「一人だったら絶対作らない」という食卓の背景には何があるんだろう? ってことを一人の食卓から考える

2017.11.13 Monday 13:03
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    インスタグラムにごはんの写真をたまに乗っけている。

    なんでそんなことを始めたのかってことは前のブログに書いた。

     

    それで、そんなひとりごはん写真を見た人から、かなりの頻度でこんなことを言われるということがわかってきた。

     

    「一人なのによく作るねー! すごいよ。

     私、もし一人だったら絶対何もしないと思う」

     

    みたいな。

     

     

    それ、たぶん褒められているんだと思うんだけど

    不思議なことに

    そう言われたあとの自分の気持ちは

    褒めてもらった時のように、ぽこっと脳内に小さなドーパミンの放出が起こることはなく

    わあ、うれしいなあ、ありがとう! という気持ちが芽生えることもあまりなくて

    なんだか、とても不思議な微妙な気持ちになる。

    そう、どちらかというと、少し

    凹む。

     

     

    それ、なんでなんだろうなあということをずっと考えていた。

     

    言ってくれる人は本当に優しく本心で言ってくれているのはわかっているし

    すごいなあ、えらいなあと思ってくれているのに変わりはなく

    でも

    その時に自分の中に芽生えるもの

    そしてもしかしたら

    言ってくれた人の中に芽生えるものというのは何なのか。

     

     

    そんなことを今日は考えてみたいと思った。

     

    @楽しいと作りすぎるのが難

     

    かなり前のことになるけれど

    5人家族の友人が

    ほかの家族が全員出かけてしまって、昨夜は一番下の子と2人だけの夕ご飯を食べたのだ、と言った。

     

    そうしたらその子が

    「お母さんと二人だけなんて寂しすぎる。こんな静かな夕ご飯は嫌だ」と言うので

    「”まあ、なんてことを言うの。世の中にはそういうおうちもたくさんあるのよ。贅沢を言っちゃだめ”と怒ったのよ」

    と話されたので、ちょっと(いや、かなり)ムッとして

     

    「うちはいつも ”そういうおうち” だけど?」

     

    と言ったら、悪びれる風もなく「そういうことじゃなくって私と二人じゃ嫌だってどういうことなの! ってことよ」と笑っていたけど

     

    その時の私は、

    自分自身の状況に、ではなくて

    ”そういうおうち” と、とっさにカテゴライズされてしまうメンタリティみたいなものに、ちょっとばかり凹んだ。

    彼女の脳裏に「寂しい食卓」としてイメージされた風景は、我が家の日常ってことか、と。

     

    いや、言うほうは大仰には考えていないんだと思う。

    ただ、私のような人生のプロセスを持つ人間にとっては、この手の

     

    「欠け」

     

    を無意識に指摘される言葉のようなものに敏感なだけなんだろうと思う。

     

     

    似たようなことは、いろいろある。

     

    食べ盛りの子供を持つ人たち同士で

    「毎回ごはんを5合炊いても足りない。コメの消費量半端ないよね?」 と同意を求められたので

    「いや、うちは2合炊いて冷凍しても足りる」と言ったら

    「はああ? 信じられない! ああ、なんてうらやましい」とすごく驚かれたけど

     

    その時も、ちっともうらやましがられている、という気がしなかった。

     

     

    夫とか子供の数とか兄弟とか、いわゆる家族って構成のもの。

    その「欠け」のようなものを、コメの消費量になぞらえて、ただ指摘されたという気になった。

    不思議だけれど、自分自身の中にも、それは本来はあったほうがよいもので

    持たない自分はそれをなんらかの「欠け」と認識してしまうのだなあということを

    子育ての間はよく痛感したものだった。

    子供に対する責任感からくる、離婚後の負い目みたいなものもあったのかもしれない。

     

    もちろん、離婚→シングルで子育て→今一人暮らし の私には存命の両親がいて、子供もいて、仕事も家もあり

    「欠けている」なんてことを思うこと自体が無意味だと言うことはよくわかっているのだけれど

     

    ふだん自分がまったく気になんてしていないことを

    何かのきっかけで外側の世界から

    「欠けている」と指摘されたような気持ちになってしまうというのは

    人の精神構造というのは不思議なものなんじゃなあ。

     

     

     

    ということで、たぶん冒頭の

     

    「すごいわね、私、一人だったら絶対に何もしない」

     

     

    と語りかけられることは

    その手の「欠け」の指摘につながる部分があって、

    「一人であるわけがない」場所にいる人から

    「あなたは一人」のメッセージを自分が受け取ってしまうから

    なんとも不思議な気分になるのかな?

     

    と、まずは想定してみたんだった。

     

     

    いやいや、ところがだよ。

    これは全然的外れのような気がしてくるのだった。

     

    子育てを終えて、子供が巣立って、本当に自由にいま一人暮らしになってみたら

     

    「一人のごはん」って

     

     

    ちっとも「欠け」ではなく、

    私にとっては、それはもう楽しくて、面白くて仕方がないという世界なんだった。

     

    えっと、これはあくまでも「私にとって」だから。

    嫌いな人がいても、苦手な人がいても、ぜんぜん、いい。

    ただ、私にとっては、好きな時に好きなものを好きなように調理して食べて良い、というのは

    何にもまさる楽しみだし

    絵を描いたり文章を書いたりすることの延長線上にある、一種の創作活動なわけで

     

    だから、一人のごはんを作る

    と言う行為は、義務でも苦痛でも負担でもなんでもなく

    私には純粋な楽しみとして、日々の中に存在するようになった。

     

     

    これは、

    我が家が息子ひとりであったとしても

    誰か別の家族のためにごはんを作っている時には

    あまり感じられることのなかった感情で

    だから

     

    ごはん作りに関わる気持ちのありかって本当に面白いな、と思うわけなんである。

     

     

    「料理」をして食卓を整えるという行為自体は

    こんなに豊かで楽しさに満ちているのに

    それが「家族」に向いていた時代は、義務とか体面とかが不思議にからみあって

    よくもわるくも、なんだか不思議なことになっていたんだなあ、と今更ながら思う。

     

    それは時には「大変だ」という辛さであったり

    もしくは「夫や子供にはおいしいものを食べさせたい」という愛であったり

    「忙しくてもちゃんと料理はしたい」という自己に向けた意地のようなものであったり

    たぶん、子育て中にインスタがあったら、そこに手料理やお弁当の写真を載せて

    「自分はいい母親なのだ」という自己確認をしていたかもしれない。

     

     

    食べること、料理を作ること

    ということの背景にある、そんな、いろんな気持ちの渦みたいなものは

    子育てを終えて一人暮らしになってみたら、いたってシンプルなものになり

     

    コメの消費量とか食卓の人数とか

    そんなことで自分の「欠け」を刺激されることはなくなった。

     

    ほんとに不思議だけど

    まったく、なくなった。

     

     

     

    家族の分の食事を、毎日、人数分作り続けていくというのはほんま大変な仕事だと思う。

    特に、日本で。

     

    だからそれに毎日取り組んでいる人にとっては

    「一人だったら絶対にやらない」 ってのは

    一人になってまで、こんな大変なこと、まっぴらごめんだよ! というメッセージなんだと思う。

     

    でも、もしかしたら

     

     

    その中には

     

    「一人になってしまう」ことへの気持ちの回避も

     

     

    実は混じり合っていたりしないか。

     

    一人暮らしの人に「よくやるね、私は何もしないよ」って言われても何も思わないのに

     

    一人ではない場所から

    一人「だったら」やらない、と仮定されることに、私の気持ちが反応するのかもしれない。

     

     

     

     

    私には今年84歳の父と、彼をプチ介護中の81歳の母がいて

    その母が私によく言うんである。

     

    「いづみちゃん、ほんとにいいわね、ひとりで。

     すごくうらやましい。

     パパのごはん作らなくていし、自由に出かけられるし。

     私も一人暮らししてみたかった。どんなに気楽か」

     

     

    人生で、一度も一人暮らしをしたことがない人が、81歳になって一人暮らしの私を羨んでいるんである。

     

    そんな時には

     

    「一人で暮らす、一人っきりで生きて行くって、すごく自由だけれど

     それには責任が必要で、それはとてもハードなこともたくさんあるよ。

     私の自由は、それと引き換えに手に入れているもので

     ごはん作らなくていいわねとか、自由に出かけられていいわね、とか

     そういうこととはちょっと別のところにあるように思うよ」

     

    みたいなことを話す。

     

    一度家族を作って、そこから止むを得ず「ひとり」になり、

    今日も「ひとり」で暮らして行くという過程の中には

    ひとつひとつ乗り越えなくてはならなかった障壁のようなものがたくさんあって

    一言では説明しきれない時間の積み重ねがある。

     

    そこには自分自身でさえも、実際に直面してみないと想像もできなかったというような

    気持ちの変化や葛藤があったわけで、それを幾度となく経験しながら、今がある。

     

    自分の中にある、そんな「一人で暮らしていく」という軸のようなものの大切な一つが

    食事だったりするわけで

     

     

    だから、それはとても大事に

    面白がって

    まあ、やってるんである。

     

     

    そこを

    「一人だったら絶対やらない」

     

    と言われてしまう一抹の寂しさというか

    たぶん

    そんな感情が自分の中にあるのかもしれない。

    それは相手への違和感というよりも、自分自身に対しての自負のようなものだ。

    これは、ちょっとした気づきで、なんだか少し、自分のことが腑に落ちたような気になったのだった。

     

     

     

     

    ちょっと内容は違うけど、以前友達が

    「離婚した友達に、”大変だったわね、かわいそうに。困ったことがあったらいつでも言ってね”って急に集まってくるママ友たちがいたら、それはたぶんそれ言うことで ”よかった、私はこんなヘマはしないわ” って自己確認したいだけなので、放っておくがよし」

    って言ってたことあって、それはかなりいぢわるな目線だけれど、言われてみればそれも人の感情の複雑さの一面かもしれない。

     

    自分の言葉の中にある、アンヴィバレントな感情とか

    人の言葉から受け取る感情の不思議さとか。

    そんなことにひとつづつ気づいていくというのも、生きる面白さ、楽しさだという気もする。

     

     

    ってなことで、ごはんは一人でも作る人もいれば、作らない人もいる。

    私は作ってはいるが、それは偉いことでも立派なことでもなく

    ただただ、自分が楽しいから、そうしたいから、やっている。

    絶対やらないと思う人も、本当に一人になったら、楽しく作るかもしれないし、作らないかもしれない。

    でもそれは、本当に一人になってみてからでないと、あまりよくわからない。

    私も、そうだった。

    ほんと、ただ、それだけのこと。

     

    年齢を重ねるといろんなことがシンプルになっていく。

    それはそれで、ええこっちゃ、と思ったりしてる。

     

    category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(2) | - | -

    自分をどう見せたいのかって時期は卒業かもってことと、インスタバエな人生について考えたこと

    2017.10.30 Monday 10:10
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      ちょっと前に上野で藝祭を見ていたら、前を歩いていた女子二人の会話があまりに面白くてにやけてしまった。

       

      みんなが行くからナイトプールに行ってみた。

      笑っちゃったよ、みんな斜め上しか見てないの。

      インスタの自撮りしてて。

       

       

       

      たぶん誰も泳いだり食べたりすることにはあまり興味がなくって

      どうインスタに映すかってことが最大関心事だってことで、イベント自体もちゃんとそれを意図しているし。

      んで、その風景を想像してにんまりしてしまったのだった。

      あ、えっと、これ。

      よくある年寄りが近年の現象を嘆くとか、そういったたぐいの内容ではないからね。

       

      最近の人たちの写真の感性とか、映像画像としてのまとまりのバランス感覚とか

      ほんとに上手だしえらいもんだと思うし、文化のありかとしてインスタはとっても面白いと私は思ってる。

       

       

      んだもんで、私もちゃんとインスタはやっている。

      はい。

      主に毎日のごはんと、自分の作品だけだけど。

       

      ここ。

      https://www.instagram.com/izoomiizoomi/

       

       

      それで、それについて、はあ、なるほどと思ったことがあったので書いてみる。

       

       

       

      先日とある取材があって、自宅を撮影することになった。

       

       

      最近、私は自宅の撮影をお断りしている。

      理由は、最近とみに弱ってきた愛犬の存在。

       

      老犬がいると家中にタオルやクッションが散乱するし

      何より、におう。

      犬との暮らしを一番に考えたら、家の中を常に、誰に見られてもいいようになんて整えておけない。

      それを整えるために必要なエネルギーを考えると

      そのエネルギーは、とりあえず今の老犬との穏やかな時間にあてておきたい。

      そう思うようになった。

       

      @がんばれチョコ

       

      私はこんな仕事をしているから

      これまでずいぶん自宅での撮影依頼を受けてきたけれど

      カメラマンさんが来て私が意図しない場所も気に入っていただけた場合は撮って帰られると思えば

      やはりそれなりに家の中は整えておかなくてはならず

      そうしたことが頻繁に起こると、普段の暮らしぶりの中に、「誰かに見られる」という緊張感が入り込んできて

       

      それがまあ、家をきれいに保っておく機動力にもなるのだけれど

      やはり、時々つらいなあと思うことは多かったのだった。

      変な場所から覗き込まれたら埃だらけで、カメラマンさんが真っ白になりながら撮影なんてこともあって、いろいろ神経使ったなー。

       

      いや、自分の場合はそれで仕事をさせてもらって生きてこられているので

      十分にいろいろ感謝しつつ、

      自分が尽力して整えて暮らしている風景が、記事になったのをみればやっぱりうれしいから

      そこに「もっとこう見せたい」という気持ちが湧いてくることも多かった。

      そういう時の、

      自己顕示欲というか、自己確認欲というか

       

      外側から自分を俯瞰して

      それが現実よりちょっと盛られて(だって撮られると思えば片付けるしきれいにするし、見栄え良くもする)

      きれいな写真になって誰かに見られるという体験は

       

      なんというか、こう

       

      鼻の奥のほうで むふふふーふーん というような

      むずがゆいような

      誇らしいような

      妙な満足感が生まれるということを、私はよく知っている。

       

      そんな体験を繰り返していくと

      もう普段の行動の中にいろいろと

      こうしたらよく見えるかもとか、いい絵が撮れるかもとか

      そんなことを考えるようになり

      なんだか暮らしが等身大でなくなってくるというか

      第三者から見える自分という視点のほうが大きくなりがちで

       

      それがエネルギーになった時代もあったけれど

       

      いやあ、もうそれ

       

      いいですわー、だって疲れるもん、っていうのが最近の私なのだった。

      愛犬も年老いたし、息子も独立して家を出たし

      なんというか、「家庭」という枠組みを敢えて生み出す必要もなくったというのも大きい気がする。

      社会的に提示したくなるわかりやすい「スタイル」みたいなものがもう、ないというか

      それはもう自分ひとりという自身の存在でしかなくて、それもう、カテゴライズできないし、したくないしなー。

       

      前置き長い。

       

      そんで、そういう状態なので断り続けている取材なのだけれど、今回ひとつ、受けることにした。

       

      おつきあいが長いというのもあるし

      一人暮らしで等身大で暮らしを楽しむ感じ、という特集だというので、ありのままで撮りたいところを

      撮って帰ってもらえるなら。

      なので、何の準備もしないよ。もう、そのまんまで。

      という感じで。

       

       

      それで、事前に打ち合わせに来てくださっていろいろ見てもらって

      カメラマンさんが来る日にはだいたいこんなところを撮っていきますねーという連絡をもらった。

      ほいほい、どうぞどうぞ。

       

      ただ、その中にひとつ、

      「インスタグラムに載せている毎日のひとりごはんの写真をぜひ取り上げたいので

       大きく扱いたいので何かひとつ作っておいてください。冬なので温かいもので」

       

      というのがあった。

       

       

       

      それを見たとたん

      おお、そうか。

      何か作らなくちゃ。

       

      と私の脳内は動き出し、

      えっと、見栄えのする料理は何かなあ、器は何にしよう。

      冬らしいといえばやっぱり鍋系かしら。

      でも一人ごはんなのに豪華になりすぎると不自然だし、いい塩梅のメニューは何かなあ。

       

       

       

      と、急速に回転しだして

      ふと気がつけば

       

      食卓に並ぶ料理の風景を、グラビア的に俯瞰している自分に気がついたのだった。

       

      取材には真摯に答えたいから、希望してくださったことにはちゃんと応えたい。

      そんで、丸一日メニューを考え続けたんだけど

      その「俯瞰している自分」と、「俯瞰された風景を作るために何か行動をする」ために脳内がぐるぐるしている自分に気づいて

       

      ああ、これはもう辛いから

      やめよう

       

       

      と思ったんだった。

      だってそれは、ほんとの私の暮らしや人生とは別のものだから。

      いつものインスタグラムにある私の料理は、そうして作られたものではなく、その間の違和感を乗り越えられなかった。

      そんで、丁重にその部分をお断りして、写真はインスタグラムの中から使えそうなものを使ってください、とお願いした。

       

       

       

      いや、インスタだってそこに載せるために、俯瞰して撮ってる。

      確かにそうなんだけど

       

      私が一人のごはんをインスタグラムに載せるようになったのにはちょっとした理由があって

       

       

      ある日

      同じように子供達が独立して一人暮らしになったシングルマザーの友人から、こんなことを言われたからなのだった。

       

       

      「一人暮らしだと、一人でごはんを食べるのは寂しいでしょう? ってすごくよく言われるんだよー。

       でもそんなことないよね? 自分で好きなもの作って好きなように食べて、それ幸せだって思うんだよ。

       いづみちゃんのごはんの写真を見ていると、一人のごはんも楽しい! ってすごく思えるの。

       だからいっぱい写真載せて欲しい。みんなに、一人のごはんもいいよね! って知って欲しい」

       

       

      うんうん、それな。

      子供巣立って一人暮らしになったというと、必ず言われる。

       

      「お寂しいでしょう」

       

       

       

      いや、そうでもないよ。

      そんで一人のごはんも

       

      「味気ないでしょう」

       

       

      いや、ぜんぜんそんなことないよ。

       

       

       

      なので、一人ご飯もいいもんじゃというのを見て欲しいからいっぱい写真載せて! っていうのは

      ああ、本当にその通りだなあと思うから、インスタグラムに載せ出したんだ。

       

      それ、同じインスタに載せてはいるんだけど

      見てもらうために食卓を整えているのではなくって

      ほぼ自分だけのために自分の都合で自分用に作って並べて、ひとりで食べて

      その結果を写真に撮っていて、プロセスの中にあまり「こう見せたい」というのがないから

      楽だったんだなあと改めて思ったんだった。

      それを

      見せるために何か作ってくださいと言われたとたんに

       

      「こう見せたい」という気持ちが湧いて出て来て

       

       

      それがたぶん、今もういいやと思っていることなんだと思う。

       

       

       

      まあ、もちろん

      最後は写真に撮ろうと思うので、お皿に気を使ったり、見栄え良く盛り付けようという気持ちが働いて

      それが日々の暮らしをちょっと、シャンとしてくれている側面はあり

      そのあたりのバランス感覚をうまく表現するのはとても難しいのだけれど

       

      その行動をしている時の自分の視点が自分の中にあるのか

      第三者的に自分を俯瞰している場所にあるのか

       

      というのは、かなりメンタリティとしての違いが大きいなあと思ったのが今回のできごと。

       

       

       

      実は私が自宅の撮影を断り出したのは、これが2度目で

      一番最初に

       

      「自宅撮影はしないでください」

       

      と今思えば不遜な(すみませんでした)お願いをしていたのは

      ちょうどコラムニストとしてのキャリアが始まったばかりの、2000年の頃だった。

      当時私は朝日新聞で「ネオ家事入門」という連載をしていて、それが結構評判がよく

      雑誌の取材や書籍化の依頼などが立て続けに入り出したのもこの頃だった。

       

      合理的な家事。

      それを実践しているワーキングマザー。

       

      その人の家を撮して、いろいろ実践している技などを紹介していく。

       

      これ、雑誌では頻繁に見る内容だと思うけど、

      キャリアの駆け出しで、こうした取り上げ方をしてもらうことが大きな宣伝にもなるというこの時期に

       

      どうしたことか、私は取材依頼を全部断ってた。

      あほか。

      チャンスじゃないか!

       

       

      でも自分としては、これにはちゃんとした理由があったんだった。

       

      「撮影をされると思えば、見栄えがいいようにちょっとは片付けたり

       埃だらけの場所を掃除したりしてしまいます。

       そして、たいていはどんな家でも、風景を切り取ってカメラマンさんが撮影すると

       なんだかちょっと素敵な暮らしに見えることも、あると思います。

       

       でも暮らしていくって、そういうことじゃないと思うんです。

       特に小さい子供がいて、さらに働いていたら、家の中はカオスになって当たり前なんです。

       

       忙しくても、なんとかなる。きちんとちゃんとしなくていい。

       それを発信したい私の家が、ちゃんと片付いていてきれいに見えたら

       それを見た人の中には”こうしなくちゃダメなんだ” って思ってしまう人もいると思う。

       

       私がやりたいのはそういうことじゃないので、自宅は映さないでください。

       家事技などはハウススタジオとわかる場所でお願いします」

       

       

      やな感じのやつだ。

      でも本当にそう思ったんだから仕方ない。

       

      そんな感じで私は自分のキャリアを開始して、でもそれなりになんとかやってきて

       

       

      ただ、途中で離婚してシングルマザーになったので

      そこから先は

      ただ本当に

       

      子供を育てていくために

       

      声をかけていただいた仕事はそれこそ何でも、一生懸命やった。

      その中に、自宅の撮影も結構入っていたっていうこと。

       

       

       

      それ、もうそろそろいいかなあって思ってるってことなんだと思う。

      外側からどう見えるかってことより、また改めて自分自身に立ち戻って

      自分の目からいろんなことを見て決めていきたいなあって。

       

       

      でも

      そうやっていろんなプロセスを思い返していくと

       

      仕事もして子育てもして、家事も完璧で

      インスタとかフェイスブックにすんばらしいインテリアの家や家族のために作った料理の写真を披露して

      読モ(読者モデル)として雑誌に登場したり

      そんな若いママたちを見たりすると

       

      こりゃまあ

      並大抵のエネルギーじゃないぜ! って思うんである。

      ってか、おれ、仕事でやってたからなんとか割り切ってできたんであって

      生きて稼ぐためにどうしても必要だったというのではない場所で

      これだけのエネルギーを割いていることのすごさについて、しばしくらりとすることがある。

       

      「仕事として」の場ではなくて、そのままの素の自分の暮らしと人生に

      「どう見られるか」という意識が大量に入り込むことの危うさについて

       

      やっぱりどっかで、自覚しておいたほうがいい気もする。

      それ、すごく疲れるし、等身大を見誤るから。

      特に子育て中の「素敵なママ」「いい家庭」「ちゃんとした暮らし」という外側の枠組みを含めた俯瞰から自分をどう見せたいかを考え始めると、かなりしんどいことになっていく。それはもう、確実に。

       

      そのエネルギーは、もしかしたらもっと別の場所に使うほうがいいのかもしれない。

       

       

       

      インスタ映え

       

       

      って言葉がもう当たり前のように使われるようになっていって

      形に残すからこそ、だらりんとしてしまう日常にちょっと背筋が伸びるきっかけができて

      レイアウトや盛り付けやファッションのセンスが、みなどんどんよくなっていく

       

      それはとても素敵なことだって思うけど

       

      今の自分はプールに行ったらやっぱりまずは泳ぎたいし

      うまいものはまずは食べようよ、冷めるまで撮影に熱中しないで、って思う。

      ま、インスタ熱もそのうち冷えるだろうからいいんだけど>笑

       

      ただ、私が雑誌の取材なんかを通して、不思議な体験として自分を俯瞰することの

      刺激的な魅力と、一方での危うさを体験してきたことが

      今はみんながインスタグラムとかで体験していて

      それ、すごく面白いなあと思う。

       

       

       

      ってなことで

       

      撮影のために何か作ってください

       

       

       

      という一言でものすごく苦しくなってしまった自分が面白かったので書いてみた。

      またなんだか、とりとめがない。

       

      ここは、しごく個人的なとりとめないブログなので、ごめんなさいです。

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

      category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(0) | - | -

      「人生は必要な時に、必要なぶんだけ与えてくれる」ってことをフランスで教わる

      2017.10.23 Monday 11:20
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        フランスでレジデンスをしていた時に、本当によくしてくれたアーティストの友人たちと食事をしていたときのこと。

         

        一人がこんなことを言った。

         

        「大事なのは自分を信頼すること。自分の創り出すものを信じて自信を持つこと。

         下手にいろいろ考えすぎて余計なことをしないで、ただ自分の信じるものを作り続ける。

         そうしてれば、どっかでなんとかなる。

         私、今回本当にそれを実感するできごとがあったの」

         

         

        なぜそんな話になったかというと、滞在中のいろんなことにお礼を言いたくて

        私が自分のことをこんな風に表したからだった。

         

        「私はたぶん、日本ではきちんとやっているほうだと思う。

         人によっては、成功したほうだ、という言い方をするのかもしれない。

         本もたくさん出すことができたし、講演をさせてもらったりしながら子供を一人で育てることもできた。

         でもね、どこまでいっても、いつも不安で自分に自信がなかった。

         これでいいのかな、って。

         

         特にアートについては、どんなに楽しく描いても、自分がやっていることに自信が持てなくて。

         昔から父親に「お前に才能なんてあるわけがない」って言われ続けたのもなんか心に残ってしまっていて

         絵を描いていてもどこからかそんな声が聞こえてくることがあるんだよ。

         でもね、今回の滞在で、そんなこと気にしないでいいんだな、って思えるようになった。

         個展に来てくれた人たちがかけてくれた言葉にたくさん勇気をもらったし

         あなたたちに会えたことでたくさん心に栄養をもらった。いっぱいありがとう」

         

        (いや、たぶん実際のフランス語はもっと稚拙>笑 これはかなりの意訳)

         

        そう言ったら、彼女は私の手を取って

         

        「あなたは立派に仕事をしてひとりで子供を育ててきたんだよ。日本で。

         あなたはFemme indepandante、自立した女性。それだけでもすごいこと。

         

         それに、あなたは本当の才能の持ち主だということがわかってる?

         それは今回のことで証明されたよ。信じて、自分を信じて」

         

        としっかり私の目を見て言ったのだった。そして、最初に書いたようなことを話し出したんだった。

        それは、こんなこと。

         

         

        「あなたに貸したアトリエのある建物を、いろいろあって私は去年購入したんだけど、

        修理のお金やいろんなことが重なって、少し前まで本当にどうしたらいいんだろうって思ってたの。

        どうしよう、絵だけ描いていてもだめだから、もっと売れそうなアクセサリーを手ごろな値段でいっぱい作ろうか、とか

        もっと売れそうなグッズを作っていかないとダメかな、とかいっぱい考えてた。

         

        そうしたらね、ちょっとした事故で足の骨を折っちゃった。

        動けないし、もう本当にだめだ、アトリエは売ろうかと思って家にこもっていたら

         

        或る日突然電話がかかってきたの。

        私が描いた中で一番大きくて一番高値をつけていた絵を、買いたいって人から。

         

        小さいアクセサリーだったら、何日もかけて何十個も作って売り続けなくちゃならなかったと思うけど

        1本の電話で、私が一番描きたくて描いたものが、ちゃんとその値段で売れていったの。

        それで私、思ったんだ。

        自分が本当に創りたいものを、信じて創り続けようって。

         

        こうしたほうが売れそうだ、受けそうだと考えて形を変えてしまわずに

        ちゃんと自分を信じて創り続けていれば、どこかで何かが起こる。

        人生はそう捨てたもんじゃない、って。

         

        あ、でもね。

        修理のお金を払ったら、絵が売れた分のお金はなくなっちゃったのよ>笑

        だから、また最初からなんだけど

         

        でもそうして、人生は必要な時に、その人に必要な分だけを与えてくれる。

        そう思うの。

         

        それ以上あるに越したことはないけど>笑

        でもね、持ちすぎてもいろいろ見失う。

        だからいづみも、自分を信じて創り続けて」

         

         

         

        人生は、必要な時に、その人に必要な分だけを与えてくれる。

        ちゃんと自分を信じて、本当にやりたいことを続けていれば。

         

         

         

        それ、なんだかとっても腑に落ちる気がして

        なんだか心にあったかさがいっぱい溢れたんだった。

         

        そうだなー、自分の人生も、振り返ってみたらそういうことの繰り返しだった、と。

         

        ヨーロッパ最大級の版画の工房村で。いつかここで銅版画をしてみたい!

         

        大事なのは自分を信じること。

        自分を信じるに足るだけの、好きなことを持ち続けて、自分に嘘はつかないこと。

         

        外側からの評価や経済軸みたいなものでいろんな邪念にまみれてしまうことが多いけれど

        その都度自分に立ち返って、何がしたかったんだっけ? って振り返りながら、

        そうやって今までもやってきたような気がして。

         

        そんなこと書くと、順風満帆に聞こえちゃうかもだけど、いつもピンチと隣り合わせだった。

        ああ、困ったなあって立ちすくんだり、もうこのままダメなんじゃないか、

        とアルマジロのように丸まって冬眠状態になっていたりすることがたくさんあった。

        気持ちのバランスを崩して、それが体調不良につながってしまったり。

        そんな時、すぐに幸運の女神が現れて、めでたし、なんてことはまったくないけれど

        でも気づくと

        あれ?

        ああ、ありがとうござます。うれしいいよ、って出来事が小さく起きたり

        いいんですか? 助かるなー、なんて仕事がちょろんと舞い込んできたり

        え? こんなんがあったっけ? という小さな臨時収入があったり。

         

        でっかくどかーんと大成功! なんて出来事はないけど

        困った ーじたばたせず待つ ーあれ、なんか起きた ーありがとう ー気がつけばまた困った ー待つ ーあれ?

        なんていう繰り返しだったなーって、長い目で振り返ってみると思う。

         

        一方で、

        これ、本意じゃないんだけど、もう動き出しちゃったからやるしかないのかなあ、気が重いなあ

        なんて思っていたことが、ひょんなことから白紙になったりとか。

        それ、経済的には打撃だけど、気持ちは救われた、なんてこととか。

         

        ほんと、彼女が言う通り

        人生って、必要な時に必要な分だけを与えてくれるものだ、と思えれば

        なんかいろんなことが楽になると同時に、ちょっとした希望も湧いてくる気がする。

         

        もちろん、「必要」な部分をしっかり確保することは大前提で

        それが確保しにくくなっている世の中なんだけれど

         

        でも、必要以上のものを手に入れようとして苦しくなるのは、なんか自分には合わないなーって思ったりもする。

         

         

        こういうこと、標語みたいにみんなに伝えたいってわけじゃなくって

        ただ、今の私にとって、その言葉がしんみりとじわりと心に染み渡って

        そうだなあ、その通りだなあ、これからもそんな感じでやっていけるといいなあ、って

        そう思ったんだよ、ってこと。

         

         

         

        今の日本は、本当に「必要」な部分がどんどん減ってしまっているのに

        別の場所で必要以上のものを手に入れようとしている人たちが

        いろんなことを苦しくしているような気もして。

         

         

        だから日本に戻って

        また、彼女の言葉を噛み締めたんだった。

         

         

         

        最後の日、電車のプラットフォームで彼女たちは、

         

        「いづみ、あなたはほんとのアーティストだよ。自分を信じて。自分の信じることを続けて」

        と、目にいっぱい涙をためて私を見送ってくれた。

         

         

        ひょんなことからいろんなことが実現したフランスでの個展の体験だったけれど

         

        ああ、私はこの言葉を聞くために

        ここに来たんだなあ、って心から思えたんだった。

         

        たぶんそれが

        私が一番必要としていたこと。

         

         

        そういう風に、「アート」や「アーティスト」が存在できる場所であるフランスは、本当に素敵なところだと思うし

        私も、こういう言葉を、ちゃんと誰かに伝えられる人間でいたいなあ、って強く強く思う。

         

         

        日本で「私はアーティストです」なんて言ったら、結構ドン引きされちゃうわけで

        いろいろアートを取り巻く状況は厳しく、そんな中でいろんなことに自信が持てずに来たけど

        心の中で自分を信じる、ってことはとても大切なことだということを、彼女たちが教えてくれた気がする。

        そして改めて、これまで自分がやってきたこと、これまでの自分の仕事にもちゃんと自信を持とうと思えるようになった。

         

        へこたれながら、ピンチになりながら

        でも

        きっと小さくはなんとかなるんでね? と思えればそれでいい感じで。

         

         

         

        ちょっとこれからの自分が、楽しみになりました。

         

         

         

         

        今日はこんな感じで。

         

        category:アートと暮らし en France | by:武蔵野婦人comments(4) | - | -

        一汁一菜の雑誌記事見てひっくり返った&日本のごはんはどこから複雑化したのかについて考えた

        2017.10.15 Sunday 11:12
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          さて、賛否両論多いごはんネタだよ。

           

          今回のテーマは「一汁一菜」。

           

          最近大いに語られることが増えた一汁一菜。私は土井善晴さんの本に感激した。

          ありがとう、そう言ってくれてありがとう。そうだよ、それで十分。なぜいままでそうならなかった?

           

          ただ、あの提案がこの時代にすんなり受け入れられたことに対する、なぜ? という気持ちもあった。

          だって、まあ、こんなちっぽけな存在ではあるけれど

          私もずっとずっと、

          ごはん頑張らんでいいでしょ?

          毎日同じものでもいいでしょ?

          みたいなことを考えて続けていて

           

          そういうことは海外に出ると本当に強く、しみじみと思うわけなので

          (だって、毎日こんな複雑な食事を主婦が作っている国に行ったことがない>笑)

          そんなことをブログに書いたりすると

          一定数の「そうだよねー」というコメントと一緒に

          いや、和食のすばらしさは世界に誇るものだ とか

          パンじゃなくてごはんじゃないと無理だ とか

          和食より洋食がおしゃれに見えるだけなんだろう とか

           

          そういうちょっとした反発感というか

          抵抗感というか

           

          そういう感情が引き出されて来る、ということを何度か経験してきたから。

           

          まあ、私がフランスに行くことが多くて、向こうの食事が楽だと考えたり

          アメリカで毎日同じメニューでも大丈夫となったらものすごく楽になったとか

          その手のことを書くので

           

          だからそういう言い方が反感を買うんだよ

           

          と言われたこともあり、

          ああ、そうなのか。海外のことを引き合いに出したらいけないのだな。

          テレビ見てたりするとさかんに

           

          日本人でよかった

          日本に生まれてよかった

           

          と和食を食べながらコメントする場面が出てくるし

          いずれにせよ

          食事と、食事作り(ここ大事。外食文化と、家庭でごはんを作るという話題は別のものなんだよね)って

          ものすごくいろんな感情を引き出してくるんだなあ、と思うことが多かった。

           

          だから、土井善晴さんの一汁一菜を読んだとき

          これがなぜ受け入れられたんだろうというと

           

          彼が男性だから

           

          そして彼は料理のプロで、しかも伝統的和食のサラブレッドだから

           

          その上で、一汁一菜であってもごはんを丁寧に炊き、だしを取り、素材の美味しさに気を配って

          「愛情をこめて」つくればそれでいいのだ

           

          ということを基本においているからなのだ、と改めて思ったのだった。

           

           

          「フランスの食卓楽だよ、

          そういうこと、日本のごはんだってできるんじゃない?

          朝は炊飯器でタイマーごはん炊いて、納豆や佃煮をトレーに乗せて冷蔵庫に入れておけば

          あとは誰かがそれを出して、それぞれ自分でよそって好きに食べていけばいい。味噌汁インスタントだっていいし」

           

          なんて言い方ではだめで

           

           

          日本の食はすばらしい伝統があるからそこに立ち返り

          丁寧においしく炊いたごはんがあれば、そこに具沢山の味噌汁を加えてあげるだけでいいんです。

          愛情をこめて作れば、一汁一菜でも十分ですよ、みな忙しいんですから。

           

           

          と、和食のプロの男性が言うことの

           

          なんかすばらしく大きな違いがあるなあ、と思ったのだったよ。

           

           

           

          タイマーごはんでインスタント味噌汁

          なんか1品つけとけ、納豆でもめかぶでも。市販品でいいから

           

          ではやっぱり誰も納得しないのだと思う。

           

          そこに横たわっている、なにか大きな「精神性」みたいなものというのが

          日本の家庭ごはんの形に、いろんな影響を与えているんだなあというのが、最近の関心事なのだった。

           

          でも本当にありがとう。

          土井善晴先生。

          どんだけの人の気持ちが救われたか。

           

          ごはんと味噌汁だけの食卓でいいよ。

          それが逆に今はおしゃれで流行よ。

          栄養価だって満たされているから安心して。

           

           

          救われる。

           

           

           

           

           

           

           

          すごくいいなあと思う気持ちでいたところ

           

          先日こんな雑誌の特集を見て、なんだかひっくり返ってしまった

           

           

          ごはんづくりに”疲れたら” 一汁一菜でもいいらしい。

           

          表紙の写真、一汁一菜なん?

           

           

           

          めくってもめくっても

          出て来るのは

           

          ごはんと味噌汁とおかず という写真で

           

          しかもそのおかずには

           

           

          たとえばお肉を炒めたようなものの横に千切りのキャベツのようなものが添えられて、プチトマトが彩りに。。。。

          みたいな(具体的によく覚えていないけど、いわゆるそういう風景。大戸屋の定食みたいな)一皿で

           

          なんか

           

           

          土井さんの提案は、ごはんと具沢山の味噌汁 を一汁一菜と考えていいですよ というはずだったのが

           

          「ごはんづくりに疲れたら一汁一菜ごはんでもいいですよ」と提案されているのは

           

          ごはんと

          味噌汁と

          おかず

           

          に増やされていて

          さらにそのおかずは

           

          一菜 ではなくて、主菜に2つぐらいもう、副菜が盛りあわされているという、

          もうてんでらくちんでもなんでもないものになっていた。

           

           

          それで、ネットで一汁一菜ごはんと画像検索してみたら

          出て来るのは、やっぱり、立派なごはんと味噌汁とおかず(副菜盛り合わせ)というようなもので

           

           

          ああ、そうか。

           

           

           

          一汁一菜というのは、もとは土井さんがいうようなごはんと汁物ではなくて

          ごはんと汁ものとおかずだったんだっけ、と改めて思い出したのだった。

           

          そんじゃ、なぜ、ここまで立派な食卓なのに、それを「ごはんづくりに疲れたら、こんな一汁一菜の食卓だってぜんぜんかまわないんですよ」なんてことを言ってもらわなくてはならないのか(ってか、これすごい状態だと思うよ。ここまでやっても、従来はダメだったってことなんだから。それを”いいですよ”って言ってもらわないと楽になれないってことなんだから>ふえー)

          その前提には

           

           

          一汁三菜

           

           

          という家庭料理の基本のようなものが存在しているからで

          それ

          改めてグーグルで「一汁三菜」で画像検索してみて、さらにひっくりかえった。

           

          すんばらしい。

          並んだ画像に圧倒された。やってみて。

           

          結局、日本の家庭料理の基本として私達が叩き込まれてきたのはこういう風景だったんだなあと改めて。

           

          https://www.yamaki.co.jp/knowledge/dashi/recipe.html

           

          勝手に画像ひっぱってきてはいけないので、リンクで。

          ありがとうございます、かつおぶしのヤマキさん。

           

          あと、ふたりぶんの素朴な朝食という画像もみつかった。

          https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=20027004616&GroupCD=0&no=96&brandrm=True&brandrf=True

           

          素朴だそうだ。

          皿数すごい。

           

           

           

          それで思い出したんだけど

          ちょっと前に、ある団体が出している媒体に土井さんの本を引用して「一汁一菜」が話題ですよね、という記事を書いた。

          ちょっとした工夫で、炊きたてごはんさえあれば準備は簡単でいい、と。

           

          そしたらそれはボツになった。

           

           

           

          なぜかというと

           

           

          「わたしどもは家庭料理は”一汁三菜”を基本に常々情報を発信しておりますので、一汁一菜は困ります」

           

          ということなのだった。

           

           

           

          こうしたちょっとした媒体や

          病院でもらうパンフレットや

          日々目にするいろんな料理レシピや

           

          まあ、そんな場所から、どうやら気づかないうちに私らは一汁三菜を指導されてきたかもしれない。

          理念として勉強しなくても、日々目に入って来る視覚記憶のイメージみたいなものも大きいし

          あとは

          育ってきた家庭で見てきた食卓の風景を基本に考えていることも多いのかもしれない。

           

           

          ごはんとおかずを出したら

          「これだけ?」と夫に言われたとか

           

          ワンプレートだと手抜きに感じるとか

           

          いろんな場面での「視覚の記憶」みたいのは結構大きいからね。

           

           

           

           

          そういうの、習慣的にごはんを作っていたら当たり前になっていることも多いけど

          考えてみたらすごいことだなあ、と本当に思うのだった。

           

          主菜のお肉や魚の横にも、なにかしら付け合わせをつけて

           

          そのほかに小鉢を2種類ほど作って

          そのすべて調理法が違ったりするから、いろんな味付けや調理法を繰り返して

          皿数を増やしていくってことになるわけで

          簡単に済ませようと思えばそれもちゃんとできるけど

          手をかけようと思ったらもう、再現なく手をかけることもできちゃう。

           

           

          日本食が一番だと、日本礼賛される方からみたら、またそれか、お前は、と思われるかもだけど

           

           

          フランスで誰かの家で普通に夕食を食べようというとき

          作り手が作るのは、ほぼ1種類の調理だけということが多い。

          肉煮る、焼く、みたいな。

           

          あとは指示がとんで

          「レタスあらってボウル入れてオリーブオイルとバルサミコかけて出しておいて」とか

          「パン切って」

          「チーズ出して」

          「皿とフォーク出して、あとワイングラス」

           

          みたいなことでたいてい済んでしまう。

           

          3種類以上の調理が必要な料理がずらりと並ぶことはあまりないし

          それをさらに一人づつに小分けにして出すこともあまりない。

           

          ある日のフランス友人宅の夕ご飯。作ったのはこれ一皿、ふたりぶん。これで終わり。

           

          そんで、欧米に移り住んでいる友人たちと話をしていても、たいてい聞こえて来るのは

          「日本の主婦すごすぎる」という話ばかりで

          海外でもごはんや日本食を作って食べてはいるけど、日本にいたときのような作り方はしない、

          ごはんの横に肉じゃがのっけて一皿で終わり、という形でもぜんぜんみんな喜ぶみたいなことをいう人が多い。

           

           

          だから日本の家庭料理はすごいな、えらいな

           

          ってことかもしれないけど

          そのすごさって

          ほんとにそこまで必要なのかなあって私は思ってしまう。

          いや、苦もなくやれて、やりたい人はどんどんやればいいんだけど。

           

          (と、かくいう私もひとりでもいろいろ調理好きで作ったりしているので、ほんと

           やりたいひとはどんどんやればいい。ただ、それを規範としなくていいんじゃないの? ってだけで)

           

           

           

           

          んで、

          どうしてこの一汁三菜ということになってきたんだっけ?

           

           

          というあたりを遡っていくと

           

           

           

          結局一汁三菜というのは、おもてなしの懐石料理の基本形態なのだよね。

           

          華美なもてなしをシンプルにミニマムにしていく提案としての、ひとつの膳に乗せたもてなし料理。

          これは利休が提案したりもしてて、当時としては斬新だったんだろうと思う。

           

          これが、高度成長期の専業主婦人口がいちばん多かった時期に

          家庭料理の完成形みたいな形で、料理研究家たちがこぞって取り上げて、なんだか

          「日本の伝統的な家庭料理」の形と混同されるようになってしまった。

           

          なんつか、

           

          伝統に基づいて日本人がずっと維持してきた家庭の食文化

           

           

          というよりは

           

           

           

          もてなしの懐石料理をヒントにあとから作られた理想形

           

           

           

          が規範とされてしまっているので

          まあ、そりゃあ現実と少々乖離していて

          ハードル高くて作るのは大変でしょう? と本当に思う。

           

          で、それを基本に立ち返って

          ごはんと汁ものだけでもいいですよ、そこにつけものでもひとつ足せば立派なごはん

           

           

          といくら提案されても

           

           

           

          グラビアとして視覚に訴えようと思う場所では

          それでは絵にならんので

          料理のプロの専門家や撮影の専門家は

          いろいろ足して、絵になるものにして複雑化してしまうのかもしれない。

           

          そうやって

          私たちの習慣や精神性って

          普段なにげに目にするイメージや資格の記憶にも大きく左右されているのかも、って思う。

           

           

           

           

          ということで

           

          一汁三菜

           

          これもう幻想だから>笑

           

          気にしなくていいと思う。

          (と言うとまたいろいろ言われそうだけど>笑 私はそう思うので仕方ない)

           

          おいしく食べられれば一番。

          ただそれを規範に作りたい人は作ればいいし、忙しくて苦手な人は、毎日同じようなメニューでもいいし

          ごはんと具沢山の味噌汁とつけものでもいいし

          なんか1品市販品や総菜屋で買ってきたもんがくっついてりゃそれでなんとかなる。

           

           

          それだけじゃ豊かさがないという人は

          週末にごちそうを作って、家族や友達と一緒に楽しめばいい。

          (フランスはそんな感じ。普段は質素だけど、週末はなんかおいしいものを揃えてピクニックをしたり、友達を呼んだりする)

           

           

          前から同じ様なことばかり言ってるなあと思って昔のブログを久しぶりに見たら、

          ほんと、同じこと言ってた>笑

           

          ▪毎日同じメニューを食べるということ

           アメリカで

           

          ▪夕ご飯より昼ごはんがごちそう

           フランスで

           

          外から眺めてみると、なんか自分が拘泥していたことに気づいたりする。

          外の世界が日本よりいいと言いたいわけじゃぜんぜんない。

          ただ、気づくことがある、ということ。

           

           

          ごはん話題、ほんとおもしろい。

           

          最近よく見る、和食が一番

          ってあたりの精神性についても、またこんど時間があったら書いてみたいなーって思ってること。

           

          その一方で、テレビや雑誌から見えてくる美しい理想形の食卓とは乖離した

          食の崩壊の問題も大きい。このあたりは家庭料理という切り口とはまた別の目でみなくちゃいけないこと。

           

          食は本当に奥が深いです。

           

          長くなったのでこの辺で。

           

           

           

           

           

           

           

          category:Dairy Tokyo | by:武蔵野婦人comments(1) | - | -

          フランスで2週間掃除せず、寝間着も洗わなかった。んで、日本の家事時間、英米の倍らしいのは何故なのか考えてみたよ

          2017.10.10 Tuesday 07:30
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            以前マンションの間取り等を決めるプロジェクトの助言役みたいのになって、ターゲット顧客へのアンケートで、掃除の頻度や掃除道具の収納場所などについて調査をしたことがある。

             

            戻ってきた答えみて、なんだかびっくりしたんだよね。

            7−8割近い人が「毎日掃除機をかける」と回答してきた。

             

            え、ほんと?

             

            みんな、そんなに毎日掃除機動かしているの?

             

             

             

            ま、確か6−7千万円代物件だったと思うので、家事もベテランとなった時間的余裕のあるファミリー層ってターゲットなのかもしれないけど。うーん。

             

            アンケートの罠というのはあって、設問に選択肢があれば、「そうしている」ことを選ぶようでいて、「そうありたい」もしくは「そうあるように努力している」回答を選んでしまうことは、よくある。

             

            毎日掃除機はかけたいですね。はい、○。(という自己理想)

             

            という人も含めて、多くの人が毎日掃除機をかけているという前提で、マンションの間取りや収納は考えられることになる。

             

             

             

            そういう意味では、家事には、「きちんとやるべき」という見えない呪縛のようなものが歴然と存在していて、手抜き(と判断されるもの)を「さぼり」や「ズボラ」と称して、誰かが見てるわけでもないのに自己懲罰したがる風潮があるような気がする。

             

            このところちょいネットで評判になった、これ。

            マイクロズボラ

             

             

            よく言ってくれた、心が軽くなった、私もよくやっちゃう。。。なんて声がネットで垣間見られてイイネボタンがたくさん押されていたけれど、私はこれを見て、なんだかぐったり泣きたくなっちゃった。

             

            これ、ズボラなの? たとえマイクロであっても。

             

            やらないほうがいい、と認識されているからこそ、やってもいいんだよ(ほっ、よかった)って声になるってことだよね。

            でも別にやっていいんだよ、なんて言われるまでもないことばかりで@私。

             

            そんで、なんで全部女性なんだろ。

            家の仕事のマイクロズボラは、みんな女性のカテゴリーのことなんか。

             

            チョコレートは男だって食べるしさ。男が塩を袋から直接使ってたっていいじゃん

            (ってか、それがズボラだということにさえ、私は気がつかなかった。何がいけないのかよくわからない)。

            ま、そんなこといちいちうるせーなと思う人もいるだろうから、この辺にしとく。

            (ロバート秋山は好きだから、これはCMそのものを批判しているわけじゃないよ。

            なんかこんな世界に住んでるんだなーってことに泣きたくなっただけ)。

             

             

             

            そんで、いまフランスにいて

            たぶん、この国でこの動画ほぼ意味不明だろうなあと思うわけですわ。

            ほんとよ、私にも意味不明だけど(笑)背景はちょっとわかったりする。

            でも、もう背景もわからんだろ、これわ。と思うわけです。

             

             

            私がよく講演で使うデータがあって、世界の主婦の家事時間ってやつなんだけど、それでいくと日本は1日4時間半ぐらいの家事時間なのに比べて、中国は2時間以下だし、アメリカやイギリスも2時間ちょいという結果が出て、とりあえず日本の主婦はそのあたりの人たちの2倍以上の時間、家事をしているということになるらしい。

             

            それ、なんでだろうなあとよく思うんだけど、

            ひとつにはこの「マイクロズボラ」に見られるような、自己懲罰的に自分で自分のハードル上げちゃって、用事を増やしているという部分と

             

            それともう一つ、やっぱり暮らしのシステムそのものが、家事を生み出す形になっているなあと思うことがたくさんある。

             

             

            一番実感するのは、床の違いだ。

             

            欧米でも、そのまま土足でドカドカ家に入らず、入り口で室内用の靴に履き替える人たちはたくさんいる。

            でも、アメリカは多くが絨毯敷きだし、フランスに至っては、もうもとの家が古い建物を使用しているから、床が石だったり古い板張りだったり、色もくすんでいて、埃もゴミもなんかもう、ぜんぜん目立たないから、「掃除しなくちゃスイッチ」がまったく入らないまま、毎日暮らしていける。

             

            私、今回この家に2週間暮らして、今日はじめてほうきをかけてちりとりでゴミ集めて捨てた。

            でも、ゴミほとんど集まらなかったよ。毎日朝から晩までここで過ごして2週間掃除しなかったけど、別になんの支障もないし、不快感もなかった。

            ここまで見事に「掃除しなくちゃスイッチ」と無縁の家の作りって、私はとっても好きなんだけど、日本だと不潔ってことになるんだろうか。

             

            ほんとにね、日本の過度に清潔な暮らしが家事を増やしているのは仕方ないことなんだろうと思う。

             

            日本の家は素足で暮らすし、さらにようわからんツルツルのフローリングが流行っちゃったので、この環境でリビングに隣接した日本間あたりで布団の上げ下ろしなんてしたら最後、朝掃除機をかけても、確実にまた夜には埃のダンスが鑑賞できる仕組みになっている。

             

            テレビ画面につく埃や、窓から入り込む埃とか。特にマンションの内装を構成している素材は、敢えて掃除を生み出す仕組みを作り出しているように見えて仕方ない。

            さらにそういう環境下で、「こうしてお手入れをすべき」という専門家があちこちで情報を提供してくるので(あれ、すまん。時々私もその役割をすることがある。謝っとく)、時には這いつくばって、綿棒でフローリングの溝にたまったほこりをきれいに取ることが推奨されたりする。(子供のアレルギーの原因になるんだから、責任重大! みたいな感じで。アンビリバボー)。

             

            なんかもう慣れちゃったからそんなもん、って思ってはいるけど、これ、素材を変えるだけで家事めっちゃ楽になるのになあ、って思うことはよくあるよ。

             

            うちは床をコルクタイルにした途端、埃のダンス消えたし。家具も古いアンティークもんにしたら、埃とか気にならない。

            もう機会はないかもだけど、いつか自由に家を作れたら、室内犬と一緒に室内ばきで暮らせて、ベランダや庭と直接つながっている、古いタイルや板張りのこっちの家みたいのを建てたいなとよく思う。だってそうじ楽だもん、そのほうが。

             

             

            あともうひとつ、これは不便だけど逆に楽だと思う、こっちのキッチンの排水口。あの変なバスケットみたいなやつ、フランスはついてない家のほうが多い。穴あるだけだよ。

             

             

            アメリカはディスポーザーだったけど、どちらにしても、あのどろーんとなりがちな排水バスケットというのは、実はなくてもなんとかなっちゃって、ゴミを排水に流さないような配慮とか、生ゴミの処理を楽にするとか、前向きに検討してくださった結果、逆にお手入れをする箇所を増やしてしまったのではないかとさえ、思う。

             

            そんで、講演でよく「2つバスケット買って交互に使えば、汚れなくなって楽ですよ」とお話しすると、必ず誰かが「それでは細かいゴミが流れてしまう。バスケットにネットを被せないといけない」と言って、本当に、細やかにいろんなことを考えて家事をしている方が多いんだなあと感心する。

             

            それ、すごく素敵なことだけど、でもやっぱりいろんな細やかな配慮が、家事の時間を増やしていることに変わりはないような気がする。(実際には細かな目のバスケットを選べば、ストッキングみたいなネットはかぶせなくても支障はないです、はい)。

             

             

            もいっこ、こっちはバスタブがないか、湯をためて使うことが少なくてシャワーだけってのも大きいし(風呂掃除って、ほんとなんの罰ゲームかって思う、これに慣れると)、湿度が低いから、洗濯物の頻度も少なくてぜんぜんオッケという背景もあるので、もう、暮らしの仕組みそのものが、日本は家事を多く必要としているんだなあ、と改めて思う。

            調理もね。(これは語り出すと長くなるし、また別の価値観カテゴリーなので今回はしない)。

             

            それで、もう一つ面白いことがあって、いまレジデンスをしている家に洗濯機がなく、下着類は自分でちょこまか洗っていたんだけど(手絞りでも部屋干しで一晩で乾く。楽チン)、厚手のトレーナー生地の寝巻きは、別に暑くて汗かくわけじゃないし、いけるところまで行こうかなーと思って、洗わずに着続けた。

             

            2週間目に、なんか困ったことない? って言われて

            そういえば寝間着洗ってもらっていい? って友人に頼んで洗ってもらった。

             

            でも、そういうもんだと思ってしまえば、それまで特に、不快感もなく、当たり前のように2週間着てなんともない自分に、ちょいびっくりしたのだった。

             

             

            私、日本だとほぼ毎日寝間着洗うから。(冬は続けて着ることもあるけど)。

             

            夏は汗をかいて不快な臭いがするから洗うけど、汗をかかない季節でも、汚れたから洗うというよりは、着たから洗う、という習慣で洗っている。

            下着もタオルもすべて、身につけたから、使ったから洗う。

            もうこれは習慣みたいになっているから、一人暮らしでも洗濯は頻繁にすることになる。

             

            でも別に洗わないって思えば、2週間同じ寝間着を着てたってなんも不便なかった。あれ、いいじゃん、これで。なんであんなに洗ってたんだろう。

             

             

            私の友人のジャーナリストの子が、子供がまだ小さい時にバックパッカーになってスペインを旅行したことを本に書いたことがあるんだけど、その時彼女も同じようなことを言っていた。

            1日になんども肌着を変え、毎日風呂に入れ、常に赤ちゃんは清潔にしていたけど、旅に出たら気がついたら風呂に入らない日も多く、同じ下着で数日暮らしていることもあり。

            それでも何も困ったことはなく、子供は元気で意外と風呂に入らなくても臭わず病気にもならず。なんだ、これでもいいんだ、日本で私は何をしていたんだろうって思ったって。

             

            こう言ってる私も日本に戻れば、絶対毎日寝間着は洗うし、馴染んだ家事を元どおりに続けるんだと思うんだけど、やっぱり場所が変わると、当たり前と思ってやっていたことが、ふとほどけて、違う風景に見えることがあって面白い。

             

            マイクロズボラしてもいいんだよ、って言われて楽になったという人が

             

            掃除なんて月に一度でいいくらいかも

            寝間着? 2週間以上着れるよ、まだまだいけそう

             

            と言われても、まあ、ぜんぜん楽にはならないんだろうと思うけど>笑

             

            その間のどこかに、「ここまではちゃんとやらないと」と思うゾーンみたいなものがあって、暮らし方そのものがそのゾーンを高めているのと同時に、その設定レベルが高い人が日本には多いのかもしれない。

            そんでも、なんか欧米の2倍の時間の家事を必要としてしまう暮らしの仕組みと気持ちの仕組みは、どこかで変えられることができるんじゃないかと。

            そんなことを考える今日なのでした。

             

            ちなみに男性の家事時間がアメリカやドイツイギリスが約1時間、日本は25分。25分!! 4分の1! なので、女性が2倍家事をして、男性が4分の1しか家事をしないという状況は、きちんとみんな考えたほうがいいんじゃないか、と私は思うわけです。世の中よく男性にシェアしようというけど、女性がもっとやらんでいいよ、ってどんどん手放していくことも大事だよ。違うかな。どう考えても家事の総量が多すぎないか、と海外に出るとほんとに思うから。

             

             

            あー、手をかけ時間をかけることに価値があるとか、家事はZENに通じる大切な営みだとか、ま、そういうものの見方もあるけど、私が取り上げているのはあくまでも、家族がいて毎日の家事が無限に生み出され続ける(そしてそれが少なからず苦痛と感じたり、夫婦間での不公平感につながってしまったりする状況にある)人たちにとっての、家事です。

            じっくりたくさん取り組みたい人は、もうどんどん取り組んで語ってもらっていいと思う。それを隣人への規範としなければ。

             

            そんな感じで。

             

            やっぱり長くなる。

            今日はこの辺で。

            category:アートと暮らし en France | by:武蔵野婦人comments(0) | - | -

            大きな願いがかなった時はぼんやりしてしまい、小さな願いがかなうほうがなんだかうれしいという不思議

            2017.10.04 Wednesday 06:19
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              現在、願いごと手帖の作り方の本の新版が出ることになり、その校正中です。

              10年目の新版! 

              ありがたいことであります。

               

              いろいろ手を入れたんですが、一番楽しかったのは、今回脳科学に基づいた願いごとがかなうメカニズムについて、取材させてもらって内容を盛り込んだこと。

              脳科学者の篠原菊紀センセに(以前別の仕事でちょろりとお話したとき、願いごと手帖のことすごく面白がってくださってとても示唆に富む指摘を頂いて、どうしても今回お話が聞きたかったのですー)いろいろ伺って、ほんとに楽しかった!!!

               

              内容は新版を見ていただくとして(出し惜しみ>笑)

               

               

              でも、人が持ってるメカニズムみたいな、神秘的な力みたいな

              とにかく、内側でいろいろ起きていることって、本当に面白いな! と思ったわけです。

               

               

              そのひとつの体験を、まさに先日したなあ、と思ったのでここに書くことにする。

               

               

              前の記事から書いていますが、現在フランスで個展を開いています。

               

              昨年、フランスでグループ展に数点出品させてもらうという体験はしたけれど

              個展を開くのは初めて。

              今回はレジデンスを目的としていたので、とにかく住む場所を変えて、その場にインスパイアされる形で何かまとまった作品作りをしたい、。。。。という当初の目的だったのですが、思いがけずそのまま、作った作品で展覧会を開けることになりました。

               

              小さく、小さく。積み重ねながら。

              いろんな人とのつながりを経て

               

              何かを強く強く願って目指したり

              ものすごーい努力をするというようなプロセスなしで

               

              でも

               

              心の中でしっかりと思い続けてきたことが

               

               

              なんだかふわりと

               

               

               

              かなってしまったという。

               

               

              あれ? いまかなっちゃってる?

              ほんとに?

              という感じで。

               

               

              それ、ちゃんと数年前に

              「フランスで個展を開く」

              と願いごと手帖には書いてあったわけで、願いごと手帖すごいな、万歳! なわけなんですが

              なんつか、こんな風にかなってしまっていいのかなああ。すごいなあ、ありがたいなあ。

               

              そしてさらに、貸してもらったアトリエが夢のようにすばらしい場所で、おしゃれでかわいくて。

              まわりでいろいろ尽力してくれたフランスの人たちもすばらしく親切でかわいくて、いい人で。

              展覧会でもちゃんと絵を買ってくださった方がいて、お話も楽しくて。

              なんだよう、こんな幸せでいいのかなあ、おれ。

               

              とそんな感じで、今とても楽しくて貴重な経験をしています。

              ありがたいよう。

               

               

               

               

              さて、そんな、まさに

              夢みていたことが夢のようにかなってしまった。。。。。。。。

               

               

               

               

              という時。

               

              人はなんか

               

               

              ぽかーん

               

               

               

              とするもんなんだなあ、ということを改めて思っているわけです。

               

              なんかね、ぜんぜん実感ないのね。

              ほか、ちょっとしたオファーも頂いていたりして、そういうあたりもぜんぜん実感ない。

               

               

              ほわーん

              ぽっかーん

               

               

              としている。

              で、なんかよるべない感じで、とらえどころのない気持ちで過ごしているのであります。

              こんなラッキーでしあわせなのに

              ぜんぜん実感なし。

              ぽかーん。

              ぽよーん。

               

               

               

               

              そんなほわーんとぽかーんとして個展の初日を過ごしたわけですが。

               

              週末だったので19時までギャラリーを開け。

              お客さんの波も引いてきて、制作と展示の疲れもあって、はあ、疲れたなあなんて思っていたとき。

              19時の教会の鐘が鳴ったわけですわ。

              ぼーん、ぼーん、と。

               

               

              その時のね。

              もう。

               

              えも言われぬ幸福感。

               

              「終わり終わり! 今日は終わりだー! ギャラリー閉めてごはん食べよっと」

               

               

              そんで、うきうきと鍵を閉めて電気を消して

              るんるん気分でキッチンに戻って冷蔵庫を開け

              わーい、何作ろうかなーって鼻歌を歌いながら

              もう幸せで幸せで。

               

              ビールをしゅぽっと開けて

              くいっと飲んで。

               

               

              はー、終わった終わった。疲れた疲れた。わーい、今日はもうおしまい!

               

              ってにこにこ言ってる自分を発見して

              なんか、はっとした。

              たぶん、この日の夜19時のギャラリーの鍵を閉めにスキップしていた時の自分って

              ここ数年の中でも、最上級に近い幸福感を感じていたんだと思うんです。

              そりゃもう、本当に幸せ100%という。

               

               

              フランスで個展開くって、ずっと夢だったことがかなったのに

              かなえたことをしている最中はずっとぽかーんとして実感ゼロで。

               

              せっかくかなえた夢の1日が終わって、冷蔵庫を覗いてるってことのほうが

              こんなに幸せって、一体なに??????

               

               

               

               

              それで、自分で書いた原稿のことを思いだした。

              人って、やっぱり幸せの予測システムみたいなものを積み重ねているんだなあ、と。

               

               

              ここでこうしたら、きっといいことがある。

              これがかなったら、こんな素敵な気分になる。

               

              そういう小さな「できた!』という成功体験を日々に積み重ねていくことで

              何かを成し遂げる前から快楽物質みたいなものが自分の中に準備万端になっていって

              幸福感って生まれてくるんだろうなあ、と。

               

               

              自分にとって、身に覚えがあって

              たくさん「幸せだー!」と体験を積み重ねてきたことのほうが

              ぼわーっと身体中に幸福感を湧き上がらせるんだなあ、って

              この日の小さな体験で、しみじみ思ったのでした。

               

              ずっと思い続けてきたとしても、これまで体験したことのないことは

              即座には心やからだに幸福感を呼び起こすことがなくって

              それはもっとあとから、じわりじわりとやってくるものなんだろうな、と思います。

              予測システムが、稼働していないというか。

               

               

              私にとっては、仕事が終わったー! とか

              冷蔵庫に何入ってるかなーとか、ビールのもっ! とか。

              そっちのほうが身近で、何度もなんども体験している分、幸福感を呼び起こしやすいんだなー、きっと。

              その意味では

              毎日、小さなことを喜んで、何度もなんども幸福感を味わっていくことは

              幸せでいるための大きな要素なんだろうと改めて思ったのでした。

               

               

               

              以前、篠原先生にお話を伺ったとき

               

              小さな幸福を積み重ねていくことの大切さと同時に

               

              でも、

              どこかで大きな願いも並行して持ち続けることも大事って言われて、

               

               

               

              その2つが

              今回の渡仏でしみじみと実感できたなあと思った体験でした。

               

              小さな幸せで自分に自信と満足感を蓄えていくと

              大きな願いに挑戦できるし

              夢がかなうような土壌を、自分と自分の周りに作り上げていってくれるのかもしれないです。

               

              これ、両方大事。

              なんか、せっかくの大きな夢も、ちゃんと幸福感を蓄えられずにいると

              かなったとたんに鈍化して、うれしさをちゃんと実感しないうちに

              もっとこうなればいいのにとか、もっとこうしたかったとか

              なんか人間ってどんどん強欲なことを考え出したりしちゃいそうで。

               

              だから、ビールうまいなあとか

              今日はあったかくていい日で、にこにこ過ごせてしあわせだったなあ、とか。

              そういう幸福感を忘れずに、やっていけたらいいな、と思うのでした。

               

               

              ってなことで、なぜか今日はですます調だ。

              なぜなんだ。

               

              ま、いいや。

               

              とりあえず、ぽかーんとしながら過ごしています。

              そして、ビールだビールだ、肉だ、バターだ、パンがうまい!

              という幸せに満ちた時間も積み重ねている今回の渡仏でした。

               

              またがんばるよー。

              次はかなえた夢に少し幸せの予測システムができて

              少しづつ前に進めるような気がする。

               

               

              そんな「願いごと手帖の作り方ー新版」は、11月30日の発売予定です。

              書店にはたぶん、今月末ぐらいから並ぶ。

              ありゃ、最後は宣伝かい。

               

              笑。

              個展、残り3日となりました。

              夢のような幸福を、ちゃんと幸福として実感して帰りたいと思います。

               

              それではおやすみなさい。

               

              category:アートと暮らし en France | by:武蔵野婦人comments(0) | - | -

              質問と意見がどんだけたくさん盛り込めるか、ということがどうやら大切らしいフランスでの会話について

              2017.10.02 Monday 00:53
              0

                以前どこかで書いたと思うのだけれど、東京でフランス語を習っている時に、映画が好きだと話したら

                「好きな監督は誰?」と聞かれ
                 
                「アルモドバルが好きだ」と答えたら
                「彼の映画のどういうところが好きなのか」と言うので
                まだつたなかったフランス語で
                「んーっと、色彩がとても鮮やかなところ」と答え、これで話は終わりかと思ったら
                「鮮やかというけれど、日本にも色彩が鮮やかな監督はいるわ。例えば大島渚とか。
                 あなたはアルモドバルの色彩について、どういう印象を持っているの」と食い下がられ
                 
                うわー、うわー
                これは本当に困ったと思う一方で
                 
                こういう食い下がり方をしてくる人が日本ではあまりいないので
                なんて楽しんだろう、とワクワクしたことを覚えている。

                 
                それで今、フランスでありがたいことに個展を開かせてもらっていて
                さして大きな街ではないので、さほどお客さんが多いわけではないけれど
                それでも覗きに来てくれた人にお礼を言うと
                たいてい皆が何か話して帰っていってくれる。
                 
                ーこれはあなたが創造したパーソナリティ? いいわね、あなたはこれを何年ぐらいモチーフにしているの?
                ーすごく繊細でデリケートな作風だけれど、どういう画材で描いているの?
                ーあなたはこれをこの街の気配だと言うけれど、なぜこの色を使ったの? そしてなぜ、これはこんなに力強いの?
                ーこっちには少し光が見える気がする。でもこちらはすごく暗い。この違いは何?
                ーこれが気に入ったから買おうと思うんだけど、あなたはこれをどの向きで置くつもりで作った?
                (いや、買ってくれるあなたが好きなように置いてくれていい、と言うと)
                ーあなたがどう置きたくて作ったのかを知りたいの。この向きね、わかった、そう置く。

                 
                まず見てくれた人の解釈で、ありきたりではない(すごいわね、いいわね、素敵ねとかではなく)
                独自の解釈を言葉にしてくれて
                 
                そして、そのあとに必ず質問がくっついてくる。なので、何かしら答えなくてはならない。
                 
                ーそうですね、ここ4年ぐらいです(考えたこともなかった! たぶんそんくらいだろう)
                ー柿渋と墨と自然の土を使っていて(以下、作風についてはフランス語で説明できる準備が必要)
                ー丘の上のブドウ畑に立ったとき、この地のえもいわれぬ力強いエネルギーを感じたので(言われて初めてそう思った)
                ーそれは夕暮れと朝日のイメージを表現してみた(んだったかわからんけど、なんかそんな気がしてきた)
                ーこっち向きに置くつもりで作った(ってことを今初めて考えたよ)


                 
                みたいな感じで、大抵答えを用意していないものが多いんだけど
                問われて初めて、自分の中での答え探しが始まって
                それが思いがけず、とても楽しい作業になるもんなのである。
                 
                作品の意図を説明せよ、と言われて準備した自分の解説を延々と話すよりも
                予期せぬ質問をどんどん投げかけられるほうが、格段に自分の世界が外に広がっていく。
                この開け放たれ感というか、ちょっと苦難だけれどM的に喜びに満ちてくる感じが
                私の世代で東京で体験できる機会があまり多くないので、とても好きだ。
                 
                ほいでも、なんでもかんでもすぐ答えられるわけではないので
                うーん、と返答に詰まることもある。
                沈黙で会話が途切れるとちょっと気詰まりな雰囲気になってしまうので
                そう言う時は、
                 
                「それはちょっと答えるのに難しい質問だ、だから考えさせて」と前置きして
                「あなたはどう思うの?」
                とまた質問を返していけば
                とりあえず会話は詰まらずにつながっていくことになる。

                 
                絵巻物がなんだか人気です。
                 
                その
                「とにかく質問」

                 
                っていうのが、私がフランス語の会話をフランスで習い始めた時に、最初に言われたことだった。

                 
                もう、なんでもいいの
                なんか聞け、と。

                 
                とりあえず、なんか言われたら、はいと言って答えるだけじゃなくて
                相手にも必ず質問を返せ、と。
                 
                そうじゃないと、そこで会話は終わってしまうし
                質問が戻らなければ、あなたはこの話題に興味があまりなかったと判断されて
                相手はどんどん次の話題に移っていってしまうから
                フランス人と話すときはとにかく質問をしなさい、そうすれば会話が続くから、と。
                 
                もう、口を酸っぱくして言われ続けたのだった。

                 
                ーなんでそう思ったの?
                ーそれのどこが好き?
                ー今起きているこのことについて、どう思う?
                ー日本ではこれについてどういう意見がある?

                 
                質問を投げかけ続ける。
                 
                これは、最初は全く慣れない作業で戸惑ったけれど
                ちょっとコツがわかってくれば、質問をするというのは
                コミュニケーションの上でも
                また、質問されることで呼び出される自分の新たな面に気づくという意味でも
                とても意味があることなんだ、ということがわかってきたように思う。

                 
                ということで、こちらで展覧会をしていたら
                いろんな解釈の言葉をもらって楽しかったし
                思いもかけない質問もたくさん飛びだして、すごくうれしかった。
                 
                なんつーか。
                 
                日本では自分を意見をガンガン言う女とか>笑
                当たり障りのない範囲を逸脱したことを話し出す女とか>笑
                 
                たいてい敬遠されるということを経験上知っている(ような気になっている)ので
                そういうスイッチをなるべく入れないようにしているんだなあと自分で気づいたりもした。
                (ほんで、時々こういうブログに書きなぐったりするのだ、好き勝手な意見を)。

                 
                ここ数日で
                Fukushimaの現状であるとか、日本文化もかなり難しい局面にあるんじゃないの? とか
                日本の右傾化などについてもよく質問された。
                 
                ほんで昨日は作品の話から流れ出して、日本は過去2回も原爆の被害に遭っている上に
                福島の事故もある国なのに、原発の抑止が進まないことについても意見を求められた。
                 
                東京の急速な都市化についてとか、一方でフランスでもパリ市街が拡大して景観が崩れていることとか
                海洋のプラスチック問題とか

                 
                私のようなつたないフランス語でも、「話さなくていけない」のではなく
                「話したくて仕方がない」質問がどんどん投げかけられれば、身を乗り出して話したくなる。
                そんな会話のキャッチボールみたいなもんが、フランスでの会話の面白さなんだと思う。
                 
                日本で普段私がしている会話とは、これはかなり違っていて
                日本語では当たり障りのない会話、みたいなものに多くの時間を割いているような気がするので>笑
                こちらでは下手くそなフランス語でも、話すのは、かなり楽しい。

                 
                ただ、やっぱりその会話を楽しむためには
                何かしら投げ返せる意見を持っていないといけない気がする。

                 
                なんだろう。
                 
                日本だと、雑学とか情報とか、いろんなことを知っていたり、いろんな体験談みたいなものを話せるのが重宝で
                聞き役は上手にウンウン、と聞いて相槌を打てる人が重宝がられるけど
                (さすがですね、知りませんでした、すごい!、センスいいですね、そうなんですかー! のさしすせそ技術みたいな>笑)
                 
                とにかく質問され続けるので
                何かしら自分の意見を言わないと先に進まないことになり
                知識や体験も大事だけど、「こう思う」みたいな解釈がすごく求められる場面が多いのが
                日本での会話との違いかなー、と、まあ、ほんとつたないフランス語体験なんだけど
                私はそう思うことが多い。

                 
                こっちで、
                あーそうなんだ、うんうん、へー、すごいね。わあ、すてき。
                なんてことばかり言ってたら
                まあ、たいていすぐつまんねーと話を振ってもらえなくなるから>笑

                 
                地元の新聞のジャーナリストさんの取材。こちらの質問は早口すぎてほぼお手上げ>笑

                 
                前にブルゴーニュに滞在していた時
                何度か私を面倒みてくれたクロディーンは
                「いづみと話すのは楽しい」とよく言ってくれた。
                話すというか、フランス語だとdiscuter 議論するという意味だけど。
                 
                日本の少子化問題についてとか、農産物の話とか、なんかしら投げかけられたら
                もうなんでもいいから知ってる単語つなぎあわせて前のめりに喋りたくなる。
                どうでもいいような日常の話題でも、私はこう思うんだけど、ってどんどん話していいんだとわかったら
                意見を言うのが楽しくて仕方ない。

                日常ではどこかで、こんな意見を持っているなんてやっかいだ思われないかとか
                難しい、面倒な女だと思われないかみたいなことが気になって
                かなりの部分をオブラートにつつんでいるんだと思う>笑


                 
                やっかいなことを話せば話すほど面白がられるというのは、なんと楽しいんじゃろう!!



                 
                先日のことだけれど、彼女のところに来ていた生徒さんが
                様々な場所で
                「何をしているの?」と聞かれて(これはものすごくよく聞かれる)
                主婦です、と答えたのだそうだ。
                 
                相手の多くが「??」という反応をした。
                Femme au foyer って何?
                意味がわからないんだけど。。。。。。。

                 
                そして、そこで会話は終わってしまうことが多く
                その生徒さんはしばらく、なんだか落ち込んでしまった。
                主婦って言うと、なんだかつまんないと思われるみたいなんです、と。
                 
                フランスでは多くの女性が働いているから、主婦と言われても次に投げかける質問が思い浮かばない。
                なんでもいいから、前にしていた仕事を答えたらいいよ、
                今は主婦をしていますが、前は銀行で働いていましたとか
                もうなんでもいいから話せば、会話がつながるから、と話した。
                 
                えー、でもそれ、もう何年も前のことだから話したらおかしいです、というので
                 
                いいんだよ、だってそれがあなたなんだから、昔の仕事を話したって構わないよ。
                あとは別に仕事でなくてもいい、ボランティアとかでもいいから地域でこんな活動をしているとか
                今は家の改装に専念しているとか、とにかく自分を説明できることをなんか言えば
                それで相手はあなたを知るとっかかりができて、そこから質問ができるから、と。
                そんな風にアドバイスしてみたのだけれど。

                 
                でも、なかなかコツがつかめずに
                なぜ? と聞かれて反射的に理由を言うという習慣がなくて
                なんとなくそうしたい、とか、わからないけど好きとか、そういう答えになってしまって会話がつながらず困っていた。

                家族以外の人間に、即座に自分の意見を返す。
                それ、特に日本で専業主婦を長くやっていると、後退していく技能なのかもしれないなあ、なんて思ったりもした。

                 
                何に属しているか、という答えが必要とされて
                それを聞いたら安心するという文化と
                 
                何をしているか、という答えが必要とされて
                それを聞いたら次の質問が思い浮かんで会話がつながっていくという文化と
                 
                パーソナリティのありかは会話のあり方でも違ってくるんだなあ、なんて思うこのごろだったりする。


                 
                別にフランスが良くて日本が良くないなんてことが言いたいんじゃなくて
                (だってフランス人めんどくさいし、頑固でエゴイストだし>笑 会話もしんどいことも多い)

                 
                コミュニケーションのあり方ひとつでも
                お国柄があって面白いなーって思う。
                 
                そんで、たまにいつも自分が埋没している形のようなものを抜け出して
                別のスタイルの中に身を置いてみると
                いろんな発見やワクワクがあって、新たな自分の側面が見えて、すごく面白いなと思う。

                 
                ということで、質問文化の中で
                面白い体験をしています。

                 
                さきほど作品がひとつ、売れました。

                 
                たくさん質問されて、たくさん答えて、そんなやりとりの中で売れていくというのは
                なんと幸せなことなんだー、とすごく思っています。

                 
                ありがたいです。
                category:アートと暮らし en France | by:武蔵野婦人comments(0) | - | -

                子供の頃アートをどう習ったんだっけ? と改めて考えてみている件

                2017.09.28 Thursday 06:46
                0

                  フランスで1週間ぐらい制作して発表して帰る。

                  そう思ってきたんだけど、思いがけず展示の開始日が土曜日となり。

                  金曜日の午後から展示の準備があってプレ来客もあるというので、気がついたら制作日が3日半っていう、もうなにそれってぐらい突貫工事の展覧会に向けてなんか作ってます。

                   

                  無理だろうと思うけど

                  まあ、なんとかなっちゃうことを信じて。

                   

                  そんな最中に、ちょっと考えることがあったので書いてみることにする。

                  (試験の前にまんが読み出したりしちゃうという、あれですな)

                   

                   

                   

                  先週Montbardで数日過ごしていたとき

                  私が何度か語学の先生をお願いしていたクロディーンと話していて、こんなことを言われた。

                   

                  いづみ、日本の人はなぜ、答えのないものに答えるのが不得意なのかしら。

                  フランス語の勉強をするのに、私はよくいろんなシーンを描いたイラストを使うのよ。

                  外で男女が話しているとか、その横でペンキを塗っている人がいるとか、その類のもの。

                  で、それを見て、このシーンを説明してというと

                  日本人の多くの人は固まってしまう。

                   

                  この男女は夫婦ですか?

                  それとも友達ですか?

                  ここはレストラン? それとも誰かの家?

                   

                  そんな風に答えを欲しがるの。

                  でもこのイラストには答えはないので、もうあなたの好きなように想像して答えていいのよと言うんだけど

                  小さなヒントからそれぞれにイメージを広げて行くのが、不得意な人が多いなあと感じる。

                  フランス人やアメリカ人とか、もうそれは好き勝手に話し出すわよ。

                  この二人は不倫中で隠れてバカンスにやってきたんだけど云々、、、、って>笑

                   

                   

                   

                   

                  あああ、もうね。

                  なんかそれ、私もそうだったからわかる気がするね。

                  私もその絵見せられたことあるもの。

                  で、あまりにヒントが少なすぎて、どう説明していいかわからなかった。

                  これだけの情景で、説明できるわけないじゃん! と思ったけど

                  勝手にどんどん解釈して自分でストーリーを作っちゃえばよかったんだな。あれは。

                   

                   

                  ま、その話は横に置いておいて。

                   

                   

                   

                  今年もブルゴーニュの小さな街で開催されている催しにいくつか行って

                  またいつものような感想を持った。

                   

                  アートが本当に自由。

                   

                   

                  まあ、パリの有名ギャラリーとかなら別だろうけど

                  ほぼ、誰も立派な額になんて絵を入れていない。

                  展示の仕方が本当にユニークで、すごく参考になる。

                  クリップで止めただけの人。映写用のスクリーンにつけている人、スチロールに貼ってるだけの人、ただピンで止めただけの人。

                   

                  画布や素材も、かなり独特で安上がりなものを使っている人も多い。

                  そして、題材が本当に多種多様で面白い。

                   

                  とにかく一番うれしいのは

                   

                  風景画と静物画と花の絵とか人物画 が一切ないことだ!!!!

                  (ふんがっ!!!!)

                  (もう、日本だとあれなんで? いや、いんだけどさ、描きたい気持ちが大切だから。でも、ほんと、フランスであの手の絵に遭遇したことない。これは本当に不思議だ。技術じゃなくて創造性と個性のほうが重視されると、この手の絵は減っていくのかもしれない)

                   

                  そんでもいっこすがすがしいのは

                  誰もプロフィールなんてずらずら書いたものを展示していないってことだ。

                  作家名だけ。

                  いいじゃん、それで。

                   

                  日本だと、作品を見るだけでは評価しずらくて

                  プロフィールや経歴で判断してはじめて、作品の価値が見えて来るってことなんだと思う。

                  ブランドというか。自分以外の誰かが評価してくれているものに、安心するというか。

                  ま、私もそういうところはあるから偉そうなことは言えない。

                   

                   

                  展示を見るSemurに住むお友達。

                   

                   

                  今回見たのは小さな町の公会堂みたいなところでやっているアートの展示だけど

                  クオリティは高いし

                  そして何より

                  見に来た人たちが本当にそれぞれに、作品について延々と語ったり批評しあっているのが楽しかった。

                   

                  私はこちらの友達と、そしてクロディーンと一緒に2回行ったけど

                  都度呼び止められて「あれ見た? あれいいよ」「これはおもしろいでしょ」と声をかけられる。

                   

                  「私はこの写真が一番好きよ。これは見ていったほうがいい。ものすごく力強い。この人、ウクライナから来た写真家よ」

                   

                  そう言われて見に行った写真が素晴らしくて、同行のクロディーンに今の人は? と効いたら

                   

                  「あ、彼女はいづみもよく知ってる、ビオのマルシェで野菜を売ってる人の奥さん」

                  と言われた。

                   

                  そのあと、声をかけられてまた、いい作品があるよと言っていったのは

                  郵便配達のおばちゃんだった。

                   

                  そして、このぺらっとしたもんが、300ユーロ? みたいなもんが

                  親戚でも友達でもない人に、ちゃんと買われていくということも知った。

                   

                  日本では、なかなかこういうことには遭遇しないなあと思う。

                   

                  それで、その展示の一部屋では、子供達が先生と作家と一緒に、インスタレーションを見ながら授業をしていたんだけど

                  そのインスタレーションっていうのがさ、もう、学園祭の出し物みたいなちょいチープな代物で。

                  どうやっても、これを前に何を語るのだろうと思っていたら、

                  ずらずらとぶらさがっているおばけみたいなモチーフの一つ一つを

                  「あれはなんだと思う?」と子供たちに答えさせているのだった。

                   

                  あれはマスク

                  あれは人の顔

                  あれは動物かも

                  あれは影?

                   

                  そしてそのすべてが正解で、とにかく一番大事なのは、見たものに対して自分の感じたこと、解釈、意見を言うことなのだ、ということらしい。

                  フランスではどんな美術館でもたいてい子供達が床に座って先生と絵を見に来ていて、延々と長い時間、先生が説明もしているけど、子供達もなんだか勝手に意見を言っている。

                   

                   

                  それで思い出そうとしたんだけど

                  私たちは学校で、いったいどんな美術教育を受けていたんだっけなあ。

                  ゴッホがアルルの家で描いたゴーギャンの椅子を見て

                  どんな気持ちだったんだろうと考えたりとか、その絵を見て自分がどんな気持ちになるとか

                  そんなことをだらだらじっくり、話したりしたこととか、あまりないような気もするけど、実際はどうなんだろう。

                  忘れちゃった。

                   

                  たとえそれが有名な人の作品でなくても

                  自分が好きだなと思ったものの前で、自分なりの解釈をして意見を言い合い、作家がいれば制作の意図や技法を聞き

                  ああ、そりゃいいねと思えば作品を買う。

                  日本でなかなかそういうことが起こらないのは、やっぱり「答えのないものに自分の解釈をつけていく」ということに対する訓練が、圧倒的に足りないせいなのかもしれない、とも思ってみたりする。今はどうなの?

                   

                   

                   

                   

                  物事には、答えが必要なものと

                  答えがなくていいものがあって。

                   

                  私が受けてきた教育は、答えがなくていいものにも答えが用意されていたり

                  それぞれが独自の解釈をしたときに、それを面白がったり、批判しあったりする土壌があまりなかったなあ、とも思う。

                   

                  批判(クリティーク)というのは相手を否定することでよくないことで

                  それぞれが自分なりに正しい答えを持っている状態で、意見のやりとりをするという訓練があまりできていないんだと思う。

                   

                   

                   

                  それで思いだしたけど

                  私が小学生の時

                   

                  もう原型は忘れてしまったけれど、誰かの俳句を読んで、それがどういう風景を表しているのかと先生が問うたことがある。

                  私はその俳句を読んだら

                  雨上がりの風景がぱーっと目の前に浮かんできて、手をあげて

                  「雨が上がって日の光が差してきて、その時大きな木の下にいたら風が吹いて、一斉に葉っぱの水が落ちてきて。その水が太陽の光を反射してきらきら光って、宝石が落ちてきたみたいにきれいに見えた」

                  と答えた。

                   

                  そしたら、先生は

                   

                  「は? なんですか、それは。ぜんぜん違います」

                   

                  と言って、他の人が答えた

                  「木の下で木漏れ日がゆれている」という答えに

                   

                  「それが正解です」 と言った。

                   

                   

                  私はずっと釈然としなくって、

                  たぶん、それが正解なのかもしれないけど

                  私はその時、その美しい風景が確かに見えて、それはとっても素敵じゃないかと思ったのだった。

                  その自分のイメージの美しさを、「ぜんぜん違います」と言われたことに、なんだか腹がたつような傷ついたような不思議な思いをしたこと、今でも覚えてる。

                   

                   

                  あ、大学の時のこんな話もある。単位をとるために短大の図書館学の授業を一コマとったら、病院でのいわゆる感動もののドキュメンタリー作品みたいなものを見せられて、それで教室中で女子大生がぐずぐずと感動して泣き出すという場面があった。

                  んで、感想を聞かれたので正直に

                  「これはどこまでがノンフィクションで、どこの部分が再構成なんですか?」と聞いたら

                  教授もまわりの学生もびっくりした顔をして

                  「そんなことをこれまで言った学生はいない。君には物事に感動するという心はないのか」と言われてびっくらいこいた。

                   

                  いや、だって、主人公のおばあちゃん、俳優さんでしょ? 最後死んじゃったし、台詞回しが役者さん。

                  でも介護してた子は障がい者で、役者さんには見えなかった。

                  このエピソードに関して、誰が本物で誰が配役なの?

                  そういうことも勘案せずに、感動ものにはただ泣けと?

                  批判したわけでもなんでもないのに、なんで怒られるんだか。

                   

                   

                  なんかいろいろわかんない。

                   

                  たぶん作者は雨あがりの風景を描いたのではないと思うけれど、

                  そういう解釈もあるんだね、美しい風景をイメージしたね。

                   

                  ドキュメンタリーの手法として、この方法がどういう効果を生むのかを一緒に考えてみよう。

                   

                   

                  そういう風に語り合えたらよかったのになーって思う。

                   

                   

                  とりとめなくなっちゃったけど。

                  最後に。

                   

                   

                   

                  私が書いた原稿がさ、

                  どっかの大学の入学試験に使われたのよ。

                  それがその後送られてきて。

                   

                  「作者は下線の部分で、何を言いたかったのでしょう」 って設問になってて

                   

                   

                  え? エ?

                  私この部分でなんか言いたかったことなんてあったの? って思って答えを見て

                   

                  へー。

                  私こんなことを言いたかったんだ、とびっくりしたよ。

                  本人考えてもないことが書いてあった。

                   

                   

                  「正解」なんてそんなもん。

                   

                   

                  たった一つの答えなんて、あるわけがないんじゃないのかな。

                   

                   

                   

                  アートは想像力を広げてくれるもの。

                  日本でその教育時間がどんどん減っているというのは

                  とてもとても、寂しいことだと思う。

                   

                  フランスに来ると、さらに、そう思う。

                   

                  あー、でもね、と追記。

                   

                   

                  若い世代は自由にアートを楽しんでるなあとほんとによく思うの。

                  そういう空気、どんどん広げていってほしいなと思う。

                   

                  窮屈にしているのは私たちの世代。

                  想像力がない人たちが動かしている大人の世界。

                  未来は素敵でありますように。

                  category:アートと暮らし en France | by:武蔵野婦人comments(0) | - | -

                  Calender
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                  • 「一人だったら絶対作らない」という食卓の背景には何があるんだろう? ってことを一人の食卓から考える
                    武蔵野夫人
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                  • 「やらなかったこと」について 「やっていればきっとこうだった」と考えることの意味についてー円柱12時間のその後
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                  • 「人生は必要な時に、必要なぶんだけ与えてくれる」ってことをフランスで教わる
                    武蔵野夫人
                  • 「人生は必要な時に、必要なぶんだけ与えてくれる」ってことをフランスで教わる
                    武蔵野夫人
                  • 「人生は必要な時に、必要なぶんだけ与えてくれる」ってことをフランスで教わる
                    sakamoto
                  • 「人生は必要な時に、必要なぶんだけ与えてくれる」ってことをフランスで教わる
                    まっひー
                  • 12時間円柱を描きつづけてはじめてわかったこと。「気づく」までにはたくさんの時間がかかるのに、みんな先に教わってしまうんだね。
                    武蔵婦夫人
                  • 12時間円柱を描きつづけてはじめてわかったこと。「気づく」までにはたくさんの時間がかかるのに、みんな先に教わってしまうんだね。
                    ちゃたろう
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