「とりあえず今日は昨日と同じ日でいて」ー怒るにはエネルギーが必要だったことを知る朝

2017.06.15 Thursday 11:12
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    共謀罪が参院選で通った昨日。

    怒りや不安に向き合うには、ある程度のエネルギーが必要なのだと知った。

     

    前回このブログを更新してから、なんと6ヶ月以上経過してた。

    最後の記事がなんだか後ろ向きな内容だったから、そのまま放置されていたことになり

    それでもその間、こんなブログを取り上げてくれる方もいたりして、アクセスが急に3万4万と跳ね上がる日もあったりで、いろいろ不思議な体験をした。(遡って読んでいただいた方もいらして、ほんとありがとうございます)。

     

    最後に仕事の嘆きみたいのを書いたことで、仕事依頼のメールに

    「ブログにあるようなことがないよう、誠心誠意進めてまいります」という文言を入れてくれた方もいて

    ああ、これは申し訳ない、早くもっと明るい記事に書き換えなくてはあかん、、、、、、

    と思っていたのが1ヶ月前ぐらい。

     

    それでも放置されていたのは、このところの私の状態が、別のところにエネルギーを持っていかれることで

    ポジティブにもネガティブにもなれずにいたからだった。

     

    別のところって何かっていうと

    それ

     

    介護問題。

     

     

    ある日突然、85歳の父が脳梗塞で倒れ、

    集中治療室ののち、ああ、これはもう身体能力の回復なく施設入所か、、、

    と奔走したのち、現代医学のありがたい(というか恐ろしいほどの)恩恵に預かり復活〜!

    したのはいいけれど、いろんな家庭事情のために、まあ書くのも疲れるから書かないけどほんまいろいろあって

    結果的に81歳の母にはキャパオーバーな状態の手のかかるじいさんが実家でいろいろやらかしている。。。。

     

     

    という数ヶ月だったからなのだった。

    っていうか、現在進行形だけれど。

     

     

     

    そこで、介護にまつわる世界の入り口を垣間見た。

    それはまた、機会があったら書く。

     

     

    それでも改めて思ったのは、一番最初に書いたことなのだった。

     

     

     

    怒りや不安に向き合うには、ある程度のエネルギーが必要なのだな、ということ。

    ポジティブでいるのにもエネルギーが必要だけれど、私にとっては怒るという行為のほうが

    よりエネルギーを必要としているような気がする。得意ではない。

     

    それで、体と頭と心からエネルギーがもう、必死なところに向いている時、

    私は何をしていたかというと、ひたすら無心になっていた。

    外からやってくることがあまりに理不尽であったり、想像の斜め上を行っていたり、未来が見えない時

     

    その時々で怒ったり嘆いたり意見したり、喜んだり希望を持ったり、、、なんてことを繰り返していたら

    確実に自分のメンタルバランスが壊れるので

    じゃあ、何をするかというと、無心になるのである。

    なんつか、自分を守るために、感性の何かが麻痺するんだ、ということを知った。

     

    そこでひたすら、ただ願っていたのは、ただひとつ、これ。

     

    「とりあえず今日は昨日と同じ日でいて」

     

     

    明日が同じである確証がない(なぜって、自分の努力や意思とまったく関係ない場所から、理不尽な状況が飛んでくるからだ)

    半年後、1年後なんて何の話だ。

    5年、10年の構想なんてなんの役にも立たない。

     

    だから、とりあえず今日は、昨日と同じに過ごしたい。

    明日のことは、また明日、同じように昨日と同じ今日と考えて過ごしたい。

     

    あんなに大好きだった旅や、海外滞在の予定を立てることも

    3ヶ月先が見えないと勝手に頭が働いて、考えることをやめてしまう。

     

    そして今朝、頭の中心が痺れて麻痺したような状態で、自分のしたことに愕然としたのだった。

    共謀罪参院通過のニュースを流すテレビのチャンネルを、黙って変えた。

    一色になっているツィッターの画面を、閉じた。

     

    なぜって、それは私の心をざわつかせ、不安にさせ、怒りを噴出させるから。

    ほんとはいけないこととわかっているけど、敢えて書けば

    とりあえず私は、今日は昨日と同じ日が送れるはずだから、不安や怒りから自由でいさせて。

    いつも通り、過ごさせて。

     

    旅行の予定をわくわく考えるようなエネルギーも

    理不尽なことに怒りや不安をおぼえるエネルギーも

     

    この数ヶ月ですっかりなくなってた。

    怒るって、すごくエネルギーがいることなんだ、と改めて思った。

     

    (森美術館で見たハルシャの絵。政治と社会、アートの関係についていろいろ考えさせられたインドの現代アーティスト)

     

     

    先日のニュースで、現政権を支持している多くが、老人世代と20代の若者だということを知って驚愕したんだけど

    (特に若者のほうで)

     

     

    今朝の自分の行動を思い返しながら

    ああ、それは

     

    先が見えない日々の中で、希望というものを持つことが逆に自分を傷つけると知った人間が

    少しづつ少しづつ、無心でいるという自己防衛術を身につけて

     

    わくわくすることからも

    怒ることからも距離を置き

     

    とりあえず、昨日と同じ今日が送れればそれでいいのです。

    未来がこんな風になってしまうから、いま、よく考えて反論して、声を上げなければと言われても

    その種類のエネルギーはとっくの前に手放してしまったよ、

     

    ってか、そういうの

    疲れるしうざいから

    やめてくれるかなあ。

     

     

     

    と思ってしまう。

    それは今の若い世代が直面している現実であり

    非正規雇用から抜け出せない社会システムの中にいる人や

     

    同様に、またちょっと別の視点で

    死により近い

    70代、80代の現実でもあるのではないか、と思った。

     

     

     

    昨日と同じ今日、その今日が終わったら、今日と同じ明日1日。

    その「明日」は、あくまでも自分の日常の明日であって

    社会とか、世界とか

    正義とか倫理とか

    とりあえずそういうことはもう、とりあえず置いて見ないことにするという

    まさに今朝の私のような行動が

    次の同じ「今日」を作れない法案や政策をどんどん通過させる土壌になってる。

     

     

     

    怒れよ、と言われても

    その種類のエネルギーから距離を置いていたいと思う気持ち。

    とりあえず、僕の1日が昨日と同じでありますように。

     

     

     

     

    現政権はそんな風潮に支えられている(いや、支えてもいなくて、ただ見過ごされている)。

     

     

     

     

     

    未来にわくわくできて、努力すれば何かが報われるというエネルギーがあれば

    社会に対して怒る、声を上げるというエネルギーも湧いてくるのかなあ、と改めて。

    日本、やばい。

    (いや、おれもやばい、まぢで)。

     

     

     

    さて、そんなやばい日本は4人に1人が65歳以上の老人で

    100歳以上の人口がなんと6万5千人もおる。

    口さがないことを言えば、昨日と同じ僕の、私の今日が過ごせれば

    もうそれでいいです、という人が、それだけいるってこと。

    そういう人たちを支えるために、莫大な税金が使われている。

    その税金を、昨日と同じ今日がすごせればいいんじゃね? という若者が担う。

    ってか、担えるわけないじゃん、これ。

     

    ひとり親で頑張って子育てして、やっと子供が巣立って

    さあ、これから自分のこれからを考えようと思ったら

    日本の老人社会の深い闇のようなものに直面してしまった。

     

    ほんまこれ、何。

     

     

     

     

    ありゃ、ぼやきブログで放置してしまったので

    明るく書き換えようとしたのに、なんだか真っ黒になってしまった。

    怒るエネルギーはないけど、今日1日過ごしているというレベルでは私はとても元気です。

    ちゃんとエネルギーを蓄えるためにも、書いたり、創ったりしなくちゃあかんので

    ぼちぼちマイペースでやっていければと思っています。

     

    そんな中

    年老いて死ぬということは、いったいどういうことなのか、ということについて。

    このところはよく考えるようになった。

    今日は長くなったので、また、来ます。

     

     

     

     

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    お客様が神様の日本で、最近仕事で折れることが増えたのは、なんかとっても単純な理由だったことがわかった件

    2016.11.05 Saturday 00:37
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      数年前まで、こんな体験はしたことがなかった。。。。と思う体験が増えた。

      何って、仕事で。

      改めて一応説明しておくと、私の仕事はコラムニストでフリーランスで17年ー。企業に属しているわけでもなく、特定の会社と契約しているわけでもないので、声がかかるのをただ待っているというのが仕事の日常なので、こうして今日までシングルマザーで子育てしながら食べてこれたってのは、奇跡にに近いことだーと、いつも思う。

       

      いまだ、なんで食べていられるのかわからない。ありがたい。

       

      それでも、世の中的には仕事の単価がぐいぐいと落ちて

      仕事自体も減ってきたのは確かだ。

       

      それで、なんともいいようのない

      え?

      それって何?

      これってどういうことなん?

       

      というような体験が、ほんとのほんとに、このところとっても増えた。

      そうだなー、この5年ぐらいの間で、なんかがすごーく変わった。

      何だろう。

       

      それって、私が歳を取って頑固になったから?

      変に経験積んで、勘違いしてる部分があるの?

      あ、そうか。単にこの世界での自分の価値が下がったってことか?

       

      …と自分なりに納得しようとしたり

      諦めたり、嫌になりながら、もうこの仕事辞めようかなーと思ったりの繰り返しなのだけど。

       

      私の場合は、ほんとにはじめて連絡をくれる人と、はじめて仕事をすることも多くて、だから、!?!?! という出来事があった時、それは相手がおかしいのか、私がおかしいのかというあたりを確認しあえる人がいない。

      それも、もやーっとしがちな一因。

       

       

      例えば、私の取材をしたいと依頼があって日時も決まったのに、取材場所の連絡が来ない。

      前日の夕方に、こちらから「どこに行けばいいですか」と連絡を入れたら

      「あー、あれですけど、その後クライアントからもっと違う場所でと言われたので、リスケさせてください」という。

       

      明日空けていたので、もうちょっと早く連絡くださいね、と言うと

      「これこれとそれそれができる取材場所をそちらで決めてもらえませんか」という。

       

      うが。

      ほでも仕方ないので、それができそうな知人のスタジオと交渉して場所を確保して連絡を入れて日にちもリスケする。

      が。

      この時点で絵コンテも企画書も来ないので

      「ある程度の取材内容を教えてくれ、準備するから」と伝えたが間際までなしのつぶて。

      前々日の夕方に大量のデータが送られてきて、そこには

      翌日一日で買い出しから下ごしらえから、その他備品の買い物から、私がやるべき大量の指示があってびっくりした。

       

      えっと。

      たとえば私がテレビ番組のスタッフだったり、取材する側だったら、それはアリ。

      でも、こういう仕事してきた経験から、「インタビュー、家や事務所の取材をさせて欲しい」という依頼だった場合は采配が違う。

      まあ、準備してもいいんだけど、直前にメールでデータ送りつけて終わり、はやっぱり違う。

       

      しかも、内容が私の活動とぜんぜん違っていて、これまで話にも出なかったことがたくさん増えている。

      どいういうわけでこんなことに? と聞くと

      「クライアントの希望で」と。

       

      これ。

       

      「クライアントの希望で」。

       

       

      私が話していたのは代理店。

      クライアントとは一度も会ってない。

      ほんと、こういうこと、とっても多い。

       

       

       

      あと増えたのが、「最低限のマナーでは」と思っていたことを軽く飛び越えていく案件。

       

       

       

      たとえばこないだ、通例ではあり得ないというNG案件があったので

      間に立って連絡してきた人に、「それはやはり、直接連絡するように言ってね」と伝えたら

      打ち合わせ中に入っていた留守電に

      「お詫びしたいので、連絡ください」と口頭で電話番号を言われた。

      携帯に折り返しせずに、こっちの電話にかけろということらしい。

       

      歩きながら口頭で言われた番号はかけなおせないし

      何より、こちらに非がまったくなく、相手が100%悪いNG対応の説明とお詫びというものをしてもらうのに、私から電話をするのもなんかはばかられる気がして放置した。

       

      そうしたら、夜メールが来た。

      この番号にかけろ、と再び。

       

      おかしいと思うのは私だけなんだろうか。

      私なら「お詫びの説明をしたいので、電話をしていい時間帯をお知らせ下さい」と言う。

      もしくは、昼につながらなかったのなら、その夜にメールである程度は事情説明を送る。

      お詫びや言い訳みたいなものを聞かせるために、相手に通話料を払わせることはしない。

      釈然としないので、メールで「明日の午前中は電話に出られますので、お電話いただけますか」と返事した。

       

      かかってきたのは、翌日の11時59分だった。

      ま、ぎりぎり午前中だけど。

       

       

      あ、あとこんなこともあった。

      私が新聞に書いたもの(署名連載記事)を、テレビで取り上げたいという連絡が入り

      どういう形で? と聞いたら

      「もう撮影は終わっているんです」という。

      え? 知らないうちに?

      「DIYコーディネイターの○○さんがホームセンターで材料を買って、記事のものを作って紹介しました」

      えっと。ももせが考えたものだということを中でちゃんと言ってくれましたか?

      「あー、いや、DIYコーディネイターの○○さんが作って紹介した形になってましてー」

       

      あのお、なんかおかしくないですか。

      私が考えたものを、なぜまったく知らない別の人が作って紹介するんでしょう。

      取り上げていただくのはうれしいけれど、だったらまず撮影の前に、書いた私にご連絡いただくのが順番では。

      そして、作る企画であれば、私が作るのが筋では? 

       

      と電話で伝えたときの、戻ってきた答えに、なんだか一瞬、時間が止まっちゃったのだ。

       

      「え? あれってももせさんが自分で考えたアイデアだったんですか」

       

       

       

      え。

      ええっ?

       

       

      なんかさー、私、自分が書くものは「自分で考えたアイデア」、もしくは

      従来あったものなら、それを自分なりに編集アレンジしたもの ってこと以外、思ったことなかった。

      そして署名連載記事で書いたものには、著作権ってものが存在するとしか思っていなかった。

       

      そうかー。

      アイデアなんてみんなどっかから持ってきたもんなんだから、書いた人の著作権なんて関係ないってこと?

       

      だから、書かれたものは別の人がそのまま使ってよくって

      そんで、クレジットにもとに書いた人の名前出す必要も、ギャラ払う必要もないってことなんね。

       

       

       

      ええっ!?!?!

      そうなの? そういうこと? 原稿を書くって、そういうものだったん?

       

      あれ?

      おかしいと思ってる、私がおかしい?

       

       

       

      …みたいな。

       

      これはかなり自分にとっては衝撃的な出来事だったので

      これ以降、しばらく自分でアイデアを考えるのをやめたことがある。

      検索して出て来たもんをそのまま使えばよくて、一生懸命試作したり工夫して考えること自体がアホくさい、と。

       

      ま、このあたりはいろいろ意見もあるだろうけど。

      でも

       

      なんだか、ぜんぜん大切にされてないなーって思うことが増えた。

      大切というか、仕事をするプロとして対等に見られていない、尊重されていないという感じ。

      それは同時に、

      え?

      それっておかしいよ、それやっちゃだめじゃん というような

      相手もプロとして成立していないぞー、っていう案件も増えたってこと。

      特にネット系は顕著。

      従来のメディアで仕事をしてきた人たちとは、まったく違う分野の人たちが

      情報や言葉やデザインを扱うことが増えてきたこともあるように思う。

       

      動画集めるっていうから、その著作権どうするの? って聞いたら、「そんなこと考えなかった」とか。

      「あなたの書いたものを適当にこっちでまとめます、だから謝礼はナシで」とか。

      適当? 適当にまとめちゃう?

      すでに本に書いてあることは、別の誰かが”適当に”まとめてタダで別媒体で使っていいと?

       

      「1時間のインタビュー+自宅撮影、ライターの書いた原稿の校正をしてもらって、謝礼はありません。

      でも、プロフィール欄を使って、ご著書のPRをしていただくことができますのでご活用いただければと思います」とか。

       

      えっと。

      プロフィール欄って何だと思ってた? プロフィール欄に著書名入れることは広告費としてバーターになるとでも?

       

      丁重にお断りしたら

      「一緒にお仕事ができたらと思っていたのに、残念です」と戻ってきた。

      ノーギャラで半日拘束って、私には「お仕事」じゃないよ。え、違うの?

      私がおかしいの?

       

      いや、すごくちゃんとしている人もいっぱいいるんだけど。

       

       

       

      とにかく、少なくとも5年ぐらい前までは存在しなかった依頼内容が増え

      そして、なんだか悲しく、わびしく、意味不明だと思うような対応に遭遇するようになった。

      それで、それは自分がおかしくなったのかと思ったりもしたけど、

       

       

      あ、そうか。

       

       

       

      なんかそれ

      とてつもなくカンタンな理由だったような気がする、と思うようになった。

       

       

       

       

      最初に書いた案件にあった

       

      「クライアントの意向で」

       

       

       

      それ。

       

       

       

      クライアントって、つまり

      「お金くれる人」

       

      ってことよね。

       

       

       

       

      お客様は神様です

       

      という考えが蔓延しちゃった日本で。

       

       

       

      お客様ってのは、つまり、お金払う人ってことで

      金払う人が一番偉いんだぞ、って

      私たち、だんだん洗脳されちゃってる気がする。

       

      レストランで、こっちは金払ってるんだから、ごちそうさまなんて言う必要ない

      と平気で言う人たち。

      お金を払ってくれる人の言いなりになる側と

      払ってるってだけのことで、自分が神様になって威丈高になる人たち。

      学校も、こっちは税金払ってるんだから、サービス業だって言う人もいる。

       

      そういう理論でいくと

       

       

      私、原稿書いてお金もらってるんで

      私に原稿や取材を依頼してくれる人は、お客様なの。

      うん、それは昔から、ずっとそういうこと。

       

      ただ、そこにはお互いもちつ持たれつで

      誰かが持っているスキルや情報に対して、それをリスペクトして、対価を払うよっていう関係性が

      これまではちゃんとあったんだけど

       

      そこ、

      知らない間に

      お金払う人が一番偉い って図式に

      どうやらなっちゃったってことなんだろう。

       

      そう思ったら、上記に書いた、なんだかなーと思ったことすべて

      「それでお金もらうんだから、言われた通りにするのが筋」

      ということになる。どんなに急でも準備して、間際のリスケも文句なんて言わない。

      来いと言われたら、遠くても相手の予定に合わせて出かけていく、ってこと。

       

       

      なので、代理店や制作側は、クライアントの言うなりになり

      なんだか理不尽だなーと思うようなことにも対応せざるをえず

       

      そういう人たちが今度は

      デザインや言葉を扱う人たちのクライアントとなり

       

      私みたいに個人で何にも属さず

      ただ情報やアイデアを提供する側にいる人間に対しては

       

      「ギャラ払った時点で貴方の仕事は終わり、完成報告する必要ないよね」

      「お金払ったら、そのあとそれをこっちがどう使おうと

       形を変えようと、何度使おうと、こちらに権利がある」

       

      ってことになって

      それがさらに

       

      「いくらでも安い金額でやりたい人いるし

       別にプロに頼まなくても、フリーソフトでちゃちゃっと作れるスタッフいくらでもいるし。

       こっちも安い金額しかもらってなくて予算ないんだよ。

       そもそも貴方考えるだけで、一銭もかかってないじゃん」

       

      なんてことにもなり、(笑 すべて仮想だけど)

      そんで

      いろんな悲しいなーって思うことがどんどん増えているような気がする。

       

       

      そうやって書いたもの、作られたものは

      クライアントにリスペクトされないどころか

      (だから勝手に手を入れたり、間際でひっくり返したり、アイデアだけ持って行ったりする)

      消費側にもリスペクトされず

      (だからそのままパクられて別の商品になったり、書いたものが勝手にまとめられてほかの人の仕事になってたりする)

       

       

      最近は「リライトライター」といって

      誰かが書いたものを、少しだけ表現を変えて、丸ごとパクってきたとわからないように

      記事に仕立てるためのテクニックを教えるという人もいるのだって。

       

       

      クリエイティブの価値が下がっていくのに、仕事量は増える。

      電通の子の自殺も、社会にこういう負のスパイラルがある気がして、ひどくこたえた。

       

       

      お客様は神様です

       

      って

      三波春夫さんは、自分が思っているのとまったく別の使い方をされていると、悲しんでいたんだって。

       

      本来は

      神様は、あがめ奉られるだけではなく

      民衆を見守り、願いを叶えてやるという役目を同時に担う。

      ファンであるお客様は、チケットやCD買ってお金払ってくれる存在ではあるけれど

      同時に、アーティストを支え、育て、見守るという大切な役目も引き受けているんだよ。

      神様を引き受けるって、とっても責任があること。

       

      今、神様はただお金を払うだけで

      なんの役目も引き受けない存在になっちゃった。

       

       

      お金ってそんなに偉いのかな。

      お金って、怖いな。

       

       

       

       

       

      フランスにいたとき、

      一番偉いのはお店の人だったよ>笑

      ってか

      お客さんもお店の人も、同じ人間、対等な存在。

      クレームや不満をぶつける先は、同じように働く人として存在する誰かではなくって

      もっと、組織とか国家とか、システムに対してなんじゃないかな、と思う。

      電車遅れたこと、駅員さんに怒りぶつけても、なーんもならんじゃん。

      どんだけみんな、行き場のない閉塞感を抱えてるんだろー、と思う。

       

      いろいろ、息苦しさが増している日本の中で

      気持ちよく楽しく、仕事が出来る方法を、いま、模索している最中です。

       

      そんで、自分自身も、気持ちよくいい仕事を一緒にできる人間であり続けたいなーと強く思う。

       

      しばし逃げ出すことばかり考えていたけど

      もっとよりよくできる方法はあるはず。

      素敵な人もいっぱいいるんだし。

       

      今日はそんな話。

      ネタバレ感満載だけど、たまには許してね。

       

      category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(24) | - | -

      スピ系の話の続き。結局スピチャンネルは人のために使わず、自分が幸せになるためだけに使えばいいんだと思う。

      2016.10.26 Wednesday 23:41
      0

        怪しげなスピ系の話の続き。

        人はそれぞれ視覚や聴覚、身体感覚などの得意なチャンネルがあるんだけれど、中にはスピ系にチャンネルを持っている人もいる、というのが先日書いた話。

         

        他の人には見えないものが見えるとか、感じるとか

        誰かの前世やオーラが見えるとか、その他特殊能力があるのだとか、そのあたりのことを言う人は意外といる。

         

        私は超能力というのはマジックの一種だと思っているけれど

        美輪さまのように(笑)、人の見えないものが見えるというような人はいると思っている。

        それで見えているものの実態はわからないけど、そこにある何かを感じるという能力は、多かれ少なかれ持ち合わせている生き物の本能というか。

         

        殺意を持った人が近づいてきたら、なんかぞわっとするなんていうのを始めとして、ただ単に、不機嫌な人が部屋にいたら気分が悪いとか。結局そういう見る事も聞く事もできないけど、「人が発する気分みたいなもん」とか、なんか事件があった場所に残ったいやーな気みたいなものは、意外と伝わるんじゃないかと思う。

         

        そこで感じたものを、ただ雰囲気と処理するのか、脳内でスピ系に編集して言語化するかどうかの違いで、後者のような編集作業の過程では、古くから言い伝えられてきた伝説的な形や、民族的な共同幻想みたいなものが大きく作用して、イメージが作られていく。

         

        スピ系の人が、ちょいエキセントリックにスピ系ワールドに突入すると、自分の能力を覚醒させようとスピモードな日々を送ることになって、いろんなことに敏感になる。すると、気にせずによい場所にまで勝手にいろんなものを感じるようになっていって、その中で上記の共同幻想みたなものが深く刷り込まれていって、どんどんスピな人になっていっちゃうというか。

        それって能力が伸びているというより、ただそういうイメージを脳内変換しやすくなっていくってことなんじゃないかなと思うわけです。

         

        もしそこに、何か統一された変換モードを提供する組織みたいなものがあれば、簡単にステレオタイプなスピ洗脳されるというか。

        新興宗教なんかはその手のところに、うまく入り込んでくるしなー。

         

         

         

        ってなことで、そういえば以前、みんなのうしろにたくさん前世の人が見えるという同僚がいたんですが。

         

        ものすごーくエキセントリックだった彼女、

        結婚して子どもを産んだとたんに、なーんにも見えなくなったそうですわ。

         

         

         

        いろいろおもろ。

         

         

         

        それで、なんでこういうことを前回考えるようになったのかというと

        ちょい最近であった人がスピ系のヒーリング術に目覚めて、それをたくさんの人に教えていきたい

        苦しんでいる人を助けて癒していきたいと、目をキラキラさせていたのですわ。

         

        あー、それ。

         

        スピチャンネルがあるとつい、「ヒーリング」って誰かの役に立ちたくなるもんだけど

        それやると結構辛いことになるよなあ、と思ったのでこれを書いている。

        というわけ。

        ちょうど高樹沙耶のニュースも入ってきた。

        なんつか、スピ系のお手本のような人だったなあ。

        結局、辛い。

         

         

        それじゃあ私はどうなのよというと、

        もし、私が高樹沙耶さんのように、何か強烈に心酔する人や物事があって

        さらにちょいエキセントリックに美しいことで人の関心を惹き付ける外見を持っていたら

        スピスピ星の住人になっていた可能性は、ある。

        だって80年代だもの。

        西海岸スピワールド全盛期。

        怪しいというより、サブカル系でちょい知的な世界でもあったのね。

        いやー、ほんといろいろあった。おもしろかった。

         

        それで、そういうスピチャンネルを開いていた時期には、本当にたくさんのものを見たし聞いたし、体験したのだった。

        敢えて書かないけど。

         

        でもそれ

        ある時期からすっぱりと、全部、考えることを辞めた。

        スピ系の人でいるのは、そりゃもう本当に

        消耗するし、体調悪くなるし、なんかちっともいいことなくて、幸せにはなれないからだ。

         

         

         

        例えば

        私は今でも人の気を拾うところがあるので、病気をした人と話していると、同じ場所が痛んだりする。

         

        電車で本を読んでいる時に、隣りの席に座った人の顔もしぐさも見えなくても、

        ものすごい不穏な気みたいなものが突然襲ってきて、ぞわぞわと脅かされてしまうことがある。

        たぶん、この人はものすごく怒っていたり不安やイライラを募らせているか、もしくは何か重い病気かもしれない、とよく思う。

         

        そんな時に私ができるのは

        一刻も早くその人の側を離れる、ってことだけ。

         

         

        スピ系の力を人のために使いたいと思う人は

        癒して欲しいと思っている人たちの有象無象のものを自分のからだと心に引き受ける覚悟がいるわけで。

         

        前出の彼女や高樹沙耶さんのように、スピ系のチャンネルを開いてますよーってアピールを始めたら

        そこに集まってくるのは、負のエネルギーだけなんだよー。

         

        んで、そうして誰かに癒してもらうことを期待して集まって来る負のエネルギーは、

        誰かの力では癒されることなんてなくって

        結局は自分の力で解決していかなきゃ何も起こらないってことなんだと思う。

         

         

        結局は引き受けられないことを

        あたかも何かが解決するかのように誘導できるスピ系の人は

        本物じゃない。

         

        ほいじゃ本物っているんか?

        って話しになるとぜんぜんわかんないけど。

         

         

        ま、とにかく人や世の中をよくするためにスピチャンネルを開いているという人や場所は

        たいてい、まやかしだから関わらないほうがよいのだ。

         

         

         

        そいじゃ、スピチャンネルがある人はそれを何に使えばいいのかっていったら

         

        ただ単純に

         

        自分が幸せになるために使えばいい。

         

         

         

        あー、この家、なんか玄関開けたとたんにいやーな感じがした。

        だから買わない。

         

        この人と一緒に1時間いたら、ものすごく体調悪くなった。

        次は無理してもう会わない。

         

        すごく楽しみにしていた旅行なのに、朝起きたらぜんぜん行きたくなくてやな感じ。

        キャンセルしちゃえば。

         

        憧れてきた学校が、見学してみたらなんか居心地悪い。

        どんなに有名校でも、そこはやめとけ。

         

         

         

        たいてい、最初に感じる第六感みたいなものは、当たってることが多いから

        そこに、いろんな後情報や常識みたいなものを塗りこむことで、そのささやかな感覚をおざなりにせず

        とりあえずは、やばいぞと思ったものからは離れておく。

         

        逆に

        なにこの人、すごく楽しい! とてもおもしろそう! 

        どんどん仲良くなろう

         

        この店はなんだかすごくおいしそうな予感がする

        とりあえず入ってみよう!

         

        って、素敵な予感があることはどんどんやっていきゃいいわけで。

        ま、はずれたら行かなければいいだけのことで、そこになんか意味なんて見いだす必要もない。

         

        スピチャンネルは、そういうために使うもので

        だから

         

        31歳を境に、私はすべてのスピ系の考え方から離れて

        そのあとは一切、進んでそういう感覚に近寄ることを辞めた。

         

         

        それでも、今もちょい特別な状況で気を抜くと

        ああ、この人はスピチャンネルがあるぞ、かまってもらえる、聞いてもらえるよー! と

        なんかえもいわれぬ者たちが、ぞわーっと物陰から飛び出してくることがある。

        えっと、何言ってんだかわからないかもしれないけど、とにかく、ま、いろんなことはある。

         

         

        いろいろあるけど

        とにかく

        スピチャンネルは「自分が」幸せになるために使うもので

        たいていは人の役に立つためには使えないし、使っちゃいけないと強く思うのでした。

         

         

         

         

         

        あれ、なんの話がしたかったんだっけ。

         

        久しぶりにいろんな話しを思い出したので、ちょい書いてみたのだった。

        あくまで個人的な考え。この手の話しは正解も不正解もないような気がします。

         

        次はもうちょっとまともな話題で。

         

         

         

         

         

         

         

         

         

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        人にはそれぞれ得意な知覚のチャンネルがあるらしいってことと、その中に「スピ」系の「スピチャンネル」も存在しているよねということのプロローグ

        2016.10.22 Saturday 09:56
        0

          今年に入ってからの大半の時間を費やしていた、ふたり展が終了した。

          いやあ、精魂尽き果てました。そして、今ぼーっとしまくりの最中。

           

          それでも、よい経験をたくさんした。とりわけ、ギャラリーを提供してくださった恩師の言葉や影響力は大きかった。なんか、いままでにない筋肉がついたような気分なのだった。

           

          そんで、そんな恩師との不思議な会話をもとに、タイトルのようなことを考えてみた、というのが今日のブログです。

           

           

           

          会期中、ちょろりとおしゃべりをする時間などがあった時、ちょうどキリスト教や仏教の話が出たところだったので、恩師に聞いてみた。

          「先生はなにがしかの信仰を持っているんですか?」

           

          答え。

          「ない。でも、敢えてあるとしたら、それがアートだと思う」

           

          へ、アートは宗教ですか?

           

          「この世の中にある、目に見えないもの、言葉になっていないものを形ある物にして見せていくのがアーティストの役目だと思う。それはまさに、宗教の役目でもある。だから信じる宗教は何かと聞かれたら、私は”アート”って答える」

           

           

           

           

          もうなんというか、1本筋が通っていてまことにかっこいい。

          「アートは宗教である」と言ってしまうと、なんだかとても危うく怪しげなことになっていくけれど、信じている世界観は何なのかというあたりは、日本ではあまり話題にならないことが多いから、こういう考え方は私はとても好きだ。

           

          しゃて。

          そんな話しをしていた数日後。

          レイキをするという女性がやってきた。

           

          レイキ。

          https://ja.wikipedia.org/wiki/レイキ

          こういうやつね。

          違う方向性に行ってしまったものに、真光教がある。

          いわゆる手かざしの民間療法で、日本ではこういう人が現れると警戒されるもんだけど、私がフランスにいた時には、この手のものが好きで仕方がないという人たちが結構いた。

           

          ZENとか、Buddismというのは、膠着したキリスト教的世界観に答えを見いだせない人たちにとって、哲学的で知的なものとして受け入れられる傾向があって、レイキなんかもそことごた混ぜになる感じで、興味を持つ人もいるみたいだ。

          瞑想、太極拳、レイキなんかがごた混ぜになっていて、そういうワークショップに結構な人が集まっているのだった。

          それ、なんかわかる気もするけど。

           

          とりあえず、日本ではたいてい、この手のことをする人は「スピ系」の人という認識をされることが多い。この日、彼女が帰ったあとに交わされた会話にも、何度もこの言葉が出てきた。

           

           

          スピ系。

           

           

           

          一口に言っても、いろいろ。

          毎朝ピンクのオーラを浴びて、すべてに感謝しちゃうスピ系の人もいるけれど、ほんとに見えないものが見えちゃうという人もいる。

           

           

          あ。

           

          「見えない物が見えちゃう」。

           

           

          そこで、冒頭の恩師の言葉に戻る。

          「この世の中にある、目に見えないもの、言葉になっていないものを形ある物にして見せていくのがアーティストの役目」。

           

           

           

          以前に聞いた話だけれど、人には生まれながらに持っている、秀でた「知覚のチャンネル」というのがあるのだそうだ。

           

           

          視覚にチャンネルがある人は、物事を色や形で認識しがち。聴覚にある人は、音声で。身体にある人、言葉に特化する人、いろいろ。

          自分のチャンネルがわかれば、それを生かす方法もわかってくるってことなんだそうだ。ダンサーは身体知覚や聴覚にチャンネルが開いている人が向いているだろうし、数字に特化している人が色を扱う仕事をしても楽しくないに違いない

           

          そんな中で、時折どの知覚にも属さないチャンネルを持つ人というのがいて、それがいわゆる「スピ」知覚なんだろう、って思う。

           

          敢えて、「スピチャンネル」とでも呼んどく。

           

          形でも色でも音でも言語でもないものを察知するスピチャンネルは、きっと誰もが持っているものなんだろうけど(たとえば虫の知らせとか、第六感とか、なんとなくやな感じとか、その手のもん)、扉が開いている人と閉じている人がいる。閉じている人にとっては意味をなさない、疑似科学やまがいものである世界も、開いている人にとってはまがいもない現実だ。

           

          んで、世の中にはそれを掬い上げるいろんな網のようなもんがあって、恩師のように「それがアート」と昇華できる人や、社会的に認知されているセーフティゾーンの信仰や組織の中に上手にランディングできる人はいいけれど、困った網の中にからめとられてしまうケースもあって、いろいろもやることも多い。

           

          そうやってもやるケースが多いから、スピチャンネルの使い方は難しいし、たとえ上手に使えたとしても、社会の中ではちょい生きにくい存在であることも確かなのかもしんない。

           

           

          ということで、なぜ今日こんな話題を取り上げているのかというと、この日スピ系の人が登場したことで、恩師と食事をしながら、ちょっとしたスピ体験の話題になった。

          つられるように話しだして、思い出したのだった。

           

           

          いろんな出来事を。

           

           

           

          忘れてた。すっかり忘れてた。でも、そうだった。

          私にも、スピチャンネルがあるのだった。

           

          その使い方について、いろいろ思うところがあるので、それまた次回に書くことにするー。

          とりあえず昼ご飯を食べるー。

           

           

           

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          「あの人ちょっと変わってるよね」はフランス語でどう表現するのか。個性、オリジナリティという言葉はどういう時に使われるのか、日本人の価値感のあり方を改めて考えた。

          2016.08.14 Sunday 22:42
          0

            おばんです。今日は、「あの人ちょっと変わってるね」と言いたい時、フランス語ではどう表現するのか、というお話です。去年からその答えを探していたんですが、回答を手にしたとき、ちょいクラリとしました。いや、ほんとに。なんつか、足下がグラリというか。

             

            言葉の問題なんだけど、そこに「個人」をどうとらえるのかという価値感の問題が、ふかーくふかーく横たわっていると(勝手に)思ったので、今日のお題。

             

            時は昨年に遡ります。

             

            パリの友人(フランス人)に、ちょっとした愚痴をこぼしました。

            んで、その時に「仕方ないのよね、その人ちょっと変人だから」と言いたかった。

             

            さて、「あの人ちょっと変わってるから」は

            フランス語でなんと言ったらいいのでしょう。

            日本語をそのまま直訳すると

            Elle est un peu bizzard.

             

            となります。

            が、しかし、そんな表現は絶対にしないぞ、という。

            それはちょい頭がおかしくなってて、靴を頭に乗せてるとか(わからんが)、道の真ん中で大声でなんか怒鳴ってるとか、そういうことを指すよというのである。

             

            何があったのか詳しく話せ、そうしたらわかるからというので、事情を説明した。

            そしたら、

             

            ああ、それは

            Ell’a une personalité forte.

             

            でいいんじゃない? という。Personalitéは英語でいうパーソナリティ、いわゆる個性。

            Fort(e)は強いという意味。

            「彼女は強い個性がある」。

             

            敢えて「強い」とつけるの? と聞いたら、

            当たり前じゃない、個性というのはすべての人が持っていてすべて違うものだから、彼女は個性があるという表現は成立し得ない、と言われて、その時に、なんだかいろんなことが頭の中でごっちゃになったのだった。

             

             

            私は、

            「彼女は普通と違う」=「彼女は変わっている」 と言いたかった。

             

            答えは

            「全員違うのが普通である」 となった。

             

            つまり性格や人となりが「人と違う」「変わっている」ということに対する表現が、フランス語の中にはないってことなのか? と理解してみた。

            考えてみれば、当たり前のことで、「個性」はそれぞれが持つもので、十人十色ということわざだってちゃんと日本語の中にはある。

             

            それでも、日本語で「個性がある」とか「個性的」というのは、ちょっと特別なニュアンスを持つ表現で、聞くところによると今の若者が一番周囲から言われたくないのが、「君って個性的だよね」という評価なんだと。

            特に女子の場合、「個性的」と言われるのはたいがいはほめ言葉ではない。

            クラスの中に「ああ、あの子個性的だからね」という子がいたら、たいていそれはちょい浮いていることを指したりもする。

            (私がそうだったら、非常によくわかる)。

             

             

            パーソナリティ のありか。

             

            全部違うパーソナリティがデフォルト という地平にいることと

             

            全部平均値の中にいることがデフォルト、よってちょっとでも個性が強いと浮く という地平にいることと

             

             

            自分のあり方だけでなく、他者へのまなざしも違ってくるんじゃないか、などと考えた去年。

             

            そもそも、髪の色も肌の色も目の色も違う人がまわりにたくさんいて、さらに父母や祖父母を遡って行けば、出身国がもうそれぞれ違っててあっちこっちから集まって来てるよー、という場所にいるのと

             

            髪も肌も目の色もみんな同じで、じいちゃんばあちゃんから遡ってもみんな日本、って場所にいるのとでは

             

            ものの捉え方は違って当たり前なのかもしれない。

             

             

             

            まあ、それでも「強い個性がある」というのは、なるほど、ある程度は理解できる表現なので、そうか、今後は「ちょっと変わった人だ」と日本人として思う場合は、「強い個性の持ち主」と言えばいいのか、と話した。

             

            しかし、その後彼女はちょい、考え込んでしまった。

             

            「うーん、でもまだちょっと違う気がするー。なんていうんだろう、こういう時。。。。。」

             

             

             

            ってか、「あの人ちょっと変わってるから」って、日本語的にすごく悩むような言葉なんだろか。

            なんか、すごくよく使わない?

            「あー、ちょっと変わってるよねー」「ああ、あのちょっと変わったお店?」「なんか変わった夫婦だったよー」。。。。。

             

            彼女が悩んでしまったので、さらに説明を加えた。

            「なんつか、今回特別に何か変なことをしたというのじゃなくて、昔からそうなの。周りでも彼女のことを変わってるっていう人が多いの。そうねえ、なんというか、思ってもみない反応をするというか。だから嫌な想いすることもあるの。そういうの、なんて言うんだろうねえ」

             

            「あー、 それはきっと、オリジナルじゃない?」

             

            une personne originale

             

            オリジナルな人。

             

            ちなみに、オリジナルを仏和辞典で引くと、「もとの、オリジナルの」という意味のほかに、「独創的、ユニーク、斬新」というのが出て来る。

            日本語だと、「独創的」というのはポジティブな表現だけれど、それが性格に使われると、フランス語では

             

            「風変わり、奇妙」という意味になる。

             

             

             

            とても、おもしろい。

             

             

             

            いろいろうまく整理できなかったので、今回また、同じエピソードを話して、別のフランス人に「彼女変わってる」ってなんていう? って聞いてみた。

            答えは

             

            originale

             

             

             

            une personalité forte 

            だと、気が強くて、どんどん自分で決めてしまうようなタイプのことを指すから、あなたが言いたいのはたぶん、originale。

            つまり、日本語直訳でいけば、彼女ってユニーク ってことになる。

             

             

             

            なのでもし、自分がどこかで

            「いづみさんってとってもオリジナル!」って言われたら

            それは、なんか変わってるってことを意味することらしいので、覚えておくことにする>笑

             

             

             

            「あの人、変わってるね」

            という表現が存在しないフランス語。

             

            たったそれだけのことなんだけど

             

            このところの「個性を大事にした教育」と謳いながら、教室で人と違う意見を手を挙げて言うと「変わった子」になってしまって、やがてその場の空気を読む能力ばかりが鍛えられていく日本の子どもたちが、なんだか悲しいなあと思っていた私には、ちょっと心にひっかかる出来事になったのだった。

             

            いや、このところの、と書いたけど

            それは自分が子どもの頃からずっとそうで

             

            「私はもっと違うことを思いました」と手を挙げて発言したあとの、ものすごく後味の悪い空気とか

            自分が一番好きだと思った服を着て出かけると、「いづみさんはなんか変わってるね」と言われたり

            「なんかみんなと違うよね」と言われたりすることばかりが多くて

            それは重く澱のように、自分の中に「周囲から肯定されなかった」という想い出として残っているからなのかもしれない。

             

            一度、転職して入った会社で、出社時にエレベーターの中で同期の子たちと一緒になった時

            私が図書館の本をそのまま手にして乗って来たのを見て

            「そういうの、すごく変わってるよね」「うん、ももちゃんってほんとみんなと違うよね」

            「普通そういうことしないよね」と口々に言われて

            なんだかあっけにとられたことがあった。

             

            図書館の本を借りて読むってことさえ、「変わってる」って言われる世界って何。

            私がその前にいた世界では、ぜんぜん「変わってる」ことじゃなかったことが

            別の場所に来たら突然「すごく変わってる」「普通じゃない」となることの驚き。

             

            その後しばらく私は、「ものすごく変わってる子」になった。

             

             

            「変わっている」ということは、「愛されていない」「受け入れられていない」ことの裏返しのような言葉として発せられることも多かったように思い出す私は、だから、今の若者は「個性的」と言われることを嫌うのかもしれない、と思ったりもする。

            「一人一人の器」の平均値からはみでた時に、そこにはじめて「個性」が生まれると考えるのと

            「一人一人の器」が、そもそも最初から全部違うのだから、それを個性と呼ぶのだと考えるのと。

             

            言葉の問題だけでいけば、日本にいてももちろん後者の「個性」が正しいのだけれど

            実際に生きている中では、「はみでる」ことに臆病になっている自分もいて、ときどきはげしく窮屈に思う。

             

             

            なんかいろいろ思うことは多いんだけど

            うまく書けたのかどうかわかんない。

            そんでも、「個性」「パーソナリティ」という言葉について、なんだかおもろく考えてみたここ数日なのだった。

             

             

            いろいろ独創的で、ユニークで、おもろいこともいっぱい知ってて話す事が出来て

            そしてその人ならではのファッションセンスがあって、存在感がある人。

             

            それは「個性的」でも「(ネガティブな意味での)オリジナルな人」でも「強い個性がある」人でもなんでもなく

            文章として成立さえしないである

             

            彼女は個性を持っている(だってそりゃそうでしょう、みんなに個性があるんだから、個性を持つのは当たり前)

             

            そういう世界に自分はいたい。

            そして、そういう人に、私はなりたい。

             

             

             

            以上、フランスからでした。

             

             

             

             

             

             

            category:フランス留学 | by:武蔵野婦人comments(2) | - | -

            フランスの犬のうんこ問題。そして、フランスにトイレが少ないのか、日本に多すぎるのか、その理由はなぜなのかを考えてみる。

            2016.08.10 Wednesday 01:09
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              おひさです。

              やっぱりたまには書くよ、ブログ。

               

              ということで、今日はうんことかおしっこの話題です。

               

              パリがおしっこ臭くて、犬のうんこだらけというのは、行ったことがある人なら周知のことだと思う。特に昔行ったことがある、という人は、道歩いたらかなりの確率で犬のうんこを踏みそうになったことがあるはず。

              花の都と聞いてきたのに、汚い、臭い!(そしていろんなものが古い) と一気に嫌いになった人を何人か知っている。

              しかし、このあたりもだいぶ改善されてきたそうで、最近では犬の糞の放置に2万5千円ぐらいの罰金が課せられるようになったので、少しづつ糞を始末する人も増えてきたのだそうだ。

               

              今年は始めて、公園で犬の糞用ビニール袋を備えたゴミ箱を見かけた(アメリカでは頻繁に見かけるやつ)。

              ま、それでも散歩にビニール袋と、マーキングした時用のペットボトルなどを完備して出かける日本に比べたら、犬の糞に対する意識はすごーく低く、街中だと歩道の脇に水が流れる場所があって、そこにさせたらあとは清掃車が通ったら下水に糞が流れるので、それでいいやという風潮もある。

              ほんで、それやってくれたら罰金払わなくていいから、という暗黙ルールもあると聞いた。

               

              まあ、なんともゆるいというか。

               

               

              それでも、それはパリでの話で、地方に来たら罰金制度そのものが存在しない。

              なので、犬の糞はどこにでも落ちている、ということになる。

               

              そういえば、パリには犬の糞を拾って歩くバイクみたいのがあって、モトクロット(クロットとは糞のこと。つまり、糞バイク)と呼ばれていたけど、飼い主にマナーを定着させる前に、なぜこんな対策をとるしかないのかというのが、長いこと不思議だった。

               

              それ、今回の滞在でちょいわかった気がするわー。

               

              今いる家の家主が、敷地内に糞を放置されたので注意したけど、何度言っても

              「なんで、犬にはそれが自然なことでしょ」と取り合ってくれなかったって。

               

              「それが自然でしょ」

               

              なんつーロジカル。

              犬はどこでも糞をする、それが犬だ。

               

              そういうこと。

              人に迷惑とか、別にいい。

              それは飼い主のマナーに属することではなく、犬の問題。

               

              徹底しとる。

               

               

              ということで、こっちで歩いている間、もうどこでもかしこでも、犬が糞をするために立ち止まり、糞をしてる間飼い主はおしゃべりに興じて、し終わったらそのまま歩いていく、という風景に遭遇した。

              ちょっとばかり端に寄らせるとか、それだけで違うのに。

              道の真ん中でも、ナンポクトクワ(おかまいなし)。

               

              そのうち乾いて、飛んでっちゃうってことなんか。

              マナーなっとらん! と思うけど、いろいろ飼い主マナー言われすぎて苦しくなることもある日本にいると、ちょい不思議な気持ちになったりもする。

               

               

              とういうことで、パリの犬の糞はだいぶよくなってきた(それでも十分足下には注意して歩くこと)けど

              地方は犬の糞天国であったというお話。

               

              さて、犬の糞は「それが自然でしょ」と言うくせに

              人間の糞尿については、フランス人はどう考えているのだろうか。

               

               

               

              というのも、あまりにも

              トイレが少ない!!!!

               

               

               

              なさすぎる。

              ま、このあたりも行ったことがある人ならよく知ってると思うけど

              駅に公衆トイレは存在しないので、もし外出中にトイレに行きたくなったら、カフェに入ってコーヒー1杯頼んで、「トイレ貸して」と言うぐらいしかない。

               

              デパートにもトイレはあるけど、まあ、このあたり私は信じられないんだけどね

              どんなでっかい有名なデパートでも、6〜7階建ての建物に、トイレは一カ所しかない。

              例えばギャラリーラファイエットにはたしか3階(日本式で言えば4階)、BHVは確か4階(日本式で5階)。

              そしてどこもさして広くない。

               

              ほかのトイレ情報はあとで書くとして、そこで私が何よりも不思議なのが、デパートにたった一カ所しかないトイレが、なぜ空いているのか、という件だ。

               

              そして、一方で深く深く思うのは、日本のトイレはなぜどこに行っても、あんなに行列ができているんだ? ってことだ。

               

              だって伊勢丹新宿店とかさー。

              各階にあるのよ。8階建てなら、8カ所。しかも結構広いのに、それがどこも行列で、しかも一人一人の滞在時間が異様に長くって、いったい小部屋の中で何してる? っていくら考えてもわからんぐらい待たされるって

              あの現実はいったい何?

               

               

              一度、喫茶店のトイレで異様に長く待たされて、待たされ方が半端なかったので、小部屋の中でしそうなことを、一から全部反芻してみたことがあって、ゆーーーーっくりパンツ下ろす、とか。補正下着付けてるから一からセッティングしてるか? とか。

              全部妄想してみたけど、どこまで妄想しても出てこず、これはもうお腹を下して動けなくなっているとしか思えない、、、と。

              やっとこ女性が出て来たあと、覚悟して突入したけど、臭いはしなかった。鼻をつまむ必要はなかったけど、鼻をつままれたような気になった。

               

               

              脱線してるけど。

               

               

               

              ということで、なぜフランスにはこれほどトイレがないんだ? という件。

               

               

               

              一般的には、すごく簡単なことで

              もともとトイレなんてなかった、ってことなんだと思う。

               

              全部道に捨ててたし。

              だから、ハイヒールが出来たわけで。(糞踏まずに歩く用)

               

               

               

              ただ、それは昔の話で、新しい建物や公共施設にはもっとトイレ作ればいいじゃん! って話しになる。

              ほんで、今回の滞在でわかったんだけど、日本人との一番の違いは、

               

              そもそも、トイレ行かない

               

              トイレ回数ぜんぜん少ない

               

               

               

              ってことじゃった。

              いろいろ聞いてたら、「あら、私なんて2日ぐらいおしっこしなくたって大丈夫」という人がいる。

               

              排泄という行為を、外出時にするという習慣がもともとないってことらしい。

              つまり、外でおしっこやうんちをする需要がないから、トイレも少なくていい、ってことらしい。

               

              それとも、外にトイレがないから我慢しているうちに、行かなくていいってことになったんだろか?????

               

               

              体の構造なのか、習慣なのか、

               

              主に習慣だと思うけど、習慣を続けているうちに体の構造がそうなってきたというのも正しいのかもしれない。

               

               

              先日なんて、車で1時間ぐらいかけて、なーんにもない村の真ん中に立ってるステンドグラスのアトリエで、作家さんのデモンストレーションがあるというので出かけた。

              どこから出かけても、1時間ぐらいはかかる場所にあるアトリエで、イベントは1時間半の予定だという。

               

              こんな場所だよ、何にもないよ。

               

               

              いつもの習慣で、途中でトイレに行きたくなると困るので、トイレある? と聞いた。

               

              「あるけど、プライベート用なので使えない」

               

              終わり。

               

               

               

              トイレはある。

              でも、貸さない。

               

               

               

               

              この場所で、1時間半のイベントやると告知して

               

              トイレは、貸さない。

               

               

               

               

              潔い。

               

               

               

               

              しかし、同行者のフランス人は「それが当たり前だ」という。

              こっちの人間は我慢するんだ、という。

               

              そして、日本人のように、出かける前にトイレ、着いたらトイレ、食事したらトイレ、と考える習慣は一切ないのだという。

              そうしているうちに、からだがそうなっていく。

               

              たぶん、日本はトイレに頻繁に行くという習慣があるので、尿意を催しやすいのではと言われて、はあ、言われてみればさもありなんと思ったのだった。

              ということで、着いた時には、もうトイレに行かないとあとがどうなっちゃうかー? と思っていた私も、我慢するんかと割り切ってみたら、帰宅まであまり苦もなく尿意を催すことなく済んでしまったという話。

              尿意って、あれ、ある意味強迫観念というか、習慣というか、いろんなもので成り立ってるんだなあ、と改めて。

               

               

               

              で、そういう「観念」によるトイレ増産が日本中で行われていて、そのトイレの小部屋の中で、日本女性はどんだけたくさんのことをしとるんだか、と思うのでありました。

              いや、ほんと。

               

               

              長くなったのでパリのトイレの場所などはまた明日。

               

               

              category:フランス留学 | by:武蔵野婦人comments(2) | - | -

              フランス人は「生涯教育」的発想ないらしいということについて。そしてフランス語勉強してる50代の私は日本語でブログ書いてる場合じゃなかった件について。

              2016.08.04 Thursday 04:00
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                去年パリに2ヶ月近くいたとき、ソルボンヌに通いながら毎日書いたブログにはちゃんとした意味があった。

                あれは、1人でパリに暮らして大学に通うというちょい緊張感のある現実を前にして気持ちがひるんだ時に、親友が「ブログ書きなよ、毎日読むから」って言ってくれて、それでそれがすごい原動力になって、去年は頑張れたんだった。

                 

                不安になっている時に、そういう言葉をかけてくれる人がいるって、すごく幸せなことだ。

                 

                それで、そうだ、今年も頑張って書くよー!

                 

                って思ったんだけど、去年結構システマティックなソルボンヌのフランス文明講座に通っていたのとは違って、今年はもうめちゃくちゃな会話をなんとか上達させたいという、はかない望みを胸にやってきているので

                 

                考えてみたら、毎日夜寝る前にブログを書いていちゃいけないのだった。

                 

                なぜって、そこで脳みそが日本語システムに切り替わっちゃうから。

                 

                 

                去年はほんと一人暮らしで、いっぱい時間があって、ちょっと孤独で。

                ほんで、いっぱい日本語で書いて、交流して、ネットやって、たくさん豊かな経験をしたけど

                今年はちょっと、ちゃんと勉強しようと思ったので(やっとか。。。。)

                 

                そういう理由もあって、ブログを頻繁に書くことはやめにすることにした。

                かわりに、備忘録でその日に取った写真をFacebookページにアップしていくことにしたので

                フランス(今年はブルゴーニュ)のことなんかにちょい興味があるよー、っていう方がいらしたら

                Facebookページをフォローしていただけるとすごくうれしいです!

                 

                https://www.facebook.com/atelier.izumi/

                 

                ここでやんす。

                 

                このjugemのブログシステムは、画像アップとかほんと不自由で使いにくいので

                インスタグラムを使おうと最初思っていたんだけど、ネット回線がちょい不自由なので

                一眼で撮った写真を細々とFacebookに日記代わりに載せることで、今年の記録にしたいと思います。

                 

                 

                ということで、今日から日記のカテゴリーは「パリ一人暮らし」から「フランス留学」に変わります。

                 

                 

                 

                 

                私が今来ているのは、パリからTVGで1時間ほどのところにある、ブルゴーニュの小さな街、Monbardというところです。

                (この写真は、夜の9時30分ぐらい。10時過ぎまで明るいです@夏)

                 

                ここに住んでいるフランス語の先生の家に、3週間ホームステイをして、残りの1週間はそのまま家を借りて、のんびりして帰るという予定になっています。

                 

                 

                毎日午前中は勉強をして、午後は近郊で行われるアートのイベントやお祭りなんかに参加して、そこでフランス語使って会話の力をつけて(いや、なかなかつかないんだけど、ほんと早口だからこっちの人)、みたいな。

                去年はパリでの座学でしたが、今年は暮らしながら食べながら、おしゃべりしながら、フランス語習って、フランスの普段着の暮らしになじむってう感じです。

                 

                これで、3度目になるかなー@Montbard。

                ほんとに、この場所が大好き。

                 

                 

                小さな街なので、ほとんど何もないです。

                パリとは大違い。

                それでも、特に夏は、車で30分ぐらい出かけるだけど、一見何もないように見える小さな村で、コンサートや演劇、スペクタクルやアトリエでのワークショップなどが行われていて、そんなあたりにフランスの底力を感じます。

                ほんで、田舎に来ると食べ物が、そりゃもう

                気が遠くなるほどうまいです。安いです。

                 

                そんな中で、毎日フランス語と格闘しています。

                 

                いやほんと、

                東京で多少しゃべれるんでね? 自分、、、、なんて思っていると

                こっちに来て打ちのめされる。。。。という体験を何度もしており。

                 

                今回も、ほんとにもう、小学生レベルのことがなんにもしゃべれず

                そして覚えていたはずのことを全部忘れており。

                 

                もうちょっと水飲む?

                あ、それ私にも下さい

                 

                なんてことさえ

                 

                なんて言うんだっけ???

                と繰り返している毎日ざんす。いや、もうほんとにびっくり。

                何が起きた自分。今日は「笑う」という動詞と「ねこ」が思い出せなかった。

                こんなことは今までなかった。やっぱり寄る年波って怖い。

                とほほほほ。

                 

                それでも

                 

                 

                今日、先生をしてくれているClaudineに、「私しゃほんとに、この歳で何も覚えられないよー、

                50代で語学の勉強を初級からやるって、ほんとにカタストロフだよー(最悪ってことねー)」

                「そういえば仕事で知り合った人が、人間が新しいことを覚えられるのは55歳がひとつの転機。

                 55歳を越えると、脳みその働きが格段に鈍ってきて、新しいことを覚えていられなくなる、って言ってた。

                 私、今年そこを越えてしまった!!!!!」

                 

                とぼやいたら

                 

                「いや、それでも勉強するということそのものがすごく大事なことよ!

                 いくつになっても学ぶことは脳の回路をうまくつなげる効果があるって、医学的にも証明されてる!」

                 

                という。

                 

                そして

                 

                「私はいくつかアジアの国も回ってきて、本当にアジアの人たちはいくつになっても勉強したいという意欲が強くて、すばらしいと思う! その点、フランス人は大学を出たら、もうあとは絶対勉強なんてしない! って人がほとんどよー」

                というのである。

                 

                えー、日本では引退後の人のために大学が講座を開いたり、お教室がいっぱいあって、そこに年寄りが詰めかけているよー、なんといっても今は少子化で大学もお金が集まらないので、熟年向けの講座を持つことがお金集めにもなるしー、と言ったら

                (って、実際にはもう、ほんとに幼稚なフランス語でなので、上記は意訳>苦笑)

                 

                「もうね、フランスは大学までの勉強が本当に大変なので、そこ出たらもう二度とやだ! って思うのよ。それだけ、勉強って嫌な想い出。トラウマになってるの、フランス人には」って。

                 

                 

                そうなん?

                 

                 

                確かに、フランスの教育システムはすごく厳しくて、エリートコースに入るのはすごく狭い道で、そこからはずれた人のためのリベンジコースってのがあまりない、とも言われてる。

                そんで、失業率もすごく高いから、どこの大学のどの学科を選ぶかというのは、かなりシビアな選択で、やりたいことを選んでも仕事がないという理由で、不本意な選択をすることも多いと聞いてる。

                高等専門学校に入るために(フランスは普通大学はあまり格が高くなくって、高等専門学校に入らないとエリートにはなれない)、何年も何年も死にものぐるいで勉強してなお入れず、結局普通大学に入って1からやって、卒業する頃にはもう30過ぎてる、なんて人もいる。

                 

                フランスの教育は無料か、ほとんどお金がかからず、政府が教育はすごく大事な投資って考えているというあたりはすばらしいと思うんだけど、実際にはすごく大変。勉強。

                 

                そういう中で、勉強ってもう、苦難以外の何者でもないわー、ってなっちゃうのかしら。

                いや、みんながみんなそういうわけじゃないだろうけど。

                 

                 

                ということで、フランスのリタイヤ層は、「とにかく楽しいことだけしていたい!」という人が多くて、勉強したり、何かを学ぶために学校や教室に通ってるなんて人は、田舎では特に、あんまりいないわねー、ってことだった。

                おもろいね。

                 

                 

                その意味では、日本の今のリタイア層の向学心ってのも、すごいもんだなあとも思う。

                私が通っている美術の学校も、多くはリタイア層だ。

                お金と時間があるってのが一番大きいのだろうけれど

                 

                あー、でも私、思うんだけど

                「何かを学びたい!」という気持ちが強いということの他に

                 

                「楽しいことだけしていようよ!』と言われても、あまり何をしたらいいか思い浮かばないってのもあるのかもしれない。

                 

                毎日毎日

                とにかく仕事だけしてきて

                 

                さぼったりのんびりしたり、遊んだりすることに慣れていないのかもしれない。

                女性も、すごく毎日家事してるし。

                (日本は家事大国だと私は思ってる。

                 だから子どもが巣立って家事の必要が減ったら、なんか手持ち無沙汰になる)

                 

                だから、毎日同じ時間に出かけていって、ちょっと努力が必要なことに触れ続けていることが

                自分を維持していくための要素になっているのかもしれない。

                私もそうかもなー。

                 

                なんか、無駄に向上心強い気がする。最初気づかなかったけど>笑

                そういう時代に、生まれ育ったのかも、しれない。

                 

                ということで、意味もなく無駄に向上心だけ持っているにもかかわらず

                フランス語は全く上達しないので

                毎日凹みながら

                それでも、なんとかブルゴーニュで生きています。

                 

                 

                ヨーロッパの小さな街や村の夜が大好き。

                東京の夜の灯りが嫌い。

                オレンジ色の薄暗い街を見ると、安心する。

                 

                テロはちょっと怖いけど

                東京だって地震は怖い。

                そして東京も日本も、どこにむかっているのかを考えるとなんか不安になる。

                結局どこにいても、同じことなのかもしれない。

                 

                いまある時間を大事に

                8月いっぱい頑張ります。

                 

                ということで、しばらく日本語で考えたり書いたりするのを控えるためにも

                ブログはちょいお休みして

                Facebookに写真をアップしていこうと思いますー!! ここでーす。

                 

                https://www.facebook.com/atelier.izumi/

                 

                おもしろいことがあったら、ブログもまた書きますね!!

                 

                 

                category:フランス留学 | by:武蔵野婦人comments(0) | - | -

                傑作は東京に来てしまっているポンピドゥーでクレー展、そしてジュードポムで出会ったプラハの詩人。ありがとう、ポンピ、ポム、パリ。

                2016.07.31 Sunday 00:56
                0

                  あれ、もうパリ最終日になっちゃった。明日、Montbardに発ちます。

                  今回パリ10日間。1人で、なんの予定もなくパリ10日。すでに15回ぐらい(もっと?)はパリに来てるので、もう行くとこなんかない気がすると思うんだけど、それでも、10日いてもまだまだ行きたいところがあったのに、、、となるのが、この街のすごいところだなあと思います。

                   

                  東京もそうなんだろうなー。いっぱい行くところあるもん。

                  住んでても、まだまだ知らないところがいっぱい。

                  パリなんて東京の山手線の中ぐらいの大きさなんだから、東京なんて莫大に広い気がする。

                   

                  ほでも、来るたびになんかしら素敵なものに出会える。

                  東京にいるだけじゃ知らなかったもの、出会えなかったものに遭遇できる確立が高くて(というより、必ず遭遇する!>笑)、やっぱりまた来たいなあって思ってしまうのでした。

                   

                  なんか5日目あたりからやっと、からだとこころが休み出し、場に慣れて解放されて来た気がして

                  (いつもだいたい、このくらいはかかる気がする)

                  毎日ブログなんて自分への約束はどこかに行ってしまった。

                   

                  ほでも、すでに昨日何をしたのかも忘れ出しているので、とりあえず今回であったよいもの。

                   

                  1、ポンピドゥーでのクレー展

                   

                  ポンピの傑作は東京に行っちゃってる>笑

                  東京では、敢えて行く必要もないのでは? と思っていたポンピドゥー傑作展、展示方法と作品のピックアップが独特で話題と聞いたので、それはおもろいかも、と行ってみたのだった@渡仏前。

                   

                  賛否両論あるだろうけど、私はダメだった。

                  なんつか。

                   

                  絵のお勉強に来てるわけじゃないんですけど、という展示方法で、ひどく疲れた。

                  一年ごとに一作品、ひとつの作品を見る前に、その作品の説明と作家の写真と説明が、絵とさほど変わらない大きさで並べて展示されている。

                   

                  途中から、壁が階段式になった。つまり、直角に凹んだ壁の左が説明、右が絵となった。

                  一枚づつ、進め。

                  そういう展示デザインになったあたりから、もう逃げ出したくなって、あとは適当に流して帰ってきてしまった。

                  とにかく、疲れた。

                   

                  美術館は、自分のスピードで、自分のルートで歩きたい。

                  だって、それがどんな有名な絵でも心に響かないときもあるし

                  何の情報がなくても、絵が自分の中に突然飛び込んでくることもある。

                   

                  説明なんてさほどいらない。

                  一枚づつ、勉強しながら見たくなんて、ない。

                   

                   

                  というわけで、なんか消化不良だったので、パリのポンピへ。

                  ここは相変わらず、ほんまええ場所。

                  勝手に歩き回って、勝手に好きになったり嫌いになったりして

                  そんでもって監視員の方々もほんま自由で、ええ。

                   

                  そして何度来ても、微妙に展示は変わっていて新しいものに逢えるし、企画展はいつも本当にすばらしい。

                   

                  今回はクレー。

                   

                   

                  いやはやー。

                  クレー天才なのは知ってたけど、ほんとすげー。

                  すげーすげー、わーすげー、とつぶやきながら歩いていた謎のアジア人は私です。

                   

                  クレー展は8月1日まで。もう終わっちゃう。次はどこかに行くのかしら?

                   

                   

                  もう一個やっていたのは、Beat generationって企画展。

                  1950〜60年代あたりのアメリカのビートニクス系。なんか、今年は服飾博物館はバービー展をしているし、ヴィレットでは007展で、街はハンバーガーが大流行で、お店にはStar Warsグッズ満載と、パリはアメリカブームぽい。

                  どうしたんだ。

                   

                  内容は私にはあまりピンと来ないものが多かったけど、展示はめちゃかっこよかった。

                  いいなあ、こんな展示、やってみたい。空間も手法も、本当に豊か。

                   

                   

                  パーマネント収蔵品の階も、展示替えが結構あって非常に楽しんだ。

                  やっぱこれがいいー!

                  誰の作品なんてわかんなくてもいいもんね。

                  一枚づつお勉強みたいに見るのより、絶対楽しい。そして、このぐらい空いてないとやっぱ、あかんー。

                   

                   

                  ありがとうポンピ。

                  ポンピ、ビバ。

                   

                   

                  2、ジュードポムのJosef Sudek展

                   

                  ジュードポームって、テニスの前身だって知ってました?

                  この建物、ジュードポームについてはまた別に書きますわ。長くなるので。

                   

                  で、ここはちょい前から写真と映像専門の美術館になっているので、そこでやっているJosef Sudek展へ。

                  チェコの写真家。この人のこと、私は知らなかったんだけど、街でみかけたこの写真に心がぎゅっと掴まれて、もう身動き取れなくなっちゃったので。

                   

                   

                  アトリエの窓から

                   

                  という一連のモノクロ写真。

                  ナチス支配下で灯の消えたプラハの街の風景、結露した窓から見える庭が、ガラスの水滴で変幻していく不思議。

                   

                  あとから、1976年に亡くなった、「プラハの詩人」と呼ばれたチェコ出身の写真家であることを知った。会場に流れていたビデオで、片手だけでカメラを扱っているのを見て不思議に思っていたら、第一次世界大戦へ出兵中に右腕を負傷し、のち失って片手となったのち、1920年代に写真家として活動をはじめたのだそうだ。

                   

                  水木しげるさんパターン。

                   

                  なにもかもが心にぐっとくる風景。

                  闇、水、光。

                   

                  うわああ、ありがとうポム。

                  ビバ、ポム。

                   

                   

                  ほんで、ここでもう一つ開催されていたJoana Hadjithomas & Khalil Joreige。

                  知らない作家だし、さほど期待しないで入ったのだけれど、これ! 以前森美術館で数点来ていた作品の作家だった。

                   

                  レバノン出身の女性映像作家で、夫と共同で映像や作品を作り続けている人。

                  森美に来ていたのは、戦闘で無惨に破壊されたレバノンの街の写真をタブローにしたもので、廃墟の美に通じる、鮮烈で印象深い作品だった。ほで、そのポストカードを自由に持ち帰ってよい、という展示スタイルも同じ。

                   

                  そうそう、この作家さん。

                   

                   

                  流されていたドキュメントも見たけど、レバノンの状況、難民ボートでの過酷な体験など、彼女の創作のベースにあるものが胸に迫った。ほでも、そういう過酷な現実があっても、作品は洗練されていて、過剰なナショナリズムが存在しないのが、とても好感が持てる。

                   

                  これ、巨大なミサイル。

                   

                   

                  日本ではロックフェスティバルに反体制持ち込むのもだめー、って状態になってしまっているけど、音楽やアートは、こうしてニュートラルに「私たちに起きていること」を伝えられる、至高の手段だと私は思う。

                   

                  また出会えて、よかった。こういうのは縁だと思うので、またどこかで出会えることを願って。

                  レバノンのこと、調べてみたくなりました。

                   

                  再度ありがとう、ジュードポム。

                   

                   

                  3,Senellierのオイルパステル

                   

                  今回パリで買ったのは、ほぼこれだけかも。

                  噂には聞いていたけど、びっくりぽんの描きごこち。

                   

                   

                  オイルパステルでこんな風に絵が描けるなんて、はじめて知った。

                  しかもBHVで7月31日まで、20%オフだった!!!

                  日本で買ったら12色で3600円のパステルが、17ユーロちょい。

                  手前のは足して単色で買った子たち。後ろにはでっかい白1本。

                  ありがとうBHV.

                  ありがとうセヌリエ。

                   

                   

                  ほかにもいろいろあったような気がするけど、もうお腹空いちゃったので今日はおしまい。

                  たくさんいろんなことに出会った。

                   

                  ありがとう、パリ。

                   

                   

                   

                  category:Paris ひとり暮らし | by:武蔵野婦人comments(0) | - | -

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                  • 12時間円柱を描きつづけてはじめてわかったこと。「気づく」までにはたくさんの時間がかかるのに、みんな先に教わってしまうんだね。
                    武蔵野夫人
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                  • お客様が神様の日本で、最近仕事で折れることが増えたのは、なんかとっても単純な理由だったことがわかった件
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                  • お客様が神様の日本で、最近仕事で折れることが増えたのは、なんかとっても単純な理由だったことがわかった件
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                  • フランスと日本のデッサン教本のヌードの扱いがあまりに違う件。なんで日本は女だけ脱がすんや!?
                    武蔵野夫人
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                  • 脳内地図とポップアップ現象ー50代からの英語4
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