一晩いなかったら老犬の夜吠えが止まった。それで思い出した子育ての辛かったあの頃のこと。欲しかったことば。

2020.08.31 Monday 12:05
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    そろそろ15歳になる老犬の夜吠えが半端ない。

    毎晩きっかり3時ごろ吠えはじめる。

    集合住宅だから騒音苦情が来るのも怖いので、なだめすかすために3時すぎに少しの食事を与え

    うとうとしだすと、また吠えだすので4時ごろ小分けにした食事をまた与える。

    5時まで持ちこたえたあとは、もう我慢比べだ。

    寝室に連れ戻すと狂ったように吠えるので、そのまま、私は居間の床に寝る。

    ギャン鳴きを聞きながらツンツンちょっかいを出して、6時過ぎまでなんとか粘る。

     

    もう無理だと、フラフラの寝不足のまま起きて窓を開け、

    コーヒーを入れだしたとたんに、つきものが落ちたように老犬は眠りにつくんである。

     

     

    そんなことを、もう半年ほどやっている。

    正直、疲れた。

    ずっと優しくなんていられず、つい怒って語気が強まる。

    あんたは私にどうして欲しいんだ? と詰め寄ってしまうこともある。

     

    そんなもんで、もう耐えられましぇん、と音を上げて

    都内のホテルを予約して、一泊二日の夏休みを取ることにして

    犬の世話は息子に任せた。

    考えてみたら、コロナになる前はこんな風に家を空けることは珍しくなくて、その度に息子か実家の母が犬を見てくれていた。コロナで自粛になって、これほどまで犬とべったりと一緒にいたのは、もしかしたらはじめてのことなのだった。

    この寝不足地獄は、コロナと一緒にやってきたといってもいい。

     

    犬の鳴き声のない場所で眠った一夜は、本当にごほうびのようにありがたい時間だったのだけれど

    夜吠えがはじまってからの不在は初めてなので、私がいなくてほんとに大丈夫なのかと気がかりではあった。

    そこで帰宅後に、吠えたでしょ、大変だったでしょと、老犬介護つらたん同意を求めたら、息子はさらりと

    「一度3時に起こされたので、ちょっと叱って居間に連れていって扉をしめたら、そのまま朝まで寝てた」というのである。

     

    なんなん。

     

    それ、なんなん。

     

    その夜眠りにつくと、いつもどおり老犬はきちんと3時に吠えだしたので

    息子の言うとおりに、居間に連れていき、食事は与えず扉を閉めてみた。

    あら不思議。あとは朝まで、私のベッドの横ではなく、居間で一人で(一匹で)朝までコンコンと寝続けた。

    メシをくれと吠えることもなければ、寝室と居間の間をひっきりなしに徘徊することも、なかった。

     

    ほんとに、なんなん。

     

     

     

    今日のエピソードは、ただそれだけの出来事なのだけれど。

     

     

     

    ああ、でもさあ、といろいろなことを思い出したんだった。

     

    息子が小学校5年生の頃、腹痛を訴えて学校に行けなくなった。

    担任が変わり2ヶ月ほどたった頃から不登校が始まり

    私はシングルマザーで仕事も忙しいなか、学校とのやりとりで拉致があかなくなり、すがれるものには全部すがる思いであちこち奔走した。今思い出しても、泣ける。

    まあでも、一番大変だったのは息子だと思う。言葉で整理しきれいない、さまざまなものが処理しきれなかった時期。彼もよく頑張った、とまぢ思う。

     

     

    当時、毎日家から出られない11歳を抱えて、仕事には行かねばならず、この事態をなんとかせねばならんといろいろな場所にSOSを求めた中でかけられた言葉の中には、いまでもヒリヒリと胸をえぐるものがいくつかある。

     

     

    紹介されて行った某大学キャンパス内での児童心理相談では、子は学生のグループが遊びを通してセッションを行い、保護者は児童心理学の教授が別室で相談に乗るというシステムだった。子供は大学生の優しいお兄さんお姉さんが遊んでくれるので喜んで通いますよ、という話だったのだけれど、2回ほど行ったところで息子が

    「もう行きたくない」と言い出した。

     

     

    いや、行かねばなるまい。なだめすかして受付まで行ったら、私の手をすり抜けて逃げ出して、キャンパスの庭の芝山の上で膝を抱えてしまった。
    おいで、行こう、戻ろうといくら言っても、動こうとせず時間だけが経過していく。
    「任せてください、お母さんは教授のところへ。ここは僕たちが」
    学生くんたちがしゃがみこんだ息子に声をかけ、のろのろと部屋に戻る姿を横目に見ながら教授室に入ると
    あごひげを蓄えた偉い教授先生は、私の目を冷たい眼差しで見据えながらこう言ったんだった。
    「お母さん、あなたがどんなに声をかけても動こうともしなかった彼が
     学生が声をかけたら素直に従いましたね。
     これ、どう思いますか?」
    え、どうって。。。。。。
    言葉に窮しているうちに、あなたと母親との関係はどうか、あなたの中になにか子供との関係を阻害する要因はないかといった誘導尋問のようなカウンセリングじみたことが始まってしまい
    ああ、もう勘弁してという思いと同時に
    「彼がこうなってしまったのはあなたのせいではないですか」
    「不登校の原因のひとつにあなたの子供との関わり方、育て方があるんですよ」
    と言われているような気がして、とにかくもうほんとに、はげしく傷つき落ち込んだんだった。
    子が、親ではなく他人がいうほうが言うことを聞くなんて、当たり前じゃないのと今では思える。
    親のいうことのほうが絶対というほうが、怖いだろ。違うか。

     

    似たようなことが、知人に勧められていった都内の有名児童心理専門のクリニックでもあった。

    子供との会話は、親は同席できないのだけれど、あとから呼ばれてこんなことを言われた。

     

    「そろそろクリスマスだけど、君はプレゼントに何を買って欲しい? と息子さんに聞いたら

     お母さん、彼は少し考えてから”特にない”と言ったんですよ!

     11歳の男の子が、欲しいものがないなんてありえないことです。

     それだけ、親に何かを求めてはいけないと彼が気を使っているということなんですよ。

     小さい子供にそんな気の使わせ方をさせて、彼の不登校や体調不良の責任は、やはり親御さんにもあるのではないですか」

     

    はじめて行ったクリニックで、ほんの数分話をしただけで

    それは親の責任だ、と言われてしまい

     

    私はもう胸に重い石を抱えた状態で帰路について

    その日の夜に息子と話をした。

     

    クリスマス、欲しいと思いつくものがあったら何でも言ってみて。

    何も気をつかう必要もないよ、お母さんもお父さんも、欲しいって言われるほうがずっとずっとうれしいよ。

     

    彼はまたしばらく考えて、こう答えたんだった。

    「あのね、ほんとうに思いつかないんだよ。いっぱいあるような気がするけど、何? って言われるとほんとにわかんない。

     先生に聞かれたときも、だから特にないです答えたの。僕ほんとに、いますごく欲しいものって特にないんだよ」

     

     

     

    今いろいろ思い出すと、体調不良や不登校の原因の中には、親の責任というのもあったのだろうと思う。

    それでも、子供も親も、どうにも説明がつけられない現実の中で苦しみながら

    答えを探して、なんとかいい方向に行きたいともがいていた時間の中で

    安易に悪者探しをして責任を問うことに、いったいなんの意味があったのだろうと思うのだ。

     

     

    結局彼は6年生で担任が変わってから学校に通えるようになり

    それでも「学校」という場での生きにくさは中学でも変わらず

    紆余曲折を経たけれど、20歳を超えて学校以外の場所で生きるようになってからは、生き生きと自分の道をあるき出した。

     

    あのとき、学校に行けなくなったのはなぜだったのか、とあとになって聞いてみたけれど

    「いろいろあって、からみあっていて、ひとつの理由では語れないな

    うーん、なぜだったんだろうな」という答えが帰ってきただけだった。

    考えてみれば、学校に行かないことが大問題であるということ自体、おかしなことなのだろうと思う。

     

     

    いや、老犬の夜吠えエピソードでなんでこんな話を思い出しているかっていうと

     

    ひとつの命を監護するってことは

    ものすごく責任が大きくて、近ければ近いほど、自分がちゃんとやらなくちゃ! 自分の責任かもと

    どんどん密接に関わってしまいがちなんだけど

     

    関わりが深くなればなるほど、相手も身動きがとれなくなっていき

    おたがいからまりあって、いずれ探し出せる答えも探せなくなっていってしまう

    …なんてこともあるんじゃないのかなあ、と思ったからなんだった。

     

     

    私が今こんな風に、いい思い出のように過去のことを話せている理由のひとつには

    途中から一人で抱えることをやめてしまったからというのもあるんじゃないかと今では思う。

    私が関わらない場所で、彼を受け入れてもらえる場所があればなんでも頼った。

    すべてを知ろうと思わずに、別の場所にいる誰かの解釈に任せることを学んだ。

     

    全部母親であるあんたの責任だなんて、誰にも言われたくないし、言われる筋合いもないと思ったんだった。

    なぜなら、子供は私とは別の存在で、親と重ね合わせずに一人の人格として扱われるべきだと思ったから。

     

     

    あのとき、ああ、私の責任なのかもしれないと考えて

    歩み寄って、関わって、私以外この子を救えないなどと思っていたら

    今頃、まだいろんなことがこじれていたかもしれない。

    そうしてこじれまくってしまった親子の関係性って、意外とあるように思うからだ。

     

     

    あれ? ほんでも、をい!

     

    今まさに

    私はそうして老犬との関係を、こじらせているんじゃないの?

     

     

    この子の世話ができるのは私だけ。

    いま大変な時に、全部わかって面倒みられているのは、私がここにいるから。

    そんな過剰な密着が、犬の行動を呼び寄せているってことが、あるんじゃないのか。

     

    こじらせたらあかん。

    お互いたまには、離れなあかん。うん、たまにはちゃんと、離れよう。

     

     

     

    大変だった数年間、あのとき一番辛かったのは

     

    ”あなたの育て方に問題があるのではないですか”

     

    と、

    直接発せられなかったとしても、ビンビンと伝わってくるこうしたメッセージだったように思う。

    こんなメッセージは、今でもWi-fiのようにあちこちをブンブン飛んでいて、辛いときにはひときわこたえる。

     

    育て方の正解なんて、誰が知っているというのだろう。

    理由なんてそう簡単に特定できず、親も子も右往左往しながら苦しんでいるときに

    今なら、何が必要だったのかがすごくよくわかる。

     

    ”いま大変なときだね、おつかれさま。

     一日見ていてあげるから、あなたはちょっと休んできたら?”

     

     

    わんこも、私が休んだら、張り切って吠え続けなくてもよくなった。

    休めたのは私だけじゃない。

    吠え続けるほうも、実は大変なのだ。

     

     

     

     

    誰も責めない、原因や理由を探し出さない。

    ただ、

     

    休んでいいよ

    その間、手伝うよ

     

    と声をかけてくれる誰かがいてくれること。

    そして親も

    その誰かと、何よりもこどもを信じて

    きちんとつないだ手を、手放せること。

     

    子育ての中の多くのしんどさは

    そんなことでちょろりと緩和していくのかもしれない。

     

     

     

    なんてことを考えた

    犬も私もぐっすり眠れた翌日の日記でした。

    さて、昼ごはん。

     

     

     

     

     

     

     

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    36歳で会社をやめたのは、とてもシンプルな理由だったことを改めて思い出した

    2020.08.13 Thursday 22:19
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      26歳で転職した会社を、10年目の36歳の時に辞めた。

      31歳で結婚して、34歳で出産し、1年の育児休業を取得してから復帰して、1年目に辞めたことになる。

      本来なら復帰後はもうちょっと長く続けなくちゃアカンのではないかと思う。

      申し訳なかった、と思う。
       

       

      ほんでも、私が息子を生んだ1994年ごろの日本の企業の中では、頑張ったほうだと思う。

      妊娠しましたと報告した時、多くの人が「おめでとう」の言葉と一緒に、

      「ああ、これで退職ですね、残念ですが」と言った。

      妊娠した女性が仕事を続けるという発想を持たない人がまだまだ多い時代だった。
       

       

      それでも、それ以前よりはまだいいほうだったと思う。

      1991年に育児休業法が制定されたことで、妊娠しても休んで復帰してよいことになり

      少なくとも働く妊婦は、法律上守られることになったのだ。

      (休業中は無給だったけどね)。

      それ以前は、結婚を報告した時点で、「おめでとうございます、寿退社ですね」が通例で

      退社する側も、鼻高々の勝ち組状態で辞めていった。

      25歳を過ぎたら、売れ残りのクリスマスケーキ。

      アホくさいけど、周囲からの扱いはそんなもんで、だから私も最終ギリギリの大晦日31歳で結婚したんだった。

       

      32歳の時、結婚後1年しても妊娠しないのは不妊だから病院に行けなどと親戚から言われ

      まあ、なんとか自然に妊娠したけど、周囲からは「高齢出産心配」「マルコウ、マルコウ」とさんざん言われた。

      34歳だと母子手帳に「高」って字に○つけた丸高(マルコウ)マークのスタンプ押されるって
       

      なんかなー。今じゃ信じられないね。



       

       

      まあ、そんな時代だったので、自分のいた部署の育児休業取得第一号の前例を作って頑張って

      復帰して時間短縮取って両立頑張って

      それで1年やってやめちゃったわけなので

      「やっぱり大変だったんですねえ」って言われれたりもしたけど
       

       

      でも、ほんとはもっとずっと、シンプルな理由だったなあ、ってことを今日

      なんだか久しぶりに思い出していた。なので、つらつらこんなふうに書いてみている。

       

       

       

      赤ちゃんのころ、息子は本当に手のかからない子だった。

      育児時間短縮勤務で4時に退社して、保育園に迎えに行き夕食を食べさせたら

      8時すぎにはコテッと寝てしまい、夜泣きもしなかった。

      夫はマスコミ勤務でほとんど家にいなかったから、私はポカンとひとりで、長い夜を過ごしながら
       

      なんか変だなー

      この時間、私なんでもできるのになー
       

       

      って思ってた。

       

      というのも、出産前に私がやっていたのはイベントのディレクターで

      イベントの実施日と、設営や撤収はほとんど週末や休日と夜の時間だったのだけれど

      育児休業を取得して時間短縮勤務になった私は、労働組合に守られる形で休日出勤と残業ができなくなった。

      まあ、つまり実質上、元の場所には戻ったけれど

      イベント責任者という立場は、すでに後輩の子に引き継がれていて、仕事はなかった。
       

       

      「子供がいるから残業も休日出勤もできない」

       

      という人に私はなったわけなんだけど
       

      おかしいなあ

      一度家に帰って子どもを寝かしつけさえすれば

      ここから先3時間でも4時間でも、私、家で仕事できるんだけどなあって。
       

      そんな風に思ってた。

       

      ただ、会社という「場所」にいられることだけが価値って、なんか変なのって。
       

       

      それで、なんとなく不完全燃焼になった私が何を考えたかというと

      「二人目を作っちゃおうかな」ってことだった。
       

       

      なんたって子どもはかわいいし、出産ハイみたいなもんになってたこともあって

      イエーイ、このまま勢いで2人!!! って十分アリじゃん? と。
       

       

      それでね
       

      そんなシミュレーションをしながら、気づいちゃったんだ。

      私、この1年以上、「スミマセン」ばかりを言って過ごしているってことに。

       

       

      スミマセン、妊娠したので休業します

      スミマセン、つわりで辛いので休憩していいですか

      スミマセン、育児時短なので4時で帰ります

      スミマセン、休日は出られません、残業できません、飲み会出られません

      スミマセン、子供が熱だしたらしいので帰ります

      スミマセン、スミマセン、スミマセン

       

       

      ああ、私このまま二人目も生んで会社復帰したら

      この先何年も、こうしてスミマセン、スミマセンって言って過ごすことになるんかなああ。

      仕事はずっと続けたいと思っていたから、居心地のいい今の会社にずっといてもいいんじゃないかって考えることも多かったけれど、こうしてスミマセンって言いながら続けていった先にいる自分は、果たして笑っているのかな。
       

       

      当時、まだ社内に女性の管理職はほとんどおらず、子育てしながら仕事をするロールモデルもいなかったから

      私は自分の未来を、妄想してみるしかなかった。

      二人の子供が小学校を出る頃、50歳の私は

      果たして、笑顔でいるんだろうか。
       

       

       

      私が会社をやめた理由は、ただただ、シンプルにそのことだったように思う。

       

       

      50歳になった時、笑っていたいな
       

       

       

      ほんで、やめちゃった。


       

       

      仕事へのポテンシャルもあるし、家にいられさえすればいくらでも仕事はできると思って

      フリーランスになった。「仕事」の中身なんて考えずに、独立した。考えたらちょっと無謀だった。

      で、今ここにいる。

      結局二人目の子どもはできなかったし、離婚もしてシングルマザーにもなった。
       

       

       

      それでも

      50歳になったとき、ほんとに笑ってた。

      大変なこと、しんどいこともいっぱいあったけど、でも

      にこにこ、にこにこ、笑ってる自分がいた。

      50歳の誕生日、お友達たちが開いてくれたパーティで。ほんとに笑ってる、ニコニコというよりガハガハと笑っている。
      みなさん本当にありがとう。


      あのまま会社にいても、もしかしたら笑っていたのかもしれない。

      でも、とりあえずあの時、そんな風に思ってやめたのは、間違いじゃなかったのかなーって今は思う。
       

       

       

      物事を決断するきっかけは

      もしかしたらそんな風に、とてもシンプルな場所にあるのかもしれない。

       

       

      笑っていられる?

      楽しい?

      気持ちいい?

      おもしろい?

       

      そして何よりも

       

      やりたい?

       

       

       

       

      将来有利だからやっておいたほうがいい

      とか

      ○歳までにやらなくちゃ

      みたいに思うより
       

       

       

      笑っていたいからやってみる

      とか

      おもしろいからとにかくやりたい

      って
       

       

       

      そんな場所から始められることのほうが、うまくいくのかもしんない。
       

       

       

      あー、なんか昔話をする大人になってはいけないとよく思っているのに

      今日はそんな昔話だったよ、すまん。

       

       

      60歳になった今も、ほぼ毎日ほくほくと笑っている。

      順風満帆ではないけれど、少なくともスミマセン、スミマセンとは言い続ける人生にはならなかった。
       

       

      あの時笑顔でいたいと思った、

      36歳の自分に、ありがとうと思う今日でした。

       

       

       

       

       

       

       

       

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      何もできなかったコロナ3ヶ月のあと、役に立たないことを始めるー世界の都市に疫病を鎮める仏像を48体置いてみた

      2020.08.02 Sunday 15:42
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        今年の2月、確か私はフランスにいた。

        今年の11月に予定されていたフランスでの展覧会の準備のためと、一昨年開催された展覧会に行けなかったことで迷惑をかけた現地の人たちに会うために。
         
        一昨年現地のアーティストさんが声をかけてくれて実現した二人展は、偶然みつかってしまった病の手術日が重なったことで、私不在で行われることになった。急遽送った作品はギリギリ会期に間に合ったけれど、展示から開催期間中の接客まで、フランスの友だちに助けてもらうことになり、そのことのお礼がまだできていなかった。
         
        あれから5ヶ月。
         
        いったいどこの誰が、今のような世界を想像できただろう。

         
        私は売れている作家ではないし、展覧会などもあまりやらない。
        それでも、今年ははじめて海外からギャランティの出るオファーがあったことで、少しだけ「やったるで」モードに入っていたところがある。やったるでモードの人は変なオーラが出るのか、帰りに立ち寄ったパリで、ひょんなことからパリのギャラリーでの展示が決まりかけた。帰国後に詳しい内容を決めようというやりとりをしている間に、東京のギャラリーからも問い合わせがあった。

         
        あれ? 来たか?
        来たのか?
         
        なんか、波がやってきたんか?

         
        3月には東北で、4月は愛知で、アートプロジェクトのための小規模なレジデンスもする予定だった。
        長年温めていたことが、一気に開花しそうな。
        2020年は、私にとっては特別な年になるはずだった。

         
        世界がコロナに侵食されて
        秋のフランスの展示は中止となり、パリのギャラリーの案件はなくなり、東北も愛知も行かれなくなって
        制作の細かいスケジュールを書き込んでいた私の手帳は、もう意味をなさなくなってしまったので
        100円ショップで新しく手帳を買った。
        そこに今は、今日食べたものとか
        買い物にでかけた場所とか、見た映画とか
        そんなものを書き込んでいる。
         
        そんな風に世界がひっくり返って
        最初のころ、盛大にメンタルバランスを崩した私は、創作も制作もできなくなってしまった。
         
        必要最小限の仕事をこなしたら
        ただただ、ページをあけたらやることが決まっていて、新しいものを作り出す必要のない語学のドリルを日がなやっていた。
        テレビもネットもシャットダウンして、起きたらドリルをして、食事をつくり
        たまにYou tubeを見ながらヨガや太極拳をして、Netflixに加入してむさぼるように見続けた。
        難しい映画は見られなかった。アホなドラマとリアリティーが、一日ついているような日々だった。

         
        少しづつ、何か作れるかもしれないと思えたのは7月に入ってからだったと思う。
         
        3ヶ月はからだも心も停止していた。
        創れるかもしれない、と感じたけれど
        今年創るつもりだった作品に手をつけることは、まだできていない。
         
        代わりに、世界の都市に仏像を置くというプロジェクトを勝手にはじめた。
        たぶん彼岸の世界に行ってしまった世界と自分を、現実にまた結びつけるために、何かしらのプロセスが必要なのだと思う。
         
        これまで自分が行ったことがある世界の都市から48箇所をピックアップして
        これまで創りためていた仏像の版画を
        小さくカットした桐の板に張り込み
        自分が撮ってきた写真をさかのぼって見ながら
        思い出の場所やモノたちを桐の板の中に描き込んで行った。

         

         
        感謝祭でごった返していたフィレンツェで食べたパスタの味。
        プラハの静まり返った人気のない夜の石畳。
        天文時計やプラハ城。
        マントンの海岸にそそり立つように建っていたジャン・コクトーの要塞美術館。
        町中にあふれるレモンの香り。

         
        銅板を加工して時間をかけて描画し、何度も腐食して刷り上げた銅版画は雁皮に刷る。
        乾いたらそれをまたデザインカッターで細かく切り抜いて、しょうふ糊にCMC糊を混ぜたもので、ジェッソを塗った桐の板に張り込んでいく。色付けは雁皮の裏から。最後にメディウムで補強する。
         
        旅をしてきた時間と
        作品を創るために試行錯誤しながら時間をかけて作り上げてきた工程と
        周りの世界はすべて止まってしまっていたけれど
        それらはすべてちゃんと、自分の中にあって

         
        ああ、そうか。
        新しいことがいまできなくても
        こうして自分の中を掘って、自分の中を旅して
        いまはそれでいいのかなあ、と思えるようになった。
         
        ということで、役に立たないこと、なんの目当てもないことを
        日々、ただただ
        繰り返している。
         
        この
        「繰り返す」ということに、ちょっと救われていたりする。

         
        8月になる前にやっと48体が完成したので
        ポートフォリオにまとめてみました。
        よかったら見てね。
        行ったことのある場所、見たことのある場所があったらうれし。
        (写真をクリックするとサイトに飛びます)
         

         
        ただ描くという作業以上に、いろんな場所の名称の英語表記を調べたり、国の名前のスペルを調べたり>笑
        意外とそんなことで時間がかかって、それもまた楽しかった。
        たぶん、描いている以上にそこにどんな風に時間を使ったのかということが、とても大事なのかもしんない。

         
        古来、疫病が流行れば仏像を建てたという日本から、こんなささやかで小さな創作ではあるけれど
        いつかまた平和に行き来できる日を願って、日々繰り返すということに救われている自分がいる。
         
        どこかで、ああ、物を創れる自分でよかった、と
        改めて思っているコロナの夏でした。
         
        次は森林破壊に向けての創作を、日々繰り返しています。
        また、書きます。
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        捨てる予定の服を切ってつないでリメイクしてみた。想像以上に楽しかった。

        2020.07.29 Wednesday 15:29
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          これまで何度か登場している手作り服系話題。

          コロナで外出自粛となった3月以降、クロゼットの整理にはげむという予定調和的行動に出た結果、もう着ない服を大量に処分した。

          処分したといっても、捨てるのではなくて、まず着ていただける人にもらっていただいた。

          片っ端から写真を撮って、着てくれる人いますかと内輪のSNSにアップすると、送料着払いでもらってくださる方がいる。ありがたいー。

           

          それでも残った服があった。

          シミがついたり、毛玉があって差し上げるには申し訳ない服。

          あとは「もしかしたらまた着るかもしれない」という執着が捨てきれなかった服だ。

          多くは「気に入っていた」ことに加えて「高かった」ことも手放せなくなる理由だった。

          そんな風に残ってしまった服が、3月から作業場に山積みになってしまい、片付けたのか散らかしたのかわからない状態になっていたので、やっとこ7月も終わりになって、重い腰を上げたのであります。

           

          そのままではもう絶対に着ないので、別のものに作り変えるプロジェクト。

          一から縫うと、裁断や裾の始末などが面倒くさいこと極まりないのだけれど

          すでに服の形になっているものを、切ったりつないだりするのは簡単だ。

          そんな感じで、この3日ほどでどさーっと作ってみた。

           

          まずはもとの服。

           

          カシミアのワンピ、レザーのミニワンピ。これをなんとかしたいので

          捨てる予定だったハイネックの綿の長袖シャツと組み合わせてみることにした。
          ポケットの位置がちょいおかしいけど>笑
          革のミニワンピをジャキっと切ってTシャツとただつなげただけ。
          Tシャツはもう古びてるけど、だめになったらまた別のとつなげればいいようにも思う。
          ミニワンピが膝下ワンピになったので、これならまだ着れそうー。
          切り落とした上身頃は捨てようかと思ったけど、なんかもったいない気がして
          引き出しに眠っていたタイシルクを輪にして縫い付けてみた。
          タイシルクはもともとマルチパーパスクロスだったみたいで、四隅の始末がついていたので、輪っかにするだけでよかった。
          簡単じゃった。いつの季節に着るんだろうって疑問は残るけど、とりあえず捨てるよりはよかった。
          もう一枚のカシミアのワンピは、上身頃がきつくて腕が前に出なくなっていたので(悲哀)
          胸から下を切り落として、もともと湾曲していた裾を、両方の隅20センチだけ残して縫い合わせ
          上にゴムを入れてサルエルパンツにした。
          透け感があるので、レギンスと重ねて履いたらちょいおしゃれかもしれん。
          ウエスト部分は、革のワンピとつなげたTシャツの切り落とした裾をそのまま縫い付けてゴムを入れた。
          手作りパンツのウエスト部分の始末は結構面倒なので、この用途のために色物のTシャツは捨てずにとっておくことも多い。
          大物2つをやっつけたので、軽いものへ。
          綿ネルと麻のシャツの、それぞれくたびれてしまった部分を切り落として合体してみた。
          麻のシャツは胸元で切ったので、つないだらワンピになった。
          あれれ、意外と大人っぽい。思いがけず、これ着るかもしれない。
          色がよく合ってた。
          あと、襟元に経年劣化が起きがちな白いシャツ。素材違いで何枚も持っているので綿と麻の2枚を処分しようとして、ハタと思いついた。
          同じく毛玉で古びてしまったけど、ラインが気に入ってよく着ていたユニクロのセーターに合体させては、と。
          セーターはそのままの形で、裾にシャツ2枚分の身頃を縫い付けてワンピースにしてみた。
          それぞれ前身頃だけ使ったのだけれど、そのまま前と後ろに使うのでは面白くないので
          右が綿、左が麻でボタンをかけあっているデザインにした。同じ無印良品のシャツだから、ボタンの位置も同じでうまくつながった。
          素材の違いがわかるように、後ろも前身頃でボタンをかけあってるデザインにした。後ろ姿も、ちょっといい感じになった。
          これはちょい渾身の出来栄えじゃった。たぶん、これは今年の秋にたくさん着ると思う。
          ユニクロと無印の合体。
          セーターは毛玉やシミでくたびれていたので、思い切って裏返した。
          縫い目をワンポイントにするために、白い刺繍糸でかがってデザインの一部に。新品みたいに見えるよ。
          胸元には以前レーザーカッターで作った革のボタンをブローチにしてつけてみた。
          もう一枚、ロメオ・ジリのメンズシャツを、色がとても素敵なので引っ越しを手伝ったときにもらってきたんだけど
          やっぱりパターンがメンズなのでそのままではなかなか出番がなく。
          ちょい思いついて裾を切って、シルクの羽織裏でつないでみた。
          Tシャツの上なんかにちょろりと羽織るのなら、おしゃれに着れそうになった。
          アイロンかければよかった。しわしわですません。
          袖の部分がカフスで長すぎたので、これも切り落としてバイアステープでくるんで女性っぽく改良。
          この羽織裏はおかめの模様でなかなかキュートなのだった。
          最後に、ウエストが入らなくなってしまったデニム、膝のあたりが擦り切れてしまったビロードのパンツ、捨てようと3本重ねておいたものを、何かにできないかとジャキジャキ切り開いてみたら、つないだらスカートになるのではないかと思いついた。
          ウエストを作るのが面倒なので、ウエストはデニム1本をそのままに、脇だけ切り開いてグログランリボンで幅を増やしたら、ちょうどいい太さになっちゃった。
          こういうテイストの服はおばちゃんっぽくなりがちだから気をつけないとアカンのだけど
          普段買うことはないデザインだから、まあ、試しに着てみてもいいかなと思ってます。
          ということで切ったつないだの服のリメイク完了。
          これで片付くと思ったら、なんと去年日暮里のトマトでメートル100円で買ってきた生地がそのまんま山積みになっておった。。。。。しかも3mづつもあるじゃんよ。
          というわけで、残りの時間でじゃかじゃかと直線縫いタイム。
          アラジンパンツですよー!
          もうこのパターンで夏も冬も何枚作ったかわからない。簡単で着やすくてやめられんー。
          私はすごくいい柄だと思って買ってきたんだけど、息子に見せたら
          「おばさん道まっしぐらだな」と言われた。そうか? そうなのか?
          まっしぐらついでに、かなりの量が残ったのでこっちも作った。
          よくいえばワンピース。
          別名あっぱっぱ。
          これは着る。確実に、着る。
          もいっちょ、透ける薄い綿ローン3メートルは、昔ジャーナルスタンダートLuxe(もう今はない)で買ってとても気に入って着ている麻の羽織ものからパターンを起こして、同じカタチに作ってみた。といっても全部直線なので簡単。
          個人的には今回の縫い物狂想曲プロジェクトでの、一番の出来栄えはこちらかと思う。
          めちゃ好みのができた。うれしいー。
          さて、こうして山積みの古着と布地がすべて整理できて、アトリエもスッキリ。
          ほんとに気分いいわ〜と思ったんだけど、クロゼットはまたパンパンになった。
          なんのためのクロゼット整理だったんだっけ。
          ま、所詮そんなもんですね、手作りって。
          無駄をなくすために手作りして、ごみを増やすみたいな>笑
          というわけで、数日間出しっぱなしだったミシンとロックミシンはこれにてお役御免で片付けました。
          出ている間に、手作りマスクも1,2枚。
          ほんと、縫い物がおっくうなのはこれを出す手間があるからなんですよね。
          今回もよく働いてくれました。
          さて、日常に戻ります。仕事しなきゃ。
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          断捨離などできやしない、ガラクタに囲まれて生きるのだ

          2020.07.25 Saturday 17:35
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            ピンク色のペットボトルをみつけて、3日間迷った末に買ってきた。

            1本140円(+税)。

            同じミネラルウォーターの青いボトルは知っていたけど、ピンクははじめて見た。

            むちゃくちゃ、かわいいじゃないかー。

            絵を描くために水を使うので、頻繁に変えなくていいようにペットボトルに予備の水を入れて使っているのだけれど、そのペットボトルを今日からピンク色に変えてみた。めちゃ気分が上がる。
            たぶん、買うのを3日迷ったというのもよかった。紀伊国屋の前を、行ったり来たり3日したのだ。140円でも、時間をかけて買ったことで幸福度が増した。こうして、私の部屋にはガラクタが増えていく。

             

            息子の誕生日に買ったCHIMAYビールの大瓶についていたコルク留めは、椅子になった。

            記念にあげると息子の部屋に持っていったら、「いらん」と追い返されたので、居間に飾った。

            人生でこんなものを何度も作って、ガラクタは増えた。

            たまに捨てはするけれど、暮らしの折々に生まれていく、役に立たない余計なものが、私は大好きなのだと思う。

             


            今年2月のコロナ前、フランスの美しい村のひとつ、スミュール・アン・ノーソワに住む友人が、もう何年も改装中なのだという親戚の家につれていってくれたことがある。17世紀に立てられ、19世紀の改築を最後に放置され朽ち果てていた物件を購入し、建築家である友人の義兄が家族とともに、コツコツと時間をかけて修復して住んでいた。


            博物館にあってもいいような調度品の数々が部屋のあちこちに散らばる風景と、その時代の様式を残したまま、歴史に忠実に再現しようとしているこだわりを目の前にして、畏敬の気持ちとともに驚きや羨望が入り混じって、しばしぼーっとしてしまった。

            「ほら、ここからここまでが17世紀。大理石の色が違うでしょう。おそらく18世紀にこの部屋は4つの部分に小さく区切られていたことが、天井に残る梁でわかる。あの窓は税金の関係で塗り込められて壁になったいたものを、元の状態にいま戻しているところ。たぶん、別の人がこの家を買ったら、貴重なゴシック時代の階段は壊されていたはず。これだけの幅の石を階段一段に丸ごと使うのはかなり稀なことだから、わからない人が壊してしまわなくてよかったと思っているよ」

             

            フランスでこうした古い朽ちた建物を改修して住んでいる人を何人か知っているけれど、日本との大きな違いは、そのもととなる家の状態だ。

            見事に朽ち果てていることが多い。

            たぶん、日本なら全部壊して新築するしかないと思えるぐらいの状態の家を、買って、直して、住む。

             

            この写真はもう10年ほど前にブルゴーニュで撮影した改修前の建物の写真なのだけれど、この状態を直せると思える感性は私にはない。これ見たらまず「壊すのにいくらかかる」から始めるよね、日本なら。

            石の文化だからできることなのかもしれないけれど、それでも

            この建物についても、小一時間ほどの説明を現地の人から聞いた覚えがある。

            ファサードの形、石の使い方、パン窯の跡や井戸の作り。廃墟と思っていた場所に、あふれるばかりの歴史とエピソードが詰まっていた。自国の歴史と文化にここまで親密に向き合える力って、いつもすごいなあと思う。

             

             

            ぼーっとしながら見事な家を見て回ったら、最後に1階のダイニングキッチンに通されて、コーヒーが出された。

            ここは現代的なシステムキッチンになっていて、エスプレッソマシーンや大型の冷蔵庫もある。

            んでもって、まあ、ありとあらゆるものに溢れているのだった。

            「私達は旅が大好きで、行くたびになにか思い出の品を買ってくる。それが増えていくのを見るのが、すごくうれしいのよね」と教えてくれた女主人が使っている食器棚は、こんな感じ。

             

             

             

             

            棚の中にも、テーブルの上にも、そして天井からもブラブラとたくさんのものがぶらさがっていて、まさに雑貨の海じゃった。

             

            物がいっぱいでも

            なんて心地良い風景なんじゃろ。

             

             


            断捨離が流行ったとき、「棚などに飾ってあるものは9割を捨て、1割を残す」と教わった。

            見える収納はそうじも大変だし、一番無駄なものが多いらしい。

            確かに片付けは大事だし、手放すことも大事だけれど

            でも、この日案内してもらったこの家の棚の中に、捨てていいものなどあるだろか。

             

            世の中は「捨てられない」人から、「捨てられる人」にならなければいけないような風潮だけれど、

            たくさん捨てられたと自慢する人は、単に捨ててもいいものを選んで所有して生きてきたと言えなくもないわけで、

            簡単に「捨てる」という言葉を使う風潮は、あまり好きになれないなあと思う。

             

            ということで、飾り物だらけのわがやの玄関だよ。

            何を捨てろというのか。

             

             

            まったく思いつかないよ。

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            手の混んだ料理が愛情だって、まあ、愛ってずいぶんとイージーなものなのね

            2020.07.14 Tuesday 11:17
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              ポテサラ問題がワイドショーネタになった今日。

              ネットでもう一回りしたら、テレビネタになる。

              テレビで一通り流れると、新聞ネタになる。

               

              テレビも新聞も、今の時代はトンデモ遅すぎだ、もうなんか哀しい。

              でも、あら、ポテサラ? と、よせばいいのに見てしまった今朝、思ったこと。

               

              街頭で70代ほどの男性(ジジイ)が、

              「ポテサラなんて茹でて切って、マヨネーズで合えるだけだろ? そんなもんうちのカミさんだって作るよ」

              デェへデェへ(笑)

              という、ツッコミどころ満載のインタビューに答えている映像を見せられたのち

               

              (いまごろ)喧々諤々とポテサラ問題を論じている人たちの発言を聞いて

              なんだかポカンとしてしまった

               

              若い世代が、やはり手の混んだ料理を作ってもらえるのは愛情の現れだと言えば

              僕は子供時代母親が忙しくて惣菜ばかり食べて育ち、、、、と身の上話しが始まり

              結論としてやはり「母親の手料理が食べたかった」と結ぶ。

               

              そうか。

               

              手の混んだ料理は 愛なのか。

               

              まあ、だとしたら、愛ってなんてイージーでわかりやすいものなんでしょ。

               

              *うちの手の混んだ料理。これらのものはたいてい、愛情ではなく趣味の領域

               

               

              弁当とか、手作り品とか、おやつとか。

              どれも決して簡単ではなく、時間も手間もかかり、

              そんなものを親の愛情として社会側から強要されたら、どうやったって反発したくなるけれど

               

              どこかで

               

              そうしておけば愛していることが伝わる

               

              と思うのも間違っている、と私は思う。

              ついでにいえば

               

              そうしておけば愛情深い自分を確認できて安心する

               

              のもなんか違う。

              愛はそんなイージーなものじゃないはずだから。

               

               

               

              日本って、すごく大事な部分はファジーな空白にして言語化することを避け

              「なんとなくそんな感じ」の空気感をみんなで維持しているようなところがあるでしょ。

              「愛」についても、ちゃんと語られたことはあまりなんじゃないのかな。

               

              ただ、「そんな感じ」だけでは不安なので

              そこを「愛情弁当」とか「天然酵母で6時間かけて作った無添加のパン」なんかを配置して、安心したくなる。

               

              なぜって、愛を受けるがわも、与える側も

              本当に愛されているのか、本当に伝わっているのか、愛は十分なのかと

              ただただ、いつも不安で仕方ないのだから。

              私達が日常接している「愛」の定義は、たぶんそんなところにあるように思う。

               

               

               

              愛とか

              正義とか

              義務とか

              権利とか

               

               

              子供の頃からきちんと言葉にして語り合い、定義しつつ、意見の違いを認め合っていくという教育が

              私達には決定的に欠けているんじゃないのかな。

              自分なりの言語化ができて、それを相手に伝えることができれば

               

              愛情の確認は弁当や手の混んだ料理に頼らなくたってできるはずだ。

               

              そして赤の他人に

              ポテサラ作らないなんて母親失格だなんて、くだらない言葉を投げかけることもない。

               

               

              愛は偉大だけれど

              時に束縛し

              支配し

              相手の自由を奪うこともある。

               

              愛という言葉を、簡単な免罪符にしてはいけない。

               

               

              宗教教育のない日本で

              愛 を語るのはとてもむずかしいことだ。

               

              だからこそ、相手を大事に思う気持ちや、自分のできる愛のかたちについて

              子供の頃からちゃんと言葉にして伝えあったり、討論したり、違う意見を受け入れる訓練をすることが

              私達にはとても必要なんじゃないかな、と思う。

               

              ポテサラなんかで愛を語られたくないけれど

              その反論は

              「えー、だってポテサラ作るのすごく大変なのに、わかってない」

              だけでもないような気がした今朝。

               

              ちょい書いてみた。

              ではお昼ご飯。

               

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              母と娘の赤いバラ ー 母子確執による体調不良が娘にだけ残ることの不思議について考える

              2020.06.26 Friday 11:00
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                「毒親」という言葉をよく聞くようになったけど

                少なくとも、私が子供時代はこのような発想はなかった。

                 

                親の行動がどんなにおかしくても、批判などできるすべもなく、その「なんかおかしいんだけど」「ってか、これ完全アウトでは」という経験や思いは、第三者に話されることも理解されることもなく、鬱積し続けてやがては自分自身のこころや体を蝕んだのでした。

                 

                そういう経験は、したことのある人にしか理解できないものでもあるので、今日書こうとしていることも、はてなわけわかめという人や、不快感を持つ人もいると思う。当然だと思う。

                 

                ほんでも、最近しみじみ思うのは

                機能不全家庭に育ち、盛大にあっちこっち不具合を発しながらおとなになり、そんでもなんとかそこから抜け出して、上手に消化して生きてきた。。。。。。

                はずの自分が、人生一回りの年齢を迎えてなお、親子関係を根っこにした様々な記憶や問題から逃れられていないのだなあ、哀しいことに、、、ってこと。

                 

                薄れるどころか、堆積して逆に、鮮明になっていく部分もあり。

                 

                まあ、そんなわけでたまにこういうことも書いて気持ちの整理をしてみようと思うわけです。

                機能不全家庭についてはこちらのチェックリストなどよくできていると思います。

                私などは、まあ、ほぼ当てはまってしまいますがー>笑

                https://cocooru.com/checks/6

                 

                 

                 

                さて、いつもどおり前置き長いけど、今月は私の誕生日でした。

                それも、世の中では赤いちゃんちゃんこを着るらしい、節目の誕生日でありました。

                 

                わたしは父を3年前に亡くし、母がうちから徒歩10分にある実家で一人暮らしをしてますが

                まあ、ずっといろいろ問題を抱えた家族をなんとかなだめすかして維持してきたけれど、父の入院から葬式、墓の問題を経たのち、私が大病を患ったのでもうなんつか、卒親していいすか、という感じでかなり努力をして距離を取ってます。

                 

                距離取らないと、私がそうして、病気になっちゃう。もうさんざんやってきたから、もういいよね。

                (ちなみに私は一人っ子、シングルなので、ほかに身内が誰もおらず。いずれ必ず面倒みなくてはいけないので

                 せめて今だけは穏やかに過ごさせて、というわけです)。

                 

                ほんでも、母はなぜ私が疎遠になっているのか、まったくわからない。

                そういうデリケートな感じのところにコロナ騒動で、これは私にとっては怪我の功名というか、会わない正当な理由ができたので、本当に助かっている、申し訳ないけど、救われている。

                 

                そんな中の誕生日ですよ。

                 

                朝、11時ごろ家に行っていいか、渡したいものがあると連絡がありました。

                いいけど雨が降ってるから駅まで行くよと返事をして、仕事をしていた10時20分。

                駅にいる。家まで行ってもいいんだけど、雨だからあんたが来るまで駅前のスーパーで座ってる、と電話。

                11時じゃなかったのか。

                部屋着すっぴん状態から、あわてまくって準備をして傘をさして家を飛び出したんだけど、考えたら時間を無視したのはあちら。駅まで来れているなら、そのまま7分歩けばうちに着く。なんならタクシーでもいい。

                そのあたりをすっ飛ばして、ただただ

                「どうしよう、どうしよう」と走り出す自分がいる。

                 

                ひとり待たせてしまっている罪悪感。

                雨の中家まで歩かせられるわけがないという罪悪感。

                 

                それは、愛情や思いやりとはちょっと違ったもので

                掘り起こしていくと、「ママを怒らせちゃう」「不機嫌になったらあとが大変」「ごめんなさい、ごめんなさい」というような感情がごちゃまぜになっているもので、人生の大半に存在していたとても馴染み深いものだったりするわけです。

                 

                そんなわけで小走りで駅前のスーパーに行ったら

                母が「誕生日おめでとう」と赤いバラの花束と、金一封のお祝い封筒を手渡してくれた。

                本当は一緒に食事でもしたかったんだけど、、、、、と。

                わざわざ花を持って駅まで。普通なら素敵な母子の風景だし、ありがとうと感謝の気持ちももちろんいっぱいある。

                しばらく会えないけど元気でね、と手を振り別れる。

                 

                 

                それでね。

                 

                そのバラの花束は家に持ち帰られたのち、丸一日玄関に置かれたまま

                家の中に持ち込むことができなかったのでした。

                気持ち悪くなっちゃうんですよ、見るだけで。理性に反して、気持ちと体が拒否る。因果だなあと思う。

                 

                 

                理由を聞けば、そのくらいのことでというようなことかもしれない。

                でも、こういうことがピラミッド状に蓄積してしまっているから、小さなことも体調を崩す大きな理由になってしまうのが、母子確執の難しいところじゃなあと思う(で、ちなみにこの手の関係性では体調を崩すのは、常に娘のほうでもあるわけですな)。

                 

                以下が、母と娘の赤いバラの事の次第。

                 

                数年前、突然母に

                「還暦のときあんたに何もしてもらってない」と言われる。

                「Mさん(元夫)は食事に連れていっておごってくれたのに。あんたには何もしてもらえなかった」と口を尖せた。

                 

                あれ? そうだっけかなあ。

                母に責められたら、脊髄反射で自分を責める癖がついているので、そんなことあるかなあと思いつつ家に帰る。

                 

                数日後、突然思い出した。

                真っ赤なバラを60本、贈ったじゃないか。

                それで、それをいたく喜んだではないか、母は。

                 

                後日「贈ったよね」と話すと、「えー!?」と顔を曇らせて、「そうだったかしら」と言うので

                なんだかひどく悲しくなって帰った。

                娘がしたことは何も覚えておらず、その娘を殴ってCT検査で被害届を出しなさいと医者に言われるような(実際には反逆が怖くて出さなかったけど)怪我を負わせた元夫が「食事につれていってくれた」ことは覚えているのか。

                そもそも、その食事会は私が夫に同席をお願いし、店の予約も私がしたものだ。

                私の母親の還暦の誕生日にみんなで食事に行こうと言い出すような人では、なかった。

                 

                どんなに頑張っても

                どんなに努力しても

                認めてもらえないどころか、忘れられ

                私を痛めつけた人が美化され

                それを口実に責められるって

                 

                まあ、なんかそんなことばっかりじゃったよ。ふん。

                というわけで、真赤なバラ60本というのは、なんともやるせない思い出となった。

                 

                その赤いバラを、母は持ってきた。

                理由は「あなたに赤いバラをもらって本当にうれしかったから、あなたにも同じものを」。

                忘れてたくせに>笑。

                でもその本数は、半分の30本だった。理由は

                「高かったから」。

                 

                高くてもったいないから、60本買うぐらいだったら、半分は現金で渡すほうが喜ぶと思った、と。

                 

                 

                 

                もうね、なんかうまく整理できない。

                 

                 

                そもそも赤いバラは母が大好きな花だったから、贈ったのだった。

                たとえ区切りの年齢のシンボルだったとしても、私をよく知っていれば、私は赤いバラの人ではないことぐらい、身近な人なら誰でもわかる。

                 

                母はとてもシンプルに、子供っぽい発想でこの花を贈ってきたのだと思うけれど

                ぐちゃぐちゃに殴られて病院から戻った私に「殴られたのはあなたにも原因があるんじゃないの? 私だってたまに話していて感じ悪いと思うことあるから」としれっと言い放ったこととか(母に対して感じ悪くなるのは、母が無謀なことを求めるからなのに。。。)

                 

                もともとは忘れ去られていたことが言い訳のように持ち出され、でも数は半分で理由は高いから現金でもらうほうがうれしいだろう、って、

                 

                あまりに多くのメッセージが赤いバラにこめられすぎていて

                それを家に持ち込むことさえ辛くて、半日体調を崩したのだった。

                 

                あほか、と思う人も多いと思う。

                母との確執がない状態であれば、これはちょっとした笑い話であり

                「なんだかかわいい愛すべきおかあさんね」ということになるわけで、実際母を「愛すべき人」と認定する人も多い。

                 

                でも、母子の間に蓄積されてしまったことは、この歳になっても、たまにこうして噴出して心身を苦しめたりするわけで。

                 

                 

                とりあえず、30本の赤いバラは1日玄関に置かれたのち

                小分けにしてドライフラワーにすることで、なるべく目にすることなく、でもないがしろに捨てたり枯らすことで罪悪感を抱えることもなく、いま平和に家の中にぶらさがっています。

                 

                 

                 

                これが母と娘の赤いバラのお話。

                 

                 

                 

                さて、これには後日談もあり。

                 

                数日後。

                はれ? と思い出す。

                還暦だったっけ? 母が還暦の時って、まだ近くに住んでいなかったんじゃなかったっけ。

                 

                 

                じっくりと記憶をたどって、ぼんやり思い出したのは

                「あんた覚えているかどうかわかんないけど、私今度喜寿だから。そういうときぐらい、何かしてくれったっていいんじゃないの」

                というような電話をもらい(念の為言っておくけど、誕生日は毎年きちんと食事会したりものを贈ったりしている)、

                これはいつもと同じ感じのものでは満足してもらえそうにないと、バラの花を77本贈った、、、、

                 

                かもしれない。

                 

                もしかしたら、古希だと言われて、70本だったかもしれない。

                この家から注文したのだから、母はとうに60歳を超えていたはずで

                いずれにしても、赤いバラを贈ったのは還暦ではなかったのでした。

                 

                還暦は彼女が言うとおり、家族で食事会をしたけれど、赤いものなんて死んでもヤダ! などと言い放ったために特別なものを贈ることはしなかったのだと、いろんなことがぼんやりと思い出されてきて

                まあ、お互い様でどちらも記憶はうろ覚えだ。

                ちゃんちゃん、という顛末なのでした。

                 

                 

                 

                笑い話だけどね。

                 

                 

                これ書いていて、赤いバラの花束であのとき気持ち悪くなってしまった一番の原因は

                 

                私を長年痛めつけた人に「食事連れていってもらった」ことだけを覚えていて(繰り返すがセッティングは私だ)、

                まあ、還暦であろうが古希だろうが喜寿だろうが、これだったら絶対喜んでもらえると頑張ったことは記憶に残らず

                「あんたなんて何もしてくれなかったじゃない」の記憶しかなく

                どこまで頑張っても何をやっても認めてもらえないという幼少からの蓄積が

                ぜんぜん私らしくない赤いバラ30本+30本分の現金封筒をきっかけに、噴き出してしまった、ということなんだろうと思います。

                 

                でもね、彼女は彼女なりに私を賢明に育てたし、心を配って愛して、生きることを頑張ったのは確か。

                特に年をとった最近は、素直に私のことを認めて褒めてくれるようにもなった。

                それなのに、過去のさまざまな蓄積に、娘としていまだ苛まれて関係を保てない悲しさ、恐ろしさ。

                親子問題って、なんて底知れないんでしょ。

                 

                 

                あれ、母これ読むのかなあ。

                昔は知られることが恐ろしくて、だからうちわでの話以外でこの手のことは書かなかったけど。

                もう年も年だから、伝える必要もないし理解して欲しいとも思わない。

                でも、私が公に口にする自由は、そろそろあってもいいかな、と。

                 

                 

                また、たまに書くかもしれません。

                 

                書いたらスッキリしそうなもんだけど、書いたら体調悪くなる。今も背中が鉄板背負ったように重くなっている。

                父の問題は、亡くなったらすっきり解決するかと思っていたら、亡くなったことで「いつかわかり合える」という希望のようなものが絶たれたことで、逆に考えないことで生き延びてきた辛い記憶が鮮烈に蘇ることが増えました。ほんと人の記憶は不思議。

                 

                でも、放っておいても昇華には至らないので、ある程度の整理は必要かと思う次第です。

                心の中に鬱積しているものは、少しづつ整理しないとアカン気がしています。

                 

                今日はお目汚しでしたね。

                ではまた!

                 

                category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(2) | - | -

                VUCAな私とレジリエンスらしい時代と。そして未来に思うこと。

                2020.06.10 Wednesday 07:16
                0

                  コロナ以来、東京アラートだのソーシャルディスタンスだの、横文字花盛りのこのごろですが。

                  時代は、VUCAなのだそうだ。

                   

                  Volatility(変動)、Uncertainty(不確実)、Complexity(複雑)、Ambiguity(曖昧)。

                   

                  もとはアメリカの軍事用語だったらしいが、最近はいろいろな場面でちょろちょろ聞くようになった。

                  つまりは、予測不可で何が起こるかわからない時代なので、まあ、そう思って備えたり蓄えたり、発想を転換しましょうということなのだと思う。

                   

                  んで、そういう時代に必要とされるのが

                   

                  レジリエンス

                   

                  ということらしくて、横文字タイトルのビジネス誌あたりでこんな言葉が花盛りっぽくなってきてた。

                  レジリエンスって

                  なんだそりゃ、と思っていたら、しなやかさとか弾力性のことで、危機的状況やストレスでポッキリと折れてしまわないための心の強さみたいなものを言うのだそうだ。経営面で言ったら、危機管理大事よねってことになのかな。

                   

                  日本語でぴったりのものがみつからないのかもしれないけど、しなやかな心とか、柔軟な経営とか、そういうんじゃだめなのか。

                   

                  つまりは、予測できないことがじゃんじゃん起こっちゃうから、頭柔らかくして、柔軟に生きないとねってことで

                  そんなのあまりにも当たり前のことだと思うんだけど、まあ、そういう風に時代が変容中なのだ。

                   

                  (時代が変容しているというのなら、もうこんなわけわかめな横文字で煙に巻くのも、やめりゃいいのにさ)。

                   

                   

                  さて、コロナワールドにもだんだん慣れてきて

                  前のブログで入院セット作ったよー! なんて言っていた私も、意味もなく落ち込んだり体調不良に陥ることがなくなった。

                  不安は、共存すると日常になる。

                  不安という雲が晴れてきたら、なんだか新しい日常が始まっていた。

                  今日はそんなことを書いてみようかと、久しぶりに思った。

                   

                   

                  私はといえば、3月頭にフランスから帰国して以来、もう電車に乗っていない。

                  (正確には3月11日に、一度だけ4駅分だけ乗った。東日本大震災のあった日だったので、友人と陰膳で一献するために)

                  人ともぜんぜん会っていない。

                   

                  3月に予定していた地方滞在、4月に予定していた地方でのレジデンスはすべてキャンセル。

                  講演の仕事は飛び、普段の仕事量も減った。

                  秋のフランスでの展示、来年初頭のパリでの展示予定もすべてキャンセルとなり

                  本来なら今頃汗水たらし刷っているはずの版画の制作もストップした。

                   

                  もうなんだか、すべてが、止まった。

                   

                  すべて止まって、家にいて

                   

                  最初の2,3週間が不適応で体調もメンタルも不調という時期を過ごし

                  (そのプロセスが、前回と前々回のブログでいろいろ書いてある@自分)

                  その後はなんだか

                  さっぱりした気分で平穏になった。

                  本当に不思議だけれど、ストンと平穏になった。

                   

                  そもそも、動きすぎていたんだ。

                   

                  1日家にいる日が続いたら、あかん、どこかに出かけなくてはと思っていた。

                  仕事が減れば、増やす努力をし

                  誰にも合わない日が続けば、会いに行った。

                  知らないうちに、心の中にずっとそんな「動」のトリガーみたいなものがうごめいていたんだ、と改めて思った。

                   

                  たぶん、社会に出てからはじめて

                  「動かなくていい」時間を過ごしているのだと思った。

                  これは、もうむちゃくちゃ、ラクだ。

                  なんでこんなラクなことを今までしてこなかったのかと思うけれど

                  それは、周りがみんな動いていたからだ。

                  周りの誰も動いていなければ、動かないでいるのはこんなにもラクなものなのか、と思うのだった。

                  人って不思議。

                   

                   

                  ただ、シングルでフリーランスの立場は

                  動かずに止まってしまったら収入も人間関係もなくなってしまう。

                   

                  その不安はないのか、と問われて

                  冒頭のVUCAの言葉が頭に浮かんだ。

                   

                  ああ、そうか。

                  もう

                  自分の人生がこれまであまりにもVUCAだったので

                  ずいぶん前からすべてがVUCA仕様だったことに気づいたんだった。

                   

                  Volatility(変動)する収入

                  Uncertainty(不確実)な仕事や契約

                  Complexity(複雑)な人間関係と

                  Ambiguity(曖昧)な社会での立ち位置

                   

                  以前、「2年後の旅行」に誘われて、続々と参加者が集まるのを見て

                  2年後にその旅行に行けるだけの経済的余裕があるかどうかなんて、今わからない

                  とか

                  そもそも病気になって入院しているかもしらん

                  とか

                  親の介護で身動き取れないとか

                  ってか、2年後にまだそこに行きたいと自分が思っているのか?

                  とか

                  そういうことしか頭に浮かばない自分しかおらず

                  当たり前のように今の自分の延長線を2年後、3年後に描ける人ってすごいなーと思ってしまったりしたのだった。

                   

                  つまりは、あまりに先が見えないので

                  今日収入が途絶えるとか

                  仕事がなくなるとか

                  自分や家族が突然病気になったり事故に合うとか

                  それ前提で少しづつ、人生整えてきちゃったので

                  いま、いろんなものが止まってしまっても、転げ落ちずになんとかやっている。

                   

                  あとは、もう人生あれもこれもなんでもありな展開満載だったので、予想外のことが起きても、もうあまりびっくりもしない。

                  自分にヒビが入ったり浸水したり破れたりはするけれど、貼り直したり時間をかけて乾かすことはなんとかできて、ポッキリ折れたり、割れたりはしない。

                  もうこれはね、戦略的にやってるんじゃなくて

                  結果的にしかたなく、こうせざるを得ずになんとかやってきたことなのだよ。

                   

                  いま社会の中には本当に大変な思いをしている人もたくさんいて

                  そんな中で「なんとかやっている」というのは、それは本当に幸せなことなんだと思う。

                  ただ、その「なんとか」は、これまでのピンチの中で、本格的に転げ落ちてしまわないために地道になんとか積み重ねてきたことでもあったりする。

                   

                   

                  あれ? 結局、レジリエンスってこういうこと?

                   

                   

                   

                  でもね

                  もしこれが、VUCAな時代のレジリエンス なのだとしたら

                  たぶん、これまで私達が生きてきた時代が向いていた方向とは、もうぜんぜん違うことなのだ、というように思う。

                  見ている未来も
                  とらえている現実も
                  そもそも、そのテンションがまるで違う。

                  不確定な時代を生きるためのしなやかさ というのは確かに必要だけれど

                  それは

                  ろくろ回すスタイルのプロフ写真のような人がビジネス目線で語ることではなくて

                   

                  もうね、そういうんじゃない人たちが

                  違う言葉で語りだすことなんじゃないか、と

                   

                  うまく全然言えないんだけど、思うんだよね。

                   

                   

                   

                   

                  VUCAから生まれてきたレジリエンス(もう呪文みたいだけど!)には

                   

                  よくわかんないんだけど

                   

                   

                  その根底に 哀しみが 潜んでいるような気がする。

                   

                   

                   

                  これまで未来が語られるときにあった

                  希望とか、力とか、発展とか

                  権力とか、所有とか

                   

                  そういうテンションではまったくなくて

                  だから

                   

                  そういう視点でまだ物事を見ている人たちが、コロナの時代を生き抜くためのレジリエンスとか言うのを聞くと、

                  なんだか無性に違和感を感じてしまうのかもしれない。

                   

                   

                   

                   

                  哀しみの視点からは、慈愛が生まれ出る気がするんだー。

                   

                   

                  だから、これからの時代を扱えるのは

                  哀しみの場所から生まれた慈愛の視点を持つ人なのだろうと

                   

                  そんな風に思っている。

                   

                   

                   

                  いまリーダーシップを取れているのは女性首相のいる国だという人もいるけれど

                  それは彼女たちが女性だからというよりも

                  どれだけその生い立ちや視線の中に「哀しみ」を内包してきたか、の違いはあるように思う。

                   

                   

                  自分はもう旅の終盤のVUCAなレジリエンスとして去りゆく心境だけれど

                  こんなしょうもない、でもおもしろすぎる世界を

                  なんとかこれからも生きていく

                  若い世代のレジリエンスたちがどんどん生まれて欲しいなーって思う。

                  コロナで生まれた唯一の希望は、そこ。

                   

                   

                  まあもうね

                  世代交代なのよ。

                  老兵去れ。

                  一気に去れ。

                   

                   

                  最後はここか。

                   

                   

                  今日もとりとめなかったです。

                  とりあえず、今日も家にいます。

                   

                   

                  category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(0) | - | -

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                  • なんでフランスのごはん作りはラクで、日本のごはん作りは面倒だと感じるんじゃろ
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                  • フランスと日本のデッサン教本のヌードの扱いがあまりに違う件。なんで日本は女だけ脱がすんや!?
                    武蔵野夫人
                  • フランスと日本のデッサン教本のヌードの扱いがあまりに違う件。なんで日本は女だけ脱がすんや!?
                    maymay
                  • 12時間円柱を描きつづけてはじめてわかったこと。「気づく」までにはたくさんの時間がかかるのに、みんな先に教わってしまうんだね。
                    武蔵野夫人
                  • 12時間円柱を描きつづけてはじめてわかったこと。「気づく」までにはたくさんの時間がかかるのに、みんな先に教わってしまうんだね。
                    武蔵野夫人
                  • 12時間円柱を描きつづけてはじめてわかったこと。「気づく」までにはたくさんの時間がかかるのに、みんな先に教わってしまうんだね。
                    武蔵野夫人
                  • 12時間円柱を描きつづけてはじめてわかったこと。「気づく」までにはたくさんの時間がかかるのに、みんな先に教わってしまうんだね。
                    ちくわ
                  • 12時間円柱を描きつづけてはじめてわかったこと。「気づく」までにはたくさんの時間がかかるのに、みんな先に教わってしまうんだね。
                    macohime
                  • 12時間円柱を描きつづけてはじめてわかったこと。「気づく」までにはたくさんの時間がかかるのに、みんな先に教わってしまうんだね。
                    ワンチン
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