美術館の監視員さんはもっと自由でいいと思う件について

2019.07.29 Monday 00:08
0

    久しぶりの一枚の写真シリーズ

     

     

    パリ、ポンピドゥー・センターの美術館で、監視員さんがあまりにかっこよかったのでパチリ。

    先日友人のFacebookで、ポンピの監視員さんのかっちょいい写真が上がっていて、思い出して探してみたら出てきた。

     

    友人が撮った写真の人も、ちょうどこんな感じで足を組んでた。

     

     

    海外の美術館では、監視員さんがスマホいじってたり、おしゃべりしていることはとても多い。

    まあ、そりゃそうだと思う。

    座っているだけの仕事は退屈だ。

     

    それでも、さぼっているように見えて、お客さんが絵の質問を投げかけると的確に答えてくれることもある。

    っていうか、監視員さんに質問をする人が海外の美術館では結構多いなあと思う。

    なんかさ、素敵じゃん?

    そうして質問したり感想を投げかけることができるお客さんも、その質問に答えたり自分の感想を言える監視員さんも。

     

    日本の美術館の監視員さんには、本当に頭が下がるけれど

    いつも、感謝の気持ちに「見ていて辛い」気持ちが複雑に入り交じる。

    座っていたっていいのに。

    スマホいじったり、お客さんとおしゃべりしてもいいよ。

    ずっと立ったまま、黙っておじぎして、姿勢をくずすこともなく

    ペンを取り出す人や、ペットボトルを出した人を見つけたとたん、すっ飛んでいって注意して

    それなのに、混雑して見えないという苦情や文句を言うわがままな客のはけ口にされてしまったり。

     

    美術館の監視員さんは人間なのに、なんだかロボットみたいで悲しい。

    なんか、昔はもっとおおらかに座っている監視員さんが多かったのに

    最近はとっても厳しいというか、直立不動の姿勢で立ち歩いている人が増えた。

    とってもタイヘンな仕事だと思う。

     

     

    私のフランスの友人に、甥が画家をしながら、ルーブルの監視員のしごとをしているという人がいる。

    絵が大好きでずっと描き続けて、個展をしたりもしているけれど

    それだけでは食べられないのでルーブルで働いている。

    大好きな絵に一日囲まれていられるから、とてもうれしいのだそうだ。

     

    今日はもう一枚発掘された写真。

    パリのモロー美術館にて。

     

     

    モロー美術館って、もうパラダイスみたいなところなんだけど>笑

    この大量のモローの絵の真ん中で座っている、かなりのイケメンがこの階の監視員さん。

     

    絵になる。

     

    彼の手にあるのは、ipad

    足を組んでなんか見てる。

    足元になんか置いてあるでしょ。

    これはスケッチブックなんだ。

    ペットボトルだって置いてある。

    日本ではありえない。そもそもペットボトルの持ち込みが固く禁じられている。

    写真はもとより、模写もだめなところが多い。

    おおらかすぎる。どうなのか。

     

    思わずパチリとしてしまったこのあと、見に来ていた家族連れが彼に話しかけて

    それからしばらくの間、彼らはモローの絵についてあれこれ談義をし続けていた。

     

    なんか、とっても平和な光景だった。

     

    いろいろ注意を払ったり監視をするのはきちんとやらなくちゃだけど、

    絵が大好きな人が、絵に囲まれて仕事ができて

    お客さんと絵の話ができて、まあ、暇なときはスケッチブックに鉛筆ぐらいでなら絵を描ける

    美術館の監視員って、なんかそういうことができてもいいように思うんだけど

    だめなのかなあ。

     

    日本では監視員さんは派遣やバイトがほとんどだそうで

    なかなかそういうわけにはいかないのかもだけど

    いろんなこと知ってて、話しやすい監視員だらけっていう美術館は、きっと楽しいと思うぞ。

     

    そして何よりも、座らせてあげてほしいし、暇なら別に本ぐらい読んだっていいよーって私などは思っちゃうんだけど

    最近の東京の展覧会は人が多すぎて、なかなかそういうわけにはいかないんだろうなー。

     

     

    スーパーのレジも座らせてあげればいいと思うし(そうすれば、車椅子の人だってレジの仕事ができる)、デパートの人も一日立ち続けるのはタイヘンだから、レジのあたりで座っていたってぜんぜんよいよーと私は思うんだけど、日本はほんとに真面目で、労働者はいろいろタイヘンじゃ。

     

     

    ところで、私は図書館司書の資格を持っていて、真剣に地域図書館の司書になりたかったのだけれど、日本の行政内では司書は専門職として雇用されることがほとんどなく、役所の人事異動のひとつで選択できないとわかって、あきらめた経緯がある。

    それでも、どうしてもやりたくて、当時地域図書館として最先端と言われていた公共図書館に、バイトでもよいのでさせてもらえないかと電話をかけたことがある(えらいぞ)。

    その時は求人はありませんと断られたけれど、半年ぐらい経ってから「産休補助の席があるけど来ませんか?」って言ってもらって、念願の地域図書館での仕事を半年ほどした。本の登録から貸出や検索業務、絵本の読み聞かせまでさせてもろて、あれはとっても素敵な経験だった。

     

    一番ステキだと思ったのは、本の場所を聞かれると、図書館の人たちは迷うことなく魔法のように本を取りにいけるし、資料検索もさくさくこなす、誇りを持ったプロ集団だったってこと。

    図書館の未来は明るい! ってあのときは思ったんだけどなあ。

    どうなっちゃったんだろうなあ、日本の図書館行政。

     

     

    子どもの手が離れて、少し自由時間ができた時に、また司書の仕事がしたくて図書館の仕事を探したら、今は派遣会社がバイトを紹介するシステムになっていて、バイトの仕事は司書業務ではなくて、本を棚に戻すなど限られたことしかさせてもらえないと聞いて、なんだかとっても悲しくなってしまったんだった。

     

     

    バイトであっても美術館や図書館みたいな場所にいる人は専門的な知識があったほうが絶対によく

    訪れる人も、そうした人をリスペクトして、同等におしゃべりしたり質問できるような雰囲気があったらいいなーって思う。

    で、こうした人材にちゃんと報酬を出せる仕組みもあってほしいなーって思う。

    働く人はもっと大事にされてよいよ。

     

    そんなこんなの2枚の写真の思い出。

    モロー美術館のにいちゃんはほんまイケメンじゃった。

    反芻して、寝る。

     

     

     

     

     

    category:Photo series | by:武蔵野婦人comments(0) | - | -

    手作り週間続く。こんどは浴用剤。手作りはいい、でも買うのもいい。

    2019.07.23 Tuesday 09:26
    0

      服作りについて前回書いたけど、今度は浴用剤を作りました。

       

      市販の浴用剤の成分を見てもらうとよくわかるんだけど、だいたい以下のものでできています。

       

      ・基材としての無機塩類:炭酸水素ナトリウム(重曹)、セスキ炭酸ナトリウム、塩化ナトリウム(食塩)、塩化カリウム、硫酸ナトリウム(芒硝)など

      ・お湯のPH値を整えるための有機酸類

      ・生薬類

      ・保湿剤

      ・香料

       

       

      これ、家にあるものですべて置き換えられます。

       

      ・無機塩類=重曹、食塩

      ・生薬類=エッセンシャルオイルやハーブなど

       

      バブのように発泡するものが欲しければここに

       

      ・有機酸類=クエン酸。いまは100円ショップでも売ってます。

       

      ・保湿成分が欲しければグリセリン。薬局で買えます。

       

      今回は発泡するバスボムを作ったけど、重曹や塩だけでもちゃんと浴用剤になるのだった。

       

      バスボムについては、子どもの工作としてもあちこちにレシピが掲載されているので、作ったことがある人も多いはず。

      私のレシピは以下です。形の作り方にちょい一工夫しています。

       

      (と、偉そうに書いている理由は、10年間お風呂を扱う会社で文化活動部署にいたので、入浴方法などについての啓蒙などをずっとしてたからですー。いろいろ学んだのだった)。

       

       

      <バスボムの成分>

      • 重曹 100g
      • クエン酸 50g
      • コーンスターチ 50g
      • ミネラル塩 25g (食卓塩などはNG。ミネラルを含む自然塩でね)
      • グリセリン 適量(10滴ぐらいかな。入れすぎると油っぽくなります)
      • 好みのエッセンシャルオイル、アロマオイル、ドライフルーツ、ハーブなど
      • あれば無水エタノール。なければ水のスプレー。

      塩、グリセリンはなくても可

       

       

      1. ボウルに重曹、クエン酸、コーンスターチ、塩を入れて混ぜる
      2. ここに好みのエッセンシャルオイルなどを入れて混ぜる。量はお好みで
      3. ハーブやポプリなどを入れるならこの時点で入れて混ぜる
      4. グリセリンを入れて混ぜる。すこししっとりしてくる
      5. 無水エタノールのスプレーを少量づつかけながら、しっとりさせてまとめる。(水のスプレーを使うときは、水分が多すぎるとここで発泡してしまうのでごく少量づつ)

       

      通常のバスボムはこの時点で丸くおにぎりのようにまとめてラップに包むとか

      型に入れて押し固める というのが定番なのですが、私はこれを使うよ。

       

       

      排水溝ネットです。

      これを使うと、中にハーブなどの固形物を入れることができる

      固める際にさほど厳密に水分を調整しなくても、ネットの中で適度にまとまるのでとてもラク。

       

      プリンカップのようなものにかぶせて、中に作ったバスボムの材料を入れて、容器で押し固めるか、おにぎりのように握り固める。

      口を縛ったら、余分な部分をハサミでカット。

       

       

      今回は、スーパーでレモングラスのハーブ(120円ぐらいでした)を買って刻んて入れ、レモングラスのエッセンシャルオイルを入れて、自作のローズポプリを混ぜました。

       

      バスボムに着色を勧めているところは、食紅などを使っているけど、それも使わないに越したことはないので無色で。

      無色のままだと浴用剤入れているっていう満足感が減るんだけど、こうしてネットにハーブやポプリが残ってぷかぷか浮いていると、満足感大きいです。

       

      もうひとつ作ったのは100円ショップで買ったアロマオイルを入れてみた。

       

       

      まあ、それでも十分。

      こちらはハーブが入らないのでネットに入れずプリンカップに入れて固め、もうカップのままお風呂に入れてしまいます。

      溶けたらカップ浮いてくるから回収すればよし。

      家で作るならこのぐらい適当でオッケ。

       

      ちなみに夏なので、ハッカ脳を一欠片だけ真ん中に押し込んでます。

       

       

      ハッカ脳は一欠片だけでお風呂一回分スースーさせる強烈な破壊力を持っているので使いすぎ危険!

      ハッカ油も危険!

      使うならごく少量で。

      皮膚が焼けるような刺激を受けるので要注意でっせ。

       

       

       

      この手のものは、エッセンシャルオイルなどアロマ効果をうたうものが多いんですが、エッセンシャルオイルは高価なのでいろいろ揃えるのもタイヘンだと思うのね。

      なので、混ぜるのはお料理用のハーブでもいいし、お茶っ葉でもいいのよ。

       

      このバスボムに紅茶の葉とか少量入れてもいい。緑茶もオッケ。

       

      さらに言えば、バスボムにする必要もない。

       

       

       

      重曹とか塩とか

      そのまま浴槽に入れるだけで十分浴用剤っす。

       

      重曹なら50gほど

      塩なら大さじ3杯ほど(食卓塩だめよ、自然塩でね)

       

      重曹を入れると浴槽の清掃効果もあるので、そうじがラク。

      敏感肌の人は塩はしみることもあるので様子みながら。

       

      出がらしのお茶を上記の排水溝ネットに入れて浮かべるとか

      りんごの皮とか

      しょうがスライスして干したやつとか。

      昔ながらのだとしょうぶ湯とか干した大根の皮とかね。

      もう、キッチンにあるものはなんでも浴用剤のかわりになるわけなので

      おしゃれにアロマやハーブなどを使わなくても、なんとかなっちゃう。

       

      排水溝ネットがあると、なんでも入れられるからとってもラク。

      ゆずとかみかんもここに入れて浮かべちゃう。

       

      あとは賞味期限切れの牛乳 残った日本酒、砂糖あたりも浴用剤がわりになるという知恵もあちこちに。

      保湿成分あり。

      ほんといろいろ試したんだけど

      このあたりは経験上出るときにニオイが残る。

      ミルク臭。酒臭。

      洗い流せばよいんだけど、お風呂が汚れたり臭いが残るので、神経質な人にはオススメしない。

       

      浴用剤として勧められたものの中で一番失敗したのがローリエ。

      風呂中がシチューの製作中のような臭いになった。

      そして自分も料理のような臭いが残った。煮豚になった気分。

       

      あかん。

      そんなこんなの体験も実は楽しい。

       

      というわけで、この手の手作り品は成分が見える分、安心だし安上がりで、そして楽しいので取り入れてみてね。

       

       

       

      という「手作り」案件なんだけど。

       

       

      でもね、なんだろう。

      こちらも前回の服作りと同様、「作るの楽しい」部分がかなり大きくて

      本当にリラックスしたかったり、気分転換したい時のための市販品として

       

      • 入れたら人工色真っ青になっちゃう夏のバスクリンとか
      • 強烈なニオイが家中を凌駕するクナイプのバスソルトとか
      • 4種類のローズの香りがつまったバブとか

       

      大好きで。

       

       

       

      なにがなんでも手作りでナチュラルがいいというわけじゃないと思ったりもしています。

       

      人って、毒々しいもので癒やされることもあるわけで。

       

       

       

      毎日ママの手作りおやつでは、実はフラストレーション貯まるわけで

      このあたりはいい塩梅で。

       

       

       

      いろいろごたくを並べようと思っていたけど、最近ごたくや愚痴が増えた反省点も含めて

      今日はこのへんで>笑

      そろそろ梅雨明け。

      シャワーが増えるけど、冷房で冷えたからだは浴用剤でよくあっためてね。

      (と、なんだか変に実用色で今日はお届けしました)

       

       

       

       

       

       

       

       

      category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(0) | - | -

      毎年この季節になると服を作っている。大人の手作り服ってどうなの。たまにはそんなこと。

      2019.07.12 Friday 13:38
      0

        今年もまた、服を作った。

        夏の服は簡単だし、布地もお安めだからなんだかムラムラと作りたくなるんだと思う。

         

        このブログはあまりこの手のこと書いたことなかったんだけど、せっかく作ったんだから写真撮ったので残しておこ、と思った。

         

        そんで、もう半世紀生きた大人の女の手作り服ってどうなんかなああ、ってなことについても考えたので終わりのほうでうだうだ書いてみようと思うー。

        とりあえず、ここ数日服を作っていた。

         

        なぜかというと、咳喘息みたいになっちゃって外出できなかったから。

        3週間前に粘土彫刻を作り出して、その過程でスタイロフォームの粉末やら、有機溶剤のスプレーなどを大量に吸い込んだのがアカンかったと思われる。

        肺やってるから、咳はアカン。もう彫刻はできないかもしれない。とほほ。

         

        ということで3週間とてもおとなしくしていました。

        つまり、暇なのねえ。

        で、買いだめていた布で。だだーっと作った。以下成果。

         

         

        とにかく明るい色の大柄プリントのワンピースが一枚欲しくて、ユザワヤでみつけたコットンで作ったノースリーブワンピ。

        共布のベルトも作った。型紙は図書館でみつけた大人のストンとしたワンピース、みたいな本から。

         

         

         

        日暮里の繊維街でみつけたなんかようわからんカバ(よく見たらサイだった、角がある)のプリント。1m200円じゃった。3m使ったから600円。

        1枚目のワンピより袖はフレンチスリーブで胸元はVカット。共布ベルトで隠れてるけど、前立に黒のグログランリボンを裾まで縫い込んでみた。ベルトがないとアッパッパーみたいに着られる。

         

         

         

        去年買ったワンピースで一番気に入っていたものでそのまま型紙を作ってクローンのようなものを作ってみた。

        元は薄いグレーのローン生地が2重になっているので、こちらは薄手のブロードをモスグリーンとグレーで重ねてみたんだけど、やっぱりローンのほうが軽くてよかったにゃ。

        でもこの生地は繊維街でm100円だった。それぞれに4mづつ必要なパターンなので、800円(も)かかった>笑

         

         

         

        おそらくもう25年ぐらい前に買ったまま、使いみちがなくて眠りに眠り続けていたリネンのレース生地をどうにかせにゃ、ということで、ただ首をくりぬいて、袖下を塗っただけというパネルワンピースみたいのを作った。

        それだけだとジュディオングみたい(古すぎる)なので、ハトメをあけてリボンを通してみたんだけど、これ着るんだろうか。

        うしろでリボンを結ぶを最初の写真のようになり、前で結ぶと隣の写真になる。

        生地はとってもよいものなんだけど、たぶん国分寺のバッタ屋で非常にお安く買い求めた記憶がある。

         

         

         

        ワンピースばかり作ってこのままではトップが足りない! と思ったんだけど、簡単にできる手作りブラウスはどれもおばさんっぽいかナチュラルまっしぐらっぽくなってしまうので、苦肉の策でTシャツをリメイクした。

        無印良品でセールで2枚1300円ぐらいで売ってたのを買ってきて、こちらはざっくりと背中を切り取って、2つ目のワンピースの余り布を縫い付けて、リボンでまとめてみた。

        リボンの縛り方を変えるとなんだかメゾンっぽい雰囲気になる(気がする)。

        アイデアとしてはよかったように思うけど、これは果たして半世紀おばんでも着れるんだろうか?

         

         

         

         

        もうひとつのTシャツは前をざっくり切って、着物の襦袢地のシルクを挟み込み、ループとボタンで止められるようにした。ボタン止めなくてもルーズな感じで行ける気がする。

        これはたぶん、着る。洗濯後の様子が未知。アイロンいるかしら?

         

         

         

        調子に乗ってノースリーブのワンピばかり作ってしまったので、一応上にはおるもんも作った。

        繊維街はすごい。1m100円で結構風合いのよいローン生地があったので、水通ししてシワシワにして作った。

        70cmでできた。家に眠っていた使いみちのないレース類をふんだんにくっつけてやったら、ちょっと乙女っぽくなってしまった。

         

         

        去年なんだか気に入って買ったプリント柄のローン生地が、測ってみたら1mしかなく、さんざん1mでできるブラウスや矧ぎ合わせを考えたんだけど、何もいいものが思い浮かばないので4隅を三つ折りに縫ってスカーフにしといた。

        布地と作るものの関係って、本当に難しいもんだと思う。

         

        ということで、以上が今年作ったもん。

        ほぼ1週間、なんだかずっと作っていた。あと3mローン生地が残ってるけど、これは来年に持ち越しかもしれない。

         

         

         

        それで思い出したんだけど、そういえば去年のちょうど今頃も服を作っていた。

        病気で退院してきて外出ができず、でも日常生活は遅れるようになって暇をモテあまして、この時は家に眠っていた布地を引っ張り出して作った。今思うと、去年はボトムスがほしかったんだと思う。

        去年ボトムスを作ったから今年はワンピースばかり作ったのか。脳みそは意外といろんなことを覚えているもんだ。

         

         

        去年のほうが写真のとり方に力が入っている気がする。本当に暇だったんだと思う。

        気に入って買ったプリントのローン生地で直線裁ちのワンピ。このワンピは去年も今年もとてもよく着た。

        じゃぶじゃぶ洗えて軽くて着やすいっていうのがよいのだと思う。

        今年作ったワンピはちょっと重くて気軽さに欠けるなーというのが反省点。

         

         

        数年前から愛用しているパターンのサルエルパンツ。ほどいた着物の生地で作った。シルク製。

        右は柄と色がすごく気に入って買ったままになっていた布地でラップスカート。
        止め方を悩んで、Dリングで革ベルトを締める形にしたんだけど、この革ベルトはもう10年以上前にばらした皮のジャケットの余り布。なんでもどこかで使えるもんじゃ。

         

         

         

        日本刺繍が入ってすごく素敵なんだけど劣化が激しかった羽織は、ほどいてバルーンスカートにした。

        裏地は羽織の虫食いなどで使えない部分を使ってる。とっても素敵に仕上がったけど、大げさすぎてほとんど履けない。

        着ると「手作り大好きおばさん」の権化みたいになって、なかなか難しい。

         

        右はいつ買ったのかも覚えていないパネル柄の布地でスカート。自分らしくないオーソドックスさ。

        でも軽くてシワにならないので、これは何度か着ている。「軽い」ということが自分的に一番大事な気がする

         

         

        チャリティで古きものを扱うイベントを毎年していたので、どうすんのこれ? といった着物生地が山積みなので、少しでも消化しようとフレアパンツにした。物としてはよいできになったけど、着るとやっぱりマダム感はんパない。一気に老ける。そして迫力が増す。

        着物地のリメイクはとってもとっても難しい。そう考えると、着物地というのは、着物のために作られたものだということがほんとによくわかる。着物好きな人が、できれば切り刻まずに着物として再生して欲しいと言うのがとってもよくわかる気がする。

         

        右は色落ちするものと一緒に洗ってしまって変なシミがついたTシャツを、息子が捨てるというのでもらって勝手に絵を書いた。

        おかんアート。

        「もったいない」を出発点にしたものは、どこか中途半端だ。

         

         

        などなど、去年も今年もほんとによくこの時期に服を作った。

        同じように体調を壊していたというのも大きいけど、服を作っている時間は、変な使命感に燃えていたりして、不思議な高揚感がある。

         

        これは「着るために作っている」というより、作ることに目的があって、無理やり用途を作り出しているという気もする。

         

         

         

        私の母の時代は、子供の服は母親が手作りするという風潮がまだあって、洋裁を生業にしていた母はとてもよく私の服を作った。

        私が中学生になって働きだしてからは、時間がなくてめっきり手作りすることも減り、その分潤沢になったお財布を抱えて自分の服も、私の服も、実によく買いに出かけた。

        手作りの服は節約にもなって素敵だけれど、時間がある人の特権なわけで、潤沢に服が流通してそれを買うお金があるのであれば、「着るため」の服は買うほうが逆にコスパがよいし、ストレスの発散にもなるし、作ったものより結局長く着ることになったりする。

         

        今年、ワンピースを作りたいと思ったのは

        欲しい色やプリント柄がどこを探してもなく、さらにあったとしても目が飛び出るほど高い、という理由によるものだったけれど

         

        作ってみて思ったのは、「作る」のはどちらかといえば、着るためよりも作る楽しみに埋没するためだったんだなーってこと。

         

         

        手作りの第一歩でもある布地探しに出かけて、それをほんとに痛感した。

        私みたいな稚拙な技術では、本当によい素材や高い布地は怖くて買えない。

        同時に、ファストファッション旺盛な今は、布地だけを買うほうが高くつくこともあって、4m必要なパターンに1万円以上払う勇気がないまま、中途半端な布地を買って帰ってくるということになった。

         

        そんな中で日暮里の繊維街に行けば、m100円の生地が林立しているわけで、その中で作れるものをなんか考えるという

         

        もうなんか、いったい何が作りたかったのかてんでわからん。。。。。という結果になった。

        去年の「家に眠ってる布をなんとかせにゃ」というのもそういう結果の産物なわけで、結局「本当に欲しい服」なんて1枚も作れなかったというわけなんじゃった。

         

         

         

        というわけで

         

        プロの縫製技術を持たない人間の服はやっぱり、気に入ったプロの人が作ってくれるものが一番だという気がする。

        そういうものに出会えて、それを買える財力があるってことが自分の一番の満足なパターンなんだけど

        財力の部分で挫折するものが多すぎて、なかなか服で満足できることが減った。

         

        子供服の手作りはほほえましく、どんどん大きくなる子どもの服をあれこれ工夫するのは「時間させあれば」とっても素敵なことだと思うけど、この歳のおばはんの手作り服については、どんなもんなんかなーといまだ逡巡したままだ。

        安上がりで簡単に、一番欲しい服が手に入ると考えがちだけれど

        そこへの道のりはとても険しい気がする。

        ちょっと個性的な迫力マダムになるか、ナチュラル生成りコットンリネンママになるか。

        品位と個性と清潔さを兼ね備えたところへ到達するのはなかなかの苦行という気がしている。

         

        それじゃ縫製技術をもっと磨いて、ワンランク上の物を作れるようになれば。。。とも思うけど

        その技術を磨いた先にあるのは、自分の服を作るより、仕事として誰かの服を作るというところにあるような気もする。

        それはちょっと、料理にも似ている。

        肉じゃがや野菜炒めの日々でよければ、定食屋に通うより自分で作ったほうが安上がりだし好みに合わせられる。

        でもちょっと背伸びした専門店の料理が欲しいときは、材料を買い揃えるのも高くつき、技術がないから結局中途半端なものしかできない。

        じゃあその技術を身につければよいのかというと、そんなことはなく

        たまに欲しくなる専門店の料理はプロに任せるほうがよく

        その技術が自分の身についたのなら、仕事として自分だけではない、多くの人に食べてもらうほうがいい。

         

        そんな風に考えてみると、私のようなおばんの年齢のファッションには、適度に専門店のプロが必要で

        素人の手作りばかりでは肉じゃがとか、中途半端にプロをまねたまがい物になってしまうんじゃ?。。。。って思ってるのかもしれない@私は。

         

         

         

        まあ、それでも楽しいから作るのね。

        こないだは靴まで作った。

         

         

        家に余って行き場のない革があったので、靴の手作りキットを買ってついに靴を作った。

         

         

         

         

        本当に不思議なんだけど

        自分で作った服や靴を着て出かけるのは、ちょっと緊張する。

         

        一緒に繊維街に行ってワンピを手作りしたという友達も、同じことを言っていた。

         

        買った服より、作った服は緊張する。

        なにか粗相がないか、壊れないか、おかしくないか? ってあたりのことなのかしら。

        出掛けに服を迷ったら、自作のものより既製服を選ぶことのほうが多い。

        せっかく作ったのに!!!

        (今年これだけワードローブ増やしておいてどうすんだ!)

         

         

        餅は餅屋。プロの人の技術にちゃんとお金を払うってことも、もしかしたらとても大事なことなのかもしれない。

         

        という徒然でした。

        ほぼ記録。

        今年はもう作りません(と宣言)。

         

         

         

         

         

         

         

        category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(2) | - | -

        離婚して一人で子育てをして、しんどくなったことについて。自由に生きることには大きな責任が伴うってことについても。

        2019.07.02 Tuesday 13:09
        0

          前のブログで「離婚したら家事がすごく楽になった」と書いた

           

          さて、その時に「タイヘンになったこともある」と書いたので、今日はその話。

           

          離婚して子育てをしていくには、経済的な重圧とか、仕事と家事と育児をひとりで切り盛りせにゃならんってこととか、いまだに残る世間の偏見に加え、子どもにちゃんとした家庭を用意できなかった自分への罪悪感みたいなものもあって、まあ、タイヘンなのではある。

           

          でもね、こういうことすべて、なんというか想定内というか

          私の場合はそんなことは重々承知の上で、それでも離婚しないと! ここから逃げないと、と自分で決めたので

          突発的に辛いと思っても、なんとなく乗り切ってきたところがある。

          ありがたいことだと思う。

           

          でも、今でもなんだか「しんどいなあ、しんどかったなあ」と思い出すことがある。

          それは

           

          すべての重要な決断を自分一人の頭の中で行わなくてはならない

           

          ってこと。

          子どもが小さい頃は話し相手にもならず

          お金の話や難しい交渉の相談をする相手がいない中で

          あれこれ一人で悩みながら物事を決めていくのは、度重なってくるとかなりしんどかった。

          一人で決断して、一人でその結果の責任を負うことへの重圧みたいな。

           

          もちろん、反対意見を言われたり、無関心を装われる配偶者がいないほうが、楽なこともいっぱいある。

          「無理解な夫がいるくらいなら、いないほうが数倍マシ」というのもほんと。

          でもね、子どもがいると、その子の暮らしといのちの責任も負ってるわけなので、重圧感が半端なく。

          フリーランスの不安定な収入で、稼ぎ手が一人しかいないという重圧も大きかったけれど

          それに加えて、大きな決断が必要なときに「一人で頭の中で考えて決めていく」のは荷が重かった。

           

           

          子どものトラブルや住宅設備の故障といった日常のことに始まり

          マンションのローンの金利とか保険とか。

          書類の書き方よいのかな、しておかなくちゃいけないことはこれでいいのかな?

          みたいなことを、モノローグみたいに自分の頭の中で処理して動いていく必要があった。

           

          決断や処理は一人でなんとかできたとしても、その過程で

          「いいのかなあ、これで」と口に出して同意を得るとか

          ほんとにもう!」とか「なんとかしてよ!」 って言葉でも投げつけられる相手の不在は

          しばらくたってから、ボディブローのように効いてきた。

           

          つまりそれは

           

          責任の折半のようなものなのかもしれない。

           

          家事をシェアして欲しいとか、保育園のお迎えを交代して欲しいとか

          結婚していた時はそんなことを不満に感じたこともあったけれど

          それでも「子どもの命を預かっている、子どもの人生を背負っている」ことの責任を折半してくれる人はいた。

           

          意見が対立したり、理解されないことはあっても

          家の中にもうひとり大人がいる ということの意味は

          経済的な部分に加えて、責任のありかという意味で自分の負担を軽減してくれていたのだということが

          離婚してはじめてわかったんだった。

           

          ま、こうして書いてみると当たり前のことだよなーとは思うけど。

           

          そんなわけで、たまに

           

          「一人で決めていかなくちゃいけないことも多くて、いろいろしんどい」

          などと言う愚痴をこぼすこともあった。

           

          そんな時、相手にこう返されることが、さらにボディブローのように効いてくるんだった。

           

          「夫がいたってなんの役にも立たないし、責任感ないし、いてもいなくても同じよ」

           

          「夫がいたって、私だって子育てひとりでやってきたし、なんでもひとりで決めてるようなもんよ。

           夫婦でいたって、結局はどちらかが先に死ぬんだし、最後はひとり。

           あなたも私も何もかわらないわよ」

           

          「ほんとほんと、うちだってほぼ母子家庭状態よ」

           

          うん、たぶんそうだよね。

          きっとそう。

          でもね

          なにかが決定的に違う。

           

          無理解で手伝わない夫との子育てと

          一人の子育ては

           

          決して同じものじゃない。

           

           

          離婚を後悔していないし

          ひとりで子育てしてきたことは楽しく、素敵な思い出だったけれど

          「いたっていなくたって同じようなもんよ」と言う人には

          じゃあ、本当に一人でやってみてから、「同じだ」と言ってよと思う。

           

           

          まあ、逆に

          「本当にタイヘンよね、かわいそうに」

          なんて言われるともっと !!! と思うわけなんで>笑

          このあたりの感覚はちょっと複雑でめんどくさいもんだと思う。

           

           

          ということで、離婚してタイヘンだったなあって思ったのは、経済的なこともさることながら

          責任を折半する人がいない中で、「頭の中で一人で考えて、決めて、黙々と処理していく」ことの重圧みたいなもので

          それはどこか、そこはかとない孤独という感覚に近いものなのかもしれない。

           

          離婚は私に自由をもたらしたけれど

          自由であるということは、同時に大きな責任を背負うことであり

          やっぱりどこか、ちょっぴり孤独なのだった。

           

           

           

           

          私の母は父といつもけんかばかりしていて、家の中が殺伐としていて、子どもの私は大変苦労したんだけど

          その母はよく口癖のように

          「あんたがうらやましい。私も離婚して一人暮らしがしたい」と言っていた。

           

          ある日

          「あんた自由でいいわよね、気ままに好きなことして。

           もうパパのごはん作るのいやだし、心穏やかに晩年は暮らしたいの。 絶対いつか一人暮らしする」というので

           

          「あのね、私は一人で自由に生きているように見えるのかもしれない。

           でも、自分の責任で物事を決めて生きていくのはものすごいエネルギーが必要だし、お金も必要で

           自由に生きるって、あなたが思うような”好きなことをして生きている”って意味じゃ全然ないんだよ。

           ママの今の恵まれている部分にも、ちゃんと気づいて」

           

          と諭したことがあった。


          一昨年父が亡くなり

          一人暮らしがしたいと言っていた母は夢がかなったわけなんだけど

          「いまやっと、あんたが言ってた意味がわかった」と言う。

          どんなにけんかばかりしていても、怒鳴ったり怒る相手がいてくれたことで自分がどれだけ生かされていたのか、

          相手への不満をぶつけ合うことは、どこか生きるエネルギーにもつながっていたのだということを

          父の死後、母ははじめて気づいたんだそうだ。

           

           

           

           

          体験したことのないことはわからない。

          そういう意味では、世の中には自分が想像もつかない「わからないこと」が、山程あるんだと思う。

           

           

           

           

          ちなみに、数年前まで「両親が揃わない家庭」を作ってしまったことの罪悪感みたいなものを私はずっと抱えていたんだけど

          息子がアメリカに留学した時、留学先のテキサスに行って、真夏の太陽のアスファルトの照り返しを受けながら歩いていた時にした会話で、ひとり親家庭の罪悪感みたいなものは、真っ青なテキサスの青空の中に溶けて消えてしまった。

           

           

          ごめんね、親の都合で両親が揃わない家庭にしてしまって。

          学校で何かがあったりするたびに、やっぱり母子家庭だからって後ろ指をさされてしまうんじゃないかって罪悪感を感じてた。

          心の中でいつもびくびくしながら、申し訳ないって思ってきたんだよ。

           

          そう話したら、あっけらかんと息子は言ったんだった。

           

          え?

          なにそれ。

          ぜんぜん気にしたことない。

          俺のまわり、いっぱい片親の家庭あるよ。

          でもそいつら、みんな人の痛みがわかるしすげーいいやつがたくさんいる。

          両親揃っているからちゃんとしてるなんてこと、全然ないよ。

          見た目いい家庭に育ってるから、そいつがいいやつだなんてことないし。

          罪悪感なんて感じる必要ないから。

           

           

           

          それを聞いて、すぅーっと肩のあたりから、何かが抜け出して青い空に溶け込んでいった気がした。

           

           

          たぶん、壊れかけた家庭を必死に守るより

          あの時、一人になる選択をしたのは絶対に間違っていなかった。

          だから、まあ、ちょっとぐらいのタイヘンさを引き受けるのは、フェアなことなんだと思う。

           

          ただ、子育てが終わりに近づいて

          なんだかやっとそんな重圧から開放されるかなーと思ってはみても

          一人っ子で独身の私には、親の問題ってのも関わってくるわけで、

           

          父の葬式のあと、一人残った母の今後については

          まあ、私一人でなんとかせにゃあかんのねえええ。

           

          いろいろ先が見えない分、遠く空を仰ぎ見る気になるけれど

          まあ、なんとかするしかないのだよね。

           

          前のブログに書いた

           

          「一人しかいなけりゃやるしかないから、なんとかなる」ってお話は

          ここにつながるわけなのでした。

          ちゃんちゃん。

           

           

           

          以上、楽になったことと、タイヘンだったこと総集編でした。

          今日はこのへんで。

           

           

          category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(2) | - | -

          離婚したら「家事」はびっくりするほどラクになったんだけど、という個人的な話。ラクじゃないこともある。いろいろだ。

          2019.06.28 Friday 10:05
          0

            表題は、あくまでも私個人の体験ってこと。

            一般論じゃないから、同じ体験をしない人がいっぱいいいて当たり前なので、その前提で読んでね。

             

             

            私に限っていえば、本当に離婚したら家事が楽になった。

            結婚してたときのあれ、何? ってぐらい

            劇的に楽になった。

             

            人手は確かに1人減った。

            でも、いたときからなんの戦力にもなっていなかったので、減ったからといって何の痛手にもならず

            減ったのは、一人分の洗濯物、食事、散らかし跡で

            それによる家事の全体量は、減った。

             

            でも、劇的に楽になったと思ったのは、その1人分の家事量が理由ではないように思う。

            離婚当時、息子は10歳で私はフリーでとても忙しく働いていたから

            仕事と育児と家事の総量はおそらくキャパを十分に超えて、自分の許容量の1.7倍ぐらいにはなっていた。

            (当時の私は朝4時に起きて8時まで仕事して、子供を送り出して家事してまた仕事して、夜9時に寝るという生活をしていた)

            成人男性がひとり減った分の家事量は、許容量が1,5倍になるくらいの差しかなく

             

            夫ひとりが発生させる家事 というのは、実は思いの外大きくないんじゃないかと思ったもんだった。

             

            それじゃ、なぜあんなに楽になったんだろ?

             

             

            それ、ただただ

             

            「もうひとり仕事を負担すべき人間がいる」

             

            という中で仕事をしているのか、ただ

             

            「もうあたし一人しかいないんだから、そこでなんとかするしかないじゃん}

             

            か、その違いだけなんだと思うんだった。

            もうさ、一人しかいないんだから。

            なんとかするしかないのよ。

            で、できないと思ったらもう「しないわ」と自分で決められるわけで

            横から「なぜしないの?」「部屋散らかってない?」などと言われることもなく

            結果は自分で責任を持つという立ち位置で暮らしていけて

             

            そんで、なんとかしなくちゃあかんなあと思うことは

            一人しかいないわと思えば、火事場のアホぢからで、まあ、なんとかなっちゃうんである。

            つくづく、家事の時短とかテーマにしててよかったと思った。

            ほんと、なんとかなっちゃうんである。

             

            この「自分しかいないとなったらもう、なんとかするしかない」というのは

            車の運転で痛感したことがあったなー。

            ATしか運転できなかった私が、結婚したら夫の車はマニュアルで、

            何度か助手席に乗ってもらって手ほどきを受けたけど、

            「うへー、やっぱり無理だよー。無理」って.

             

            何度目かで諦めて、もう二度と運転しなかった。

             

            それが、友人と北海道旅行をしたとき。

            現地の友人が手配してくれていた車がマニュアル車で、すでにAT車は一台もなく

            富良野の広大な風景の中で、免許を持たない友だちと私と、マニュアル車だけがポツネンと残されるという。

             

            運転席に座ったときの、あの絶望感と使命感の入り混じったような決意に満ちた気持ち

            いまでも覚えてるよー。

            そこから、車の少ないロータリーで一人、クラッチの練習をして

            坂道で半クラッチの練習を必死こいてして、それでなんとか北海道を周遊した。

            やれば、できた。

            ただ、これまではやろうとしなかっただけだったってことに気づいたんだった。

             

            アメリカのハイウエイに、ほれ、と車で放り出されたとき。

            フランスの田舎道でAT車で放り出されたとき。

            あの、富良野での出来事を思い出せば、なんとかなるって思えた。

            「無理だから」と視線を向ける誰か(結果的に引き受けてくれる誰か)がいることは、救いであり助けであるけれど、どこかで自分の可能性を減らすことにつながることもある。それまでの自分が「できないや、無理だ」と思ってきたことは、本当はできることがたくさん含まれていたのかもしれない、とも思えた。

             

            話、それた。

            でも、この「一人しかいなけりゃやるしかないから、なんとかなる」ってのは

            あとからもう一度触れたと思うので今書いておくことにする。

             

             

             

            さて、家事の話。

             

            離婚したら劇的に楽になったのは

            家事の量が減ったからではなく

             

            同等に「やるべき」と私が(もしかしたら勝手に)思っている人間がもうひとりいることによる

             

            「なんか私にばかり負担が偏ってね?」 とか

            「ってかこういう時になぜ動かないかね、なぜ気づかないかね」

            「この状況で寝転がってテレビ見ていられる神経が、もうまったくわからないんですけどっ!!!」

             

            と、ブレブレに揺れまくる気持ちの針が

            ゼロ地点にとどまったまま、まったく揺れなくなったことにある。

             

            さらに

            私がこうしたいと思っていること、こうあるべきと想定していることを

            斜め方向からぶち壊されることがなくなり

            いとも心穏やかに家の采配ができるようになった、という部分も大きいかもしれない。

             

             

             

            家事の大変さってね

            物理的な時間や労力の大変さもきちんと大きいけれど、

             

            かなり部分を気持ちの大変さが占めている。

             

            自分の時間がない

            時間配分が自由にならない

            想定外のことが起こる

            些末なことに日々を占領されて終わっていく

             

            そして

            パートナーとの不公平感や承認されないことへの悲しみや不満。

             

             

             

            わかってくれない

             

            って、誰かが横にいたらとても大きなことだけれど

            誰もいなきゃね

            わかろうがわかるまいが、もう関係ないんだよね。

             

            自分がわかってりゃいい。

             

            その中で、似たような境遇の子と、

             

            いやあ、大変だよー

            よく頑張っているよ、私たち

            ごほうびだ、ごほうびだ。

             

            とやってりゃ、それでなんとか辻褄が合う。

             

             

             

            誰かが隣にいてくれることって

             

            大きな大きなちからだけれど

             

            いることで生まれてくる気持ちというのもある。

            家事については、この「誰かがいてくれることで生まれてくる気持ち」が消費していくエネルギーが

            結構大きいんじゃないかなあ、と思うわけなんだった。

             

            それでいくと、極論だけれど

            夫という存在が

            「家事育児は夫の領分ではなく、全面的に妻の仕事」という時代よりも

            「同じように家事や育児に関わりシェアすべき」という前提が刷り込まれている今の時代のほうが

            場合によっては気持ちの扱いが難しいということもあるのかもしれない。

            あくまで、極論だけれども。

             

             

            というわけで、私が家事をしている横で寝転がったり

            余計な一言を言いながら何もしないじゃんかよー! という人がいなくなると

            育ち盛りの子供がいたとしても、家事はなんともまあ、楽になった。

             

            当時息子が10歳というのも大きかった。

            ある程度のことは自分でできるけれど、家事を分担させたいほどの年齢でもない。

             

            ↑それでも息子は結構働いたけどね。

             

            私の母は私が13歳からフルタイムで働きに出たので

            中学生だった私への家事シェア期待度が超絶に多くて、どんなに頑張っても

            やり残された家事を見つけては、いつも不満でブチ切れていた。

            子どもへの家事シェアの期待度も、度を越すことがある。

            あれは、とてつもなく辛かった。家にいるときの母は、いつも怒っていた。

            家事をするのは嫌じゃなかったけど、いつもイラついて怒りを向けられるのが辛かった。

             

             

            10歳の息子と、家事育児仕事の許容量1,5倍ぐらいの二人暮らしは

            忙しくて大変だったけど、家事だけに関していえば、気持ちはずっと楽だった。

            息子が中学生になったとき「おかんっていつも笑ってるよね」と言われて、それが私のココロの勲章にいまでもなってる。

            その気持ちの楽さ加減が、「ああ、家事が楽になったなああ」ってところにつながったんだと思う。

             

             

            いま、家事は夫婦でシェアすべきという考え方がベースになっていて

            (これは私も一生懸命加担してきたので、とても喜ばしいことだと思う)

             

            でも、それでもどこまで行っても平等なシェアなんてところにはなかなか行き着かず

            男女ともに、さまざまなストレスを抱えているように思う。

            たとえば、最近になって生まれてきた

             

            「名もなき家事」

             

            って言葉があるけれど、

            あれも、「私ばっかりやってるじゃん」という気持ちが生まれる環境があるから

            これも家事、あれも家事、たぶん家事、きっと家事♫

            という項目があれこれ出てくる構造になってるんじゃないか。

             

            シャワー浴びててシャンプーが切れてたら、あかん! 補充だ! と買い置きを出して入れ替えるけど

            一人だったらなんの不満も起こらない。ひゃあ、面倒だー! と思うぐらいだ。

            トイレットペーパーがなくなれば、当たり前のように新しいのを入れ替える。

             

            家事には名もなき家事ってのがいっぱいあるんだよ!!!! 大変なんだよ! って思うのは

             

            「もう、詰め替えるひと手間だって、本当に大変なんだから。知らないうちにやってるから気づかないだろうけど!!!」

            とか

            「おのれ、最後にペーパー切れたら新しいの入れとけよ」(軽い殺意)

            「誰のためにやってると思ってんだよ。当たり前と思うんじゃねーぞ」

             

            みたいに>笑、その気持を向けるだれかが家の中にいるからだ。

            結局、家事は「分担」や「シェア」なんて言葉では考えないほうがよく

            それぞれが自分のことができるようにスキルと気づく力を身に着けて

            気づいた人がとっととやっておく、という関係性を作ることにあると思う。

            もしくは私のように一人になる。笑 これは本当にラクなんじゃ。

            (家事だけに関していえばだけどね)

             

            シェア、シェアとこだわっているうちは、気持ちの穏やかさはなかなか生まれない。

            家事はなかなか奥が深い。

            家事、おもろ。

             

            はっ。個人的体験を書いているんだった。

            元に戻る。

             

             

             

            さて、離婚したら家事はラクだ、ラクダと書きまくったので

            一応、ラクじゃないことも書いておきたい。

             

            でもなんだかとてつもなく長くなった気がするので、今日は家事のことだけ。

            前半に書いた「一人しかいないと思えばなんとかなっちゃう」ことについて、言いたいこととか

            それに関連して離婚してぜんぜんラクじゃなくなったことについて、また次に書いてみようと思います。

            (忘れなければ)

             

            両方ないと、不公平じゃよねー>笑

             

             

             

            それでわ!!

             

             

             

             

             

            category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(4) | - | -

            ヴィーガンと台湾素食は根底が同じのはずなのに、なんだか全然違う気がするのはなぜじゃ

            2019.06.25 Tuesday 14:45
            0

              台湾の素食が好きなんであります。

               

              素食とは宗教上の理由からベジタリアンを貫く人のための料理。

              乳製品や刺激物まで除去しているので、今ならヴィーガンと自称する人たちの禁忌とほぼ同じなのかもしれない。

              台湾素食は、タイワンスーシー とも呼ばれていて、台北などに行くとたくさん素食のレストランがあるんだけど

              私が学生の頃から、東京にも国立に中一素食店ってのがありまして、ここの料理は特別に楽しい。

               

               

              これが先日食べた定食。

              味付けはほぼ中華料理。お腹いっぱい。

               

              私は乳製品はお腹を下すので、あまり積極的に摂りたくない。

              タピオカミルクティーも流行りに負けて飲んでみたけど、2口で挫折。

              ヨーグルトやチーズ類もあまり得意じゃない。

              食べ過ぎると頭痛や下痢につながるので、パスタやうどん、ピザなどは連続して食べないようにしてる。

              果物や洋菓子は、もしかしたら一生食べなくても生きていける類で、

              料理の種類としてはこじゃれたフランス料理が一番苦手だー>苦笑 食べられないものがたくさんある。

              特にシェフおまかせのような場所で、食べたくもないもの、苦手なものを出されてもまったくうれしくない。

               

              ものすごくくいしんぼで、誰かとおいしいものを食べに行くのが好きで、料理が大好きだけど

              実際には苦手なものや、進んで食べたくないものがたくさんあるんじゃった。

               

              先日も友だちに

              「いづみちゃん、すごく難しいからー」って言われた。

               

              いや、表向きはぜんぜん難しくないんだってば。

              ただ、私生活で食卓に向かうときには、無理してまで苦手なものは食べたくないから

              自然と日常の食事は低糖質で乳製品や肉類が少なく、ゆるいグルテンフリーで、野菜や穀物が中心となるので

              なんとなくこれはヴィーガンとかベジタリアンの路線でもあるのか? と思うこともあるけど

               

               

              でも、やっぱりなんだか

              ベジタリアンはまだしも、ヴィーガンはとてつもなく違和感があるんだった。

               

               

              なんでかなー?

               

               

               

              それで、台湾の素食に行くたびに、なんとなく、その理由が見え隠れする気がするので、それを今日は書いてみようと思った。

               

              もうね、いいのよね、素食(スーシー)。

               

               

              八宝菜。

              上にちょこんとエビが乗ってる。手前には豚肉のようなものが見える。

               

              でもこのエビはこんにゃくでできていて、豚肉は大豆製。

              エビなんて、ご丁寧にきれいに筋がつけられて、ほんのりと赤く着色されて、一見エビにしかみえない。

               

              食べると、うむ。

              エビではない。

              でも、まったく違うものでもない。

               

              エビだ、エビだと念じて食べれば、エビを食べてるような気になったりもする。

              味付けはたぶんオイスターソースだけど、オイスターも動物だから、もどきで作られている。

               

              殺生をしないけど

              肉もエビも魚もみんな食べたいんじゃー!

               

              というわけで、ヴィーガンなどで使うフェイクミートやフェイクベーコンの種類を遥かに超えた

              見た目イカ とか

              見た目エビ、見た目とんかつ、見た目牛肉、豚肉、鶏肉 といった

              涙ぐましい工夫の結果の食材がいっぱいあるんだった。

               

              そして、量が多く、油もいっぱい使われている。

              並べば満腹の中華料理と同じ風景で、よくあるベジ系やヴィーガン系レストランの、妙に寒々しいおされカフェ風の風景とはまったく違って、そして食べ終わったら間違いなく満腹になる。

               

              つまり、普通に禁忌食材を使って作られた食事を食べているのとあまり変わらない気持ちで

              ぱくぱくと食べられるのが台湾素食。

               

              私しゃ別にエビだってイカだって豚だって牛だって、ありがたくどんどん食べるから

              ベジ系であっても、こういう工夫が随所にあると、とてもうれしい。

               

              一方、都内のヴィーガン料理のお店なんて、高額払ってもお腹いっぱいにならんし

              なによりひと目で「ヴィーガンですからっ!」と主張するメニューや盛り付けが多くて

              ぱくぱく食べたい食欲があるときにはとてもじゃないけど、足が向かない。

              こんなんだったら家で作るわい! って思うだけ。

               

              なにかこう、独特な精神状態にするりと自分がはまりこんでしまわない限り、ヴィーガンワールドはなにか性に合わないんだった。

               

              たぶん、素食もヴィーガンも根っこは同じだと思うのに、なんか違うのはなぜなんかなー。


               

              最近ちょろりと思うのは

              素食は動物の殺生を禁じ

              ヴィーガンは動物の搾取に反対しているわけなんだけど

               

              それぞれの人達と話してみると、なんだか視線の向いてる先が違うのかなーって思ったりしてる。

               

               

              先日なんて、ミャンマーから来た人と話してたら

              「日本で一番恐ろしい食べ物は、いくらだ」と言うのだよ。

               

              えー? なんで? と聞いたら

              「いくらは一粒一粒がいのちです。私達は牛を一頭殺したら、それをみなで分けて、皮や内臓まで残すところなくいのちをいただく。

              いくらをスプーン一杯すくって食べたら、何十、何百という命を一度に食べることになる。恐ろしくてできないです」

               

              じゃあ、しらすやたらこも?

               

              「しらす!! 一匹一匹の目が私を見ている。食べられるわけがない!」

               

              と。

              おもろだー。

               

              そうなんだ、動物はいのち。

              いのちは感謝して、無駄なくいただく。

               

              その前提があって、敢えて殺生をしない選択をした人たちが

              「おいしい動物」を一生懸命真似をして、いろんな疑似食材を作り出して、普通と同じ食卓を作ろうとしてる。

              私が素食が好きなのは、たぶんそんなところなんだと思う。

               

               

              ヴィーガンを自称している人たちの中には

              ダイエットだったり、健康視点でアメリカの学者さんがエビデンス出しているとか

              エシカルとか環境保護とか

              あまり根底に一本筋が通ってる安定感がなく

               

              そして、「搾取反対」の哲学を貫く人の視線の先には

              搾取をしている人間や企業への敵意や、否定感が見え隠れすることが多い。

               

              たぶん、その敵意や否定感のようなものが、私は苦手なのだと思う。

              東京で、ヴィーガンで食べようとしたら、おそらく一日中 No と言っていないと成り立たない。

              それだけ、日常が否定形で埋まることに、私はどうしても違和感があるんだろなーって思うんだった。

               

              ま、好きな人はやってくれていいし

              東京で素食視点で貫くのも同じように、まあ、しんどいといえばしんどい。

              結局は、食に過度の制限を持つこと自体が、あまり幸せではないよねえ、ということなんかもしれない。

               

               

              という、なんのとりとめもない話。

              ただ、素食がうまいのよ、という。

               

              デザートもあるよ。うまいよ。これは甘いお豆のスープ。

               

               

              高いお金を払って並ばなくても、マンゴーのかき氷とか普通にあるし。

              中一 、最高。

              https://tabelog.com/tokyo/A1325/A132503/13006007/

               

               

              ちなみに、私にはココナツのアレルギーがあって

              それもヴィーガンに絶対なれない理由のひとつ。

               

              以前

              「ごまクッキー焼きました」と出されて、食べたら数分後にアナフィラキシーになった。

              何を入れましたか? と聞いたら

              キラキラお目目で、

              「バターのかわりに、ココナツオイルを使ったんですよー!」と。

               

              やめて、死ぬから。

               

              お付き合いで入ったヴィーガン料理のお店のランチがココナツ入りだったのでお断りし

              何も食べないのは悪いので、たった一つあった飲み物「チャイ」を頼んだら

              なにか味がおかしい。

              何を入れましたか? と聞いたら

              キラキラおめめで

              「健康を考えてココナツオイルを入れているんですよー!」と。

               

              死ぬから。死ぬ。

               

              会食のデザートがパンナコッタとココナツのアイスクリームだったので

              アイスはやめて、パンナコッタを選んだ(こちらはアーモンドミルクだからね)。

              食べたら具合が悪い。

              あのー、これパンナコッタですよね? と聞いたら

              キラキラおめめで

              「はい! 今日はココナツミルクでパンナコッタをお作りしています」

               

              書いて。せめて。

               

              ほんと、ヴィーガンのお菓子って、バターも牛乳も生クリームも小麦粉も使ってません! って言う割に

              かわりに何を使っているのかの表示がないことがあって、

              それは恐ろしくて、食べられない。

               

              アレルギーに配慮したお菓子って謳い文句のお店で

              ナッツやココナツは普通に使っていることもある。

              ちょっと怖いというか

              なんだろ、この

               

              動物搾取という哲学以前に

               

              乳製品、バター、肉

               

              の悪者感>苦笑

               

              あ、最近はカレー屋さんやカレーうどん屋さんで、隠し味にココナツミルクをこっそり入れているところが多く

              表示もされていないお店もあるので

              (先日は、Campってカレー屋さんでココナツ入っている? って聞いたら

               それは本部に確認を取らないとわかりませんと言われた。ベースは缶詰かレトルトってことだよね、うん)

              知らないお店でカレーを食べるのはとても怖い。

               

               

              というわけで、中一の素食はうまく

              私はココナツアレルギーですというお話でした。

               

              とりとめない。

              またなんか思いついたら書きます。

               

               

               

               

               

              category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(2) | - | -

              思い通りにならなかったと思ってたことが、実はちゃんとできてたことがわかり泣いた。人生捨てたもんじゃないね。

              2019.06.04 Tuesday 14:51
              0

                尊敬する人に、大谷翔平くんが書いていたという72アクションのアプリがすごくいいよ、と教えてもらう。

                無理しても全部埋めてみるといいというので、やってみたら、とっちらかって何が何だかわからなくなってしまった。

                行き先の時間がどんどん短くなって、フットワークも悪くなっている私のような年代の人間には、72個も空白を埋めるのは、やることが多すぎて道に迷った。

                ほいでも、やってみた甲斐はあったので、そのことを今日は書いてみる。

                 

                書き出してみて、改めてほうほうとわかったのは

                 

                まあ、なんというか

                長く生きてきて贅肉や無駄な知恵がついて

                 

                自分がいちばん自分ってものをわかっていなんだなあってことじゃった。

                結局、何をしたいかということよりも

                私はいったい何者なのじゃ、というところに焦点が移って

                 

                贅肉を削ぎ落とした骨格のところにある「自分」みたいなものを探す作業にいつしかなっていった。

                 

                 

                制作とかしていると

                ほんと

                知恵と贅肉で動きが鈍って、邪念ばかりが生まれて路頭に迷うことが増える。

                もともと、私って何が好きなんだっけ? とか

                何をしているときがしあわせなんだっけ? とか

                初心に戻って、思うがままに書き出していくのは本当に面白かった。

                いや、書き出すってほんとに大事。

                実際はしごくシンプルなことを、うだうだと悩んでいたり、勝手にオーバーフローしていたりする。

                書き出せば、元の核は豆一粒(真珠一粒、のほうが素敵か)ぐらいのことじゃん、ってことがよくわかる。

                 

                それでふと思い出したのが

                私の絵の原点ともいえる2冊の本だった。

                 

                これと、これね。

                アマゾンでまだ買えます↑

                 

                こちらもまだ買えるよ! すごいなああ、いいなあ。↑

                 

                私はこの2冊の本を、自分のイラストのバイブルのように大事に大事に眺めて過ごしていた時期があって

                ここ20年ほどは、ずっとトイレの飾り棚に2冊だけ置いていたんだった。

                本棚の中は見えないけれど、トイレの中ならいつでも目に入る。

                 

                20代の頃の私は、こんな絵を描く人になりたかった。

                キッチンの絵や、料理の絵、子どもや動物の絵を色鉛筆と水彩とパステルで描き続けていて

                会社員をやめて独立したあとは、ちょろっとそんな絵でホテルの機関紙に料理や食材の絵を描いたり

                一度はホテルの外壁のバンナーのイラストを任されて、私の絵が都内のホテルの壁にでっかく掲示されていたこともあった。

                 

                美大に行ってアートを学ぶことができなかった自分は

                イラストレーターにならなれるんじゃないかと思ってたんだった。

                 

                いや、何にでもなれたんだけど、いろいろ無知だったからそんなふうに思って生きていた。

                 

                 

                結局、紆余曲折を経て思いがけず文章を書く人になり

                まんがみたいな挿絵を描く人になり

                 

                当初思ってた夢みたいなところからそれてしまったなあ

                そんで、今ではもうこの本のような画風にはまったく興味がなくなったなあ、ってずっと思っていたけど

                 

                 

                今日、72個のマス目を埋めながらこの2冊の本を思い出してトイレから持ち出して

                そりゃあもう、ものすごく久しぶりに中を開いて

                 

                そんで、なんかわからんけど、ごうごうと泣いてしまったんだった。

                 

                一番好きだったこの本の中には

                 

                Illsutrated by Angela Barrett

                 

                キッチンから見える食卓や外の景色の絵がたくさんあって

                それは先日、東京の台所で大平一枝さんが書いてくださった、自分の子供時代の思い出にきれいに重なった。

                 

                https://www.asahi.com/and_w/20190227/123817/

                 

                食卓や外界に背を向け続けていた若い頃の私は、たぶん、この本の中の風景を夢見ていたのかもしれないんだった。

                 

                もう一冊の本の中にも、そんな風景がたくさんある。

                 

                Illsutrated by Leslie Forbes

                 

                台所が好きで好きで。

                でも台所にいる自分が辛くて。

                 

                イギリスやイタリアのキッチンの風景を、必死で真似して描いていたのかもしれない。

                 

                結局、こんな絵を描くイラストレーターにはなれなかったけれど、でも改めて

                 

                Illsutrated by Angela Barrett

                 

                こんな世界にまつわる家事の本を書いて出版することは、少なくともできたんじゃないか。

                 

                本当はもっと、文学的なことや、芸術的なことがしたかったんじゃないかとずっと思っていた。

                世俗的なことに関わり続けることへのコンプレックスを抱いたことも(実は)、あったりした。

                生活コラムニストって、なんだか表層的というか、深さが足りないような

                もっと文学やアーティスティックな世界に生きたかったような、そんな欠落感がどこかにあったんだけど

                 

                72個の空白を埋めながら、最後に行き着いたのは

                 

                結局自分は、暮らしや生きることにつながる、地に足がついたことが好きなのだ、ということだった。

                 

                ちゃんと、ずっと

                好きだったんだ。

                 

                 

                だから、好きな世界にいられることを、ちゃんと感謝しなくちゃ。

                持っていないものを欲しがる前に、持っているものをちゃんと愛おしまなくちゃ。

                んだんだ。

                 

                それでね、もうひとつびっくりしたのが、

                 

                ただ絵が好きというだけで買ってきて、中身についてあまり注意を払っていなかったこちらの本は

                改めてみてみたら、題名はトスカーナの食卓 なのだった。

                トスカーナをぐるりと回っていき、フィレンツェに行き着く。

                あれ、そんな旅を、4月にしたばかりじゃなかったか。

                ほら、ここには

                 

                Illsutrated by Leslie Forbes

                 

                サンジミニャーノの食卓がちゃんと書いてあった。

                このオリーブオイルのボトルや、チーズの包みを

                20代の私はどれだけ真似して描いたことだろう。

                 

                買ったときはタイトルをみても何もピンとこなかった土地だったけれど

                何十年も経て、ちゃんとその土地を旅して

                その土地の食べ物を食べて、今ここにいる。

                 

                ジェノバからサン・ジミニャーノ、ピエンツァを通ってフィレンツェへ。車の旅@2019

                 

                 

                トスカーナのオルチャ渓谷をドライブして旅するなんて、20代のころの私は思いもしなかったと思う。

                 

                 

                「自分の核に何があるのかわからなくなった。

                本来なりたかった自分、したかった仕事とはそれた道を歩いてきた」

                 

                そう思い続けてきたけれど

                自分の核にあるものはいくつになっても結局変わらず

                 

                違う場所に来てしまったと思っていたことは

                ちゃんと地下の水脈でつながっていた。

                夢なんてかなわなかったと高をくくっていたけれど

                私の夢はちょっと形を変えながらも、ちゃんとすばらしくかなっていたんだと思う。

                 

                 

                なにものかになりたいと願うより

                ただただ

                愚直に自分自身で居続けること。

                できない自分を奮い立たせるよりも

                ありのままの自分を大事に思って、自分でいるための努力をすること。

                 

                なんかそれでいいんだなーって思う今日。

                そしてそんなことが思えるのも、台所の話を書いてもらって、トスカーナを旅したあとの今だからこそで

                そのタイミングで72個のマス目に向き合えたのは、偶然ではないような気がしてる。

                 

                 

                人生、結構捨てたもんじゃないのかもしれない。

                ちょっと、いい午後だった。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(2) | - | -

                炎上騒ぎの後ろにある、今の「伝える仕事」の違い何? ってつらつら考える

                2019.05.21 Tuesday 12:30
                0

                   

                  この写真は私がフランスで小さな個展を開いたとき、思いがけず新聞にでっかく載ってびっくりしたよ! という紙面。

                  ギャラリーの持ち主が気を聞かせて記者さんにアポ取ってくれていたんだけど、小さな案内記事だと思っていた私は、街を歩いていたら、「日本のアーティストが来て個展を開いている」という大きな見出しの看板がいっぱい貼られていて驚いたんだった。

                   

                  ありがたい。

                   

                  が、このめでたい記事には、一つのエピソードが隠れている。

                  立派な記事の最期に添えられた情報の、ギャラリーの場所が間違っていたんだよ。

                  住所が!

                   

                  掲載日、浮足立った感じでフランスの友人たちが、「新聞出た出た」と喜んでくれていた中

                  突如一人の顔が曇り

                  ひそひそ話が始まった。

                  ひそひそ声は次第に伝搬し、最後にはなんともいえぬ空気が場を満たしはじめ

                  早口のひそひそフランス語が聞き取れない私は、何が起きたのかもわからずポカンとしていた。

                   

                  気づいた一人が、わかりやすい言葉で説明してくれた。

                   

                  私が個展をしたギャラリーの持ち主は、以前違う人だった。

                  その場所を譲り受けた今の持ち主が私の個展を実現させてくれたのだけれど

                  それまでずっと仲が良かったはずの前の持ち主と

                  なぜその人が自分と関係を断とうとしているのかわからないまま、

                  あるときを境にまったく連絡が取れなくなった。

                  以降、関係が途切れたまま。連絡をしてもナシのつぶてで現在に至るのだそうだ。

                   

                  その人は現在、まったく違う場所にアトリエとギャラリーを構えている。

                  私の個展の場所は、その人のギャラリーの住所が書かれていた。

                   

                  「とても残念。この記事を見てでかけてもそこは違う場所。

                   でも彼女は聞かれても知らないって言うに違いない。絶対に私のギャラリーでやってるってことは言わないと思う」

                  ………。

                   

                  取材に来た記者の人は、前の持ち主の頃からその人のこともこのギャラリーもよく知っていて何度も来ていたから、反射的に今のその人の住所を書いてしまったんだろうという結論に、この日は至った。

                  ちゃんと今のオーナーに取材をしつつ、場所は前のオーナーと紐づけて記事にしちゃった。なんというフリーダム。

                  とはいえ意図的に住所をすり替えたのだとしたら、とっても嫌な気持ちになるはずだから、その解釈は正しいのだと思う。

                   

                  というわけで、せっかく紙面になったけど、それを読んで来たいと思ってくださったうちの何人かはたどり着けなかったろう、というお話。

                   

                   

                   

                  なぜこんなことを思い出したかというと、「伝える」という仕事について、最近もやもやする事があったから。

                   

                  朝、テレビをつけたら見出しのところに

                  「佐藤浩市、首相を揶揄して炎上」と出ていた。

                   

                  なんのこっちゃと思っているうち、その見出しは一日中テレビに表示され続け

                  ネットニュースも「佐藤浩市炎上」で埋め尽くされた。

                   

                  何をやっちゃったん? と内容を追いかけだしたら、まあなんというか

                  それは首相揶揄でも、大々的な炎上でもないじゃんよ、と私には思えることで、

                  炎上させている人たちが主語の見出しにもなり得る内容だった。

                  中身を精査すればこんな見出しにならないはずなのに、なぜ、こんなおかしなことばかり起きるんだろう。

                   

                   

                  ほんで思ったんぢゃった。

                  ああ、そうか。

                   

                  どっかに書いてあることを拾ってきてつなぎあわせたり、

                  どっかで騒ぎになっているよー、誰かがツィッターでこう書いたよー

                  って、自動的に大量に記事を生成していくことが仕事という新しい職業がWebの世界では定着してきた今

                   

                  ほんの数人が炎上コメントの応酬している場面を切り取って

                  炎上!

                  ってただ書けばよく

                   

                  別にその背景にある真実を精査する必要もなく、矛盾をみつける必要もなく

                  違うでしょ、と言われたら

                  あ、そうなの? 自分がそう言ってるんじゃなく、ただそこにそう書いてあっただけで

                  現に「炎上」している事実はありますよね?

                  でぜんぜんオッケーな世界が、今はテレビにも広がっているわけなのかー

                   

                  と思ったら妙に納得できたんじゃった。

                  事実の裏をきちんと取るとか、表層で見えているもの以外の視点を探るとか

                  そういう視線は、「伝える」という仕事の中で過去のものになりつつあるのかな。

                   

                  ジャーナリズムの世界ではまだそれはきちんと稼働しているところも多いけれど

                  それを見たり読む人の数は減っている。

                   

                  私はコラムニストという仕事をしていて

                  それはなにか得意分野の中でテーマを与えられ、それについての情報や、個人の考え方や価値観を書いてよしとされる仕事だ。

                  さらにテーマ設定まで自由な、エッセイストという仕事もある。

                   

                  一方で、ライターと呼ばれる仕事は、与えられたテーマを忠実に取材して文章にして、個人の考えや価値観はオブラートに包む必要がある。そこにはクライアントがいたり、スポンサーがいるから、その意に反した記事は書けない。

                   

                  ジャーナリストや記者など報道に携わる人達は、クライアントやスポンサーなどの経済軸に左右されず、偏った価値観を持ち込まずに中道の報道をしなくていはいけないのだけれど

                   

                  でも、クライアントやスポンサーがいない分

                  常識や道義や正義はゆがめられることがなく

                  与えられたテーマの中だけでなく、隠れたり見えないテーマを探し出すことができるはずの仕事だったんじゃないのかなあ。

                   

                   

                  今の伝える仕事は

                   

                  クライアント(政権も大きなクライアント様だ)の意向に左右されながら

                  道義や正義のフィルター(なんてものがあったのかどうかも今やわからない)なんてものはかけずに、与えられたテーマを伝え

                  通りすがりに起こっているネットや別メディアで目にしたことを拾って横流しすることを、「テーマ探し」としつつ

                  個人の考えや価値観はなるべく表出させない(なぜなら簡単に炎上するから)

                   

                  悲しい状態になっとる。

                  偉そうに何を言うか、と思う人もいるかもだけど

                   

                  でも、ほんの片隅だけど「伝える」仕事に携わってきた自分からすると

                  とてもとても

                  気持ちがもやもやとすることが増えた。

                  ぼやいてても仕方ないんだけど。

                   

                   

                  とにかく

                  炎上してまっせ、と小学生が先生に言いつけるみたいな報道は

                  本当に無くなってほしいと思う今朝なのだった。

                  広い世の中で、ほんの一部がぼやいていることを全国区のテレビに流し続けることに何の意味があるんだろう。

                  ほんと、かっこ悪い。

                   

                   

                  そしてギャラリーの住所も、ちゃんと取材で確認して掲載しようね。

                  (と、最初の写真に戻る)>笑

                   

                  それでも来てくださって、いろいろ買ってくださったお客さんもいっぱいいた。

                  感謝なのだ。

                  またフランスでやりたいなーって思ってたら、ちょろりとオファーのようなものがちょうど来て

                  ぼやきつつも、気分のよい今日なのでした。

                   

                  さて、気を取り直して、機嫌よく一日をはじめよう。豪雨だけどね。

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                  category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(0) | - | -

                  Calender
                      123
                  45678910
                  11121314151617
                  18192021222324
                  25262728293031
                  << August 2019 >>
                  Selected entry
                  Category
                  Archives
                  Recent comment
                  • なんでフランスのごはん作りはラクで、日本のごはん作りは面倒だと感じるんじゃろ
                    武蔵野夫人
                  • なんでフランスのごはん作りはラクで、日本のごはん作りは面倒だと感じるんじゃろ
                    はろ!
                  • 毎年この季節になると服を作っている。大人の手作り服ってどうなの。たまにはそんなこと。
                    武蔵野夫人
                  • なんでフランスのごはん作りはラクで、日本のごはん作りは面倒だと感じるんじゃろ
                    武蔵野夫人
                  • なんでフランスのごはん作りはラクで、日本のごはん作りは面倒だと感じるんじゃろ
                    武蔵野夫人
                  • 毎年この季節になると服を作っている。大人の手作り服ってどうなの。たまにはそんなこと。
                    まつねこ
                  • 離婚して一人で子育てをして、しんどくなったことについて。自由に生きることには大きな責任が伴うってことについても。
                    武蔵野夫人
                  • 離婚して一人で子育てをして、しんどくなったことについて。自由に生きることには大きな責任が伴うってことについても。
                    55
                  • なんでフランスのごはん作りはラクで、日本のごはん作りは面倒だと感じるんじゃろ
                    武蔵野夫人
                  • 離婚したら「家事」はびっくりするほどラクになったんだけど、という個人的な話。ラクじゃないこともある。いろいろだ。
                    武蔵野夫人
                  Recommend
                  Link
                  Profile
                  Search
                  Others
                  Mobile
                  qrcode
                  Powered
                  無料ブログ作成サービス JUGEM