昔わかってもらえなかったのが悔しくて、だからいじわるで言ってみただけだから。

           貯金もあるし、大丈夫だよ。こっちこそ、ごめんね、変なこと言って」、と。

           

           

           

           

          それから1ヶ月後、息子の誕生日があって、再び私たちは食事会をして

          その席で母は、私の息子である孫に、

          「これは誕生日のお祝い」といって、ちょっとしたお金の入った封筒を渡した。

           

          いつもありがとう、と伝えると、

          彼女は

           

          「これは、あなたに」

           

          ともうひとつの封筒をバッグから出して

           

          「このくらいしかできないけど、でも頑張って」

           

          と言った。

           

           

           

           

           

          中には

           

           

           

           

           

          一年分の学費が入ってた。

           

           

           

           

           

          私、

          もうその場で

          涙が止まらなくなって

           

           

          周りの目も気にならず

          号泣してしまった。

           

           

          あんな風に泣いたのは、ものすごーく久しぶりだったかもしれない。

           

           

          えーんえーん。

          わーんわーん。

          ママありがとう。

          わーん。

          ママうれしい。

          ほんとにありがとう。

           

           

          80歳の母を前に、子供みたいに泣きじゃくった。

           

           

           

          結局ね

          私が「美大に行きたかったのに」と抱き続けて妄想をしてきたことって

          ただ

          これだけのことだったのかもしれないな、とその時思ったんだった。

           

           

           

           

          「わかってほしかった」

           

           

           

          なんで、わかってくれないんだろう。

          なんで、一番好きと言っているものを否定するんだろう。

           

           

           

           

           

          あの時、「行きたい」と言う私に親が「いいよ」と答え

          そのまま美大に行っていたらどうなったのかという答えは

          先にも書いたように語る意味もないのだけれど

           

          美大に行かずに別の道を歩いている間、止むに止まれぬ衝動で描き続けるなんてことをしなかった私であるなら

           

          たぶん

          そこで満足して、その後まったく別の道に進んでいるんじゃないかと思ったりする。

           

           

           

          私が抱えてきたものは

          描きたかったのに、という場所ではなくて

           

          ただ

           

          わかってほしかった、承認してほしかった、

          という場所に長らくあったのかもしれない。

           

           

           

          そんなことに気づいて

           

           

           

          「美大に行きたかったのに」

          という想いは、80歳の母の手から「ごめんね」と渡された封筒の小さな重みで

          すべてが霧が晴れるように昇華してしまったように思う。

           

           

           

          私はありがたく、その封筒の中身を学費に当てて

          一年間学び

          そして、ああ、途中だけれど、私はもうここにいなくていいんだなと思ったので

          学校をやめて、今は毎日絵を描いている。

           

           

          たぶん、遅すぎることはないと

          言い聞かせながら。

           

           

          長くかかったけど、それが私の「美大行かなかったんだけど」のストーリーで

          今いる場所なんだと思います。

           

           

          答えになったのかなー。

          また長くなっちゃった。ここまで読んでくださってありがとう。

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

          category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(8) | - | -

          「とりあえず今日は昨日と同じ日でいて」ー怒るにはエネルギーが必要だったことを知る朝

          2017.06.15 Thursday 11:12
          0

            共謀罪が参院選で通った昨日。

            怒りや不安に向き合うには、ある程度のエネルギーが必要なのだと知った。

             

            前回このブログを更新してから、なんと6ヶ月以上経過してた。

            最後の記事がなんだか後ろ向きな内容だったから、そのまま放置されていたことになり

            それでもその間、こんなブログを取り上げてくれる方もいたりして、アクセスが急に3万4万と跳ね上がる日もあったりで、いろいろ不思議な体験をした。(遡って読んでいただいた方もいらして、ほんとありがとうございます)。

             

            最後に仕事の嘆きみたいのを書いたことで、仕事依頼のメールに

            「ブログにあるようなことがないよう、誠心誠意進めてまいります」という文言を入れてくれた方もいて

            ああ、これは申し訳ない、早くもっと明るい記事に書き換えなくてはあかん、、、、、、

            と思っていたのが1ヶ月前ぐらい。

             

            それでも放置されていたのは、このところの私の状態が、別のところにエネルギーを持っていかれることで

            ポジティブにもネガティブにもなれずにいたからだった。

             

            別のところって何かっていうと

            それ

             

            介護問題。

             

             

            ある日突然、85歳の父が脳梗塞で倒れ、

            集中治療室ののち、ああ、これはもう身体能力の回復なく施設入所か、、、

            と奔走したのち、現代医学のありがたい(というか恐ろしいほどの)恩恵に預かり復活〜!

            したのはいいけれど、いろんな家庭事情のために、まあ書くのも疲れるから書かないけどほんまいろいろあって

            結果的に81歳の母にはキャパオーバーな状態の手のかかるじいさんが実家でいろいろやらかしている。。。。

             

             

            という数ヶ月だったからなのだった。

            っていうか、現在進行形だけれど。

             

             

             

            そこで、介護にまつわる世界の入り口を垣間見た。

            それはまた、機会があったら書く。

             

             

            それでも改めて思ったのは、一番最初に書いたことなのだった。

             

             

             

            怒りや不安に向き合うには、ある程度のエネルギーが必要なのだな、ということ。

            ポジティブでいるのにもエネルギーが必要だけれど、私にとっては怒るという行為のほうが

            よりエネルギーを必要としているような気がする。得意ではない。

             

            それで、体と頭と心からエネルギーがもう、必死なところに向いている時、

            私は何をしていたかというと、ひたすら無心になっていた。

            外からやってくることがあまりに理不尽であったり、想像の斜め上を行っていたり、未来が見えない時

             

            その時々で怒ったり嘆いたり意見したり、喜んだり希望を持ったり、、、なんてことを繰り返していたら

            確実に自分のメンタルバランスが壊れるので

            じゃあ、何をするかというと、無心になるのである。

            なんつか、自分を守るために、感性の何かが麻痺するんだ、ということを知った。

             

            そこでひたすら、ただ願っていたのは、ただひとつ、これ。

             

            「とりあえず今日は昨日と同じ日でいて」

             

             

            明日が同じである確証がない(なぜって、自分の努力や意思とまったく関係ない場所から、理不尽な状況が飛んでくるからだ)

            半年後、1年後なんて何の話だ。

            5年、10年の構想なんてなんの役にも立たない。

             

            だから、とりあえず今日は、昨日と同じに過ごしたい。

            明日のことは、また明日、同じように昨日と同じ今日と考えて過ごしたい。

             

            あんなに大好きだった旅や、海外滞在の予定を立てることも

            3ヶ月先が見えないと勝手に頭が働いて、考えることをやめてしまう。

             

            そして今朝、頭の中心が痺れて麻痺したような状態で、自分のしたことに愕然としたのだった。

            共謀罪参院通過のニュースを流すテレビのチャンネルを、黙って変えた。

            一色になっているツィッターの画面を、閉じた。

             

            なぜって、それは私の心をざわつかせ、不安にさせ、怒りを噴出させるから。

            ほんとはいけないこととわかっているけど、敢えて書けば

            とりあえず私は、今日は昨日と同じ日が送れるはずだから、不安や怒りから自由でいさせて。

            いつも通り、過ごさせて。

             

            旅行の予定をわくわく考えるようなエネルギーも

            理不尽なことに怒りや不安をおぼえるエネルギーも

             

            この数ヶ月ですっかりなくなってた。

            怒るって、すごくエネルギーがいることなんだ、と改めて思った。

             

            (森美術館で見たハルシャの絵。政治と社会、アートの関係についていろいろ考えさせられたインドの現代アーティスト)

             

             

            先日のニュースで、現政権を支持している多くが、老人世代と20代の若者だということを知って驚愕したんだけど

            (特に若者のほうで)

             

             

            今朝の自分の行動を思い返しながら

            ああ、それは

             

            先が見えない日々の中で、希望というものを持つことが逆に自分を傷つけると知った人間が

            少しづつ少しづつ、無心でいるという自己防衛術を身につけて

             

            わくわくすることからも

            怒ることからも距離を置き

             

            とりあえず、昨日と同じ今日が送れればそれでいいのです。

            未来がこんな風になってしまうから、いま、よく考えて反論して、声を上げなければと言われても

            その種類のエネルギーはとっくの前に手放してしまったよ、

             

            ってか、そういうの

            疲れるしうざいから

            やめてくれるかなあ。

             

             

             

            と思ってしまう。

            それは今の若い世代が直面している現実であり

            非正規雇用から抜け出せない社会システムの中にいる人や

             

            同様に、またちょっと別の視点で

            死により近い

            70代、80代の現実でもあるのではないか、と思った。

             

             

             

            昨日と同じ今日、その今日が終わったら、今日と同じ明日1日。

            その「明日」は、あくまでも自分の日常の明日であって

            社会とか、世界とか

            正義とか倫理とか

            とりあえずそういうことはもう、とりあえず置いて見ないことにするという

            まさに今朝の私のような行動が

            次の同じ「今日」を作れない法案や政策をどんどん通過させる土壌になってる。

             

             

             

            怒れよ、と言われても

            その種類のエネルギーから距離を置いていたいと思う気持ち。

            とりあえず、僕の1日が昨日と同じでありますように。

             

             

             

             

            現政権はそんな風潮に支えられている(いや、支えてもいなくて、ただ見過ごされている)。

             

             

             

             

             

            未来にわくわくできて、努力すれば何かが報われるというエネルギーがあれば

            社会に対して怒る、声を上げるというエネルギーも湧いてくるのかなあ、と改めて。

            日本、やばい。

            (いや、おれもやばい、まぢで)。

             

             

             

            さて、そんなやばい日本は4人に1人が65歳以上の老人で

            100歳以上の人口がなんと6万5千人もおる。

            口さがないことを言えば、昨日と同じ僕の、私の今日が過ごせれば

            もうそれでいいです、という人が、それだけいるってこと。

            そういう人たちを支えるために、莫大な税金が使われている。

            その税金を、昨日と同じ今日がすごせればいいんじゃね? という若者が担う。

            ってか、担えるわけないじゃん、これ。

             

            ひとり親で頑張って子育てして、やっと子供が巣立って

            さあ、これから自分のこれからを考えようと思ったら

            日本の老人社会の深い闇のようなものに直面してしまった。

             

            ほんまこれ、何。

             

             

             

             

            ありゃ、ぼやきブログで放置してしまったので

            明るく書き換えようとしたのに、なんだか真っ黒になってしまった。

            怒るエネルギーはないけど、今日1日過ごしているというレベルでは私はとても元気です。

            ちゃんとエネルギーを蓄えるためにも、書いたり、創ったりしなくちゃあかんので

            ぼちぼちマイペースでやっていければと思っています。

             

            そんな中

            年老いて死ぬということは、いったいどういうことなのか、ということについて。

            このところはよく考えるようになった。

            今日は長くなったので、また、来ます。

             

             

             

             

            category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(0) | - | -

            お客様が神様の日本で、最近仕事で折れることが増えたのは、なんかとっても単純な理由だったことがわかった件

            2016.11.05 Saturday 00:37
            0

              数年前まで、こんな体験はしたことがなかった。。。。と思う体験が増えた。

              何って、仕事で。

              改めて一応説明しておくと、私の仕事はコラムニストでフリーランスで17年ー。企業に属しているわけでもなく、特定の会社と契約しているわけでもないので、声がかかるのをただ待っているというのが仕事の日常なので、こうして今日までシングルマザーで子育てしながら食べてこれたってのは、奇跡にに近いことだーと、いつも思う。

               

              いまだ、なんで食べていられるのかわからない。ありがたい。

               

              それでも、世の中的には仕事の単価がぐいぐいと落ちて

              仕事自体も減ってきたのは確かだ。

               

              それで、なんともいいようのない

              え?

              それって何?

              これってどういうことなん?

               

              というような体験が、ほんとのほんとに、このところとっても増えた。

              そうだなー、この5年ぐらいの間で、なんかがすごーく変わった。

              何だろう。

               

              それって、私が歳を取って頑固になったから?

              変に経験積んで、勘違いしてる部分があるの?

              あ、そうか。単にこの世界での自分の価値が下がったってことか?

               

              …と自分なりに納得しようとしたり

              諦めたり、嫌になりながら、もうこの仕事辞めようかなーと思ったりの繰り返しなのだけど。

               

              私の場合は、ほんとにはじめて連絡をくれる人と、はじめて仕事をすることも多くて、だから、!?!?! という出来事があった時、それは相手がおかしいのか、私がおかしいのかというあたりを確認しあえる人がいない。

              それも、もやーっとしがちな一因。

               

               

              例えば、私の取材をしたいと依頼があって日時も決まったのに、取材場所の連絡が来ない。

              前日の夕方に、こちらから「どこに行けばいいですか」と連絡を入れたら

              「あー、あれですけど、その後クライアントからもっと違う場所でと言われたので、リスケさせてください」という。

               

              明日空けていたので、もうちょっと早く連絡くださいね、と言うと

              「これこれとそれそれができる取材場所をそちらで決めてもらえませんか」という。

               

              うが。

              ほでも仕方ないので、それができそうな知人のスタジオと交渉して場所を確保して連絡を入れて日にちもリスケする。

              が。

              この時点で絵コンテも企画書も来ないので

              「ある程度の取材内容を教えてくれ、準備するから」と伝えたが間際までなしのつぶて。

              前々日の夕方に大量のデータが送られてきて、そこには

              翌日一日で買い出しから下ごしらえから、その他備品の買い物から、私がやるべき大量の指示があってびっくりした。

               

              えっと。

              たとえば私がテレビ番組のスタッフだったり、取材する側だったら、それはアリ。

              でも、こういう仕事してきた経験から、「インタビュー、家や事務所の取材をさせて欲しい」という依頼だった場合は采配が違う。

              まあ、準備してもいいんだけど、直前にメールでデータ送りつけて終わり、はやっぱり違う。

               

              しかも、内容が私の活動とぜんぜん違っていて、これまで話にも出なかったことがたくさん増えている。

              どいういうわけでこんなことに? と聞くと

              「クライアントの希望で」と。

               

              これ。

               

              「クライアントの希望で」。

               

               

              私が話していたのは代理店。

              クライアントとは一度も会ってない。

              ほんと、こういうこと、とっても多い。

               

               

               

              あと増えたのが、「最低限のマナーでは」と思っていたことを軽く飛び越えていく案件。

               

               

               

              たとえばこないだ、通例ではあり得ないというNG案件があったので

              間に立って連絡してきた人に、「それはやはり、直接連絡するように言ってね」と伝えたら

              打ち合わせ中に入っていた留守電に

              「お詫びしたいので、連絡ください」と口頭で電話番号を言われた。

              携帯に折り返しせずに、こっちの電話にかけろということらしい。

               

              歩きながら口頭で言われた番号はかけなおせないし

              何より、こちらに非がまったくなく、相手が100%悪いNG対応の説明とお詫びというものをしてもらうのに、私から電話をするのもなんかはばかられる気がして放置した。

               

              そうしたら、夜メールが来た。

              この番号にかけろ、と再び。

               

              おかしいと思うのは私だけなんだろうか。

              私なら「お詫びの説明をしたいので、電話をしていい時間帯をお知らせ下さい」と言う。

              もしくは、昼につながらなかったのなら、その夜にメールである程度は事情説明を送る。

              お詫びや言い訳みたいなものを聞かせるために、相手に通話料を払わせることはしない。

              釈然としないので、メールで「明日の午前中は電話に出られますので、お電話いただけますか」と返事した。

               

              かかってきたのは、翌日の11時59分だった。

              ま、ぎりぎり午前中だけど。

               

               

              あ、あとこんなこともあった。

              私が新聞に書いたもの(署名連載記事)を、テレビで取り上げたいという連絡が入り

              どういう形で? と聞いたら

              「もう撮影は終わっているんです」という。

              え? 知らないうちに?

              「DIYコーディネイターの○○さんがホームセンターで材料を買って、記事のものを作って紹介しました」

              えっと。ももせが考えたものだということを中でちゃんと言ってくれましたか?

              「あー、いや、DIYコーディネイターの○○さんが作って紹介した形になってましてー」

               

              あのお、なんかおかしくないですか。

              私が考えたものを、なぜまったく知らない別の人が作って紹介するんでしょう。

              取り上げていただくのはうれしいけれど、だったらまず撮影の前に、書いた私にご連絡いただくのが順番では。

              そして、作る企画であれば、私が作るのが筋では? 

               

              と電話で伝えたときの、戻ってきた答えに、なんだか一瞬、時間が止まっちゃったのだ。

               

              「え? あれってももせさんが自分で考えたアイデアだったんですか」

               

               

               

              え。

              ええっ?

               

               

              なんかさー、私、自分が書くものは「自分で考えたアイデア」、もしくは

              従来あったものなら、それを自分なりに編集アレンジしたもの ってこと以外、思ったことなかった。

              そして署名連載記事で書いたものには、著作権ってものが存在するとしか思っていなかった。

               

              そうかー。

              アイデアなんてみんなどっかから持ってきたもんなんだから、書いた人の著作権なんて関係ないってこと?

               

              だから、書かれたものは別の人がそのまま使ってよくって

              そんで、クレジットにもとに書いた人の名前出す必要も、ギャラ払う必要もないってことなんね。

               

               

               

              ええっ!?!?!

              そうなの? そういうこと? 原稿を書くって、そういうものだったん?

               

              あれ?

              おかしいと思ってる、私がおかしい?

               

               

               

              …みたいな。

               

              これはかなり自分にとっては衝撃的な出来事だったので

              これ以降、しばらく自分でアイデアを考えるのをやめたことがある。

              検索して出て来たもんをそのまま使えばよくて、一生懸命試作したり工夫して考えること自体がアホくさい、と。

               

              ま、このあたりはいろいろ意見もあるだろうけど。

              でも

               

              なんだか、ぜんぜん大切にされてないなーって思うことが増えた。

              大切というか、仕事をするプロとして対等に見られていない、尊重されていないという感じ。

              それは同時に、

              え?

              それっておかしいよ、それやっちゃだめじゃん というような

              相手もプロとして成立していないぞー、っていう案件も増えたってこと。

              特にネット系は顕著。

              従来のメディアで仕事をしてきた人たちとは、まったく違う分野の人たちが

              情報や言葉やデザインを扱うことが増えてきたこともあるように思う。

               

              動画集めるっていうから、その著作権どうするの? って聞いたら、「そんなこと考えなかった」とか。

              「あなたの書いたものを適当にこっちでまとめます、だから謝礼はナシで」とか。

              適当? 適当にまとめちゃう?

              すでに本に書いてあることは、別の誰かが”適当に”まとめてタダで別媒体で使っていいと?

               

              「1時間のインタビュー+自宅撮影、ライターの書いた原稿の校正をしてもらって、謝礼はありません。

              でも、プロフィール欄を使って、ご著書のPRをしていただくことができますのでご活用いただければと思います」とか。

               

              えっと。

              プロフィール欄って何だと思ってた? プロフィール欄に著書名入れることは広告費としてバーターになるとでも?

               

              丁重にお断りしたら

              「一緒にお仕事ができたらと思っていたのに、残念です」と戻ってきた。

              ノーギャラで半日拘束って、私には「お仕事」じゃないよ。え、違うの?

              私がおかしいの?

               

              いや、すごくちゃんとしている人もいっぱいいるんだけど。

               

               

               

              とにかく、少なくとも5年ぐらい前までは存在しなかった依頼内容が増え

              そして、なんだか悲しく、わびしく、意味不明だと思うような対応に遭遇するようになった。

              それで、それは自分がおかしくなったのかと思ったりもしたけど、

               

               

              あ、そうか。

               

               

               

              なんかそれ

              とてつもなくカンタンな理由だったような気がする、と思うようになった。

               

               

               

               

              最初に書いた案件にあった

               

              「クライアントの意向で」

               

               

               

              それ。

               

               

               

              クライアントって、つまり

              「お金くれる人」

               

              ってことよね。

               

               

               

               

              お客様は神様です

               

              という考えが蔓延しちゃった日本で。

               

               

               

              お客様ってのは、つまり、お金払う人ってことで

              金払う人が一番偉いんだぞ、って

              私たち、だんだん洗脳されちゃってる気がする。

               

              レストランで、こっちは金払ってるんだから、ごちそうさまなんて言う必要ない

              と平気で言う人たち。

              お金を払ってくれる人の言いなりになる側と

              払ってるってだけのことで、自分が神様になって威丈高になる人たち。

              学校も、こっちは税金払ってるんだから、サービス業だって言う人もいる。

               

              そういう理論でいくと

               

               

              私、原稿書いてお金もらってるんで

              私に原稿や取材を依頼してくれる人は、お客様なの。

              うん、それは昔から、ずっとそういうこと。

               

              ただ、そこにはお互いもちつ持たれつで

              誰かが持っているスキルや情報に対して、それをリスペクトして、対価を払うよっていう関係性が

              これまではちゃんとあったんだけど

               

              そこ、

              知らない間に

              お金払う人が一番偉い って図式に

              どうやらなっちゃったってことなんだろう。

               

              そう思ったら、上記に書いた、なんだかなーと思ったことすべて

              「それでお金もらうんだから、言われた通りにするのが筋」

              ということになる。どんなに急でも準備して、間際のリスケも文句なんて言わない。

              来いと言われたら、遠くても相手の予定に合わせて出かけていく、ってこと。

               

               

              なので、代理店や制作側は、クライアントの言うなりになり

              なんだか理不尽だなーと思うようなことにも対応せざるをえず

               

              そういう人たちが今度は

              デザインや言葉を扱う人たちのクライアントとなり

               

              私みたいに個人で何にも属さず

              ただ情報やアイデアを提供する側にいる人間に対しては

               

              「ギャラ払った時点で貴方の仕事は終わり、完成報告する必要ないよね」

              「お金払ったら、そのあとそれをこっちがどう使おうと

               形を変えようと、何度使おうと、こちらに権利がある」

               

              ってことになって

              それがさらに

               

              「いくらでも安い金額でやりたい人いるし

               別にプロに頼まなくても、フリーソフトでちゃちゃっと作れるスタッフいくらでもいるし。

               こっちも安い金額しかもらってなくて予算ないんだよ。

               そもそも貴方考えるだけで、一銭もかかってないじゃん」

               

              なんてことにもなり、(笑 すべて仮想だけど)

              そんで

              いろんな悲しいなーって思うことがどんどん増えているような気がする。

               

               

              そうやって書いたもの、作られたものは

              クライアントにリスペクトされないどころか

              (だから勝手に手を入れたり、間際でひっくり返したり、アイデアだけ持って行ったりする)

              消費側にもリスペクトされず

              (だからそのままパクられて別の商品になったり、書いたものが勝手にまとめられてほかの人の仕事になってたりする)

               

               

              最近は「リライトライター」といって

              誰かが書いたものを、少しだけ表現を変えて、丸ごとパクってきたとわからないように

              記事に仕立てるためのテクニックを教えるという人もいるのだって。

               

               

              クリエイティブの価値が下がっていくのに、仕事量は増える。

              電通の子の自殺も、社会にこういう負のスパイラルがある気がして、ひどくこたえた。

               

               

              お客様は神様です

               

              って

              三波春夫さんは、自分が思っているのとまったく別の使い方をされていると、悲しんでいたんだって。

               

              本来は

              神様は、あがめ奉られるだけではなく

              民衆を見守り、願いを叶えてやるという役目を同時に担う。

              ファンであるお客様は、チケットやCD買ってお金払ってくれる存在ではあるけれど

              同時に、アーティストを支え、育て、見守るという大切な役目も引き受けているんだよ。

              神様を引き受けるって、とっても責任があること。

               

              今、神様はただお金を払うだけで

              なんの役目も引き受けない存在になっちゃった。

               

               

              お金ってそんなに偉いのかな。

              お金って、怖いな。

               

               

               

               

               

              フランスにいたとき、

              一番偉いのはお店の人だったよ>笑

              ってか

              お客さんもお店の人も、同じ人間、対等な存在。

              クレームや不満をぶつける先は、同じように働く人として存在する誰かではなくって

              もっと、組織とか国家とか、システムに対してなんじゃないかな、と思う。

              電車遅れたこと、駅員さんに怒りぶつけても、なーんもならんじゃん。

              どんだけみんな、行き場のない閉塞感を抱えてるんだろー、と思う。

               

              いろいろ、息苦しさが増している日本の中で

              気持ちよく楽しく、仕事が出来る方法を、いま、模索している最中です。

               

              そんで、自分自身も、気持ちよくいい仕事を一緒にできる人間であり続けたいなーと強く思う。

               

              しばし逃げ出すことばかり考えていたけど

              もっとよりよくできる方法はあるはず。

              素敵な人もいっぱいいるんだし。

               

              今日はそんな話。

              ネタバレ感満載だけど、たまには許してね。

               

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              スピ系の話の続き。結局スピチャンネルは人のために使わず、自分が幸せになるためだけに使えばいいんだと思う。

              2016.10.26 Wednesday 23:41
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                怪しげなスピ系の話の続き。

                人はそれぞれ視覚や聴覚、身体感覚などの得意なチャンネルがあるんだけれど、中にはスピ系にチャンネルを持っている人もいる、というのが先日書いた話。

                 

                他の人には見えないものが見えるとか、感じるとか

                誰かの前世やオーラが見えるとか、その他特殊能力があるのだとか、そのあたりのことを言う人は意外といる。

                 

                私は超能力というのはマジックの一種だと思っているけれど

                美輪さまのように(笑)、人の見えないものが見えるというような人はいると思っている。

                それで見えているものの実態はわからないけど、そこにある何かを感じるという能力は、多かれ少なかれ持ち合わせている生き物の本能というか。

                 

                殺意を持った人が近づいてきたら、なんかぞわっとするなんていうのを始めとして、ただ単に、不機嫌な人が部屋にいたら気分が悪いとか。結局そういう見る事も聞く事もできないけど、「人が発する気分みたいなもん」とか、なんか事件があった場所に残ったいやーな気みたいなものは、意外と伝わるんじゃないかと思う。

                 

                そこで感じたものを、ただ雰囲気と処理するのか、脳内でスピ系に編集して言語化するかどうかの違いで、後者のような編集作業の過程では、古くから言い伝えられてきた伝説的な形や、民族的な共同幻想みたいなものが大きく作用して、イメージが作られていく。

                 

                スピ系の人が、ちょいエキセントリックにスピ系ワールドに突入すると、自分の能力を覚醒させようとスピモードな日々を送ることになって、いろんなことに敏感になる。すると、気にせずによい場所にまで勝手にいろんなものを感じるようになっていって、その中で上記の共同幻想みたなものが深く刷り込まれていって、どんどんスピな人になっていっちゃうというか。

                それって能力が伸びているというより、ただそういうイメージを脳内変換しやすくなっていくってことなんじゃないかなと思うわけです。

                 

                もしそこに、何か統一された変換モードを提供する組織みたいなものがあれば、簡単にステレオタイプなスピ洗脳されるというか。

                新興宗教なんかはその手のところに、うまく入り込んでくるしなー。

                 

                 

                 

                ってなことで、そういえば以前、みんなのうしろにたくさん前世の人が見えるという同僚がいたんですが。

                 

                ものすごーくエキセントリックだった彼女、

                結婚して子どもを産んだとたんに、なーんにも見えなくなったそうですわ。

                 

                 

                 

                いろいろおもろ。

                 

                 

                 

                それで、なんでこういうことを前回考えるようになったのかというと

                ちょい最近であった人がスピ系のヒーリング術に目覚めて、それをたくさんの人に教えていきたい

                苦しんでいる人を助けて癒していきたいと、目をキラキラさせていたのですわ。

                 

                あー、それ。

                 

                スピチャンネルがあるとつい、「ヒーリング」って誰かの役に立ちたくなるもんだけど

                それやると結構辛いことになるよなあ、と思ったのでこれを書いている。

                というわけ。

                ちょうど高樹沙耶のニュースも入ってきた。

                なんつか、スピ系のお手本のような人だったなあ。

                結局、辛い。

                 

                 

                それじゃあ私はどうなのよというと、

                もし、私が高樹沙耶さんのように、何か強烈に心酔する人や物事があって

                さらにちょいエキセントリックに美しいことで人の関心を惹き付ける外見を持っていたら

                スピスピ星の住人になっていた可能性は、ある。

                だって80年代だもの。

                西海岸スピワールド全盛期。

                怪しいというより、サブカル系でちょい知的な世界でもあったのね。

                いやー、ほんといろいろあった。おもしろかった。

                 

                それで、そういうスピチャンネルを開いていた時期には、本当にたくさんのものを見たし聞いたし、体験したのだった。

                敢えて書かないけど。

                 

                でもそれ

                ある時期からすっぱりと、全部、考えることを辞めた。

                スピ系の人でいるのは、そりゃもう本当に

                消耗するし、体調悪くなるし、なんかちっともいいことなくて、幸せにはなれないからだ。

                 

                 

                 

                例えば

                私は今でも人の気を拾うところがあるので、病気をした人と話していると、同じ場所が痛んだりする。

                 

                電車で本を読んでいる時に、隣りの席に座った人の顔もしぐさも見えなくても、

                ものすごい不穏な気みたいなものが突然襲ってきて、ぞわぞわと脅かされてしまうことがある。

                たぶん、この人はものすごく怒っていたり不安やイライラを募らせているか、もしくは何か重い病気かもしれない、とよく思う。

                 

                そんな時に私ができるのは

                一刻も早くその人の側を離れる、ってことだけ。

                 

                 

                スピ系の力を人のために使いたいと思う人は

                癒して欲しいと思っている人たちの有象無象のものを自分のからだと心に引き受ける覚悟がいるわけで。

                 

                前出の彼女や高樹沙耶さんのように、スピ系のチャンネルを開いてますよーってアピールを始めたら

                そこに集まってくるのは、負のエネルギーだけなんだよー。

                 

                んで、そうして誰かに癒してもらうことを期待して集まって来る負のエネルギーは、

                誰かの力では癒されることなんてなくって

                結局は自分の力で解決していかなきゃ何も起こらないってことなんだと思う。

                 

                 

                結局は引き受けられないことを

                あたかも何かが解決するかのように誘導できるスピ系の人は

                本物じゃない。

                 

                ほいじゃ本物っているんか?

                って話しになるとぜんぜんわかんないけど。

                 

                 

                ま、とにかく人や世の中をよくするためにスピチャンネルを開いているという人や場所は

                たいてい、まやかしだから関わらないほうがよいのだ。

                 

                 

                 

                そいじゃ、スピチャンネルがある人はそれを何に使えばいいのかっていったら

                 

                ただ単純に

                 

                自分が幸せになるために使えばいい。

                 

                 

                 

                あー、この家、なんか玄関開けたとたんにいやーな感じがした。

                だから買わない。

                 

                この人と一緒に1時間いたら、ものすごく体調悪くなった。

                次は無理してもう会わない。

                 

                すごく楽しみにしていた旅行なのに、朝起きたらぜんぜん行きたくなくてやな感じ。

                キャンセルしちゃえば。

                 

                憧れてきた学校が、見学してみたらなんか居心地悪い。

                どんなに有名校でも、そこはやめとけ。

                 

                 

                 

                たいてい、最初に感じる第六感みたいなものは、当たってることが多いから

                そこに、いろんな後情報や常識みたいなものを塗りこむことで、そのささやかな感覚をおざなりにせず

                とりあえずは、やばいぞと思ったものからは離れておく。

                 

                逆に

                なにこの人、すごく楽しい! とてもおもしろそう! 

                どんどん仲良くなろう

                 

                この店はなんだかすごくおいしそうな予感がする

                とりあえず入ってみよう!

                 

                って、素敵な予感があることはどんどんやっていきゃいいわけで。

                ま、はずれたら行かなければいいだけのことで、そこになんか意味なんて見いだす必要もない。

                 

                スピチャンネルは、そういうために使うもので

                だから

                 

                31歳を境に、私はすべてのスピ系の考え方から離れて

                そのあとは一切、進んでそういう感覚に近寄ることを辞めた。

                 

                 

                それでも、今もちょい特別な状況で気を抜くと

                ああ、この人はスピチャンネルがあるぞ、かまってもらえる、聞いてもらえるよー! と

                なんかえもいわれぬ者たちが、ぞわーっと物陰から飛び出してくることがある。

                えっと、何言ってんだかわからないかもしれないけど、とにかく、ま、いろんなことはある。

                 

                 

                いろいろあるけど

                とにかく

                スピチャンネルは「自分が」幸せになるために使うもので

                たいていは人の役に立つためには使えないし、使っちゃいけないと強く思うのでした。

                 

                 

                 

                 

                 

                あれ、なんの話がしたかったんだっけ。

                 

                久しぶりにいろんな話しを思い出したので、ちょい書いてみたのだった。

                あくまで個人的な考え。この手の話しは正解も不正解もないような気がします。

                 

                次はもうちょっとまともな話題で。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

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                人にはそれぞれ得意な知覚のチャンネルがあるらしいってことと、その中に「スピ」系の「スピチャンネル」も存在しているよねということのプロローグ

                2016.10.22 Saturday 09:56
                0

                  今年に入ってからの大半の時間を費やしていた、ふたり展が終了した。

                  いやあ、精魂尽き果てました。そして、今ぼーっとしまくりの最中。

                   

                  それでも、よい経験をたくさんした。とりわけ、ギャラリーを提供してくださった恩師の言葉や影響力は大きかった。なんか、いままでにない筋肉がついたような気分なのだった。

                   

                  そんで、そんな恩師との不思議な会話をもとに、タイトルのようなことを考えてみた、というのが今日のブログです。

                   

                   

                   

                  会期中、ちょろりとおしゃべりをする時間などがあった時、ちょうどキリスト教や仏教の話が出たところだったので、恩師に聞いてみた。

                  「先生はなにがしかの信仰を持っているんですか?」

                   

                  答え。

                  「ない。でも、敢えてあるとしたら、それがアートだと思う」

                   

                  へ、アートは宗教ですか?

                   

                  「この世の中にある、目に見えないもの、言葉になっていないものを形ある物にして見せていくのがアーティストの役目だと思う。それはまさに、宗教の役目でもある。だから信じる宗教は何かと聞かれたら、私は”アート”って答える」

                   

                   

                   

                   

                  もうなんというか、1本筋が通っていてまことにかっこいい。

                  「アートは宗教である」と言ってしまうと、なんだかとても危うく怪しげなことになっていくけれど、信じている世界観は何なのかというあたりは、日本ではあまり話題にならないことが多いから、こういう考え方は私はとても好きだ。

                   

                  しゃて。

                  そんな話しをしていた数日後。

                  レイキをするという女性がやってきた。

                   

                  レイキ。

                  https://ja.wikipedia.org/wiki/レイキ

                  こういうやつね。

                  違う方向性に行ってしまったものに、真光教がある。

                  いわゆる手かざしの民間療法で、日本ではこういう人が現れると警戒されるもんだけど、私がフランスにいた時には、この手のものが好きで仕方がないという人たちが結構いた。

                   

                  ZENとか、Buddismというのは、膠着したキリスト教的世界観に答えを見いだせない人たちにとって、哲学的で知的なものとして受け入れられる傾向があって、レイキなんかもそことごた混ぜになる感じで、興味を持つ人もいるみたいだ。

                  瞑想、太極拳、レイキなんかがごた混ぜになっていて、そういうワークショップに結構な人が集まっているのだった。

                  それ、なんかわかる気もするけど。

                   

                  とりあえず、日本ではたいてい、この手のことをする人は「スピ系」の人という認識をされることが多い。この日、彼女が帰ったあとに交わされた会話にも、何度もこの言葉が出てきた。

                   

                   

                  スピ系。

                   

                   

                   

                  一口に言っても、いろいろ。

                  毎朝ピンクのオーラを浴びて、すべてに感謝しちゃうスピ系の人もいるけれど、ほんとに見えないものが見えちゃうという人もいる。

                   

                   

                  あ。

                   

                  「見えない物が見えちゃう」。

                   

                   

                  そこで、冒頭の恩師の言葉に戻る。

                  「この世の中にある、目に見えないもの、言葉になっていないものを形ある物にして見せていくのがアーティストの役目」。

                   

                   

                   

                  以前に聞いた話だけれど、人には生まれながらに持っている、秀でた「知覚のチャンネル」というのがあるのだそうだ。

                   

                   

                  視覚にチャンネルがある人は、物事を色や形で認識しがち。聴覚にある人は、音声で。身体にある人、言葉に特化する人、いろいろ。

                  自分のチャンネルがわかれば、それを生かす方法もわかってくるってことなんだそうだ。ダンサーは身体知覚や聴覚にチャンネルが開いている人が向いているだろうし、数字に特化している人が色を扱う仕事をしても楽しくないに違いない

                   

                  そんな中で、時折どの知覚にも属さないチャンネルを持つ人というのがいて、それがいわゆる「スピ」知覚なんだろう、って思う。

                   

                  敢えて、「スピチャンネル」とでも呼んどく。

                   

                  形でも色でも音でも言語でもないものを察知するスピチャンネルは、きっと誰もが持っているものなんだろうけど(たとえば虫の知らせとか、第六感とか、なんとなくやな感じとか、その手のもん)、扉が開いている人と閉じている人がいる。閉じている人にとっては意味をなさない、疑似科学やまがいものである世界も、開いている人にとってはまがいもない現実だ。

                   

                  んで、世の中にはそれを掬い上げるいろんな網のようなもんがあって、恩師のように「それがアート」と昇華できる人や、社会的に認知されているセーフティゾーンの信仰や組織の中に上手にランディングできる人はいいけれど、困った網の中にからめとられてしまうケースもあって、いろいろもやることも多い。

                   

                  そうやってもやるケースが多いから、スピチャンネルの使い方は難しいし、たとえ上手に使えたとしても、社会の中ではちょい生きにくい存在であることも確かなのかもしんない。

                   

                   

                  ということで、なぜ今日こんな話題を取り上げているのかというと、この日スピ系の人が登場したことで、恩師と食事をしながら、ちょっとしたスピ体験の話題になった。

                  つられるように話しだして、思い出したのだった。

                   

                   

                  いろんな出来事を。

                   

                   

                   

                  忘れてた。すっかり忘れてた。でも、そうだった。

                  私にも、スピチャンネルがあるのだった。

                   

                  その使い方について、いろいろ思うところがあるので、それまた次回に書くことにするー。

                  とりあえず昼ご飯を食べるー。

                   

                   

                   

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                  幸せなばあちゃんになるために、残りの人生で「やらない」と決めた10のこと

                  2016.06.25 Saturday 00:27
                  0

                    今年、双子座は秋から絶好調なんだそうだ。

                    (がしかし、ほぼ12星座すべてが、ラッキーだったり転機だったりするらしいから、世界がなんとなくざわざわするってことなんだろうと思う。イギリスの情勢が、そんな幕開けを物語っている)

                     

                    まあ、でも絶好調だ、と聞けばそれなりに気分はよいので

                    今日は歩きながらタイトルのような事を考えていた。

                     

                    今年はなんとなーく、転機っぽいなーと思うことも多く

                    あとは、やっぱり子育てがある程度終了したってのも大きい。

                    私は今年56歳になるけど、50歳を過ぎてからの1年1年は、なんだか本当に

                    時間が経つごとにいろんな価値感がごろんごろんと変わっていくなあと思うことが多い。

                     

                    年齢そのもので区切られているものというよりは

                    子育てして、仕事して、家のことして、そんな道程で区切られているような気もする。

                    たぶん、同じ年齢でも子どもがまだ高校生だったら、だいぶ感じ方は違うんじゃないかなあ。

                     

                    ま、そんなあれこれで

                    思えば遠くに来たもんだの年齢になってきて、

                    いろいろ、考えが変わったことは多い。

                     

                    ほんだもんで、歩きながらぼんやりと思い浮かんだものを、ある程度まとめておこうって思ったわけですわ。

                    これ

                    あくまで私が、私の性格で、私の仕事や経験を経て思ってることなんで

                    「世の中の人が幸せなばあちゃんになるためにやめるべき10のこと」なんかでは断じてない。

                     

                    よくある、その手の記事、大嫌い。

                     

                    30歳になるまでにしておくべき10のこと とか。

                    成功するためにやっておくべき10のこと、とか。

                    あんな胡散臭いもんないし。

                     

                    なので、あくまで、自分への、自分だけの覚え書き。

                     

                     

                     

                     

                    1、アンチエイジングをしない

                      〜10歳若く見られたからって、10歳若い人の肌にはかなわない。無駄なところで勝負しない。

                    2、つきあいだけの会食にはいかない

                      〜知らない店のたいしてうまくないものに金を払って、つまらん会話をするという体験はもうしない

                    3、「ていねいな暮らし」とか、もういい

                      〜自分が気持ちよければそれでいい。外側から入ってくる、疲れる暮らしの呪縛はもういらない

                    4、断捨離などするもんか

                      〜○割のもの捨てたとか、自慢する悲しさ。捨ててよいものしか手にしてこなかったのか。

                    5、「すべてに感謝」するのをやめる

                      〜「みなさんのおかげです」とか「すべてに感謝」とか、その手の台詞は吐かない

                    6、倹約と貯金で、大切な経験をふいにしない

                      〜だって明日死ぬかもしれない

                    7、外出時に当たり前のように化粧しない

                      〜ふだんはノーメイクの顔を自己像にする。外に向って自分を飾らない。

                    8、愛想笑いをしない

                      〜私が笑顔でいるのは、ただ、自分のため

                    9、年相応のよい服、よい持ち物、よい暮らしの道具、などいらない

                      〜ライフスタイルをかたった、右へ倣えの消費行動の罠にははまらない

                    10、人生に効率の良さを追い求めない

                      〜限りなく効率が悪いものの中に、これから自分が向き合っていくものが隠れている

                     

                     

                     

                    なんかさ、これ見て、「は? 自分、どれもまったくやってませんけど、今までだって」

                    みたいに思う人いっぱいいると思う。

                    ばかじゃねーの、こんなこと今更って思う人もいると思う。

                    ほでも、最初に書いたように、これは「私が」辞めようと思ってることなんよ。

                    なので、他の人はかんけーない。

                     

                    時代もあったと思うけど、40代の自分は、

                    せっせと化粧品とか選んで、カラー診断してもらって、お化粧方法教えてもらったり

                    年相応のよい服を着ようと服を探したり、ネイルしてみたり。

                    平松洋子さんが南部鉄のきゅうすがいいと言えばそれを買って結局錆びさせたりしてたな。

                    仕事柄もあって、愛想笑いもたくさんしたし

                    ていねいな暮らしにもはげんだ。

                    荷物を減らすために物を結構捨てたし、倹約と貯金も頑張った。

                    そして、いつも、誰かに感謝してた。

                    本のあとがきとか、それ。

                    「そして私をいつも支えてくれている家族、友人に心からの感謝を送ります」みたいな。

                    形だけ書いてたってわけじゃぜんぜんなくって、なんか心のシステムが、そういう仕組みになってた。

                    すごく頑張ったなー! って自分を褒める前に

                    なんか、「みなさんのおかげ」みたいな。

                     

                     

                    それは大切な必要な時間だったので、まったく後悔してないけど

                    でも、それ、ここから先はもうやらんでいいなあって思う。

                     

                    そうやって、あるところまでは真実で、誠実に一生懸命頑張れた事が

                    数年の年齢の違いで

                    あ、もういいね、って思うようになる。

                    年齢って、本当に不思議。

                     

                     

                    こないだ、仲良しとごはん食べてたら、彼女が言ったの。

                     

                    「もう、自分の為にはさんざんいろいろやってきて、思い残すことなくて

                     だから、私の残りの人生は、あとは人のためになんかやっていくってこと。

                     自分がやってるのは、人のためのことなんだから、

                     そこで何があっても自分は損もしないし、傷つくこともないって思ったら

                     腹も立たないし、損したとか、やな思いしたとか、ぜんぜん思わなくて済むんだよねー。

                     らくちんだなあ」

                     

                     

                     

                    すげー。

                     

                    もんげーすげー。

                     

                     

                     

                     

                    そして、かっけー。

                     

                     

                    (なんか全部死語っぽい言葉の羅列になったが。。。)

                     

                     

                     

                     

                     

                    それでいくと、私は

                    物事決めるときも、自分が欲しい! って前に、あなたはどう? 他の人は?

                    なんてことばかりをしてしまって、それで、なんかバランスを崩したりしたこともあった。

                    仕事もそうかもしれないな。

                    受け手側が望んでること、欲しいと思っているものばかり考えてきた。

                    (ま、それが仕事ってものなんだけど。。。。)

                    それ

                    そろそろもういいすか? って思ってるんだと思う。

                     

                    本を書いたり、取材されたり、テレビに出たり。

                    外側から見られる自分ってものと向き合ってきた40代だったし

                    シングルで子どもを育てる為に、「稼ぐ」こともとても大事だったわけで

                    まだまだ、本音のところでやりたいことがたくさんある。

                     

                    だから、友達みたいに「もうやりのこしたことないし」とはまだ言えない。

                     

                    なので、いま、すごく

                    自分勝手なばあちゃんになりたいと思っている。

                    あと何年生きられるのかわからないけど、もらってる時間の中では、自分に正直にいたいなあ、って思う。

                    自分勝手というのは、自分のことは自分で勝手にやる人という意味で

                    人に迷惑をかけることをさすのではないのですー。

                     

                    ってなことで、やらないと決めた10のこと。

                    自分の覚え書き。

                     

                    とりあえず今日は、化粧しないで出かけた。

                    明日はイベントなので、化粧はするかなー。

                     

                    そのあたり、まだ行ったり、来たり>笑

                     

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                    フランスと日本のデッサン教本のヌードの扱いがあまりに違う件。なんで日本は女だけ脱がすんや!?

                    2016.05.24 Tuesday 15:59
                    0
                      図書館から人物デッサン本を何冊か借りてきた。で、読んでるうちになんだか不思議な襲われたので、そのことについて書いてみることにした。テーマは「ヌード」。

                      これまで私がデッサンの練習用に使っていたのは、フランスで買ってきた「人物デッサン」の本。
                      これ、いろんな姿勢をした男女の写真が大量にあるのですごく参考になるー。



                      でもフランス語解読するのが面倒なので、日本語の本が読みたかったのよ。
                      で、借りて来た本の最初の写真がこれ。



                      あれ、女だけ裸。
                      男トランクスはいてる。
                      フランス版は男性も全裸だったけど、まあ、やっぱ男性器は外に露出しているから見せてはあかんという配慮かしら。

                      まあ、そこは100歩譲ったとして。

                      立ち姿のデッサン例のポーズで、何か引っかかる。



                      女をこう立たせたとして、



                      男はこれか。

                      まあいい。

                      座り姿はどうだ。



                      うううーーん???
                      女性は立ってもくねって、座ってもくねって
                      男はただ、パンツ仁王立ちと着衣どっかん座り。
                      脱げ。
                      お前も脱げ。
                      ずるいぞ、着衣どっかん。

                      女性の着衣はないのか? と見たら次に出て来た。これだ。



                      服着せても、チラリズムか?
                      表情もなんだかエロくてやだ。なんで。
                      私、なんかこんなポーズあんまり描きたくないな。
                      同性として。

                      考え過ぎだよと言われるかもだが、フランス版だとこんな感じだ。
                      どこをどうとっても、エロい空気が皆無。
                      すがすがしいほど。



                      男性版もとってもいいよ。




                      そもそも、裸体デッサンというのはからだの骨格や形を見る力を養うために行うものだから
                      それこそさまざまなスタイルをしてもらうのが一番役に立つ。
                      実際にモデルを使ったデッサンはさほど多く体験できるわけではないから
                      こういう写真はとても役に立つし、例として出て来るクロッキーも
                      さまざまに個性的なものがあって参考になるんだよ@フランス版。


                      日本版のは、なんか「裸体を描く」ことへの過剰な方向性を感じて
                      なんだか不思議な気持ちになった。

                      それで思い出したんだけど
                      昨日、大学の授業で版画のモチーフに女性の裸体群像を選んだ人がいて
                      それはとてもよく描けていたんだけど、描いたのはかなりのご年配の男性だった。

                      それに対して、ああして描けるということは、ヌードデッサンをしたのではないか。
                      ヌード見たさにモチーフにしたのではないか、
                      的な反応をする人がいた>笑

                      まあ、どの世界でも目の前にヌードがあるのは非日常ではあるけれど
                      こんなデッサンの本1冊の中にある、女性の裸体ポーズへのまなざしの偏向をかいま見てしまうと
                      日本で「女性」として生きていくことのめんどくささってものを
                      改めてじわじわと感じてしまうなあと思う。
                      (んなの感じて来たのは私だけなのかもだけど。
                       でも、海外に出るとある部分でラクになるということの根源は
                       いったい何なんだろう、とよく考える。いまだよくわからないけど)


                      こちらは全裸でも、前述の日本人女子着衣ポーズよりまったくエロくない>笑




                      からだをよじったり、変にはじらって隠したり
                      うっとりと天井を見たり
                      そういうポージングが発するものって一体何なんだろう。

                      そして、この対峙にある力関係は、一体何なんだろう。



                      もやーっと。

                      もやもやーっとしながら答えは見えず。
                      今日はこちらのおじさんをデッサンしてポーズと骨格の勉強をしようと思う。
                      よい男性モデルがきてくれるデッサンの場があったら、教えて欲しいです。



                       
                      category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(18) | - | -

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                      • 12時間円柱を描きつづけてはじめてわかったこと。「気づく」までにはたくさんの時間がかかるのに、みんな先に教わってしまうんだね。
                        武蔵婦夫人
                      • 12時間円柱を描きつづけてはじめてわかったこと。「気づく」までにはたくさんの時間がかかるのに、みんな先に教わってしまうんだね。
                        ちゃたろう
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